35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その1」に戻ります。

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その1

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。

立地と歴史

Introduction

金沢城は「加賀百万石、前田利家の城」とよく言われます。しかし実際には、一言では言い切れないものがあります。例えば、百万石というのは、加賀・能登・越中3国にあった加賀藩の領地の石高のことです。その百万石や金沢城も、利家一代で築いたものでもないのです。城主だった前田氏が代々引き継いて完成させたのです。あと、金沢城には、兼六園と一緒に、華やかなイメージがありますが、城の歴史は意外と苦難の道を辿っていて、兼六園もそれに関わっています。それに加えて、金沢城の前身は、加賀一向一揆の一大拠点だったのです。このような金沢城の歴史をご説明します。

現存する石川門

「尾山御坊」の時代

一向宗は仏教の宗派の一つで、戦国時代に国中(特に中部地方)に広まりました。「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽に行けると称したため、多くの人たちが信仰しました。15世紀後半に第8代宗主・蓮如が精力的に活動し、多くの地方組織(「講」など)を作り、宗派の強力な基盤となっていました。この時代は中央政府(幕府・将軍家など)の力が衰え、国中のほとんどの人たちは自衛する必要がありました。領主層や武士だけでなく、農民・商人・僧までもが武装していたのです。その中でも、一向宗の武力は強く、戦国大名が援軍を要請するほどでした。一向宗がなにかのために戦ったとき、その行為は「一向一揆」と呼ばれ、戦国大名並みの勢力になりました。

蓮如影像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

加賀国は、一向宗の中でも特に強力な組織化が進み「加賀一向一揆」と呼ばれました。当初は守護の富樫氏と協調していましたが、やがて税の賦課をめぐって対立するようになり、ついにはこれを倒しました(1488年(長享2年)の長享の一揆)。一揆軍の中には、富樫氏から領地や権利を奪いたい、地元領主たちもいたのです。以降約90年間、加賀国は一揆勢が自分たちで治める「百姓の持ちたる国」になりました。その本拠地として築かれたのが、後の金沢城になる「尾山御坊」(または「金沢御堂」)だったのです(1546年、天文15年)。

名前は尾山御坊時代に遡るという「極楽橋」

尾山御坊は、金沢平野に突き出した小立野(こだつの)台地の先端に築かれました。その台地の両側には、犀川・浅野川が流れていました。当時の一向宗(浄土真宗)の本山であった石山本願寺も、大坂の上町(うえまち)台地の先端に築かれていて、実態としては城郭そのものでした。ここは、1570年(元亀元年)から11年間にわたって、織田信長との石山合戦の舞台となりました。この地には、後に豊臣秀吉の大坂城が築かれます。尾山御坊も、城のような構えをしていたと考えられています。

Marker
金沢城
Leaflet|国土地理院
金沢城周辺の起伏地図

石山本願寺にあった大坂御堂の模型、大阪歴史博物館にて展示

加賀国は、本願寺宗主の代理人である御堂衆が中心になり、国の支配を行いました。一揆勢は、越前国の朝倉氏の侵攻を撃退したり、上杉謙信の越中侵攻に対して越中一揆に援軍を派遣したりしました。謙信は、一揆勢の鉄砲に対して十分注意するよう指示を与えています(元亀3年9月13日謙信書状)。1573年(天正元年)に越前の朝倉義景が信長に滅ぼされますが、翌年、越前一向一揆が蜂起し、越前国まで一揆勢が支配するようになります。しかし1575年(天正3年)に信長が出馬し越前を制圧、1580年(天正8年)に石山本願寺と講和すると、加賀一向一揆の討伐にもかかります。天正8年4月、尾山御坊は、信長の部将・柴田勝家の攻撃により陥落しました。勝家は、甥の佐久間盛政にその跡地を、金沢城(尾山城)として任せました。やがて、信長没後、勝家は羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れ、秀吉に味方した前田利家が城主となったのです。

