116.沼田城 その2

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

沼田駅前

要害を感じながら城跡へ

駅から城跡の沼田公園までは、1キロくらいの距離ですが、7、80mの高さの段丘を登るので、遠く感じるかもしれません。五重の天守ディスプレイもお出迎えです。坂をずっと登っていきます。だんだん急になってきます。ここは「滝坂」と呼ばれています。近くに「滝坂川」が流れていますが、沼田の用水のことです。沼田を潤した用水が、台地の端まで来ているのです。ショートカットの階段を登ると、坂はますます急になります。:階段を出ると、崖が見えて、要害の場所というのがわかります。平らになってくると、そこは台地の上です。かつてはこの辺に「滝坂門」がありました。左に曲がって、ずーっと歩いていくと門が見えてきます。沼田公園の入口です。

街なかの五重天守ディスプレイ
滝坂
滝坂川
滝坂門のあった辺り
沼田公園入口

城跡と御殿桜を見学

公園の入口は、三の丸の一部でした。入ったところに観光案内所があります。それでは、公園の中、元の本丸に入っていきましょう。中心部は花壇になっていますが、今回は「要害」を感じたいので曲輪の縁(へり)を歩いていきます。さっそくいい景色が見えます。城が要害の地に築かれたことがわかります。近くには、公園のシンボルになっている鐘楼があります。明治時代から戦後まで、沼田の町で真田時代の城の鐘を使って建てられていたものが、公園に復元されています。現在の鐘は、レプリカだそうです。:

沼田市観光案内所
沼田公園の中心部
台地のへりを進んでいきます
復元された鐘楼

どんどん進んで行くと、次は西櫓台です。真田信利が改易となったとき、これも壊され、埋められましたが、発掘された石垣を見学することができます。その櫓台の上にある「御殿桜」は、樹齢400年以上と言われています。つまり、真田時代からあったということになります。真田時代からの石垣と桜、素晴らしいコンビです。

西櫓台の石垣
西櫓台と御殿桜

もっと見ていたいですが、次に進みましょう。公園としては「下公園」と呼ばれている場所で、城の時代には「捨曲輪」「古城」と呼ばれました。沼田城が最初に築かれた場所で、沼田顕泰が築城したと言われています。「平八石」というのが置かれています。真田昌幸が城主だったときに、顕泰の子・平八郎が城を奪おうとして返り討ちに遭い、その首が置かれたとのことです。戦国時代に逆戻りです。台地の角に着くと、これもいい眺めの場所です。ここから、名胡桃城があった辺りも見えます。名胡桃城事件があったときは、こっちは北条、むこうは真田で張り合っていました。

平八石
捨曲輪からの眺め

天守はどこに?

次は、今は幻の天守の場所を探しましょう。絵図を見ると、天守は、捨曲輪(古城)から続く、本丸の東側の堀に沿って立っています。そこで捨曲輪から折り返して、堀みたいなところを探すと、向かって左側は堀っぽいです。なるべくそれに沿って進んでみますが、今は完全に公園になっていますので、それなりに歩くと通路に出ます。その辺りに「天守跡」の石碑があります。これがなければ、五重の天守があったとは、全然わかりません。ただこの周辺(本丸堀)を発掘調査したときには、大量の瓦及び金箔瓦が発見されています。最近では、信之時代(旧)と信利時代(新)と考えられる新旧の天守礎石が発見されました。信利が天守を修復した記録があるそうです(1658年、明暦4年に本丸をかさ上げした時など)。天守も城も短期間で埋められたそうですから、他にもいろいろ出てきそうです。これからに期待です。

「上野国沼田城絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館
天守跡

発掘されて見学できるものが他にもあります。本丸堀と石垣の一部です。発掘された辺りにも櫓がありました(「東櫓」または「巽櫓」)。櫓があったと思われる場所まで行けそうです。休憩スペースになっていて、石垣も見学できます。城の姿が、少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。

