190.八代城 その3

城のことを学ぶほど、また行きたくなってしまいます。

特徴、見どころ

本丸以外のチェックポイント

本丸以外の曲輪は市街地となっています。しかしいくつかの場所で城の痕跡が残っています。例えば、本丸の東側にある以前二の丸だった場所には、市役所などの現代的建物が立っています。このエリアは低い石垣によって囲まれています。恐らくは発掘された石を使って再度積み直されているのでしょう。ある部分は新しく見え、且つとても白い色をしています。長い間埋められていたため劣化せず、現代になって見つかり、このように使われたのではないかと推察します。

城周辺の地図

八代市役所と周りを囲む石垣
真っ白な石もあります

本丸の北側にある北の丸は、細川三斎の隠居所として使われ、その後は松井氏の住居となりました。現在でもそこを囲むオリジナルらしき石垣がいくらか残っています。中は現在では、松井氏の先祖を祀る松井神社となっています。

北の丸を囲む石垣
北の丸の内部
松井神社

その後

明治維新後、八代城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されました。その内のいくつかは他の場所に移され、現存しています(本丸にあった高麗門など)。ほとんどの城の敷地は市街地となり、堀も同様に埋められました。本丸には1884年に八代宮が設立されています。現在では2014年以来、それぞれの時代に八代城と呼ばれた3つの城(古麓城、麦島城、現在の八代城)が一括して国の史跡に指定されています。

明治時代に作られた八代宮の入口

私の感想

八代城に行く前は、この城のことを全く知りませんでした。行ってみてまず驚いたのは白さが残っている石垣と緑色に見える内堀との組合せが絶妙ということでした。それから、桝形によって巧みに作られた防御システムがあることもわかりました。おまけに、天守台石垣のすばらしい姿も鑑賞できました。城巡りから帰って、以前に八代城と呼ばれた別の2つの城があること、八代平野にはその後の干拓の歴史があることも知りました。江戸時代には、城にあるような白い石垣を使って堤防が作られたそうです。いつかまた、今度は3つの八代城と、八代平野のどこかにある白い石垣を見に行ってみたいです。

裏門(北)側の石垣と内堀
江戸時代の干拓遺跡、江中樋(こうちゅうひ)、八代市ホームページより引用

ここに行くには

車で行く場合:九州自動車道の八代ICから約6kmのところです。本丸の北東角のところに駐車場があります。
公共交通機関を利用する場合は、八代駅から八代産交行き産交バスに乗って、八代宮前バス停で降りてください。
福岡から八代駅まで:九州新幹線に乗って、新八代駅で鹿児島本線に乗り換えてください。

城跡にある駐車場
八代駅

リンク、参考情報

八代城跡(国指定)、八代市観光情報
・「よみがえる日本の城12」学研
・「日本の城改訂版第57号」デアゴスティーニジャパン
・やつしろ文化遺産ガイドブック「八見伝」
・YouTube 八代市公式チャンネル「八代城築城400年記念連続講座」

これで終わります。ありがとうございました。
「八代城その1」に戻ります。
「八代城その2」に戻ります。

190.八代城 その1

3つの八代城がありました。

立地と歴史

奪い合いの対象となった初代八代城

八代市は、九州地方の西部にあって、農業と工業が盛んなことで知られています。これらの産業は江戸時代以来、耕地及び工場の敷地を拡大させることで発展してきました。八代の人たちは八代海を干拓し、八代平野の面積を3倍にしたのです。干拓を行う前、八代は水陸交通の結節点として栄えていました。八代城は元来、海の近くにあり交通をコントロールできる位置にあったのです。

