208.屋嶋城

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。

Introduction

今日は、徳島城を見学に行った足で、高松駅に来ています。高松城は以前ご紹介しているので、この近くに行ける城は他にないでしょうか?そういえば、屋島に城の門が復元されたと聞いたことがあります。源平合戦で有名なところですが、古代山城の一つだったとのことです。以前九州の大野城の勉強をしたときにも、名前が出てきました。この記事では、最初に古代山城、および屋嶋城の歴史に関するご説明をして、それから現地をご案内したいと思います。

高松駅

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(古代山城と屋嶋城)

大宰府と大野城が作られる少し前の、7世紀前半、朝鮮半島には3つの国が並び立っていました(高句麗・新羅・百済)。中国大陸では、618年に統一王朝の唐が成立し、朝鮮半島に勢力を伸ばそうとしていました。唐はまず、新羅と同盟して、百済を滅ぼします(660年)。百済の遺民は国の復興を目指し、友好関係にあった倭国(以下日本と表記)に救援を要請しました。皇太子で実力者だった中大兄皇子は援軍を送る決意をし、その結果起こったのが白村江の戦いだったのです(663年)。しかし日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗しました。その結果を受けて、皇子が恐れたのが、唐・新羅による日本侵攻でした。皇子は、日本の防衛体制を整備していくのです。

白村江の戦いの図l (incensed by Samhanin via Wikimedia Commons)

朝廷の正史「日本書紀」によれば、敗戦の翌年(664年)、に対馬・壱岐・筑紫などに防人と烽火を配備し、警備体制を作りました。また九州北部に、防衛線として水城を築きました。そして665年には、百済からの亡命官僚を派遣して、水城の背後に、大野城、基肄城を築城したのです。

水城跡
大野城跡
基肄城跡

その後も整備は進み、朝鮮への最前線の対馬(金田城)からお膝元の大和(高安城)まで、城を築きました(667年)(下記補足3)。その中に屋嶋城があります。

(補足3)(天智天皇6年11月) 倭(やまと)国高安城(たかやすのき)・讃吉(さぬき)国山田郡の屋嶋城(やしまのき)、対馬国の金田城(かなたのき)を築く。(日本書紀)

主要な古代山城の位置

古代山城または朝鮮式山城は、朝鮮で確立し、百済からの亡命者の指導のもとに、日本に導入された築城方式によって築かれました。先ほどご説明した通り、朝鮮半島では内乱や外国からの侵攻が続いていました。この築城方式は、土塁や石垣によって山を囲ってしまうというやり方で、当時の朝鮮の人たちは、敵軍が攻めてくると、その山城に逃げ込み、敵の補給を切れるのを待って、反撃に転じるという戦法を取っていました。一旦逃げ込む先として準備していたのです。その城の中には、倉庫などを建てて、備蓄もしていたのでしょう。この方式が、唐・新羅の連合軍による侵攻に備える日本にも、導入されたのです。

屋島の地形図を見ると「メサ」と呼ばれる特徴的な地形になっています。テーブル状の台地で、山上が平らで、周囲は急な崖に囲まれています。山を丸ごと囲い込む古代山城にはうってつけの地形だとわかります。結局唐などの侵攻はなかったので、城はすぐ廃城になったと思われ、長い間「幻の城」と呼ばれてきました。1998年になって本格的に発掘調査が始められました。その結果などから、全長約7kmの城壁のうち、人工的なものは約1割と考えられています。屋島の自然の地形を最大限生かしたのでしょう。その人工的なものの中で、最大の発見が、これからご案内する城門です。これにより、屋嶋城の実在が証明され、古代山城の中でも最大級の門とのことです。しかし、この城の全貌はまだまだベールに包まれているのです。それでは現地に向けて出発しましょう。

屋島周辺の起伏地図

復元された城門

ここに行くには(自然と歴史の地・屋島へ)

今回のご案内は、電車とバスを使って、お気軽に行けるコースをご紹介します。高松から、電車で屋島駅に向かいます。屋島が見えてくるのですが、特徴的な地形だとわかります。古代山城にはもってこいです。

