目次~Table of Contents
立地と歴史
金山城は、現在の群馬県太田市にあった城です。この城は「難攻不落」として知られていて、「あの上杉謙信も落とせなかった」というフレーズ付きです。謙信だけでなく、武田・北条も攻めたことがありますが、力攻めでは落とすことができませんでした。また、城に比べると城主たちの名前は知られていないように思いますが、その城主たちにも色々なドラマがありました。城と城主があいまって、難航不落が達成できたと言えるのだと思います。この記事では、城主たちを交えながら城の歴史を紹介していきます。
太田市の範囲と城の位置岩松家純による築城と横瀬氏による下剋上
太田市周辺の地域は中世には新田荘と呼ばれていて、源氏の一族である新田氏が開発、定住していました。新田氏の中でも最も有名な人物は、何といっても1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を攻め滅ぼした新田義貞でしょう。その後南北朝時代となり、南朝に属した義貞は、北朝方の同じ源氏一族、足利尊氏の軍勢によって討たれてしまいました。新田荘を引き継いだのは、新田氏の支族で、足利氏に従った岩松氏でした。岩松氏は、足利氏が設立した室町幕府の下、新田一族を代表する立場となりました。
室町時代後半になると、関東地方に動乱が起こります。1415年(応永22年)関東公方・足利持氏に対して前関東管領・上杉禅秀が反乱を起こしたのです。当時の岩松氏の当主・満純は、禅秀に味方しましたが、禅秀は敗れ、1417年(応永24年)満純も処刑されました。岩松家は、満純の甥・持国が継ぎました(京兆家)。満純の遺児・家純は京都に逃れ、時の将軍・足利義教に保護されました(礼部家)。義教と持氏は対立していたので、義教は家純を持氏牽制のためのカードとして使おうとしたのです。
やがて、その機会がやってきました。1438年(永享10年)持氏と、関東管領・上杉氏及びバックアップする幕府との間で永享の乱が勃発したのです(持氏の敗死で終了)。2年後には、更に公方方と上杉・幕府方間で、結城合戦が起こりました。このとき、岩松家当主・持国(京兆家、けいちょうけ)は公方方でしたが、京都にいた岩松家純(礼部家、れいぶけ)が上杉・幕府方として参戦したのです。これは関東諸将にとって驚きだったようです(ただし家純は後見の足利義教暗殺事件があって帰京した模様)。そして1454年(享徳3年)後任の関東公方(のちに古河公方)・足利成氏と上杉氏(+幕府)との間で再び戦が始まり、関東地方が戦国時代に突入します(享徳の乱)。岩松家は持国が公方方、家純が上杉方でしたが、戦いが進むにつれ、岩松家全体が上杉方に傾き、家純が当主として迎えられることになったのです。それは1469年(文明元年)のことでした。それは彼が上杉禅秀の乱の結果、流浪の身になってから52年もの歳月が経っていました(家純61歳)。その家純を迎えるため、重臣の横瀬国繁らの手によって築かれたのが金山城だったのです(下記補足1)。
(補足1)文明元年2月25日、新田(岩松)家純が僧松陰を代官として地鎮の儀式を行い, 70余日断絶なく普請に走り回り、同8吉日に完成した。重臣の横瀬国繁らが由良原まで出迎え、家純は五十子陣から金山城に入城して祝賀の宴を行った。(長楽寺僧・松陰西堂「松陰私語」、「妙印尼輝子」ホームページによる要旨引用)
城が築かれた金山は新田荘の北部にあり、麓から約180mの高さがある独立丘陵で、山城を築くのに適していました。また山上に泉が湧いていて、平安時代から聖地とされ(現在の日ノ池)、城にとっては貴重な水源となったのです。岩松氏の当主はもともと、岩松(氏)館と呼ばれた平地の居館に住んでいたと考えられていますが、戦国時代の到来により、安全な山城に移動する必要もありました。関東地方の類似例としては、箕輪城や唐沢山城が挙げられるでしょう。金山城の築城は、岩松家純の帰還(両岩松家の統一)と併せ、地域にとっても画期的な出来事でした。1478年(文明10年)には太田道灌も訪れています。
家純は、通常は上杉方の本拠地、五十子陣(いかっこじん)に滞在し、京都から彼の跡継ぎ・明純も到着しました。1477年(文明9年)に内乱(長尾景春の乱)により五十子陣が崩壊すると、岩松勢は金山城に戻り、家純はその場で今後は古河公方に従うと宣言しました。そしてあろうことか、息子の明純を勘当してしまったのです。両者の間で路線対立があったのかもしれません。紆余曲折の後、跡継ぎは孫の尚純(ひさずみ)ということになりました。
