207.西方城 その2

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

ここに行くには

今回は、栃木県栃木市の西方に来ています。一面に、青々とした田んぼが広がっていますだ。ここは、昔から「西方五千石」といわれる米どころで、今はイチゴの産地でもります。この美田につながる用水を開いたのも藤田信吉と言われています。そして向こうに見えるのが城山で、西方城があったところです。西方を象徴する景色と言えるでしょう。

城山を背景にした西方の田園風景

西方城跡への道のりはわかりにくい所もありますが、山に近づいたところで案内表示を見つけていただければ、高速道路をくぐって駐車場がある城跡登山口まで着けると思います。

西方城跡への案内表示
高速道路下を進みます
登山口にある駐車場

特徴、見どころ

Introduction

内容としては、山頂部の方がメインとなりますが、登り・山上・下り、それぞれに見どころがありますので、山城の技巧をたっぷりとご紹介します。そして最後に、藤田信吉が陣屋を置いた通称「二条城」にも行ってみましょう。お城の守り本尊が置かれた開山不動尊がゴールになります。

「西方城址散策マップ」、栃木市観光協会ホームページより

城の防御システムの中を登る

登山道は、長徳寺というお寺の脇から登って行きます。谷筋の斜面をまっすぐに登って行きますが、葉っぱが積もって滑りやすくなっている場所があるかもしれないので気を付けましょう。曲がっているところは、竪堀の一部分だったようです。城に着く前から随分厳重です。竹林がきれいなので、こういうのも楽しみましょう。

登山道に入ります
谷筋を進んでいきます、落ち葉が滑りやすいので注意
竪堀だったと思われる部分

そのうち、伏兵が潜むような穴が現れますが、炭焼の跡だそうです。続いて分岐点がありますが、案内の通り右に行きましょう。

炭焼跡
分岐点

道が急に、しかも谷底を通る感じになってきました。しかも曲げられています。:ここは、竪堀そのものだったのです。敵だったらろくに身動きもできず、やられてしまいそうです。

屈曲する竪堀
屈曲する竪堀のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
竪堀の底を進みます

ようやく山の上に着きました、山麓からは約140mの高さだそうです。ここから左(南)が城の中心部ですが、右(北)も堡塁になっています。それでは、北から攻める視点と、堡塁で守る視点で見てみましょう。攻める側からすると、この堡塁には堀もあるし、ずっと回り込む必要があります。ずっと守備兵に監視されているでしょう。守備兵はいつでも側面攻撃できたでしょう。

左側が城の中心部、右側が堡塁
堡塁のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
堡塁を攻める側の視点
堡塁を守る側の視点

山の上も関門の連続

それでは、北の丸に進んで行きましょう。現在の見学者ルートは簡単にまっすぐ入れますが、城があった当時はやっぱり回り込んで入っていたようです。隅のところに櫓跡もあります。ここから本丸に行きつくのに、何段階も関門があるのです。

北の丸入口
櫓跡
北の丸内部

進んで行くと、次の曲輪(郭3-1)への入口があります。最初から折れ曲がっています。そして、細長い通路を歩きます。曲輪に入るときも、また折れ曲がります。これを曲輪の土塁からみたらどうでしょうか。これまたお見通しです。曲がったり、狭い通路を通っているうちに攻撃されてしまいます。

郭3-1への入口
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
最初の屈曲部分
細い通路を進みます
また屈曲して中に入ります
曲輪の土塁からの視点

次に進むときも、違う仕掛けがあります。入口に入るための土橋がすごく細くて、空堀に挟まれています。ここでもまた滞留してしまいます。現代のビジターは安心して進みましょう。この曲輪(郭3-1)には、ビュースポットがあります。こちらは、「西の方」なので、東の方がよく見えます。東の方には、宇都宮氏の本拠地、宇都宮城がありました。なにかあったときは、救援隊の様子もわかったはずです。

