79.今治城 その2

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

イントロダクション

今治港に来ています。港湾都市らしく、立派な建物があります。海城を感じてみたいので、最初に来てみました。船がいるところに移動すると、ヨットなどが並んでいます。実は、ここはもう今治城内だったのです。中堀の船入だったところが、港の一部になっているのです。さすが今治です。しかも、残っている内堀は、こちらから取水しているのです。ここをカギ型で曲がる道路も、城の名残りのような感じです。天守も見えます。

みなと交流センター「はーばりー」
今治港
港から内堀への取水口
振り返ると天守が見えます

今回は、港をスタート地点にして、今治城に入城しましょう。そうすれば、海城らしさを感じられると思います。城の中心部分は、現在の天守がメインになりますが、当時の痕跡も探してみましょう。その後が、高虎築城術の神髄で、再建された櫓群を巡ってみます。最後は、内堀の外側を歩いてみます。今残っている範囲で、高虎築城術を感じられそうです。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴・見どころ(海城と高虎築城術を感じるツアー)

海城を感じつつ入城

城周辺の航空写真

まず、道路を気を付けて渡ってから、内堀への水路を追ってみましょう。

内堀への水路

今治城に出ました。やはり、広い堀に城の姿が映えています。内堀には、魚も放流されているそうです。

水路から出たところ
内堀に浮かんでいるような今治城
「魚放流」の看板

それでは城の入口に向かいましょう。ずいぶん長い橋を渡ります。内堀を渡る土橋です。その手前の場所は、その土橋に接続された馬出しでした。その馬出しには、両側に枡形が備えられていました。今は何気ない城の入口が、そんな厳重な場所だったなんて、信じられません。

城の入口(土橋の前)

土橋を渡りましょう。渡っている間には、内堀と石垣を支える犬走りが見えます。

内堀と犬走りに支えられた石垣

復元された鉄御門(くろがねごもん)の枡形に入っていきます。枡形なので、手前に高麗門もあったのですが、ここは車も通りますので、そこまで復元しなかったのかもしれません。

鉄御門の枡形
枡形についての現地説明パネル
車も通ります

それでも、迫力は十分ですし、正面に巨石がはめこまれています。これは「勘兵衛石」といい、重さ約16トン、名称は築城の奉行を務めたと言われる渡辺勘兵衛にちなみます。こんなすごい枡形が、かつてはいくつもあったのでしょう。正面右側の鉄門(櫓門)から枡形を出ましょう。枡形を出ても、まだ別の櫓に囲まれています。こちらも復元された、武具櫓です。油断がなりません。中に入っていくと、天守が現れました。

勘兵衛石
鉄門(櫓門)
武具櫓
天守が見えてきました

現代の天守と当時の痕跡

現在ある天守は、1980年に鉄筋コンクリート造りで再建されたものです。位置はかつての北隅櫓の位置にあり、形も層塔型でなく、望楼型風です。よって、天守の分類としては「模擬天守」に分類されています。それでも城のシンボルになっています。城の中のビューポイントは、天守だけではありません。藤堂高虎の像も立てられました。甲冑姿ではありませんが、これもいいと思います。絵になる取り合わせです。

天守と藤堂高虎公像

しかし、それ以外は中はなにもない感じです。現在は本丸周辺に神社と模擬天守がある以外は広場になっていて、当時を物語るものは、この環境で真水が出たという「蒼吹の井」くらいでしょうか。

現地案内図
蒼吹の井

ただ、もともと城の中心部は3つの方形の曲輪を組み合わせたシンプルなもので、天守がなくなってからは、二の丸に御殿があるのが目立つくらいだったようです。3つの曲輪には仕切りがありました。

城中心部の模型(今治城天守内にて展示)

それを覚えておいて、天守に向かいましょう。すると、仕切りのような石垣が残っています。本丸の入口手前の石垣のようです。ということは、現代の天守への門は、本来は本丸の門だったのでしょう。門を入ると折れ曲がって、枡形風になっています。そして、本丸には現在は吹揚神社がありますが、かつては天守があったと考えられます。かつての姿をチェックできたので、現代の天守に入ります。