佐久間盛政の江戸時代の浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

前田利家・利長と初期金沢城

前田利家(加賀前田家初代)は「鑓の又左」の異名を持った信長配下の武将でした(
生年:1539年?〜没年:1599年)。若いころ、信長の近習を成敗して出奔し、桶狭間の戦いで、討ち取った敵の首を持って駆け付け、帰参を願ったというエピソードがあります。信長の天下統一の過程では、北陸方面軍で柴田勝家の与力となり、先ほどの一向一揆の鎮圧では、過酷な司令官としての一面が、城の瓦に刻まれて残っています(下記補足1)。一方、後に加賀国を治めるときには、一揆勢の生き残りの領主層の権利を一定程度認め、統治の安定化を図っています。秀吉の配下になってからは、秀吉の「おさなともたち」という縁もあって重用され、最後は「五大老」の一人にもなりました。その中でも、徳川家康(内大臣)に次ぐ地位(大納言)として、秀吉の遺児・秀頼の守役を任されたとされています(下記補足2)。

(補足1)
此の書物後世に御らん(覧)じられ、御物かた(語)り有るべく候、然れば(天正三年)五月廿四日いき(一揆)おこり、其のまま前田又左衛門(利家)殿、いき千人ばかりいけとり(生捕)させられ候也、御せいはい(成敗)はりつけ、かま(釜)にい(煎)られ、あぶられ候哉、此の如く候て、一ふて(筆)書とと(留)め候、
(小丸山城跡出土の文字丸瓦、通称「呪いの瓦」)

(補足2)
一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事
(太閤様御覚書(秀吉遺言)、浅野家文書)

田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利家の嫡男・前田利長(加賀前田家2代)は一般には目立ちませんが、加賀藩「百万石」を確立した武将です(生年:1562年〜没年:1614年)。1585年(天正13年)、秀吉が越中攻め(VS佐々成政)を行った後独立した大名として(段階的に)越中国を与えられました。利家が亡くなると、その領土と五大老の地位を引き継ぎ、家康にも対抗しうる立場になりました。しかし、家康とのなんらかの緊張関係が生じ、交渉の結果、利長が引き下がり、母親の芳春院(まつ)を江戸に送ることで決着しました。家康が「加賀征伐」を画策し、利長を屈服させたという話は、同時代の根拠となる資料はないそうです。

前田利長肖像画、魚津歴史民俗博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「百万石」までの道を簡単に整理すると、(石高は概算)
・1581年(天正9年):利家、能登国主に(22万石)
・1583年(天正11年):利家、加賀北部加増、金沢城主に(27万石)
・1595年まで(文禄4年):利長に越中国(53万石):前田家として101万石
利家・利長・利長の弟(利家次男)の利政で3分割した期間もありましたが、前田家としてある程度一体運営されていたようです(軍役や城の預かりなど)。
・1600年(慶長5年):利長、加賀西部加増(18万石):計120万石
関ヶ原の戦いの前後で、利家からの相続、利政改易による引き継ぎによって、利長による約120万石の加賀藩が成立したのです。
・1639年(寛永16年):利常による支藩設立により加賀藩は102万石に(富山藩10万石、大聖寺藩7万石)

初期の金沢城の詳細はわからないのですが、佐久間盛政時代の伝承も残っています(下記補足3)。前田利家は城主になってから城の整備に着手し(以下補足4)、1586年(天正14年)頃には本丸に天守が造営されました(下記補足5)。しかしその天守は1602年(慶長7)年に落雷で焼失してしまいます。その後は、代わりに三階櫓が建てられました。本丸御殿については、その一部(広間)は、尾山御坊時代のもの(下間法橋ノ時ノ御堂「政春古兵談」)をそのまま使っていたそうです。それから在京中の利家が、留守役の利長に、高石垣を築くよう命じています(1592年、文禄元年、「三壺聞書」)。前提として、台地と城を分断する、巨大な百間堀もこのときまでに開削されたと考えられます。また、徳川家康が緊張関係にあったときには、城と城下町を囲む総構も築かれ始めました。

