110.三春城 その1

生き残るために奮闘した城

立地と歴史

田村氏の支配から若松城の支城へ

三春城は陸奥国田村郡にありました(現在の福島県三春町)。この地域は内陸部と沿岸部をつないでいて、重要な地域と認識されていました。16世紀には、田村氏がこの地域を支配しており、この一帯では最も高い丘の上に三春城を築きました。16世紀中頃、田村氏の当主、田村清顕は、西は葦名氏、東は相馬氏、南は佐竹氏といったより大きな戦国大名の脅威に晒されていました。そこで彼は北方にいた有力な戦国大名、伊達政宗と同盟を組むことを決め、娘を政宗と結婚させました。1588年に政宗は三春城にしばらく滞在し、1589年には葦名氏を倒し、東北地方に覇権を確立しました。田村氏は政宗の下で生き残ることに成功したのです。田村氏は三春城を拡張し、その範囲は他の丘にも広がりました。

城の位置

ところが、田村氏は1590年に天下人の豊臣秀吉によって改易となってしまいます。その理由は、当主であった田村宗顕が、独立した大名と見なされていたにも関わらず、秀吉からの招集に応じなかったからです。しかし、田村氏はそのように思っていませんでした。この事件は田村氏のミスだったのかもしれませんが、秀吉と田村氏を仲介すべきだった政宗の陰謀だと指摘する歴史家もいます。三春城を含む田村氏の領地が最終的に政宗のものになったからです。

田村氏の家紋、田村茗荷 (licensed by Fraxinus2 via Wikimedia Commons)
伊達政宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三春城は、政宗の本拠地であった若松城の支城となりました。その後、若松城の城主は、蒲生氏、上杉氏、加藤氏に代わっていきます。三春城は彼らによって強化されました。石垣が築かれ、城下町も建設されました。しかし、時として使われなくなり、ひいては廃城となってしまった時期もありました。最終的には1627年に徳川幕府により松下氏が三春城に移されてきました。久方ぶりに独立した城になったわけです。この頃までは三春城は山城のままでした。

若松城

江戸時代は秋田氏が三春藩本拠地として維持

1645年に松下氏は不幸にも改易となってしまいますが、秋田氏が江戸時代の終わりまで三春城と三春藩を支配しました。秋田氏は城の近代化を行います。山麓に領主のための御殿を築き、通常はそこに住んでいました。山の頂には、以前から御殿と三階櫓がありました。これらの古い建物は、式典のために使われ、また城のシンボルともなりました。1785年に大火が発生し、ほとんどの城の建物が燃えてしまったとき、山麓の建物は再建されました。山上の建物は全て焼け落ち、三階櫓だけが再建されました。

かつて御殿があった場所(現在の三春小学校)
三春城の縄張り(現地説明板より)

明治維新を乗り切る

明治維新中の1868年、新政府と徳川幕府を支持する藩連合との間で戊辰戦争が起こりました。三春藩は最初は藩連合に属していましたが、密かに新政府に降伏し、城を開城しました。藩連合は見捨てられた形となり、大いに憤慨しました。しかしそれにより三春の人たちは生き残り、悲劇的な結末を避けることができました。そうでなければ、白河小峰城二本松城、そして若松城のように新政府により壊滅させられてしまったことでしょう。

三春藩最後の藩主、秋田映季 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
白河小峰城
二本松城

「三春城その2」に続きます。

22.八王子城 その1

日本の山城の集大成

立地と歴史

北条氏の主要な支城の一つ

八王子城は、関東地方の現在の東京都西部、八王子市にあった大きな山城です。戦国時代の16世紀後半には北条氏がこの地方の大半を手に入れていました。北条氏は関東地方の南西隅にあった小田原城を本拠地とする一方、領土を維持するためにこの地方に支城網を構築していました。八王子城は、その主な支城の一つでした。

城の位置

この城は、遅くとも1584年までに、八王子城から約10km北東にあった滝山城を置き換える形で、北条氏照によって築かれました。置き換えの理由はいくつかあるのですが、その一つは北条氏がもっと強力な城を築きたいと思ったことです。当時、北条と天下人の豊臣秀吉との緊張が高まっていました。そこで、北条は八王子築城を急ぎ、できる限りの労力と技術をこの城に注ぎ込んだのです。

本丸と中の丸をつなぐ曳橋~The movable bridge between Honmaru and Nakanomaru
滝山城跡

3つのパート

八王子城は3つのパートによって構成されていました。一つ目は、根古屋地区と呼ばれ、城の入口周辺に家臣や職人のための住居がありました。この地区は谷あいを流れていた城山川に沿っていました。

3つのパート(現地にあるジオラマの写真に加筆)