車窓から見える屋島

駅に着いたら、バスに乗り替えます。結構混んでいます。人気の観光地でなのでしょう。

屋島駅
屋島山上行きバス


急な坂を登っていたはわかりましたが、思ったより、すぐに着いてしまいました。ほんとうに上は、まっ平です。

バスで登っています
山上の駐車場に到着

これから、駐車場から近い範囲を、歩いて屋島山上を回りながら、復元された城門を見学することにします。

屋島山上(南嶺)案内図

駐車場からは、第八十四番札所の屋島寺に向かう人が多いのですが、違う方向に行きます。ずっとまっすぐの道で、本当に平らだと感じます。もうすぐ東側の崖に着きます。説明パネルがあります。「源平屋島合戦史跡 案内図」というタイトルです。

屋島寺(東大門)
まっすぐの道を進みます
東側の崖に到着
「源平屋島合戦史跡 案内図」


この眼下に見える一帯が、古戦場なのです。那須与一が海辺で扇の的を射たところだから、山の上ではないと思っていましたが、あの場所での出来事だったと初めて知りました。

古戦場の眺め

特徴、見どころ

城門に到着、見学!

いよいよ城門に向かいますが、今歩いている道はお遍路道にもなっています。85番目の札所に向かう分岐点があります。

八十五番札所への分岐点


目指す城門は、西側の崖にあるのですが、この辺は屋島の南嶺の山上部分が細くなっているので、そんなに遠くはありません。逆に、そういうところだからこそ、門を作ったのかもしれません。もう案内が見えてきました。

道はまだ崖の東側を進んでいます
程なく崖の西側に着きました、門の案内があります

ここから少し下っていきます。なんだか、風の音がして、風雲急を告げているようです。視界が急に開けてきました、すごい景色です!山の西側が一望できます。ちょうど夕方になってきているので、神秘的にも感じます。

門に向かって下ります
城門に到着です
城門からの眺め

修復された城門石垣をよく見るためには、さらに階段を下ります。さすが、よく整備されています。下ってから石垣を見上げると、崖と一緒に立ちはだかっているように見えます。城壁は約6メートルの高さで、崖の前に築かれています。

階段を下ります
城門石垣

右手前の登山道から改めて近づいてみましょう。門の建物もあったはずですが、残念ながらその痕跡はほとんど残っていなかったそうです。それでも、戦国時代の城のような石垣が、1300年以上も前に築かれていたことはすごいと思います。しかし短期間で廃城になって、石垣の技術も城とともに幻になって、一旦忘れられてしまったのでしょう。

右手前の登山道を上がったところです

門の作り方として注目なのは、懸門です。入口に、高い段差を設けて入りにくいようにしています。当時は梯子がかけられていたと考えられます。

懸門

もう一つは門の中に入ったところで、甕城(おうじょう)といいます。岩盤が敵の行く手を阻み、左側に進ませるようになっています。敵がその通り進んだら、周りから兵士が側面攻撃するのです。近世の城の枡形みたいなものです。

甕城

実は全部が屋嶋城?

帰り道は、屋島寺に寄ってみましょう。参道が見えてきました。お遍路の人は、左側から登ってきます。右側にあるのが仁王門です。そのルートに合流しましょう。

屋島寺の参道に突き当たります
こちらからお遍路の人が登ってきます
仁王門

四天門、重要文化財の本堂、と進みます。このお寺自体、屋嶋城が廃城になった後、北嶺から南嶺に移されたとも言われます。狸伝説のお寺でもあります。

四天門
本堂
狸石像

せっかくなので、北側の眺めを見に行きましょう。駐車場から、北西側に回り込んでいきます。北嶺が見えます。

駐車場から北側の眺め、右側が北嶺

今度は、海が一望できます。高松の海岸が良く見えます、ここにも「屋島城跡」と表示があります。唐突感はありますが、屋島中が城だったということでしょう。今後、屋嶋城の謎がだんだん明らかになるかもしれません。