天守に向かいます
仕切りの石垣の一部か
本丸御門跡
本丸にある吹揚神社

天守の入口1階は、観覧券売場と売店になります。2階から上は歴史博物館になっています。藤堂高虎コーナーも、城の絵図などもあります。「徳川家康の盃」というのも展示されていますが、藤堂氏の後の久松松平氏が家康の親戚ということで、伝来したのでしょう。

天守入口
藤堂高虎展示コーナー
「正保今治城絵図(複製)」
徳川家康の盃

最上階6階は、お約束の展望台です。どんな景色が見えるのでしょう。まず、北側です。前回行った来島海峡や、今回のスタート地点の今治港が見えます。

天守から北側の眺め

東の方はどうでしょうか。瀬戸内海の島々が見えます。

天守から東側の眺め

続けて南側です。四国の山々が見えます。高虎が当初拠点にしようとした国府山城は、真ん中辺りの小山のようです。

天守から南側の眺め

西側の眺めは、主に市街地になります。堀の広さが目立ちます。元あった天守からも、こんな眺めだったのでしょうか。現代の天守も、十分楽しみました。

天守から西側の眺め

櫓に見る高虎築城術

ここからは、再建された櫓群を巡りながら、高虎築城術を探ります。

城周辺の地図

最初は、御金櫓(おかねやぐら)です。金蔵だったのでその名前になったそうです。「東隅櫓」とも呼ばれました。現在の建物は、1985年に鉄筋コンクリート造りで外観復元されています。中は、現代美術館として使われています。

御金櫓
御金櫓(内部)

以下が外側の外観ですが、隅を守る重要な櫓なので、二階には大砲用の窓(大狭間)も設けられていました(山里櫓・武具櫓にもあり)。

御金櫓(外側外観)、大狭間は二階の下部

次は、山里櫓です。こちらも1990年に外観復元されたのですが、木造です。中は古美術館になっています。

山里櫓
山里櫓(内部)
山里櫓(外側外観)、手前は山里門

そして、最後に是非行っていただきたいのが、山里櫓から塀づたいに進んだ先の、鉄御門と武具櫓です。2つの建物は、再建時期や建て方は違うのですが、(武具櫓:1980年鉄筋コンクリート造外観復元、鉄門:2007年木造復元)中が多聞櫓でずっとつながっていて、高虎築城術でどうお城を守っていたか、わかりやすい展示になっているのです。

正面が武具櫓入口、右側が鉄御門
内部案内図
武具櫓(外側外観)

武具櫓から入っていきましょう。中から内堀などが見えたり、鉄御門の模型が展示してあったりします。鉄御門の方に進みましょう。

武具櫓(内部)
鉄御門の模型があります

鉄御門の中では、兵士のフィギアによって防御方法の展示があります。石落としなどです。また、格子窓からは勘兵衛石が見えます。

鉄御門(内部)
石落としの展示
勘兵衛石が見えます

回り込んでいくと何が見えるでしょうか。城の入口の土橋が見えます。

回り込んだところにもフィギアがいます
入口の土橋が見えます

更に回り込んでいくと、鉄御門が見えます。つまり、枡形を多聞櫓が取り囲んでいるのです。

鉄砲兵のフィギア
鉄御門が見えます

櫓はまだまだ続いていて、土橋を渡る敵を側面攻撃できるようになっていました。水も漏らさぬ防衛態勢です。

土橋を斜めからうかがえます

海の続き!内堀を歩く

内堀を見学するのに、裏門の山里門から出ていくことにします。まず、山里櫓とセットになっている山里櫓門です。

山里櫓門

階段を下るときに見上げる天守もかっこいいです。城の現役時代には北隅櫓があったので、そこからにらみをきかせたのでしょう。

階段を下りながら天守を見上げます

折り返した先にまた門があるのです。山里門(高麗門)です。これも枡形の一種でしょうか。橋を渡ると、隠居屋敷・庭園があった「山里」です。

山里門

振り返ると、以下のように見えます。裏門とは言え、抜かりはないようです。

裏門の防御態勢

少し移動して、内堀の堀端にきました。城の曲輪ががへこんでいる部分なので、堀がすごく広く見えます。ここからずっと歩いていきましょう。

内堀端(西側)

