目次~Table of Contents
特徴、見どころ
三番台場跡を見学
台場公園、すなわち三番台場跡は、海岸とは通路によってつながっています。この道は、公園ができたときに付け加えられたと思われます。台場自体はもともと海の孤島だったわけです。台場に近づくにつれ、跳ね出しとい独特の仕組みを持った石垣が見えてきます。跳ね出しとは、最上段の石が全て張り出していて、敵がよじ登ってくるのを防ぐ仕組みです。ヨーロッパの城郭を模倣したものです。跳ね出しが見られる日本の城は稀で、他には江戸時代末に築かれたか改修された、五稜郭、龍岡城、人吉城のみで見ることができます。実は、この入口付近が唯一跳ね出しをすぐ近くで見ることができる場所です。他の場所では、石垣に近づくことが禁止されているからです。
三番台場周辺の航空写真台場本体へは、船に乗るようにステップを登って入っていきます。次に見えてくるのは台場の近景です。台場は一辺が160mある大きな方形で、外周部分が中心部分より高くなっています。ただ、現存している遺物がほとんどないので、歴史の知識なしで訪れた場合には、史跡であると気が付かない人もいるかもしれません。入口から土塁で固められた外周部分を歩いていくと、周りの景色が素晴らしいです。左側にはお台場海浜公園、右側にはレインボーブリッジや6番台場、そして前方には東京湾が見えます。
砲台に関する遺跡
入口とは反対側の外周部分の土塁上には、2基の模擬砲座があります。しかし歴史家によると、これらは正確に再現されておらず、レプリカとも言えないとのことです。それに加えて、かつては大砲群の前方に、長大な土の防護壁(「胸牆(きょうしょう)」と呼ばれます)が設置されていましたが、崩れてしまったようです。また、それぞれの大砲の間には土造りの側壁もありましたが、台場が廃止となった後に撤去されました。大砲が並んでいたこの面は、敵に対峙する真正面だったのです。
正面側土塁の下方内側に向き合うように、火薬庫の跡があります。土造りの堤によって囲まれています。堤の内側に、火薬庫がありましたが撤去され、今ではその代わりに竈のような石造りのものがあります。これは元から台場にあったものではないそうです。更には、堤は一部石垣によって支えられていますが、これは1923年の関東大震災の被害から復旧する際に、築かれたものです。
また、弾薬庫の跡が複数箇所にあります。弾薬は台場においては最も注意を要する危険物で、爆発事故を起こしかねないため、倉庫は厳重に作られ、外周の土塁の内部に石室と木枠が設置されました。現在は土盛りの背後に石室が見えるのですが、この土盛りは保存のためなのでしょうが、後の時代に作られたようです。
陣屋と船着き場の跡
台場の平らな中心部分には、陣屋の礎石跡が並んでいるだけです。陣屋は簡易な木造作りで風呂もなく、武士たちが休憩、寝泊りするだけのものでした。戦いが起こったときには、燃えてしまう前にそこから避難する必要があったでしょう。
船着き場の跡は、現在の入口からとなりの角部分にあります。ビジターは立ち入ることができず、内側の方から見物するのみです。コンクリートで固められた部分がありますが、これも後の時代の産物で、公園にするときに使われたものでしょうか。
この船着き場の手前には、これまで紹介したものとはまた違った土塁があり、「一文字堤(いちもんじつつみ)」と呼ばれています。これは、船着き場がかつては台場の入口であったために、当時のビジターから容易に中を見られないよう、また船着き場から攻撃してくる敵を防ぐために設けられました。
私の感想
品川台場跡は、人々に過去にどんなことが起こったのかを知らしめるとても有機義な史跡だと思います。目に見える史跡というのは、ただ記録が残っているとか説明板があるだけよりも、明らかに優れています。東京のウォーターフロントエリアは、日本全国の経済にとってとても重要な地域です。全ての台場跡が撤去されても仕方がない状況でした。台場の持ち主であった東京都の決定(2つの台場を残す)は英断であったと思います。現時点において、1点だけお願いしたいのは、現地にある模擬の台座を、本物に近いレプリカに交換していただきたいです。そうすれば、ビジターが台場の過去の姿を理解するのに大いに役立つのではないでしょうか。
リンク、参考情報
・台場の歴史、お台場海浜公園&台場公園、海上公園なび、東京港埠頭株式会社
・「お台場 品川台場の設計・構造・機能/淺川道夫著」錦正社
・「歴史群像146号、図解 品川台場」学研
これで終わります。ありがとうございました。
「品川台場その1」に戻ります。
「品川台場その2」に戻ります。
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。
「124.品川台場 その3」への1件のフィードバック