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特徴、見どころ
イントロダクション
今回は、関ヶ原合戦の陣地を西軍中心に回ってから、最終的には小早川秀秋が布陣していた松尾山城跡を目指す形で、見どころを紹介します。西軍陣地も、従来説のものに加えて、新説で言われている新たな候補地も回ってみます。そこで、スタート地点として大垣城を選びました。関ヶ原合戦は、西軍を率いていた石田三成がここから移動したことをきっかけに起こったからです。大垣城天守内にも、やはり三成や関ヶ原合戦の展示があります。大垣から関ヶ原までは、電車ですぐです。
西軍陣地めぐり(従来説)
従来説の各陣地は、現地の案内表示が充実しているので、観光マップが手元にあれば、迷うことはないでしょう。まずは従来説の、石田三成・笹尾山陣地に向かっていきます。
笹尾山に行くには、一旦「関ヶ原古戦場決戦地」を目指すといいと思います。向こうの方に三成の陣の幟が見えてきます。
笹尾山の麓に着くと、そこは三成の重臣・島左近陣地となっています。そして笹尾山を登っていくのですが、ここに三成が陣を布いたという合戦当時の記録はありません。恐らくは江戸時代の地誌などに基づいて、明治時代に各部将の陣地を定めたものの一つなのです。
しかし場所的には、いかにも本陣がありそうなところで、南宮山から、松尾山まで、怪しい人たちの様子も見渡せたのではと思ってしまいます。
次の目標地点は大谷吉継墓ですが、その間に西軍諸将の陣地跡を通過します。「島津義弘」「小西行長」「宇喜多秀家」と続きます。その間は結構な距離(キロメートル単位)になりますが、島津隊の兵士からは、各部将は密集して布陣していた(百メートル単位の距離)との証言もあります。
そこから後は、文字通り「山中」に入っていきます。その辺りからは、陣地を構築した跡が多くみられるそうです。吉継が先に行って、陣地を構築していたのかもしれません。この墓の場所の由来としては、自害した吉継の首を、部下(湯淺五助)が埋葬し、後に敵方の藤堂家によりお墓が建てられたと言われています。今でもお供えが絶えることがありません。
西軍陣地めぐり(新説)
大谷吉継墓からは、近くにある吉継の陣跡に向かいます。これは「従来説」による呼称なのですが、新説の一つ(高橋陽介氏による)では、島津隊の陣となっているのです。
ところで、この近くに「松尾山眺望地」という場所があります。そこからは、松尾山の小早川秀秋陣地跡を望むことができます。従来説では、秀秋の裏切りを見抜いた吉継がこの辺に布陣したことになっているので、きっとこの眺望も根拠の一つになったのでしょう。しかし、前回記事でご紹介したどの説(従来説は現代の歴史家による修正布陣図による)でも、吉継は別の所に移動していることになっています。よって、先ほどの新説では、三成との位置関係から、島津が使ったとしたのではないでしょうか。
今度は山を下って、新説による三成陣地に行きましょう。旧中山道に入ると、前方に小山が見えてきます。新説で三成陣地とされた「自害が岡」です。不吉な名前だと思うかもしれませんが、古代にこの地から起こった壬申の乱の史跡(自害峯の三本杉)になっているのです。乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の御首(みしるし)を、皇子を慕ったこの地の人たちがもらい受け、ここに埋葬したという伝説があります。名前はその故事に由来していて、御陵候補地にもなっています。時代がクロスオーバーした場所なのです。
そのような場所がもう一つあります。藤古川を渡ったところに、不破関資料館があるのですが、そこは、古代の不破関跡で、新説では大谷吉継布陣地ではないかとされています。不破の関と関ヶ原、この地はずっと境目の場所だったのです。
いよいよ松尾山です。山への入口には、小早川の旗印が並んでいます。雰囲気満点です。
松尾山城へ
松尾山は標高293メートルありますが、麓からは約200メートルの高さだそうです。麓に駐車場もあって、山道は「東海自然歩道」の一部として整備されています。秀秋の軍勢は8千人とも1万5千人とも言われていますので、山麓まで兵がいたかもしれません。そうであれば、「問鉄砲」が本当なら銃声も聞こえたことでしょう。
松尾山城は「小早川秀秋陣」と言われますが、実は本格的な山城だったのです。山頂がある「主郭(本丸)」を中心に、山の峰に曲輪群が配置されていました。曲輪を土塁で囲み、空堀・堀切・竪堀を掘って、敵の移動や攻撃を防ぐようになっていました。これらの城の改修のほとんどは、関ヶ原合戦の前に行われました。山の地形を加工して、このような城を作ったのです。
途中から右に曲がって、山道という感じになります。あと850メートルという案内があります。
だんだん山頂に近づいていきますが、道は「東の曲輪」の下を通っているので、敵だったら攻撃されてしまいます。
やがて、幟が何本も見えてきます。ついに山頂の主郭に着きました。山の向こうから見えていた「小早川秀秋陣地」の幟も立っています。
山頂からは関ヶ原が一望できます。従来説の小早川秀秋ではなくとも、本当に日和見してしまいそうです。
果たして陣なのか城なのか?
松尾山城が「お城」に値するものなのか、実地でチェックしてみましょう。実は、登ってきたのと反対側の方が、城の防御がより充実しているのです。そちら側に行ってから、改めて入城してみましょう。
最初の入口は、堀切を作ってわざと細くしています。
その次は、陣地のような曲輪を通ります。「馬出状の曲輪」と呼ばれています。
道はまた細くなって、曲がりながら主郭に入っていきます。
主郭の入口は土塁に囲まれた四角いスペースになっています。「枡形虎口」です。まるでこちらが正面のようです。小早川秀秋もここから入城したかもしれません。
桝形虎口の手前からは空堀に下っていくこともできます。斜面を人工的に削った「切岸」が見えます。
空堀の底は、草木で覆われてはいるものの、結構広々としています。通路や兵士の居場所にも使われたと想定されています。また、堀の底にも防衛用の土塁を築かれています(喰違い土塁)。
本郭から空堀を挟んだ曲輪(名無し?)にも登ってみましょう。ここも広々としていて、城全体が基地のようになっているのがわかります。
松尾山城はただの「陣」ではなく、本格的な「城」ということが実感できました。
私の感想
関ヶ原は、いろんな説が出てくるだけの謎とロマンに満ちていると、現地をめぐって改めてそう思いました。また、古代から関所や決戦の地だったこともわかりました。東西対決は今でも続いていて、麺の東西対決のお土産を買うことができます。それから、岐阜関ヶ原古戦場記念館では、陣地めぐりをしたビジター向けに御朱印を販売していますので、こちらもおすすめです(別館ショップ、訪問したときの写真等が必要)。古戦場記念館も2020年にオープンし、人気のスポットになっていますので、中の展示をご覧になってはいかがでしょう。
これで終わります。ありがとうございました。
今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。
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