本丸の裏側が見えます。左から西隅櫓、南隅櫓がありました。

本丸裏側

南の隅に来ました。櫓がなくても迫力があります。まるで堀に浮かぶ要塞のようです。遠巻きから石垣と犬走りも観察しましょう。

内堀南隅から見た今治城
石垣と犬走りが目立ちます

東側に向かっていきます。先ほど見学した御金櫓が見えてきました。こうやって見ていると、こちらから鉄砲や矢を放っても、まともに届かないように感じます。逆に、城からは高さがあるので、そこから放つ鉄砲や矢は有効なのでしょう(石垣の高さ9~13m、堀の幅約50m)。高虎はそんなことも計算して、このお城を作ったのではないでしょうか。それこそが高虎築城術かもしれません。

御金櫓(東隅櫓)のところまできました

最終コーナーを回ります。正面の、鉄御門が見えてきました。

御金櫓のところを回り込みます
正面入口に戻ってきました

リンク、参考情報(追加分)

・「よみがえる日本の城10」学研

「今治城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

178.能島城 その2

宮窪町漁協・能島水軍の前に来ています。ここでは、地元の魚を使った料理を味わえますし、なんといっても、ここから能島上陸ツアーが出発するのです。今回は、能島城現地レポートが中心になるのですが、その前後では、最大10ノットの海峡の潮流も体験できるのです。

イントロダクション

宮窪町漁協・能島水軍の前に来ています。ここでは、地元の魚を使った料理を味わえますし、なんといっても、ここから能島上陸ツアーが出発するのです。今回は、能島城現地レポートが中心になるのですが、その前後では、最大10ノットの海峡の潮流も体験できるのです。最後の方で、向かい側にある、村上海賊ミュージアムにも立ち寄ってみたいと思います。それでは、いよいよ上陸船に乗り込みます。席についたので出発です。

宮窪町漁協・能島水軍
能島水軍レストランの料理の一例

それでは、いよいよ上陸船に乗り込みます。席についたので、いよいよ出発です。

上陸船に乗り込みます
能島荒神丸
いよいよ出発です

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

城の堀?すごい潮流

沖に出ると、見る見る島が迫ってきます。まるで軍艦島のようです。曲輪の形がはっきりわかります。

島が見る見る迫ってきます
船から見える能島

そのとなりにある島が「鵜島」です。島の間は、すごい潮の流れです。この島には、村上海賊の軍船の造船所や、メンテナンス場(焚で場)があったそうです。

鵜島
海峡の急流や鵜島の砂浜が見えます

船は能島に急接近していきます。スリル満点です。

能島に急接近します
矢びつ出丸が大写しです

城周辺の航空写真

矢びつ出丸の周辺が、もっとも激しい潮流ポイントです。まるで、川の激流です。これが、堀と同じような役割で、お城を守っていたのでしょう。しかし、この船もこの中でよく留まっていられると思います。現代の村上海賊、といったところでしょうか。

矢びつ周辺の潮流
川の流れのようで、城にとっては堀です
ここで静止状態を保てるなんてすごいです

次は「船だまり」です。島の中では潮流が穏やかな部分なので、荷揚げや船の係留に使われたとのことです。そういう場所なので、城の岩礁ピットや武者走りがよく保存されていて、船上から見学することができます。

船だまり
武者走りに残る岩礁ピット

船だまりから、海中の岩礁を避けて、一旦沖に出ます。そして再び能島に接近です。岩礁のせいか、波が浮き立つようです。現代風のポートが見えてきました。ついに上陸です。

三の丸の沖を回り込んでいます
船着き場がある南部平坦地

城の島に上陸!