本丸堀跡
東櫓(巽櫓)跡周辺の石垣

公園パートの最後に、面白い現象をご紹介します。公園の東側の、旧野球グラウンドの場所を航空写真で見ると、箇所によって、植物の成長に違いに見られるそうです(クロップマーク)。これは、堀跡だった場所と、それ以外の場所によって生じた可能性があるそうです(沼田市資料による)。城が自己主張しているようです。

沼田公園の航空写真、出展:国土地理院

天空の城下町を散策

今度は城下町(市街地の坊新田町)にやってきました。ここも坂になっています。この通りは大手道で、この辺りには木戸が設けられていました(七木戸の一つ)。ちょうど坂を上がった所が関門になっていたのです。最近は「ようやっと坂」とも呼ばれているようです。大手道は当然防御されるべきなので、他にも仕掛けがありました。右側(東側)には寺が続いています。いざというときに、防衛拠点にするためです。この辺は「坊新田町」といって、信之から信吉の時代に作られ、寺が集められました。金剛院の大灯篭が見物です。少し離れますが、左側(西側)にも、小松姫のお墓がある正覚寺があります。

坊新田町周辺(ようやっと坂)
金剛院の大灯篭
小松姫墓(正覚寺)

中町を越えると、道は狭くなります。「お馬出し通り」と呼ばれていて、今もかつての雰囲気が残っています。また門が見えてきました。大手門跡です。

お馬出し通り
大手門跡

次は、先ほど大手道と交差した中町です。一見普通の商店街に見えますが、ちょっと歩いてみると、建物が少し斜めに建てられて、手前にスペースができているのが見て取れます。これは「武者隠し(武者最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。隠れ)」といって、通りを攻めてくる敵を、待ち伏せできるようになっていました。

中町
「武者隠し」と思われるスペース

最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。お寺の傍らを、沼田の用水が流れています。最初に見た滝坂川のことですが、城堀川とも呼ばれています。町の開発に努力した信吉が眠るのに、相応しい場所だと思います。

天桂寺
沼田の用水
真田信吉墓

私の感想

真田の城や町づくりが、一見あまり残っていなさそうで、実は今でもしっかり保存されていることがわかりました。御殿桜もきれいでした。

御殿桜

リンク、参考情報

沼田城跡、沼田市ホームページ
沼田市歴史資料館、沼田市ホームページ
・「沼田市史」
・「歴史群像188号 分析 謙信越山/入澤宣幸著」
・「真田信之 真田家を継いだ男の半生/黒田基樹著」角川選書
・「沼田藩真田用水群の魅力/真田陽水研究会」上毛新聞社
・「磔茂左衛門一揆の研究 /丑木幸男著」文献出版
・「発掘 沼田城かわら版 第1号、第2号」沼田市教育委員会文化財保護課
・「沼田市指定史跡沼田城跡 調査・保存整備事業の成果1・2」沼田市教育委員会文化財保護課

「沼田城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

35.金沢城 その2

金沢城公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

今回は出発地として、金沢駅前に来ています。鼓門がすっかり駅のシンボルになっています。駅から金沢城公園までは少し離れているので(約2km〜)、バスなどに乗っていかれるのがいいと思います。公園には入口がいくつもありますが、今回は3つの入口を通る見学コースをご紹介します。実際に行かれるときは、お時間に応じて、選択されたらいいと思います。それに加えて、城内から本丸に向かうコースもご紹介します。

金沢駅鼓門

百間堀〜石川門コース

ここは「広坂」交差点の近くです。向こうに城の高石垣が控えています。城がどんなところに築かれたのかよくわかります。道路がまっすぐ城がある台地を貫いていますが、これがかつての百間堀です。手前に見えるのが、外堀の「いもり堀」と「鯉喉櫓台(りこうやぐらだい)」で、いずれも復元されたものです。