南嶺北西側からの眺め
ここにも「屋島城跡」とあります

リンク、参考情報

屋嶋城詳細へ、高松市公式ホームページ もっと高松

これで終わります、ありがとうございました。

76.徳島城 その2

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

ここに行くには

今日は、徳島駅前に来ています。さすが阿波踊りの本場だけあって、街なかではフィギアがお出迎えです。ところで、徳島城はどこにあるのでしょうか。ここ、徳島駅は城があった「ひょうたん島」のど真ん中にあるのです。徳島城へもここから出発します。

徳島駅
阿波踊りのフィギア

城周辺の航空写真

徳島という名前も、島状の地形から来ているのかと思ってしまいます。かつてこの辺りは「渭津(いのつ}」と呼ばれていましたが、藩祖の蜂須賀家政が「徳島」に改めました。恐らく縁起を担いだのだろうと言われますが、はっきりしないそうです。しかも、定着するのに100年くらいかかりました。地名にも謎と歴史があるのです。

今、線路際を歩いていますが、ここはかつて島を貫く寺島川でした。線路の向こうに山が見えますが、最初に城が築かれた城山(当初は「猪山」)です。城はすぐ近くです。城跡がある徳島中央公園へは、歩道橋を渡ります。

かつて寺島川だった線路
歩道橋を渡ります
歩道橋からかつての寺島川を見ています

歩道橋を下るところに最初の見どころがあります。川を攻めてくる敵を迎え撃つために屏風折れ塀がありましたが、それを支える「舌石(したいし)」が残っているのです。

「舌石」についての説明パネル
舌石

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

山麓の御殿跡を巡る

復元された城の正門、鷲の門の前にやってきました。すぐそばには、城跡の石碑もあります。鷲の門に入っていきましょう。

鷲の門
城跡の石碑

城周辺の航空写真

次は、御殿の入口にあたる「下乗橋」です。ここからは、駕籠などの乗り物から降りて渡ったことに由来しています。橋を渡った先は、大手門にあたる黒門がありました。建物はありませんが、すごい石垣の枡形が残っています。「阿波の青石」を使った素晴らしい石垣です。

下乗門と黒門跡
黒門の枡形
阿波の青石を使った石垣

枡形を出るところの石垣も注目です。真ん中にある大きな石の色がちがいます。紅簾片岩(こうれんへんがん)と呼ばれる赤い石が、ところどころに使われています。青い石と、赤い石の組み合わせ、これは見ものです。

枡形出口にある阿波の赤石

隅のところにあった太鼓櫓跡に登ってみましょう。黒門跡を上から見てみます。旧海軍の駆逐艦(「追風」)のマストが展示されています。さっき渡った下乗橋、黒門の枡形もお見通しです。

太鼓櫓跡
駆逐艦「追風」のマスト
上から見た下乗橋
上から見た黒門枡形

枡形に戻って、ここから御殿跡に進みます。大体、右側が表御殿、左側が奥御殿だったとのことです。御殿跡の奥の方には、徳島城博物館があります。

御殿跡
徳島市立徳島城博物館

御殿の建物はなくても、その庭園が残っています(旧徳島城表御殿庭園)。国の名勝に指定されていて、手前側が枯山水の庭園になっています。すごく長い石橋があります。10メートル以上あるそうです。奥側は築山泉水という水を取り入れた庭園になっていて、2つの異なる様式が組み合わされています。桃山時代の武将茶人、上田宗箇が作庭したとされています。

庭園入口
枯山水部分
築山泉水部分

それでは、御殿跡から、石垣の合間を歩いて、城山に向かいましょう。

城山に向かいます

本丸のある城山を登る

城山の端にやってきました。なんとここには縄文時代の貝塚の遺跡があるのです。そんなに前から人がここで活動していたのです。

城山の貝塚遺跡

ここが、山上への入口です。なにか別のお城に行くみたいです。

山上への登り口

では、登っていきましょう。階段はよく整備されています。途中には、山の岩と石垣が混ざっている感じの場所があります。本格的な石垣もあります。

石垣と岩が混在しています
本格的な石垣も見えます

ここが東二の丸です。天守があった場所です。向こうに天守跡があります。当初本丸にあった天守が、中腹に移されたという珍しいケースです。その理由として、老朽化とも、幕府への遠慮とも言われましたが、拡大した城下を見下ろす位置に移動したという意見もあります。そこからは、街並みと海も見えます。