それでは、上陸しましょう!島の上ではガイドさんに付いていきます。

船着き場から上陸します
ガイドさんに引率されます(南部平坦地)

上陸した場所は、島で一番低い「南部平坦地」で、城があった時から埋め立てが進められていました。荷揚げや漁具の手入れなど、作業ヤードとして使われたと考えられます。

城周辺の地図

園路に沿って進んでいきます。登ったところが三の丸で、入口辺りに礎石建物跡があって、倉庫だったと考えられています。三の丸は思ったより広々としています。他にも住居か倉庫の跡が発見されています。物見やぐら(井楼)かもしれない跡もあるそうです。

礎石建物跡のある辺り
三の丸

伯方・大島大橋の下に見えるのが、見近島です。交易の拠点だったかもしれない島です。

向こうに伯方・大島大橋と見近島が見えます

三の丸から見まわしてみると、対岸が伊予大島です。それから四阿の先には、目一つの鼻、という突端があって、鍛冶場だったという伝承があります。船だまりも見えます。

対岸の伊予大島
目一つの鼻
船だまり

次は、二の丸です。一段高いところにあります。こちらも建物跡がたくさん発見されていて、やはり住居か倉に使われたのではないかとのことです。特に三の丸と接続するところで、高級な海外製陶磁器が見つかるそうです。お宝をしまう蔵だったのでしょうか。

二の丸
能島城で出土した高級陶磁器、村上海賊ミュージアムにて展示

二の丸は、本丸をぐるりと取り囲んでいます。本丸の脇を歩いていることになります。

本丸を取り囲んでいる二の丸

北東隅の「矢びつ」出丸が見えるところまで来ました。矢びつ(櫃)とは、矢を入れる道具の意味なので、武器庫があったと言われていますが、建物の跡ではなく、一列に並んだ杭の跡があったそうなので、弓矢の練習場ではないかとも言われます。それに、矢びつの周りは、来るときに見た、激しい潮が流れています。上から見ても、そのすさまじさがわかります。

二の丸から見た「矢びつ」出丸

本丸で当時を感じよう!

次はいよいよ本丸です。本丸への階段を登ります。本丸についてみると、鵜島の向こうの海峡(船折瀬戸)を行く船までよく見えます。

本丸への階段
船折瀬戸に向かう船

本丸は、城で標高が一番高いところで、約25メートルあるのですが、自然の島の頂上を10メートルほど削って整地したそうです。建物跡が発見されていて、物見やぐらだったかもしれません。

本丸

しかし、今のままでも、周りの海峡や島々が一望できます。360度パノラマビューです。本丸からは面白いものが発見されています。大量の「かわらけ」です。かわらけとは、儀式や宴会で使われた、使い捨ての素焼きのお皿です。満天の星の下、海賊たちがここで宴会を楽しんでいたかもしれません。

本丸からの眺め(北方向)
本丸からの眺め(南方向)

次は、東南出丸です。その先に鯛崎島があって、かつては橋でつながっていたという伝承があります。ここでも、かわらけが出土しているのですが、ここで地鎮祭が行われたと考えられています。