(補足3)
佐久間玄蕃しはらく居城し、かきあけて城の形ニ成、其故御取立、山城に被成、惣構、一・二の曲輪、本丸の廻り堤をほりなさりけり(「三壺聞書」)
(補足4)
当城普請付て、両郡(石川・河北郡)人夫申付候(天正12年2月 呉竹文庫史料)
(補足5)
去年かい置候くろかね、如日起下候へく候、天守をたて候付て入申候(「小宮山家文書」)

本丸東側の高石垣
百間堀跡
総構遺構

初期金沢城の姿を表すとされる絵図が残っています(「加州金沢之城図」)。この頃は、もっとも標高が高い本丸を中心に、堀や石垣、さらには惣構で防御を固めていた城の姿が想像されます。3代目の前田利常(利長の弟)が跡を継いだ後(1605年、慶長10年、利長は富山城に隠居)本丸を拡張して政治を行う場にしようという動きがありましたが、その最中に起こったのが、寛永の大火(1631年、寛永8年)でした。城下町の火災が延焼し、本丸を含む城の中心部が焼失してしまったのです。

「加州金沢之城図」出典:東京大学総合図書館

前田利常・綱紀と前期金沢城

前田利常には、幕府の嫌疑を逃れるため、わざと鼻毛を伸ばして愚鈍を装ったという逸話が残っていますが、実際には、2代将軍・徳川秀忠の娘(珠姫)を妻とし、幕府との関係強化に努めました(生年:1594年〜没年:1658年
藩主期間:1605年〜1639年、藩主後見期間:1645年〜1658年)。4代目の光高が若くして亡くなったため、幼少の5代目・綱紀を後見し、長きに藩政に関わり、その安定化も図りました(改作法など)。

前田利長肖像画、那谷寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城に関しては、寛永の大火の後、御殿を本丸から二の丸に移しました。本丸では、三階櫓・隅櫓などは再建されましたが、御殿は建てられませんでした。防御機能よりも、居住・政庁としての機能が発揮できる場所に、城の中心部を定めたのです。その前提として、元は武家屋敷だった所を造成することで、二の丸が拡張され、内堀も掘られました。それに伴い、石垣も整備され、この時期を起源とするものの多くを、今でも城内で見ることができます。また、当初は防御のために作られた玉泉院丸を、庭園に作り替えました。

二の丸の内堀と石垣
玉泉院丸の復元庭園

そして、これらの堀や庭園に水を導くために、辰巳用水が開削されました。防火、防衛、そして新田開発のためでもありました。しかし、城は台地の上にあるため、容易に大量の水は得られません。そこで、犀川の上流から取水し、手掘りのトンネルを経由し、10km以上もの用水路を作りました。その水を現・兼六園の霞ヶ池に貯め、台地を削ったところにある白鳥堀に落とし、その自然の水圧で城の内堀に上げていたのです。(逆サイフォンの原理、「伏越(ふせごし)の理)その工事を指揮したのが、小松の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させたと言われています。

辰巳用水(兼六坂上)
辰巳用水の引水の仕組み、「水土の礎」ホームページより引用

その後、前田綱紀は、加賀藩の地位や藩政を更に安定させました(生年:1643年〜没年:1724年、藩主期間:1645年〜1723年)。利常が亡くなった後は、幕府の実力者・保科正之(秀忠の弟、綱紀の義父)の後見を受けました。時の将軍・徳川綱吉との関係も良好で、幕府内では御三家に次ぐ待遇を得ることに成功しました。藩内でも直接政事に関与し、組織体制を整え、貧民救済・新田開発の事業も行っています。書物の収集、芸能・工芸の育成を行ったことでも知られています。

前田綱紀肖像画、前田育徳会蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

金沢城では、二の丸御殿の整備を進め、例えば、能舞台を作ったりしました。また、玉泉院丸の庭園も改修し、色紙短冊積石垣がこの時期に築かれたと考えられています。そして、城の東側の百間堀を越えたところにあった蓮池(れんち)にも庭園と屋敷を造営しました。これが兼六園の原型です。

移築された能舞台(中村神社拝殿)
色紙短冊積石垣
蓮池(現・瓢池)

これらの改修により、金沢城の姿は最盛期を迎えたといっていいでしょう。しかしこの姿も、1759年、宝暦9年4月10日に起こった宝暦の大火により、全焼してしまうのです。