東二の丸
天守跡からの眺め
街並みと海も見えます

もう次は本丸です。古そうな石垣が続きます。

本丸の石垣

本丸に着きました。天守や御殿が移動した後の本丸は、番所・櫓などが残りました。今は広場になっています、

本丸
かつての本丸の様子、現地説明パネルより

最初の天守はどこにあったかというと、弓櫓跡にあったと考えられています。でも、ここにいるだけだと、ピンときません。では、逆側から本丸に登ってみましょう。

弓櫓跡

西三の丸に入るところから再スタートします。枡形になっています。続いて、西二の丸に入ります。石垣が立派になって、しかもここも枡形です。更に脇には、帳(とばり)櫓が控えていました。

西三の丸への入口(虎口)
帳櫓跡から見た西二の丸入口

そして、再度の本丸突入です。当初の天守台と考えられている弓櫓跡の石垣が来ました。これは大迫力です。本丸入口も、大きな石が散りばめられています。「鏡石」ということなのでしょう。今歩いたルートが、当初の大手道だろうとも考えられています。

当初の天守台と考えられる弓櫓石垣
本丸入口の石垣
大手道だったと思われる本丸入口(西側)

後回しになりましたが、本丸からの眺めをチェックしましょう。ここからは、山が見えます。徳島のシンボル、眉山(びざん)です。次は、この山を登ります。

本丸からの景色(眉山)

眉山に登って海を感じる

眉山を登るのに、今回は奮発して、片道だけロープウェイを使うことにしました。

山麓駅は阿波踊り会館のところにあります
ロープウェイ乗り場

どんどん登っていくと、景色がよくなってきます。

ロープウェイ中からの眺め

山頂駅に到着しました。さっそく景色を楽しみましょう。素晴らしい景色です。徳島平野や、吉野川まで一望できます。そんな中でも城山は目立っています。

ロープウェイ山頂駅
山頂駅からの眺め
城山

それより少し上の展望台からだと、また一味ちがいます。今度は、平野や川の向こうの海が良く見えます。徳島が、海に開かれているということが、わかっていただけると思います。

展望台周辺
展望台からの眺め

ところで、帰りはどうするのかというと、山頂部の眉山公園の案内図で見ると、山頂駅の反対側に、家祖・蜂須賀小六正勝の墓があります。そこを下ると、歴代藩主の万年山墓地というのがあり、そこに行こうと思います。お殿様の墓は、寺にあるのが普通ですが、十代藩主・蜂須賀重喜が儒教式に改めたのです(仏教式も併存)。

眉山公園の案内図、山頂駅は右側、蜂須賀小六正勝の墓は左側
蜂須賀重喜肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

公園の駐車場や、お花見広場を越えていきます。

眉山公園駐車場
お花見広場

墓の入口から、入っていきます。亡くなった大坂の地から、移されたとあります。お参りを済ませたら、裏手から下っていきます。

蜂須賀小六正勝の墓への入口
蜂須賀小六正勝の墓

ところで、墓所を作った蜂須賀重善はどんな人だったのかというと、秋田の佐竹氏から養子に来て、当時大借金を抱えていた徳島藩で改革を始めた藩主です。この墓所も、その改革の一環で作ったのです。下っていくとすごい岩があって、文字が刻まれています。重喜が建てた「万年山墓域碑」です。

万年山墓域碑

その下に、重喜の子・治昭の墓所があって、その向こうの見晴らしのいい場所に、重喜自身の墓所があるのです。

十一代藩主・蜂須賀治昭の墓

ところで、重喜改革はうまくいったのかというと、人材登用など改革が急すぎて、幕府から強制隠居させられたのです。改革の成果が出たのは、さっきの子の代になってからだったそうです。悲劇のヒーローだったのです。