1494年(明応3年)カリスマ的存在の家純が86歳で亡くなると、家中が動揺します。当主・尚純を重臣・横瀬氏が後見する体制であったのが、勘当されていた明純が翌年、尚純と謀り、横瀬氏を除くべく反乱を起こしたのです(屋裏の錯乱、横瀬氏の当主・成繁が草津湯治に行ったタイミングを見計らった)。しかし、明純は、横瀬一族が立てこもる金山城を落とすことができず、ついに古河公方・足利成氏が調停に乗り出しました。その結果は、尚純は隠居、尚純の幼児・昌純(まさずみ)が跡を継ぐというものでした。つまり、京都帰りの家純以下に代わって実際に家中を取り仕切っていたのは、重臣・横瀬氏であり、それが名実ともに明らかになったのです。これが下剋上の始まりでした。隠居させられた尚純は、京都育ちの教養人であったため、岩松の館で和歌・連歌の道の没頭しました(下記補足2)。昌純が成長すると、横瀬氏の当主・泰繁(やすしげ)と対立するようになり、逆に討たれてしまうという事件が発生しました。この事件で、横瀬氏の下剋上達成とされています(岩松氏は形式上の主君として継続)。
(補足2)明る朝、利根川の舟渡りをして、上野の国新田の庄に、礼部尚純、隠遁ありて今は静喜、かの閑居に五六日。連歌たび〱におよべり。(往路)新田の庄に大沢下総守宿所にして、草津湯治のまかなひなどに六七日になりぬ。静喜にてまた連歌あり。(復路)(連歌師宗長「東路の津登」)
上州の戦国大名、由良成繁
泰繁の子、成繁(前述の成繁とは別人)は1545年(天文14年)に跡を継ぎました。彼の時代は、まさに関東地方が戦いの渦中にありました。北条・上杉・武田が覇権を争う中で渡り歩き、一族の独立を守っただけでなく、領土も広げました(館林・桐生地域を攻略)。成繁は当初、北条氏に服属していましたが、(北条氏が傀儡としてた古河公方・足利義氏に仕えていた)京都の将軍・足利義輝とも交流を持っていました。例えば、義輝から伝来間もない鉄砲を下賜されています。(下記補足3)この交流は中央からの情報源にもなっていました。そしてついには苗字を、新田氏ゆかりの地名から「由良(ゆら)」に変え、自分たちが新田一族の正統であると称したのです(新田義宗の子、貞氏が養子に入ったとした、由良家伝記)。義輝からは、岩松氏と同等以上の役職(刑部大輔・御供衆、岩松氏は治部大輔、由良文書)に任じられました。この時代に下剋上を戦国大名として生き残るには、武力だけはなく、人々から認められるための権威も必要だったのです。
(補足3)数寄之由、相聞候条、鉄放(砲)壱丁遣之候、猶晴光可申候也、五月廿六日(花押)横瀬雅楽助とのへ(天文22年足利義輝御内書、安川由良文書)
1560年(永禄3年)越後国の上杉謙信(当時は長尾景虎)が、本格的な関東侵攻(越山)を開始します。この動きを京都からの情報で得ていた(下記補足4)成繁は、いち早く謙信に味方します。越後勢と戦うことは不可能と判断したようです。謙信の下に参陣した武将名を記録した「関東幕注文」にも「新田衆」の筆頭にその名が見えます。(下記補足5)北条氏は、横瀬氏(当時)からの人質に危害を加えませんでした。これが後の成繁の行動に影響したかもしれません。
(補足4)関白殿御下国の処、馳走せしむの由、尤も神妙候(永禄3年10月3日足利成繫宛義輝御内書、集古文書)
(補足5)新田衆 横瀬雅楽助 五のかゝりの丸の内の十万(関東幕注文、上杉家文書、「新田殿御一家(岩松一族)」はその後に記載)
ところが成繁は、1566年(永禄9年)8月頃、再び北条氏に従うことにしました。(下記補足6)同年3月、謙信は下総国臼井城攻めに失敗し、その権威が大きく低下していたからです。成繁は後に遺言で「北条氏のやり方は常に無道である」(補足7)と言っているので、信頼したわけではなかったでしょうが、その時点で冷静な判断をしたと思われます。その結果、上州の領主が次々に北条方につき、謙信の重臣・厩橋城の北条高広までが離反しました。上杉方は、上野国の拠点のほとんどを失い大打撃となりました。謙信は激怒し(補足8)、上野国に攻め込み、自身の書状で新田(金山城)攻めの予定を告げていますが、実行したかどうかはわかっていません。
(補足6)東口の事、宇都宮を始め両皆川・新田(由良)当方へ申し寄せ候、なかんずく成田の事、我々の刷(あつかい)を以て時宜(じき)落着す、(8月25日付正木時忠宛北条氏照書状、三浦文書)