全盛期を意識した金沢城模型、五十間長屋内にて展示

後期金沢城と特徴

宝暦の大火後の金沢城は、本丸には櫓等は再建されず、二の丸御殿を中心に復興が進められました。三の丸を守る「河北門」「石川門」、二の丸の正門「橋爪門」が三御門と呼ばれました。そのうち、現存する石川門(重要文化財)は、この大火後の再建です(1788年、天明8年)。他に現存する三十間長屋、鶴丸倉庫(ともに重要文化財)は、幕末の建造です(それぞれ1858年、1848年)。貴重なのは、何度もの大火を生き延び、北の丸・東照宮(1643年、寛永20年創健)が現存していることです(現・尾崎神社)。

現存する三十間長屋
現存する鶴丸倉庫
現存する東照宮(尾崎神社)

このように災害を何度も経験し、前田家によって一貫して維持された金沢城にはいくつか特徴があります。規模が大きく、各時期に造成・修復が重ねられた結果、「石垣の博物館」と言われています。

後期に築かれた土橋門石垣

櫓門などの壁は「なまこ壁」といって、瓦を並べて貼り、その継ぎ目に漆喰を盛り付けて仕上げられています。防火・防水・防御力が強いためとされますが、見た目上の効果もあったと思われます。またその瓦は、屋根も含めて鉛瓦が使われ、軽量で耐寒性があり、美観上も優れていました。櫓や長屋に備えられた出窓は、石落とし付きの防御設備ですが、屋根が優美に作られています(唐破風)。

石川門のなまこ壁
鉛瓦は当然屋根にも使われています(河北門)
三十間長屋の出窓(「出し」)

蓮池の御殿や庭園も大火で被害を受けましたが、11代・前田治脩(はるなが)が復興し、更に夕顔亭、翠滝を作りました。12代・斉広(なりなが)の時代に、松平定信が「兼六園」と命名したと言われています。13代・斉泰(なりやす)のときには、ほぼ現在の姿になっていました。兼六園の「六勝」のうちの「水泉」は、城を潤した辰巳用水によって成り立っています。

翠滝
霞ヶ池
兼六園内の辰巳用水

家臣の武家屋敷は、前田利家の時代には城内の二の丸・三の丸にあったと伝わります(下記補足6)。城の改修に伴い、城外に移転していき、5代・綱紀の時代までに城下町とともに整ったとされています。並行して多くの用水も整備され、現在も武家屋敷と用水の景観が、観光地として残されています。

(補足6)
天正十一年利家御入城の後、荒子衆・府中衆を初め、新参の御侍・出家・町人までも尾張・越前より従ひ来るもの夥し。其頃は二・三の丸に武家・町家打交ざりて居住す。
(「金沢城事蹟秘録」)

長町武家屋敷跡と大野庄用水

家臣の最上位にいたのが、加賀八家(かがはっか)と呼ばれた重臣層です。綱紀の時代に確立し、いすれも1万石以上という、大名並みの俸禄を得ていました。中でも筆頭の本多家の石高は5万石で、官位までもらっていました。その屋敷地(上屋敷)は、兼六園の背後の台地上にあり、城にとっても重要な防御拠点でした。初代の本多政重は、徳川家康の重臣・本多正信の子で、本多正純の弟です。2代・前田利長によって召し抱えられ、藩主の補佐、幕府との折衝に活躍しました。兄の正純は「宇都宮城釣天井事件」で改易となりましたが、政重は正純と確執があり、有力大名の藤堂高虎の取り成しもあって、罪を逃れました。

本多政重肖像画、加賀本多博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治維新後、お城は軍隊の駐屯地となりましたが、1881年(明治14年)にまた大火があり、城の建物は、ほとんどが焼けてしまいました。戦後は、金沢大学が置かれましたが、現在は「金沢城公園」として復元整備が進められています。

旧第六旅団司令部庁舎

Leaflet|国土地理院
金沢大学が設置されていた1970年代の城周辺の航空写真

復元された橋爪門
復元された河北門
復元された五十間長屋

「金沢城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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