東南出丸から見た鯛崎島
鯛崎島と橋でつながれた能島城の想像図、村上海賊ミュージアムにて展示
東南出丸から出土したかわらけ、村上海賊ミュージアムにて展示

下の方を見ると、岸が人工的に加工されています。武者走りでしょうか、岩礁ピット含め、島を囲んでいるようです。まさに島中が城だったのです。

東南出丸の下に見える武者走りか

わたしたちの上陸地点(南部平坦地)も見えてきました。そちらに向かって戻ります。その途中で、当時の城内通路の遺構を見ることができます。船が迎えにきました。

答案出丸から見た南部平坦地
帰り道
城内通路の遺構
帰りの船

また潮流を感じて帰還

能島を離れます。すごい快速で、すぐに鯛崎島まで来てしまいました。この周辺も潮流が複雑で、その流れが海の芸術のようです。

船着き場を離れます
能島(奥)と鯛崎島(手前)
鯛崎島周辺の潮流

鯛崎島にはお地蔵様がいて、そのお地蔵様が魚たちと、干潮で動けなくなったクジラを救った「クジラのお礼まいり」という民話があります。島の上には弁天様もいます。

鯛崎島の石地蔵

最後の潮流ポイントに向かいます。そこは、愛媛県有数の漁場なのだそうです。能島水軍レストランで出る魚もここでとれるのでしょうか。渦のような潮流が沸き上がる海面に、空の雲が映って、なんとも言えない絵柄です。そうこうするうちに、港に帰って来ました。

最後の潮流ポイントへ
幻想的な海面
港に帰還

関連史跡

近くにある村上海賊ミュージアムにもきてみました。外に、復元された小早船があります。海賊が使った小型船のことで、なかなかかっこいいです。中の展示も充実しています。例えば、岩礁ピットと武者走りについての展示があって、上陸ツアーと一緒に見ると、とても勉強になります。

村上海賊ミュージアム
復元された小早船
岩礁ピットと武者走りについての展示

更に、芸予諸島の要所の一つ、来島海峡に行ってみました。ここも素晴らしい景色です。ここにも村上海賊がいて、来島村上氏の本拠地がありました。それが来島城で、城があった島も一緒に眺めることができます。今でも人家があって、その代わり、史跡らしくはないようです。すぐに出動できるところに城があったことだけはわかります。

来島海峡
来島城跡

リンク、参考情報(追加分)

・「村上水軍全史/森本繁著」新人物往来社
・「村上水軍全紀行/森本繁著」新人物往来社
・「史跡能島城跡 保存活用計画/令和2年3月」今治市教育委員会

「能島城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

41.駿府城 その2

西郷・山岡会見の史跡碑から駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション(江戸開城の影の功労者・山岡鉄舟)

駿府城の現地案内のスタート地点として「西郷・山岡会見の史跡碑」を選びました。江戸開城が決まった勝・西郷会見は有名ですが、実はそれに先立つ駿府での西郷隆盛と山岡鉄舟の会見も、江戸開城につながる重要な歴史イベントだったのです。

西郷・山岡会見の史跡碑

山岡鉄舟(生年:1838年~没年:1888年)は、幕府旗本で剣の達人でもありました。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に戻っていた徳川慶喜の警護役を務めていました。慶喜は恭順の意を示していましたが、新政府軍は慶喜を討伐する方針でした。そこで慶喜は、近臣の高橋泥舟の推薦する鉄舟を、改めて恭順の意を伝える使者として抜擢しました。鉄舟は初対面の主君に対し「謹慎しているのは偽りではないか」と問いただしました。真実であると確認すると、この使命に命をかける覚悟をしました(下記補足1)。

(補足1)わたしは旧主(慶喜)に「今日の切迫した時勢において、恭順をお示しになるのはどのようなお考えによるものなのか」と問うた。旧主は、「自分は朝廷に対して公正無二の赤心をもって謹慎しているといえども、朝敵として征討の命が下った上は、とても生命を全うすることはかなうまい。これほどまでに衆人に憎まれてしまったことは、返す返すも嘆かわしいことである」と言って涙をこばされる。わたしが旧主に「何をそんな弱気でつまらぬことを言われるのか。謹慎しているというのは偽りではないのか。何かほかにたくらんでいることがおありではないのか」と言うと、旧主は「自分にふたごころはない。どんなことであっても朝廷の命令に対しては背かない無二の赤心があるだけである」と言われるので、わたしは次のように断言した。「真の誠意をもっての謹慎であられるならば、朝廷にしっかりと届かせて、御疑念を氷解していただくのは当然のことです。鐵太郎が、そこのところは確かにお引き受けし、必ずや赤心が届くように力を尽くします。鐵太郎が目の黒いうちは、決して御心配には及びません」と。(山岡鉄舟「慶應戊辰三月駿府大總督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳、「最後のサムライ 山岡鐵舟」より)