八代市の範囲と城の位置

実は、歴史的には八代城は3つあったのです。それらの元々の名前はそれぞれ、古麓(ふるふもと)、麦島(むぎしま)、松江(まつえ)といいました。これらの城は同時には存在しておらず、それぞれの時代で地域を代表する城を「八代城」と呼んだのです。その3つの城の歴史を調べてみると、八代市の多くを学んだということになるでしょう。最初の八代城である古麓城は、14世紀から16世紀に丘の上に築かれた典型的な山城でした。地方領主の名和氏が居城としていましたが、内陸の人吉城にいた相良氏が八代城の立地の良さに目を付け、侵攻しようとしました。相良氏は何度も八代城を攻め、ついには1504年に占領しました。しかし天下統一事業が進んだ16世紀後半には、八代城は島津氏、そして豊臣秀吉の手に渡りました。

城周辺の起伏地図

古麓城跡、八代市ホームページより引用

水上交通の要となった2番目の八代城

秀吉は配下の小西行長を、南肥後の国主として送り込みました(肥後はほぼ現在の熊本県に相当します)。行長は古麓城を廃城とし、代わりに麦島城を築きます。これが2番目の八代城となります。この城は球磨川の河口に築かれ、八代海に面しており、水上交通の要衝となりました。この場所に城が築かれた理由の一つは、秀吉がかねてから計画していた朝鮮侵攻の準備のためでもありました。行長は実際、1592年に侵攻が行われたとき、その先鋒を務めたのです。その立地に加え、この城は総石垣造りで築かれました。それが私たちが現在目にする、最後の八代城の雛形になったと言われています。1600年の関ヶ原の戦いで行長は敗軍の将となり、肥後国は加藤氏に引き継がれます。加藤氏の本拠地は熊本城でしたので、麦島城は支城として、その重臣の加藤正方(まさかた)が入りました。

麦島城跡の発掘現場  (licensed by Emeraldgreen at Japanese Wikipedia via Wikimedia Commons)
加藤正方肖像画、浄信寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年、徳川幕府は一国一城令を発しました。肥後国にあった支城群は破壊されましたが、麦島城はなぜか例外とされました。その理由はこれまでいろいろと議論されていますが、結論は定まっていません。一説には、加藤家の当主、加藤忠広がまだ幼少だったので、幕府はその後見として麦島城にいる重臣の正方が支えるべきと考えたからとされています。その後1619年に麦島城は地震により倒壊してしまいます。ところがまたも例外として別の場所での城の再建が認められたのです。または公式には、別の場所に城を移しただけだとも言われます。いずれにせよ、正方は実際には近くに新しい城を築いたわけで、松江城と呼ばれ、現在では(3代目の)八代城ということになっています。

加藤忠広肖像画、本妙寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
肥後国八代城廻絵図(部分)、出典:国立公文書館、この城も河口・海の近くにありました

例外として築かれ生き延びた3代目八代城

この新しい城は部分的に麦島城の設計を、またその一部の部材をも使って築城されました。例えば、4層の天守が本丸の角部分に築かれましたが、これは豊臣時代の古いスタイルでした。一方で、この城は「桝形」とよばれる先進的な防御システムも使われていました。桝形とは、城の入口において石垣によって囲まれた四角い空間のことを指します。この城の桝形は、本丸の外郭のラインから少しはみ出して作られていて、敵の側面を攻撃できるようになっていました。この形態は、桝形の最終形とも言われています。城は1622年に完成しました。

八代城主要部の模型写真、現地説明板より
隅に配置された天守、現地説明板より
はみ出している八代城の桝形

加藤氏は1632年に残念ながら幕府によって改易になってしまいますが、その後の肥後国は細川氏が治めました。細川氏も本拠地を熊本城とし、八代城は当主の父親である細川三斎(さんさい)の隠居所として使われました。彼は、戦国時代の生き残りであり、かなり気ままな性格だったようです。それが、幕府が八代城を廃城とすることを強制できなかった理由の一つのようです。三斎は亡くなる前、八代城をもって独立した藩にしようと考えたほどでした。結果的に八代城は江戸時代を通して存続しました。最終的には細川氏の熊本藩の重臣、松井氏が城主となっていました。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城
八代城跡

「八代城その2」に続きます。