空堀に挟まれた土橋
郭3-1からの眺め

この先は、二の丸の入口も、本丸の入口も同じようになっていて、やっと本丸到着です。敵だったら無理そうです。曲輪の中は、今までと同じように見えるかもしれませんが、本丸の土塁は、やっぱり図太いですので、歩いてみましょう。発掘調査では石積みが発見されました。歩いてみると、周りがすごく急だとわかります。本丸の西側を歩いているのですが、この先にかつては西の丸がありました(ゴルフ場開発時に消滅)。城山の山頂もこの辺りです(標高221m)。八幡宮のお社もありますので、お城めぐり安全祈願をしましょう(転ばないように、など)。

二の丸入口
本丸入口
本丸内部
本丸土塁
土塁下の急斜面
城山山頂
八幡宮

巧みな入口の造り

これから帰り道になるので、本丸の反対側から下っていくのですが、城の入口を守る仕組みがまだまだ出てきます。それでは、本丸から下っていきましょう。結構急な坂で下ったところも土塁と堀で守られています。

本丸を下ったところにある空堀

ここから先がまたすごいのです。進んだところが出丸のようになっています。そこから出る通路が曲げられていて、上の曲輪から側面攻撃できるようになっているのです。その通路の先が分岐点になっています。逆から見ると、城の南、東、西からの通路が合流している場所なのです。無茶苦茶重要な場所です。そのため、東の丸に向かっては、通路がさらに曲げられています。東の丸の方から登ってみると、またよくわかります。攻める立場になると、これは大変と思えます。

その先にある出丸
その出丸から出ている通路、右に曲がっています
通路の先が分岐点になっています
屈曲する進入路のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
出丸から通路を見た視点、側面攻撃(横矢)ができるようになっています
南の丸から見た視点、出丸が立ちはだかっています
東の丸の方から見た視点

下りの道に戻りましょう。左側に曲輪のようなものが見えてきます。「水の手」とあります。この上が井戸跡になっています。今でも石材が散らばっているので、石垣があった可能性があります。籠城戦にはなくてはならないものです。

「水の手」曲輪
内部には石材が散らばっています

今度は「連続する枡形虎口」です。さっきと同じように、攻める側から見た方がわかりやすいと思います。それでは、下の方から入っていきましょう。まず入口が曲げられています。しばらくまっすぐいくと、出口も曲げられています。入口と出口の両方が枡形になっていたのです。連続枡形の外側が東の丸です。

「連続する枡形虎口」の標識
連続する桝形虎口のイメージ、「中世の山城 西方城址」パンフレット(栃木市観光協会ホームページ)より
下から入って右に曲がります。「馬出し」の表示があります
出口のところは左に曲がります
東の丸

山頂の方が見えるようになってきました。だいぶ下ってきました。また、分岐点に出ました。ここは登ったときにも遠った場所で、ここまで戻ってきたのです。逆側から歩いてきたビジターがいましたが、ここを左側に曲がったのでしょう。次来た時には違うコースを楽しめるということです。

山頂部を仰ぎます
登りのときに通った分岐点に戻ってきました

信吉のいた場所へ

最期のセクションは、城跡の山麓部、通称「二条城」に行きましょう。山頂部とは、別の方向に行きます。ちょっと通路が心もとない感じです。「主郭(本丸)」の方に行きましょう。「イノシシ注意」とあります!(山頂部への道でも同様の表示がありました)。なんとか道は続いています。「山麓」とは思えない険しさです。

登山口を左手の方に進みます
「西方城址散策マップ」の二条城部分、栃木市観光協会ホームページより
主郭(本丸、通称「御城」)への分岐点
山麓部とは思えない険しさです