山岡鉄舟(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

鉄舟は、勝海舟から付けられた薩摩藩士とともに敵地となった駿府に乗り込み、西郷と会見したのです。西郷は鉄舟を確かな人物と見込み、和議の5条件を提示しました(山岡鉄舟本人の手記による)。
1.城を明け渡すこと
2.城中の人数を向島に移すこと
3.兵器を渡すこと
4.軍艦を渡すこと
5.徳川慶喜を備前へ預けること

鉄舟は、最後の慶喜を他藩に預ける条件だけは承服できませんでした。「朝命である」とすごむ西郷に対し、鉄舟はもし逆の立場だったら主君を差し出すのかと反駁し、撤回させたのです(下記補足2)。このやり取りがベースになり、勝・西郷会見と江戸開城が実現したのです。西郷が江戸に乗り込んだときには、鉄舟は西郷の警護役になりました。

(補足2)「主人の慶喜一人を備前へ預けること、これは決してなすべきではありません。というのも、そうなった場合には徳川に恩顧を受けた家臣たちが決して承知をしないからです。つまり、合戦が起こり、いたずらに数万の生命が失われます。これは天子の軍隊のすることではありません。そうなってしまっては先生は単なる人殺しでしかありません。(略)」と答えると、西郷氏は「朝命です」と言う。わたしはきっぱりと、「たとえ朝命であっても、わたしとしては、決して承知するわけにはいきません」と言う。西郷氏は語気を強めて、再び「朝命です」と繰り返す。わたしは、「ならば先生とわたしとその立場を入れ替えて少し考えてみましょう。先生の主人である島津公が、もし間違って朝敵の汚名を着せられながらも、官軍が征討に向かう日には恭順謹慎しており、しかも先生がわたしと同様の任にあって主家のために尽力している時に、主人の慶喜に対するがごとき処置の命令が朝廷から下ったら、先生はその命令を謹んでお受けになり、さっさと主君を差し出して安閑としていることを、君臣の情、先生の義というものからみてどうお考えでしょうか。このことは、轍太郎には決して忍ぶことのできないことです」と激しく論じる。西郷氏はしばらく黙然としていたが、口を開くと、「先生の説はもっともなことです。徳川慶喜殿のことについては、この吉之助が確かに引き受け、取り計らいます。先生にはご心痛には及びません」と約した。(同上)

この史跡碑は旧東海道沿いにあるので、ここから駿府城に向かい、大手門跡に入っていきます。それから、復元された東御門・巽櫓を見学して、いよいよ話題の天守台発掘現場に向かいます(発掘現場は2025年12月で一旦公開終了、今回内容はそれ以前に訪問したもの)。その後は復元された坤櫓などを回ってみます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ

東海道から駿府城入城

それでは、史跡から東海道を駿府城に向かいましょう。でも実は、東海道とはすぐお別れなのです。東海道と反対側の三の外堀(外堀)に行きます。全部ではありませんが、残っているのです。堀沿いを歩いていくと、城に行くのに便利な城代橋があるのですが、今回はオリジナルの登城ルートをたどってみようと思います。すごい石垣が張り出しています。この先が、大手御門跡になります。大手門の周りだけあって、堂々としています。背後にそびえるのは静岡県庁舎別館です。現代の天守のようです。

城周辺の航空写真

左側に曲がると東海道の続き、右側に行くと駿府城
三の丸堀(外堀)
城代橋(明治時代設置)
石垣の背後にそびえる静岡県庁舎別館

大手御門跡の前まで来ました。大手御門から、二の丸御門、御玄関前御門と進むのが、正規の登城ルートでした。今でもバンバン車が通っていて、県庁の正門みたいになっているのでしょうか。すごい枡形で、この上に建っていた門の建物も巨大だったのでしょう。枡形を抜けると、二の丸堀(中堀)に突き当たります。