広坂交差点付近
「いもり堀と鯉喉櫓台

本丸南面の高石垣は、何段にも分かれて積まれています。実はもとはひと続きだったのが、明治時代に崩れてしまい、今のように積み直されたそうです。

本丸南面の高石垣

歩いている通り(お堀通り)が百間堀跡で、長さ150間(約270m)、幅40間(約70m)にもなったことで、その名がついたと言われています。今もその迫力は変わりません。台地の方(右側)から攻めてくる敵を防ぐためでした。現在は金沢城公園と兼六園の境界になっています。

百間堀跡

左側もすごい石垣が続きます。「東の丸東面の石垣」です(本丸の東側を「東の丸」といいます)。ここも段積みになっていますが、当初からこのスタイルでした。城でもっとも古い石垣の一つで、高さはトータルで21mもあるそうです。おそらく、前田利長が、利家から命じられて築いたものでしょう。

東の丸東面の石垣

石川門が見えてきました。門に行くのには、道路のこちら側(西側)からは登れないので、向こう側(東側)に渡って、改めて頭上の橋(石川橋)を渡ります。

石川門
石川橋

かつての石川橋は、堀にかかる土橋だったとのことです。兼六園ともつながる城の代表的な入口です。城としては搦手門(裏門)に当たりますが、防衛上は正門なみに大事な場所でした。橋から見る百間堀(跡)も壮観です。

石川橋と石川門
石川橋から見る百間堀跡

石川門の櫓(隅櫓)は大変見栄えがします。味方にとっては頼もしく、敵にとっては脅威だったでしょう。最初の門(一の門、高麗門)を入ると、枡形(防御用の四角い空間)です。枡形の左右の壁で石垣のデザインが違います。左側が江戸前期(寛文年間〜、粗加工石積み)で、右側が江戸後期(明和年間〜、切石積み)です。改修を重ねた結果、こうなったようです。さすが石垣の博物館です。

石川門隅櫓
一の門
枡形の石垣

枡形の内側にある鉄砲狭間も見逃さないようにしましょう。表側からは見えないようになっています(隠し狭間)。次の門(二の門、櫓門)は、とにかく重厚です。
ず:あれ、表からは見えなかったよね。石川門の内側が三の丸です。

枡形内側の鉄砲狭間
二の門
三の丸

大手門~二の丸コース

次は大手門口にやってきました。傍らには、唯一そのまま残っている大手堀があります。昔はここに大手門があり、尾坂門とも呼ばれました。大手門らしく、正面に「鏡石」を配しています。何度も通路が曲げられているので、ここも枡形だったのでしょう。石垣は初期(慶長)の頃のものですが、現在残っている絵図には、建物は描かれていないそうです(石川県HP)。早くに火事で燃えて再建されなかったのかもしれません。

大手門口
大手堀
大手門の鏡石

中に入ると、広々としています。ここは新丸(広場)で、初期には重臣の屋敷地でしたが、つ:やがて、城外に移転していき、藩の役所や細工所(工房)が置かれました。

新丸広場

次は、三の丸の入口・河北門への坂道を登っていきましょう。この門は、幕末まで実質的な城の正門として機能しました。陸軍による撤去後、2010年に130年ぶりに復元されました。右側には、「出し」(出窓)がついた、ニラミ櫓台があります。とても見栄えがするけど、敵だったらそこから狙われてしまうでしょう。枡形の中に入ると、中は石垣があまりないように見えます。実は「枡形土塀」といって、中に隠し石垣が仕込まれていて、それも復元したそうです。櫓門の中に入ることもできます。

河北門への坂道
河北門
河北門枡形
河北門内部

門の内側が三の丸で、折り返して、二の丸の入口・橋爪門に行きましょう。今度は、右側に菱櫓があって、五十間長屋が橋爪門の続櫓までつながっています、これらも2001年に復元されました。

河北門(右側)を出て折り返します
菱櫓(右側)
五十間長屋が橋爪門続櫓までつながっています

橋爪門は、二の丸の正門です。二の丸御殿までの最後の門として格式も高かったのです。2015年に復元されました。中の枡形はかなり広く、周りの塀は二重で、なんと出し付きです。門を出ると、二の丸に到着です。