蜂須賀重喜の墓

彼の墓の周りにもお墓がいくつもあります。側室たちや、夭折した子どもたちのお墓も、一緒に設けられているのです。これらは、歴史に埋れがちな人たちの歴史史料にも       なっています。今でも家族と一緒に、徳島を見守っているということです。

重喜側室・三浦民崎の墓
重喜五男・義功の墓
墓所からの眺め

ひょうたん島を巡る

最後のセクションでは、ひょうたん島を囲む川の一つ、助任川にかかる福島橋にやってきました。お殿様が参勤交代のときは、鷲の門からここまで来て、川に乗り出したそうです。川の街道だったのです。

福島橋

それから、上流の徳住橋辺りから、当時の松並木が残っています。橋のたもとは「雁木広場」と呼ばれていますので、ここからも舟が出たのでしょう。川沿いには石垣も築かれ、城の外郭という位置づけでした。ひょうたん島が防衛ラインだったのです。

雁木広場
藩政時代の松並木

河口の方に進みましょう。参勤交代のお殿様は、沖合で小舟から御座船に乗り替えたそうです。今度は海の道を進んだのです。そういえば、高松城のお殿様も同じようにしました。飛行機も連絡橋もない時代だったのです。

助任川の河口近く
徳島藩の御座船、現地説明パネルの右側

河口を折り返して、新町川に入ります。船がたくさんあって、海を感じることができます。眉山も正面に見えて、そろい踏みです。かつて新町川沿いには、藍商人の蔵が並んでいて、川側にも出入り口が開いていて、雁木と呼ばれる石造りの船着場から、大坂に向けて、舟で藍玉(染料)を出荷したそうです。水面の下に見える、石垣みたいのがそれなのかもしれません。

新町川河口部に並ぶ船と、背後には眉山
新町川沿い
新町橋周辺

万年山のところで出てきた、蜂須賀重喜は、藍玉が大坂商人に買いたたかれないよう、徳島に大市を開こうとしましたが、やはり実現するまで時間がかかりました。しかしそれが実現し、お客と取引が成立したとき、藍商人たちは、祝杯を上げ、そこで、踊りを踊ったそうです。これも、阿波踊りにつながったのでしょう。新町橋を渡って、駅の方に向かいます。なんとそこでは、阿波踊りをやっていました!イベントでのお披露目に、たまたま当ったのです。城めぐりの、最高の締めくくりでした。

新町橋
「徳島学生合同連」の阿波踊り

リンク、参考情報

徳島城博物館、徳島市
とくしまヒストリー、徳島市公式ウェブサイト
・「史伝 蜂須賀小六正勝/牛田義文著」清文堂出版
・「歴史群像132号記事、戦国の城 阿波徳島城/福永素久著」学研
・「徳島から探求する日本の歴史/地方史研究協議会編」文学通信
・「よみがえる日本の城13」学研
・「徳島藩駅路寺制に関する一考察/衣川仁著」徳島大学機関リポジトリ
「「徳島の文化を学ぶ」徳島大学オンライン講演会 第3回 徳島の歴史と文化」Youtubeテレビトクシマ公式チャンネル
「マジすか?蜂須賀!2時間スペシャル」YoutubeJRT四国放送公式チャンネル
「徳島城博物館・旧徳島城表御殿庭園」Youtubeディスカバー徳島

「徳島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

172.三原城 その2

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ(海城・三原城めぐり)

Introduction

前回の新高山城跡見学に引き続いて、三原駅に着いたところです。駅には、三原城の素晴らしい絵が飾られていて、気分が盛り上がります。すぐ近くには三原観光協会があって、情報収集もできます。

三原駅前に飾られている「絹本著色登覧画図」(複製)

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

かつてのフロントラインを歩く

すっかり市街地になったといっても、意外と海城の形は残っているのです。昔の絵図を見ると、本丸と二の丸が堀に囲まれていますが、そのラインを、街の中に追ってみようと思います。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