大手御門跡
正規の登城ルート(駿府城東御門内)
大手御門の枡形
二の丸堀に突き当たります

二の丸御門は左の方になりますが、この門跡は通ることができないのです。この門跡は、戦後の国体開催のときに埋められて、別の場所に橋がかけ替えられました。その二の丸橋を渡ります。そして左手の方に、二の丸御門の枡形が残っているのです。袋小路かと思ったら、入口をふさがれた枡形だったのです。

二の丸御門跡(表側)
二の丸橋
二の丸御門の枡形(内側)

最後の御玄関前御門は、残念ながら案内があるだけです。中心部はかなり整地されてしまいましたので仕方ありません。でも、場所がわかっただけでも良かったです。

御玄関前御門跡

復元された門・櫓を見学

次は、中堀の前に戻って、復元された建物の方に行きましょう。巽櫓に近づいていきます。どっしりとした構えです(二重三階、平面は珍しいL字型)。大砲の標的にならないよう、こういうスタイルになったそうです。

復元された巽櫓

巽櫓からつながる東御門に行きましょう。この県庁をバックにした図柄は、好みがあるかもしれません。個人的には天守があるみたいで好きです。

県庁をバックにした東御門

東御門の高麗門から中に入ります。外からの攻撃に耐久性が高い内枡形です。そして右側の櫓門から枡形を出ます。

東御門(正面)
高麗門
枡形
櫓門

門と櫓の内部は公開されていますので、入ってみましょう。まず東御門ですが、多聞櫓にも囲まれていて、結構広いのです。防御の仕組みが分かるようになっていて、フィギアのところに石落としがあります。

門と櫓への入口
駿府城模型の巽櫓・東御門部分(駿府城東御門内)
櫓門内部
石落とし

それに、資料館としてもかなり充実しているのです。例えば、櫓門の中に大きな城の模型があったり、門の正面の多聞櫓の中に、今川時代から大御所時代までの歴史展示があったりします。

駿府城模型(駿府城東御門内)
今川時代の展示(駿府城東御門内)
格子窓から見た枡形

曲がった先の多聞櫓では、幕末までの歴史です。鉄砲を撃つフィギアもいます。巽櫓に行っても、展示は続きます。なんと、天守台発掘調査現場の模型まであります。そして二階には、復元された「竹千代手習いの間」があります。

鉄砲を撃つフィギア
巽櫓へ
天守台発掘調査現場の模型
復元された「竹千代手習いの間」

建物から出たら、本丸堀(内堀)に行ってみましょう。埋められてしまったのですが、一部掘り返されて、見学できるのです。石垣も見えます。

本丸堀
本丸堀の石垣

次は二の丸水路です。本丸掘と、二の丸堀をつないで、水位調整を行っていました。

二の丸水路

いよいよ天守台へ

そして、いよいよ天守台です。近くで家康公もお出迎えです。

天守台発掘調査現場に向かいます
徳川家康像

広大な現場です。緑のコーンが慶長期、赤のコーンが天正期、黄色のコーンが今川期の遺物を表しています。

天守台発掘調査現場のほぼ全景

別の図(下記)も使いながら、天正期天守台(赤いライン)からご案内します。南側の天守台出入口を見ながら、大天守台の南東隅をかすめていくという感じです。緑のコーンもあるので、慶長期のものとかぶっています。

天守台模式図(駿府城東御門内にて展示)
天正期大天守台南東隅付近

見学ゾーンの端まで来ました。手前の石垣が目立っています。東側に面した石垣で、野面積みです。ここから、北東隅、北西隅を示すコーンが見えます。古い方の天守台でもかなり大きかったのです(東西約33m、南北約37m)。家康が豊臣大名時代に築いたものなのでしょうか。

天正期大天守当面の石垣
丸い形の自然石(あるいは粗割り石を使った野面積みです

続いて、慶長期天守台の方に向かいます。小天守台の石垣が見えます。途中では、天正期の金箔瓦が出土したところや、本丸西側の石垣を回り込んでいきます。すると、巨大な天守台が姿を現します。