(補足7)北条氏のやり方は常に無道であるので、北条家の御陣の供に兄弟一緒に出てはならぬ」(「石川忠総留書」坤より、黒田基樹「由良氏の研究」)
(補足8)第一の侫人成繁を始めとして退治を加うべし(永禄10年正月28日付佐竹義重宛謙信書状、伊佐早文書)
永禄11年12月、状況がまた変わります。武田信玄が武田・今川・北条の三国同盟を破り、今川領に侵攻したのです。それにより、北条氏の当主・氏康も、長年の宿敵・謙信と講和することを決断しました。その交渉役になったのが、由良成繁と北条高広でした。(下記補足9)この二人は上杉への最前線にいて、かつて上杉方だったため知己も多かったからです(成繁のルートは「由良手筋」と呼ばれました)。交渉は困難を極めましたが、成繁は金山城を交渉の場として提供するなど努力を重ねました。自らも戦国大名でありがなら、地域の安定を願ってのことだっだと思われます。講和(越相同盟)によって、上野国は上杉方となりました。
(補足9)越・相取扱の儀、旧冬以来源三(北条氏照)・新太郎(氏邦)如何様にもと存じ詰め、様々その稼ぎを致す、なかんずく新太郎には愚老(氏康)申し付け、由信(成繁)取扱について相違なく相整え候、(永禄12年3月3日付上杉方沼田在城衆宛北条氏康書状、歴代古案三)
ところが、1571年(元亀2年)に氏康が亡くなると、跡継ぎの氏政は、武田との同盟を復活します。同盟のメリット(上杉方の武田領への侵攻)が機能しなかったからです。成繁は氏政に対して不満を露わにしますが、結局北条方に戻ってきました。これも彼の戦国大名としての判断だったのでしょう。新田はまた争乱の地となり、上杉方が金山城北方の丸山砦を占領した一方、由良方も桐生城を落とし、周辺地域を領土としました。謙信はまたも激怒し、1574年(天正2年)二度に渡って上野に出兵しました。謙信本体が3月に由良領に侵攻し、4月に金山城を攻めました。城の物見から死角となる藤阿久という所に陣を布いたそうです。由良方は籠城に徹し、上杉方も簡単には城を落とせないので、周辺地域の放火・略奪に終始しました。領内にダメージを与えるためです。「義」といってもその当時は「イコール民衆のため」ではなかったのです。北条軍は資材の支給・上杉軍への牽制を行って由良方を支援しました。5月頃謙信は退陣したようです。同年10、11月にも謙信による由良領侵攻と退陣がありました。謙信は1578年(天正6年)3月に没しますが、成繁も6月に隠居先の桐生城で亡くなりました。戦国大名として波乱の人生でした。跡継ぎの国繁も、今度は武田勝頼(天正8年に新田に出陣)や滝川一益(織田信長配下)の関東侵攻を乗り切り、領土を守ったのです。国繁は、両者からの服属要求をあいまいにしていたようです。
金山城の発展
金山城は、当初は金山丘陵の頂上周辺に小規模に築かれていました。頂上に実城(本丸)があり、周りの二の丸・三の丸くらいの範囲と推定されています。また、城主が普段住む館は、山麓にあったと考えられます。それが、横瀬氏が実権を握る時期になると、「中城」と呼ばれる範囲まで広がりました。それは、城の中心部を区切る物見台下堀切辺りまでと推定されています。由良成繁が戦国大名となった頃には、度重なる戦に対応するため、城の改修が進められ、最終的には、丘陵外側に「北城(きたじょう)」「西城(にしじょう)」が、南側にある八王子丘陵には「八王子山ノ砦(はちおうじやまのとりで)」が築かれました。山全体が城郭化し、山麓の館とも連携する形となりました。
防御の仕組みとしては、山城なので自然の地形を利用しながら、それを加工して土塁・堀切・虎口などを備えました。また金山城は、関東地方で戦国時代から石垣が多用された珍しい城として知られています。石材は金山そのものから調達できたので、城の主要部分で石敷・石組として活用されました。これらの石垣を最終的に整備したのは北条氏なのですが、改修が何度もされていて、初期の工事は由良時代ではないかとされています。北条氏は、石垣以外にも、その当時先進の防御構造を、見附出丸などに導入しました。
城と一族の意地を貫いた妙印尼