駅前広場から通りを渡って、右側にある通りが、大体そのラインに沿っています。ということはこの通りはお堀だったのです。と思っていたら、堀が残っています。実際は、通りを含めてもっと幅が広かったのでしょう。お堀沿いには石垣も残っています。

駅前の通りを渡って右に進みます
最初に入れる通りへ左折します
通りには堀と石垣が残ります(一部復元)

説明パネルがあって、本丸中門跡ということです(「二の丸中門」ではないかという意見もあるようですが)。ここは、西側に張り出した二の丸の一部から渡れるようになっていたのです。限られた出入口の一つでした。今も施設の出入口として使われているところがいいです。

本丸中門跡

お堀を追って行きましょう。堀が切れた角のところに、石碑があります。「三原城 臨海一番櫓跡」とあります。ネーミングのおかげで、ここが曲輪の端で、この先が海だったことがわかります。ということは、ここを曲がった通りは、海に面した曲輪のラインなのです。この歩いている道の右側がみんな海でした。そして、左側には、二番櫓、三番櫓が続いていました。このまま行くと、別の隅っこに着きます。そこが、次のご案内場所です。石垣が見えてきました。

臨海一番櫓跡
この通りが海岸のラインだったことになります
街なかに石垣が現れます

城町(しろまち)公園のところに、船入櫓跡の石垣が残っているのです。こちら方が先にできたのですが、街中に突然現れる感じがします。石垣自体は、福島時代以降に築かれたとされています。石垣のラインが折れ曲がっていいますが、ここは船入なので、敵船がきたときに、いろんな方向から反撃できるようにしたのです(横矢)。

船入櫓跡の石垣
石垣の折れ曲がっている部分

そして、なによりも面白いところが、曲輪の南東の隅に当たる場所にあります。石垣の石ではなさそうな岩があります。これは、元からあった岩礁なのです。ここは元あった島の一つ(小島)で、残っているこの岩礁がその証拠なのです。その周りも少しお堀として残しています。

曲輪の南東隅に向かいます
かつての「小島」時代から残る岩礁

明治時代に撮られた古写真と比べると、今は全然違う様子ですが、この岩だけは、島だったとき、城だったとき、周りが市街地になってからも生き残ったのです。

明治時代の周辺の古写真、現地説寧パネルより

まだ残っていた船入

船入櫓の傍らには、船が入れる「船入」があったのですが、今は、岩礁の廻りのこの細い堀を残して、埋められてしまっています。でも実は、この奥の方に船入の一部が残っているのです。行ってみましょう。

船入櫓跡周辺の現況

通りを少し歩きます。かつては、大体この左側が船入でした。左に曲がって、ずっとまっすぐ行くと、突き当りのところに水辺があります。錦鯉が泳いでいます。ここがわずかに残っている船入なのです。一部とはいえ、船が入ったところだとわかります。向こう側の岸は、二の丸への入口から、曲輪の東側のラインが残ったものです。

石垣の前が船入でした
この先を左折します
わずかに残る船入

そのラインの先は船入櫓跡になっていて、石垣の上も公園になっています。そこにも行ってみましょう。今いるところは行き止まりになっているので、少し戻る必要があります。一旦三原駅の方に向かいます。案内があるので、斜めの道に入っていきましょう。

三原駅前の方に行きます
案内があるので、脇の道に入ります

また船入が見えてきて、この辺からまた曲輪のラインに沿っています。登って行く感じが、島っぽくていいです。門がお出迎えで、入ってみると、垣根に囲まれた何気ない空間です。

船入沿いに進みます
門がお出迎え
船入櫓跡

しかし周りと比べると随分高くなっています。しかも昔は周りは海だったのです。櫓があったらしい場所もあります。角地の下が例の岩礁です。ここも島時代から、現代に生き残っているのです。

櫓跡から石垣を見下ろしています
櫓の建物跡か
この下に先ほど見た岩礁があります
下に見えるのは別の岩礁のようです

最大級の天主台を見学

後半は、天主台を中心にご案内します。また駅前に戻っています。ここが本丸だったので、スタート地点にはちょうどいいです。今度は駅の反対側にいきます。また石垣が見えます。駅をくぐっている間にあるのが本丸の石垣で、出たところに現れるのが、小早川隆景が築いた天主台です。この隅の石垣の積み方がなんともかっこいいです。