慶長期小天守台東面の石垣
天正期の金箔瓦出土地点
慶長期本丸西側の石垣
慶長期大天守台南面の石垣

巨大でもあるし、石の形も整えられています。南東側は、地震があって積み直したので、より新しい方式(切り込みハギ)になったそうです(東西約61m、南北68m)。

慶長期大天守台南西隅

北側に向かって歩きます。北西隅まで来ました。先ほどの南西隅より石の形が粗くなっています。こちらは家康時代のオリジナルとのことです。

北側に向かっています
慶長期大天守台北西隅

そして、見学ゾーンの北の端まで来ました。見えているのは、北側の石垣です。ちょっと上を見ていただくと、ポールが立っています。かつて、天守台はあの高さまであったそうです(地上12m、堀水際から19m)。

慶長期大天守台北面の石垣
かつての天守台の高さを示すポール

最後に興味部会ものをお見せします。本丸掘から出た石、とあります。天守台を崩して、堀を埋めるのに使われたのです。元は天守台にあったということです。何とか復元できないかと思ってしまいますが、とんでもないパズルになってしまうでしょう。当面は、現状の天守台の展示施設を作るということです。

石置き場にあるかつて天守台を構成した石たち

まだまだある見どころ

次は復元された坤櫓です。内側にも格子窓がたくさんあるのは、敵が曲輪に侵入しても、反撃できるようにするためと言われています。内部の展示はシンプルなのですが、屋根までの木組みの構造や、床下まで見学することができます。格子窓から外を見ると、ここも角地だとわかります。

復元された坤櫓(内側)
坤櫓(内部)
二階三階の一部の床板が外されていて、木組みを見学できます
一階の床の一部がガラス張りになっています

堀の外からも見学しましょう。重要なポジションを守る櫓だとわかります。外側にはばっちり石落としもあって、かっこいいです。

坤櫓(外側)

少し足を延ばして、西側の三の丸堀を歩きましょう。立派な櫓台があります。ただ、昔の絵図でもここに建物があったかわからないそうです。三の丸堀は残っているだけでも相当長そうです。近くには、城を警備した加番の屋敷跡の一つがあります。

三の丸堀にある櫓台
三の丸堀(南から北に向かって)
二加番屋敷跡

最後は、二の丸に北御門から入ってみましょう。入ったところに、土塁の上を歩ける遊歩道があるのです。内側は紅葉山庭園になっています。北東の角地を過ぎて進んでいきます。こうやって見ると、城の土塁をずいぶん高くしてあることがわかります。こちら側は標高が低いということなので、かなり盛ったのでしょう。さっき見た二の丸水路のところに出ました。駿府城、歩いただけ新たな発見がありそうです。

北御門跡
土塁の上の遊歩道
柵の向こうの紅葉山庭園
二の丸北東隅
堀や道路を見下ろしています
二の丸水路に至ります

最後は静岡県庁舎別館、21階富士山展望ロビーに行きます。現代の天守に登れるのです。まず、今日行った駿府城を確認しましょう。ここからでも天守台の巨大さがわかります。富士山の方はどうでしょうか。ガラス越しになりますが、よく見えました。

あの高いところに登ります
展望ロビーからの眺め(北側)
発掘調査現場
富士山

リンク、参考情報

駿府城公園、公式ウェブサイト
・「駿府城まるわかり(駿府城ガイドブック)」静岡市
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「静岡の城/加藤理文著」サンライズ出版
・「歴史群像129号 戦国の城 駿河駿府城/樋口隆晴著」ONE PUBLISHING
・「シンポジウム 今川館の姿にせまる 資料集」静岡市
・「最後のサムライ 山岡鐵舟」教育評論社
・「山岡鉄舟 決定版/小島英記」日本経済新聞出版社
・歴史秘話ヒストリア 「駿府城大発掘!家康VS.秀吉 知られざる攻防」2019年放送
Youtube「小和田哲男:今川「人質」時代、徳川家康の実像を物語る3つのエピソード」テンミニッツ・アカデミー – 1話10分で学ぶ大人の教養講座

「駿府城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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