大きな曲輪(郭22-2、通称「北曲輪」)に着きました。山麓だけでも本格的なお城という感じがします。それでは山麓部の本丸に向かいましょう。その手前に、巨大な細長い空間があります。帯曲輪でしょうか、高い土塁に囲まれています。本丸は季節柄、草木に覆われてしまっています。草木の少ない外側を歩いてみましょう。土塁の高まりはちゃんと残っています。それに石材も残っています。最近の発掘調査でも、石積みが見つかっています。その結果によると、結城氏時代に、山麓部は山頂部とともに使われたと想定されています。歴史もだんだんわかっていくのでしょう。隅に近いところには、櫓台のような高まりがあります。この向かい側には天守台のような区画もあるそうです。夢があります。

郭22-2
本丸下の帯曲輪
本丸内部
本丸土塁、奥には櫓台のような高まりがあります

本丸を下ったところから、最終目的地の開山不動尊に行きます。本当はもう一つ下って、藤田信吉の陣屋があったとされる曲輪(郭32-1、通称「二城」)を通りたいのですが、ここからかなりの急坂で、草木に覆われてもいますので、別ルートを通ります。道なき道を行く感じですが、出口がありました。ここも、城の出入口の一つだったのでしょう。建物が見えてきました。これが開山不動尊のお堂です。廃れていたのを。藤田信吉が復興したと言われています。剣の印がかっこいいです。ところで、帰り道ですが、来た道を戻るのが、確実だと思います(不動尊の参道から下はまともに通れない状況でした)。攻めるも引くも、楽にはいかないということです。

下に見えるのが郭32-1
上の方の曲輪から外に出られました
反対側から見た出入口
開山不動尊

関連史跡

関連史跡として、例幣使街道の宿場の一つ、栃木宿に来てみました。蔵の街として有名です。蔵や古い建物が、今でも現役で使われているところがいいです。

油伝味噌
平澤商事

ここは、とちぎ山車会館のとなりにある蔵の街市民ギャラリーです。これも蔵です。約200年前に作られた土蔵で、蔵の内装を生かして、展示会などに使われているのです。実は、ここで以前、西方城についての企画展も行われていました。かなり勉強になりました。

蔵の街市民ギャラリー

リンク、参考情報

西方城址・二条城址、栃木市観光協会
歴史探訪⑦国指定史跡 西方城跡、歴史のなかの栃木
・「戦国の猛将 藤田信吉/志村平治著」戒光祥出版
・「関東の名城を歩く 北関東編/ 峰岸純夫・齋藤 慎一編 」吉川弘文館
・「なんで西方城 なるほど西方城」企画展
・「二条城跡」2020年3月栃木県教育委員会、公益財団法人とちぎ未来づくり財団

「西方城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その4

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

特徴・見どころ(辰巳用水紀行)

Introduction

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

辰巳ダム石碑

辰巳用水の出発点

辰巳ダムは、洪水調節専用のダムとして、2012年に完成しました。「洪水調節専用」とは、普段は水を貯めこまず、大雨のときに貯水して、下流での被害を防ぐ用途です。当初の計画では、辰巳用水の取水口が水没する恐れがありましたが、ダムの位置が変更になり、辰巳用水用の放流口も設けられました。辰巳用水自体も、2010年に国の史跡に(一部)、2018年には土木学会選奨土木遺産になっています。辰巳用水の取水口はダムの上からも見ることができますが、ダム見学のための展望デッキがあって、そこからの方がよく見えると思います。ここにある「東岩取水口」は3代目で、当初下流にあったものを、取水量確保のために2度移したそうです。柵が付いているところが取水口です。そこから金沢城まで、約11キロメートル続いているのです。

辰巳ダム
東岩取水口

金沢では1631年(寛永8年)に大火があり、城や城下町に大きな被害がありました(寛永の大火)。時の藩主、前田利常は防火・生活用水確保のために城への用水開削を命じました。それを指揮したのが、小松出身の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させました。ところがその功績にも関わらず、藩の歴史書(正史)には用水のことは載らず、彼のこともほとんどわかっていないのです。工事が終わって亡き者にされたとも、別の所で活躍したとも言われています。真相は不明ですが、藩の最高機密だったことは確かでしょう。この用水で素晴らしいのが、取水口から自然の勾配のみで導かれていることです。当時は当たり前だったのでしょうが、今ではかえってすごいと思ってしまいます。特に取水口から約4キロメートルは、手掘りのトンネルを通っています。残念ながら、通常は見学できませんが、ほぼ正確な勾配(200分の1)で貫かれているそうです。技術もすごいですが(先進導坑工法・横穴工法など)、かなりの突貫工事だったようです(「加賀の四度飯」と言われた)。