橋爪門
橋爪門桝形
門を出ると二の丸です

二の丸御殿の復元工事が始まっています。今後が楽しみです。

二の丸御殿跡

五十間長屋(など)の中に入ってみましょう。

五十間長屋入口付近

こちらは、つながっている橋爪門続櫓の中です。先ほど通った枡形が見えます。

橋爪門続櫓内部
橋爪門枡形が見えます

五十間長屋の中を進みましょう。中を歩いた方が、かえってその長さを感じることができます。

五十間長屋内部

端のところにあるのが菱櫓です。床を見ると、ゆがんで作られているようにも感じます。これは、菱櫓の平面がわざと菱形(平行四辺形?)に作られているからです。大手門と搦手門両方を視野を広く監視するためと言われています。

菱櫓内部
五十間長屋と菱櫓の継ぎ目

本丸コース

次は、二の丸から本丸に行ってみることにします。極楽橋を渡ります。尾山御坊(金沢御堂)のときからあったと言われる橋です。現存している三十間長屋が見えてきます。

極楽橋

なにか普通の倉庫にも見えます。確かに普段は倉庫として使われたそうですが、反対側に回ってみると、出し(出窓)が付いています。出し周辺からは、玉泉院丸や鼠多門の方を眺めることができます。きっとこちら側を監視する役割があったのでしょう。

三十間長屋
三十間長屋の出し

鉄門(くろがねもん)跡を通って、本丸の中心部に行きます。いくつか櫓跡があります。まず、北西の戌亥櫓跡です。今まで回った城の建物をよく見渡すことができます。

鉄門跡
戌亥櫓跡
戌亥櫓からの眺め

本丸の中心部は現在「本丸の森」と呼ばれています。次は、南東の辰巳櫓跡です。金沢の街を一望できます。ここは、最初に見た本丸南面の高石垣の天辺です。見張りをするにも最適な場所だったのでしょう。しかし、寛永の大火のときは、ここに飛び火したそうです。

本丸の森
辰巳櫓跡
辰巳櫓跡からの眺め

最後は、北東の丑寅櫓跡です。向かい側は兼六園で、この下は先ほど歩いた百間堀跡です。

丑寅櫓跡
丑寅櫓跡からの眺め

この辺から下ると、三の丸の方に出ますが、その途中に、現存する鶴丸倉庫があります。

鶴丸倉庫

鼠多門~玉泉院丸コース

最後のコースの出発点として、尾山神社に来ています。ここも人気の観光スポットです。実はこの場所は、城の金谷出丸で、これから通る鼠多門を通じて城の中心部とつながっていたのです。それでは、神社の裏手から進んで行きましょう。ずっとブリッジを歩いていきます。つ:鼠多門、鼠多門橋がともに2020年に復元されています。橋の下は道路(お堀通り)ですが、かつては外堀でした。「鼠多門」の名前の由来ですが、:壁の色から来ていると言われていますが、建設時にネズミがたくさんでできたからという設もあるそうです。門の内部の見学もできます。

尾山神社(神門)
鼠多門橋と鼠多門
鼠多門
鼠多門内部

門を入ったところが玉泉院丸です。復元された庭園がきれいです。向こうの方に見える建物が三十間長屋です。現在では庭園の借景になっています。

玉泉院丸庭園
三十間長屋が見えます

玉泉院丸の上手のいもり坂を登って(登り切ったところが二の丸です)色紙短冊積石垣を見に行きましょう。違った色や形の石が組み合わされています。本当に見せるための石垣です。