戦国時代末期、関東地方はほぼ北条氏の覇権に下に治まりました。1583年(天正11年)10月、由良氏と金山城にとって大事件がまたも起こります。当主・国繁と実弟の長尾顕長が突然北条氏によって捕らえられ、金山城・館林城の明け渡しが要求されたのです。この話は、場所は厩橋城・小田原城とも、口実は接待、作戦会議とも、理由は両城の借用に難色を示したとか言われていますが、北条氏が城の直接支配に乗り出したことは間違いありません。2人は小田原に護送監禁されました。このとき、金山城に残って抗戦の決意をしたのが、成繁の妻・妙印尼です(妙印尼の孫・国繁の子である貞繁もいました)。こうして最後ともいうべき籠城戦が始まりました。北条方は、氏政・氏直・氏照らトップクラスが出陣し、翌年にかけて城外の領地でも戦いが続きました(藤岡・沼尻合戦など)。由良方は佐竹氏と連携し、外交面でも豊臣秀吉や徳川家康にも連絡を取りました。これはこの時でなく後に効果が現れます。城は落ちませんでしたが、劣勢は如何ともし難く、監禁された2人と交換で、金山城・館林城を引き渡すことで降伏しました(下記補足11)。由良氏は桐生城に移り、北条氏の家臣・清水太郎左衛門尉が金山城に入り、城の改修を進めました。
(補足10)由信・長新帰城の上、両地南方へ明け渡し候儀、是非なき次第に候(2月5日付宇都宮国綱書状、佐竹文書)
1590年(天正18年)3月に豊臣秀吉による北条領侵攻が始まると、また劇的な出来事が起こります。由良氏の当主・国繁は、小田原城に召集されていました。そのとき77歳になっていた妙印尼は、孫の貞繁とともに、いち早く桐生城を開城し、豊臣北陸軍の大将・前田利家の下に参じました。そして、由良家の今後について嘆願を行ったのです。それに対する利家の返事が残っています(下記補足11)。それは北条氏が7月に降伏した後、秀吉から朱印状が発せられることで成就しました(補足12)。事実かどうかわかりませんが、妙印尼と貞繁が、利家とともに小田原合戦に加わり、秀吉に謁見したという話まで伝わっています。
(補足11)新田身上の事、うえさま御前別条なきよう精を入れ、馳走申しまいらせ候、我々たしかに請け取り申し候、ゆくゆくまでも疎意あるまじく候間、ご安心あるべく候、かしく 六月七日 ちくぜんの守とし家(黒印)新田御老母へ まいる(金谷由良文書)
(補足12)由良・長尾兄弟の事、内々に天下え御意を請由にて、先年小田原へ擒え置き、居城へ取り懸かり、相渡すべき旨申し懸け候と雖も、母の覚悟として、城を相拘え、京都へ御届け申し上げ候刻、先ずは成り次第に仕るべく候旨、仰せ出だされ候に付いて、了簡に及ばず、小田原へ城を相渡し、今度籠城すと雖も、右の趣御失念なく候条、本知をも下され度く思し召され候へとも、家康へ下され候条、堪忍分として常陸国の内牛久、当知行の旨に任せ、一職に下され候間、母の覚悟に任せ、全く了知すべき者なり(天正18年8月朔日付由良・長尾老母宛豊臣秀吉朱印状、安川由良文書)
一方、北条氏が強化したはずの金山城は、4月頃あっけなく落城(または開城)してしまい、その後は廃城となりました。妙印尼は本当は金山城に戻りたかったのでしょうが、常陸国牛久に領地を与えられ、1594年(文禄3年)に81歳で亡くなるまでその地で過ごしました。北条氏の関係者の多くが改易になった中、由良家存続には成功したのです。由良家は最終的には江戸幕府下で高家の一つとなりました。もし妙印尼と由良氏が、わずかな守備兵であっても金山城に居続けていたならばどうなっていたでしょうか。忍城では、地元生え抜きとして城を守っていた成田長親が、石田三成の水攻めに耐え抜いていました。金山城も簡単に降伏せず、後に名が残るような攻防戦が起こっていたかもしれません。
リンク、参考情報
・金山城跡、太田市ホームページ
・妙印尼輝子
・「新田一族の戦国史/久保田順一著」あかぎ出版
・「戦国史-上州の150年戦争-」上毛新聞社
・「上野岩松氏(シリーズ・中世関東武士の研究 第15巻)/黒田基樹編」戒光祥出版
・「上州の戦国大名 横瀬・由良一族/渡辺嘉造伊著」りん書房
・「関東の名城を歩く 北関東編/峰岸純夫・齋藤慎一編」吉川弘文館
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「妙印尼輝子/浜野春保著」武蔵野書房
・「不落の城 新田金山城ガイドブック」群馬県太田市教育委員会
・「国指定史跡 金山城跡 平成21年3月改訂版」太田市教育委員会文化財課
・「広報きりゅう令和5年9月号」桐生市
・「企画展 越山、上杉謙信侵攻と関東の城」埼玉県立嵐山史跡の博物館
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。
「17.金山城 その1」への4件のフィードバック