江戸時代の辰巳用水を描いた「金城上水新川口図」、現地説明パネルより
手掘りのトンネル、現地説明パネルより

巧みに流れる用水

続いて、辰巳用水の流れを追ってみましょう。先ほどの辰巳ダムから1キロちょっと下流の地点に「三段石垣」があります。前方が小立野台地で、背後には犀川が流れています。その石垣の最上段のところを用水が流れているのですが(切石のアーチに覆われている)、台地の斜面が崩れやすく、用水の勾配を維持するために築かれたとのことです(全長260m)。この石垣はものすごく実用的で、「色紙短冊積み石垣」とはまるで用途がちがいます。

三段石垣
金沢城の色紙短冊積み石垣

次は、用水の中間点辺りの「土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)」に来ました。金沢藩が、辰巳用水を利用した水車によって、火薬を製造していた場所です。用水とともに国の史跡に指定されています。足元の側溝を水が流れていますが、その元が辰巳用水で、オープンになっています(開渠)。今はきっと農業用水としても使われているのでしょう。こういうところも、自然に流れるようになっています。この辺りでは、辰巳用水沿いに、遊歩道が作られ、散策できるようになっています(約2km)。気持ちのよい散歩道です。もとは用水の見張りをするための道だったようです。:現在は、果樹園・雑木林・竹林に囲まれた道に整備されています。

土清水塩硝蔵跡
側溝を辰巳用水からの水が流れています
辰巳用水と遊歩道

いよいよ兼六園の近くまで来ました。古い土塀が続いていますが、加賀八家の一つ、奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀です。この脇を流れているのが辰巳用水です。この用水の向かう先が兼六園です。ただ、現在では水質確保のため、ずっと上流から兼六園専用地下流路があるそうです。きわめて現代的な用水事情です。

奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀と辰巳用水、その先が兼六園

この近くには、他のおすすめスポットもあって、一つは石川県立歴史博物館の屋外に、用水で使われた石管が展示されています。一瞬大砲の筒かと思ってしまうほどです。この辺りはかつて重臣たちの屋敷地で、ここには加賀八家の筆頭・本多氏が住んでいました。本多正純の弟、本多政重の家です。歴史博物館のとなりには、加賀本多博物館があって、ゆかりの品を見学できます。

展示されている石管
大砲の筒のようです
加賀本多博物館内の展示

それから兼六園入口近くには、石川県立伝統産業工芸館では、松平定信が揮毫した「兼六園」の扁額が展示されています。兼六園の命名者とも言われています。兼六園の名前の由来は、六つの名勝(宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望)を兼ね備えていることですが、少なくとも「水泉」は辰巳用水のおかげです。

「兼六園」の扁額

水泉の地・兼六園

兼六園にはいくつも入口がありますが、辰巳用水が流れてくる小立野口から入って、水の流れに沿ってご紹介したいと思います。

兼六園・小立野口

まず園内の水源を探します。沈砂池です。ここで用水から来た水を浄化します。そこから、山崎山の下の洞窟を通って、反対側に流れ出ています。それが「曲水」です。用水が自然の小川のように変身しています。辰巳用水の説明もあります。

沈砂池
山崎山
曲水
辰巳用水の説明板
曲水を渡る雁行橋

眺望台からの眺めもすばらしいです。その反対側では、曲水が霞ヶ池に注いでいます。あんなすばらしい眺望と、こんな豊かな池を一緒に見れるところが、またすごいです。これも、矛盾した名勝を実現したといわれる兼六園と辰巳用水のなせる技です。