色紙短冊積石垣

リンク、参考情報

金沢城公園(公式ホームページ)
水土の礎
・「戦国時代と一向一揆/竹間芳明著」日本史史料研究会ブックス
・「前田利家・利長 創られた「加賀百万石」伝説/大西泰正著」平凡社
・「隠れた名君 前田利常: 加賀百万石の運営手腕/木越隆三著」吉川弘文館
・「家から見る江戸大名 前田家・加賀藩/宮下和幸著」吉川弘文館
・「研究紀要金沢城研究第19号」石川県金沢城調査研究所
・「研究紀要金沢城研究第20号」石川県金沢城調査研究所
・「日本の城下町と金沢城下町 城下町金沢学術研究1」金沢市
・「史跡金沢城跡保存活用計画 令和3年3月」石川県
・「福井の戦国歴史秘話40 凄惨な一揆弾圧を伝える瓦」福井県観光営業部ブランド営業課

「金沢城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

85.福岡城 その2

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

特徴、見どころ

Introduction

これから、かつて福岡城の正門だった上之橋御門の跡から、話題の天守台までご案内します。それに加えて、福岡市が出している城建物の復元可能性を示した表を見ながら、途中のスポット毎にチェックしていきます。福岡城跡が将来、どのような姿になるのか想像するためです。

福岡城建物の復元可能性を示した表、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

出発前にちょっと面白い所を見学しましょう。上之橋近くの歩道の地下に、堀の北側の石垣が保存されているのです(堀石垣保存施設、年末年始除く土日に見学可)。今の歩道の辺りもお堀だったのですが、埋められたのです。その石垣が、地下鉄工事を行ったときに見つかったのだそうです。

堀石垣保存施設
堀石垣保存施設の入口
地下で保存されている石垣

整備が進む三の丸

こちらが現代の上之橋です。今でも舞鶴公園のメインの入口になっているので、立派な感じがします。すごい石垣が奥の方に見ます。上之橋御門の跡です。この門は、先ほどの表によると「復元の可能性が高い」建物に分類されています。最近石垣が修復整備されて、ビジターが通れるようになりました(2023年)。一緒に調査がされ、古写真もあるので、復元の条件が整ってきたのでしょう。石垣だけでも立派な門だったと想像できます。門を入ったところにかつては、黒田騒動の当事者、栗山大膳の屋敷がありました。

上之橋(手前)と上之橋御門跡(奥)
上之橋御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
福岡城模型の上之橋御門周辺。福岡城むかし探訪館にて展示

三の丸の中に進んでいくと、広大な重臣屋敷地だったところ(東部)は、今は広場として憩いの場になっています。戦後には平和台球場がありました。古代にさかのぼると、海外使節の迎賓館などとして使われた「鴻臚館」がありました。この場所に、鴻臚館を復元整備する事業が始まっていますが、現在は「鴻臚館跡展示館」で、発掘調査の成果を、発掘現場の一部や復元イメージとともに、見学することができます。

三の丸の鴻臚館跡
平和台球場のレリーフ
鴻臚館跡展示館
鴻臚館発掘現場の一部
鴻臚館建物の復元イメージ

お城のことを勉強されたいときは、「福岡城むかし探訪館」に行ってみましょう。ここには、素晴らしい福岡城の模型があります。

福岡城むかし探訪館
福岡城の模型。福岡城むかし探訪館にて展示

先に進むと、また立派な石垣が見えてきます。二の丸の入口、東御門跡です。

三の丸から見える東御門跡

二の丸から本丸へ

東御門跡の前にやってきました。この門の脇には、革櫓、炭櫓(高櫓)がありました。この門と両脇の櫓は「復元の可能性がある」建物に分類されています。ただ、門の正面から取った写真がないそうです。

東御門跡
東御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より

次の関門は、扇坂御門跡です。門の建物は、復元可能性が示されていないので、詳細がわからないのかもしれません。しかし、この門の特徴は、内側の階段にあります。見た感じ公園風の階段なのですが、実は城があった当時からこの形だったのです。「扇坂」という名前もこの形から来たようです。門の通路は通常狭くしますので、大変珍しいケースです。現在の階段も、最近部分的に復元されたものです(2024年)。