駅前から左側に見える通路を進みます
天主台は駅の北側にあります
手前が本丸の、奥が天主台の石垣

こちら西側の石垣は、その特徴から、隆景の時代に積まれたと考えられています。「あぶり積み」という方法で積まれています。通常は石の広い面を寝かせて積むのですが、この方法では広い面を表に出して積んでいるそうです。安定的ではないので危険な積み方とも言われるのですが、今でも健在です。当時としては最高レベルの職人技だったのでしょう。高さは約13メートルで、堀から直接積み上げる石垣としては最古級とのことです。

天主台西側の石垣、背景は桜山
天主台石垣の北西側


北側正面から見た天主台です。駅と一体化している姿も、定番になってきたように思います。その近くに、一部復元された後藤門石垣というのがあります。城の南側が海だったので、北側に西国街道が通り、その途中に後藤門があったのです。

天主台石垣の北側
後藤門石垣(一部復元)

石垣を越えから見える天主台東側は、福島時代の改修または増築なのだそうです。隅の算木積みの積み方を比較すると、新しい福島時代方が整っているとのことです。

天主台石垣の北東側

これぞ「城の駅」

最後のセクションでは、駅から天主台の上に登ってみましょう。「城の駅」を堪能します。先ほど通った駅前から天主台への通路の途中から、駅構内に入っていきます。右側が改札ですが、私たちは左に曲がって、階段を登ります。天主台の案内があります。向こう側に見える絵は、海に面した城の姿でしょう。

天主台に向かう途中を右折して駅構内に入ります
左側が天主台方面、右側が改札方面
天主台入口案内

ここが入口のドアです。ドアを開け閉めして階段をまた上がります。天主台上に到着です。ゴツゴツした感じがして、ここも島だったという雰囲気があります。実際、新幹線の工事のときに、島を削って造成したことがわかったそうです。

天主台へのドア
天主台の上に到着
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示

周りを歩いてみましょう。天主台というより、曲輪という感じもします。実際に隅には櫓が3基ありました。駅に一番近いところに一基、そこから離れていって、北西隅のところに一基、元々城があった桜山を見ながら、進んだ先の北東隅にも一基あったのです。

天主台の中心部
駅に一番近い櫓跡
北西隅の櫓跡
北東隅の櫓跡、桜山も見えます

「城の駅」らしさをもっと体感してみたければ、新幹線が通り過ぎたり、発着するのを眺めましょう。

登りの「のぞみ」が三原駅を通過するところ

関連史跡

他の見どころも少しご紹介します。まず「水刎(みずはね)」です。昔の絵図で見ると、堀と一緒に外側の川(和久原川)が曲げられているところで、水の流れを緩やかにするために築かれた石垣です。

水刎

それから城の西の方、西国街道沿いのかつての城下町には、今も古い町並みが残っています。

西国街道沿いに残る旧家

その周辺には、三原城から移されたと伝わる門(順勝寺山門)や、新高山城から移されたと言われる門(宗光寺山門)があります。宗光寺山門については、建物の形式からは、福島時代に建てられたとも考えられるそうです。

宗光寺山門

私の感想

最期は、三原港に来てみました。意外と駅から近いところにあります。残っている史跡をめぐってみて、海城・三原城を想像することができました。それに昔、島だったところが、天主台や櫓跡として市街地の中で残っているのを見て、先祖返りしたようにも思えました。自然の地形が、ずっと今の町の姿にも影響しているのです。

三原港

リンク、参考情報

三原城跡、三原観光navi(三原観光協会)
中井教授インタビュー、三原市
戦国ジジイ りりのブログ
まっつんのブログ 明るく楽しく元気よく!
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「三原城本丸大広間についての考察 /佐藤大氏論文」 広島大学学術情報リポジトリ

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「新高山城 その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

error: Content is protected !!