眺望台からの眺め
曲水が霞ヶ池に合流する地点にある「瀬落とし」
霞ヶ池

ここからは、金沢城に向かって、栄螺山を見ながら下っていきます。また水路があります。瓢池(ひさごいけ)まで来ました。この辺りに「蓮池庭」を作ったのが、兼六園の始まりと言われています。ここには名所の「翠滝(みどりたき)」がありますが、さっきの水路から流れているようです。演出がすごいです。

栄螺山
途中にある水路
瓢池と翠滝

最後は、少し上の方に戻ってから、とっておきの見どころをご紹介します。噴水です。でもただの噴水ではなくて、水源の霞ヶ池との高低差を使った、動力を使わない「噴水」なのです。次の金沢城にも関係することですので、覚えておいてください。

噴水

辰巳用水 城での行方

金沢城の白鳥堀跡に来ました。上の方に、石川門の櫓が見えます。実はここも辰巳用水と関係あるのです。用水の水が、先ほどの兼六園の霞ヶ池から、石管でここまで落とされ、城内の内堀や二の丸御殿まで上げられたのです。機械もない時代にそんなことができたのは、先ほどの噴水と同じで、「逆サイフォンの原理」というそうですが、上流からの高い水圧を利用していたためです。これも、板屋兵四郎の功績とされています。当時、この原理は「伏越の理」と呼ばれていました。

白鳥堀跡
金沢城の給水の仕組み、現地説明パネルより

白鳥堀跡にはまだ水辺が残っていますが、現在は、井戸水を使っているそうです。堀跡は「白鳥路」という公園になっていて、これも気持ちのいい散歩道です。

堀跡に残る水辺
白鳥路

また、現在の内堀は復元されたもので、地下水を使っているとのことです。

復元された内堀

大手門跡の手前には、唯一そのまま残っている大手堀があるのですが、これも現在の水源は、井戸水と地下水になっています。

現存する大手堀

それでは、辰巳用水を使っている堀はなくなってしまったのかというと、そうでもありません。復元されている外堀(いもり堀)の一部分が、兼六園経由で辰巳用水から給水されているのです。これは、城にとっての、辰巳用水の復活といえるでしょう。それから、玉泉院丸庭園も復元されてから、いもり堀から給水されていますので、間接的に辰巳用水を使っていることになります。かつてのやり方と違う点はあるかもしれませんが、着々と城の再整備が進んでいるのは確かです。

復元されたいもり堀
玉泉院丸庭園

リンク、参考情報

歴史都市金沢のまちづくり、金沢市ウェブサイト
水土の礎
水の物語、兼六園観光協会

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その3」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

36.丸岡城 その2

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

特徴、見どころ

Introduction

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。ここからなら、天守まですぐに行けそうです。ここはかつての二の丸で、裏門があった辺りでしょうか。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

丸岡城駐車場

天守にアクセス

まず、天守に行くにも、2通りのルートを通って、天守の周りを見学します。最初は、駐車場から本丸の方に登っていきます。この通路は明治以降に作られたのですが(おそらく昭和時代に公園として整備されたとき)、現在、ビジターに一番よく使われています。階段を上がっていくと、すぐ本丸に着いてしまいます。

MarkerMarker
天守
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

駐車場から本丸への通路

本丸に上がった所は「松の丸」とも呼ばれていて、本丸の正門と不明門(あかずのもん)がありました。実は不明門は、民家に移築されていて、調査により天守と同様の古さであることが証明されています。実は天守はひとりぼっちではなかったのです。現在券売所がある辺りにも埋門がありました。現代は関門がないので、簡単に天守の方に向かうことができます。