二つ目のパートは、城主の御殿が築かれた山麓居館地区です。この地区も川に沿っていて根古屋地区の後方にありましたが、厳重に防御されていました。訪問者は大手門に入るのに川を渡り、大手道を進み、そして御殿の手前にある曳橋を再び渡らなければなりませんでした。この橋は戦いが起きたとき、外されるようになっていました。御殿の入口はジグザグの通路になっていて、土台は階段状の石垣に覆われていました。御殿はいくつかの建物から成り、公的な建物であった主殿や会所などがありました。発掘により、什器、武器、輸入磁器などの品物が発見されています。

復元または整備された山麓居館地区

最後のパートは山上要害地区といい、戦いが起こったときに使われました。本丸は標高445mの山頂にありました(山麓から約200mの高さ)。その他多くの曲輪が本丸周辺にあり、山の峰々は山麓から頂上までに至る通路のために使われていました。特に、多くの石垣がこれらの曲輪や通路を覆っていました。更には、本丸の手前だけはなく、その背後も小型の堡塁群と石垣に覆われた峰々により厳重に守られていました。山城にこのような構造があるのは大変珍しく、そのため、この城は日本の山城の集大成と言えるのです。

山上要害地区跡

豊臣秀吉軍により一日で落城

ところが、この城は秀吉の手勢によりわずか一日で落城してしまいます。1590年6月23日、少なくとも35,000人の兵士が城を攻撃したのです。一方、守備兵の数は農民や女性を含めてわずか3,000人でした。城主の氏照はそのとき小田原城にいて、ここにはいませんでした。更には、秀吉は配下の兵士に、城を力攻めにし、占領することを命じました。なりふり構わぬ攻撃を3,000人で防ぐには、この城は大きすぎたのです。城が落ちる前、多くの女性が川の滝つぼに自ら身を投げたという悲しい話も伝わっています。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
御主殿の滝 (licensed by じゃんもどき via Wikimedia Commons)

「八王子城その2」に続きます。

121.本佐倉城 その1

関東の名族、千葉氏の城

立地と歴史

千葉氏が15世紀に築城

本佐倉城は下総国(現在の千葉県北部)にあった大きな城です。戦国大名であった千葉輔胤が、将門山と呼ばれた丘陵地帯に遅くとも1484年までにこの城を築きました。この一帯は印旛沼に囲まれていて、南方の平地を通っていた下総街道にのみ開けていました。この地帯は防御に優れていただけでなく、水陸交通の便にも優れていたのです。

明治初期の城周辺の地図、まだ印旛沼が近くにありました

千葉氏の家紋、月星 (licensed by Los688 via Wikimedia Commons)

城の中心部~内郭

最初にこの城が築かれたとき、関東地方の戦国大名は、東と西の2つのグループに分かれていました。西のグループは関東管領であった上杉氏に率いられ、東のグループは関東公方であり古河にいた足利氏に率いられていました。千葉氏は、東のグループに属していて、本佐倉城もまたこのグループの中で下総国の古河と房総半島の他の国々とをつなぐ重要な役割を担っていたのです。千葉氏は、内郭と呼ばれる城の中心部分にいくつもの曲輪を作りました。

城の位置

城山と呼ばれた本丸には城主のための御殿がありました。この曲輪には二棟で1セットの主殿、会所と呼ばれた公式の建物がありました。千葉氏はこの国の守護だったからです。千葉氏が祀っていた妙見社があった奥ノ山が本丸の西隣にありました。奥ノ山は木橋によって本丸とつながっていました。その次は倉跡で、倉庫がありました。一番西側にはセッテイ山があり、迎賓館として使われていました。これらの曲輪群に加え、東山が防御のために設けられていました。そして東光寺ビョウには寺があり、印旛沼に面していました。

内郭の曲輪群(現地説明板より)

里見氏に備えて外郭を構築

16世紀中頃、関東地方の情勢が変化しました。北条氏が関東地方の大半を手に入れたのです。そして千葉氏は、北条氏から養子を受け入れ、北条氏に組することを決断しました。ところが、房総半島(本佐倉城の南方)にいた里見氏がまだ北条に反抗していました。結果、千葉氏は城の南側に対する防御を強化する必要に迫られました。

本佐倉城と里見氏の本拠地との位置関係

千葉氏は内郭の外側に荒上、根古谷、向根古谷といった大きな曲輪群を築き、外郭と呼ばれます。これらの曲輪は分厚い土塁に囲まれ、馬出しという突き出した形の防御陣地がありました。これらは北条の技術を活用していました。加えて、セッテイ山は内郭と外郭の結節点に当たっていたので、防衛の司令塔に変化します。城の範囲はついには3万9千平方メートルに及びました。

外郭を含めた城の全体図(現地説明板より)

ところが、千葉氏は1590年に天下人の豊臣秀吉から改易されてしまいます。主筋の北条氏が秀吉により滅ぼされてしまったからです。その後、本佐倉城は他の氏族により使われましたが、最後は1615年に廃城となりました。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「本佐倉城その2」に続きます。