松の丸
不明門についての展示(丸岡城観光情報センター)
券売所周辺

もう一つのルートからアクセスしてみましょう。反対側から登ります。こちらも明治以降の通路になりますが、石垣が残っていて雰囲気が出ます(ここは通称「おとこざか」かもしれません)。途中から、天守の周りを歩いていけそうです。石垣が段状になっていて、腰曲輪のようです。昔の絵図(「越前国丸岡城之絵図」)も同じようになっています。城らしい場所です。

反対側からのルート
腰曲輪
「越前国丸岡城之絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館

進んでいくと、井戸があります。説明板によると、一向一揆との戦いのときに、この井戸から大蛇が出て、霞をかけて城を守ったという伝説があるそうです。井戸から上がるところも、門の跡のようになっています。天守に着きました。

伝説をもつ井戸
天守の方に向かいます
天守に着きました

古風な天守を鑑賞

古風な天守のルックスを、改めて鑑賞しましょう。この姿を見ていると、どうしても現存最古の天守に思えてしまいます。無理もありません、この天守は古風な天守の特徴をいくつも持っているのです。

丸岡城天守

一つ目は、望楼型天守であることです。望楼型とは、大きな入母屋造りの建物の上に、望楼を乗せた形式で、初期の天守に見られた特徴です。例えば、新しい型式(層塔型)の福山城天守と比べると、全然違います。

望楼型天守の典型、犬山城天守
福山城天守(外観復元)

次に、最上階に廻縁や高欄(べランダ)が取り付けられていることが挙げられます。これも、初期の天守に用いられていました。でもこの天守には、当初は違うもの(腰屋根)がついていました。廻縁は、外には出られない飾りとして後付けされました。

当初の天守想像図、丸岡城観光情報センターにて展示

それから、板張りの多くの部分がむき出しになっていることも挙げられるでしょう。松本城天守などに、同様の特徴が見られます。松本城の場合は、黒い部分が漆塗の下見板張りになっています。

松本城天守

更には、石垣が古い形式(野面積み)であることと、石瓦を使っていることも、武骨で古風に見せています。丸岡城天守は、現存天守唯一の石瓦葺きで、近隣の北ノ庄城や、福井城も、石瓦を使っていました。寒冷地に適応できる耐久性があったことと、越前国では、笏谷石が優れた石材として知られていました。安土城天守台階段に、笏谷石を使ったタイルがありますが、柴田勝家が織田信長に献上した石を使ったと言われています。しかし、廻縁と一緒で、この天守は当初、こけら葺きで、後から石瓦葺きになったのです。現在まで必要に応じ、瓦の修理・交換が行われていますが、笏谷石の調達は困難になっているため、昭和時代から石川県産の石材を使っているそうです。

天守台石垣
笏谷石の石瓦、丸岡城観光情報センターにて展示
福井城の模型、福井市立郷土歴史博物館にて展示
安土城で使われている笏谷石のタイル
一時使われていた石製の鯱、丸岡城観光情報センターにて展示

最近行われた調査により、この天守は、現存最古ではないことがわかったのですが、天守を築いた本多成重やその跡継ぎたちが、意識して古風なスタイルにしたということなのです。どうしてなのでしょうか。そんなことを考えながら、天守の中に入りましょう。

現存天守に突入

いよいよ天守の中に入ります。この天守は、2重3階、高さは約12メートル、石垣を含めると約18メートルです。現存12天守中、11番目の高さです。でも、低いとは全然感じません。単独で立っている「独立式」だからでしょうか。このまっすぐな石階段も面白いのですが、調査によれば、かつては曲げられていた痕跡があったそうです。階段の脇の石垣に建物があった可能性もあるそうです。謎は尽きません。

天守への石階段

天守一階に入りました。すごい柱の数です。部屋の中だけで、26本もの柱があります。中央の6本を含め、多くは古材が今も使われています。天守全体の重さは公表されていませんが、石瓦だけでも約6千枚で120トンもあるそうです。柱は追加されたり入れ替えられたりしていますので、途中で石瓦に変わったことが関係しているかもしれません。

天守一階

部屋の中を歩いてみましょう。「石落とし」がありますが、実際には「格子出窓」と言っていいものです。狭間や通常の格子窓もあります。さすがにたくさん備えられています。城の模型もあります。

石落とし
格子窓、狭間
城の模型

二階に行きます。とんでもなく急な階段です。傾斜は65度あります。ロープまでついていて、これは大変です。

二階への階段

二階に昇りました。望楼型で、一階の屋根裏部屋の位置付けなのですが、意外と明るいです(狭間・屋根の窓から採光しています)。本多親子のディスプレイがあって、かっこいいです。二階は柱が少ない空間ですが、周りはいろいろあります。まず、東西にある破風の内側が部屋になっています。また、南北にある切妻屋根の中も出部屋になっていて、中に余裕で入れます。石瓦が間近に見学できます。守備兵がこもって戦うための場所だったのでしょう。

天守二階、本多親子のディスプレイ
破風の内側
切妻屋根の中の部屋
石瓦がよく見えます

そして、最上階への階段です。傾斜はさらにきつく、67度です。がんばって昇るしかありません。最上階は開放的で、昇った甲斐がありました。ここからは、東西南北全方位の眺めを楽しむことができます。昔は戦いのための物見をしたのでしょうが、今は平和で豊かな街を眺めることができます。屋根の骨組みも直接見えます。笏谷石で作ったかもしれない鬼瓦の裏面も見えます。

最上階への階段
天守最上階
屋根の骨組み
最上階からの眺め(西側)
鬼瓦の裏側

内堀ラインから天守を眺める

まずは、現在の地図と、昔の絵図を比べてみましょう。現在の地図の赤いラインが昔の内堀です。ただ、ほとんどは市街地になってしまっていますので、天守のビュースポットを探したり、これからの城跡の開発プランについて、紹介します。

Marker
天守
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
現在の地図

「越前国丸岡城之絵図」の内堀部分、出展:国立公文書館

駐車場から、天守と反対方向に進みます。右側には「一筆啓上 日本一短い手紙の舘」があります。その辺りから左に曲がります。五角形の内堀の頂点の一つです。なぜ五角形の形をしているかというと、攻めてくる敵を混乱させるためにこうなったという説があります。

一筆啓上 日本一短い手紙の舘

北側から西側に回り込む辺りに追手門がありました。もうすぐ天守のビュースポットです。また天守が見えてきました。お天守前公園です。丸岡城天守は、丘と石垣と建物合わせて、高さが35メートル以上あるはずです。ここからだと、その高さを丸々感じることができます。石瓦の屋根もはっきり見えるので、渋さが光ります。

追手門があったと思われる辺り
お天守前公園
天守がよく見えます

先に進んで南側を回ります。民家が多い場所です。実は、この内堀を一部復活させる計画があるのです。もちろんすぐにはできませんが、半世紀くらいかけて、建て替えの際にお願いするなどして、公有地化を進めるそうです。遠大な計画です。現在は、丸岡城観光情報センターなど、天守周辺の整備を進めています。駐車場に戻ってきました。内堀一周、達成です。

民家の合間から見える天守
丸岡城観光情報センター
駐車場に戻ってきました

リンク、参考情報

丸岡城公式ウェブサイト
坂井市 丸岡城国宝化推進事業
・「丸岡城 ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「一筆啓上 家康と鬼の本多作左衛門/横山茂著」郁朋社
・丸岡城研究調査パンフレット「知られざる丸岡城」
・「丸岡城お天守物語~天守を守った人々~」坂井市
・「坂井市埋蔵文化財発掘調査報告書 丸岡城跡」2021 坂井市教育委員会
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市
・「江戸期天守と大名支配」中尾七重氏研究論文
・「本多作左衛門重次と子孫たち」取手市埋蔵文化財センター第2回企画展資料
・「福井の戦国 歴史秘話 第5号」平成29年6月30日福井県発行資料

「丸岡城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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