扇坂御門跡
部分復元された扇坂

次は本丸です。表御門跡から入っていきましょう。この門も「復元の可能性が高い」建物に分類されているのですが、現物が、黒田家の菩提寺・崇福寺に移されて、山門として使われています。今の場所になじんでいるようにも見えますが、こういう場合にはどうするのか悩ましいところです。

本丸表御門跡
表御門の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
崇福寺山門、「福岡市の文化財」HPから引用

本丸の中には、本丸御殿がありました。ぱっと見、なにがあったか分かりませんが、「復元の可能性がある」とされています。本丸御殿は、明治時代に改造されて、病院として使われたので、ある程度分かるのでしょう。

本丸御殿跡

本丸北側の他の建物もチェックしておきましょう。そのうち、時櫓と月見櫓は「復元が困難」とされています。一方、太鼓櫓と裏御門は隣り合っていましたが、太鼓櫓の方が復元可能性が高くなっています(太鼓櫓が「復元の可能性が高い」、裏御門が「復元の可能性がある」)。これは、以前「伝・潮見櫓」として保存されていた櫓が、実は太鼓櫓ではないかと言われていることによるようです。

太鼓櫓(左)と裏御門(右)跡
太鼓櫓(左)と裏御門(右)の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
伝・潮見櫓

最後は、祈念櫓です。この櫓は、寺に払い下げられていたのを、元の場所に移築復元していたのですが、建物が立つ石垣の修復のため、現在は解体・保管されています。なるべく早く元の姿を見てみたいですが、現在の建物はかなりオリジナルから改変されていて、実は月見櫓だったのではないかという説もあるそうです。

祈念櫓周辺
解体・保管前の祈念櫓

いよいよ天守台めぐり

いよいよ天守台に向かいます。天守台への入口は、鉄御門(くろがねごもん)跡です。かつては、石垣の上に巨石を置き、またその上に、櫓がありました(通称「切腹櫓」)。門は文字通り鉄製で、固く閉じられ、普段から人が寄り付かない場所だったそうです。

鉄御門跡

門から入ったところの区画は、天守台に建物がなくなった後、「天守曲輪」と呼ばれていました。その角には「天守櫓」がありました。

天守曲輪
天守櫓があった場所

そして天守台(大天守台)です。かなりの大きさです。底には建物の柱を立てる礎石がたくさん並んでいます。天守のものと思えるのですが、一時期この辺りに蔵(「天守蔵」)があって、その礎石だったかもしれないそうです。残念ながら天守は「復元が極めて困難」な建物に分類されていますが、これから実施される発掘調査に期待しましょう。

天守曲輪から見た天守台
天守台に入っていきます
天守台の底にある礎石群

石垣の上は展望台になっています。ここが城で一番高い場所で(標高約36m)、一帯を見渡すことができます。

天守台からの眺め

天守台手前の、天守曲輪の中に戻ってきました。天守台周りは他にも見どころがありますので、行ってみましょう。天守曲輪のもう一つの入口「埋門(うずみもん)」跡を通っていきます。この門も狭くて、名前の通り、いざというときは石などで埋めてしまうのでしょう。

埋門跡

埋門を抜けると、本丸南側の武具櫓曲輪です。ここには、長さ60m以上もの武具櫓がありました。黒田長政が築城時に、この櫓と思われる内容を書状に記しています(天守を守る長さ30間の櫓を建てるという主旨)。この櫓は「復元の可能性がある」という分類ですが、その中でも「復元の可能性が高い」とされています(B+という表記)。明治維新後、黒田家の別邸に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。

天守台から見た武具櫓曲輪
武具櫓の古写真、「国指定福岡城跡整備基本計画」より
黒田邸に移築された武具櫓、「史跡福岡城跡環境整備報告書」より

それでは、中小天守台の方に行きましょう。武具櫓曲輪から、中天守台の脇を通って、小天守台に至ります。小天守台も展望台になっているのだ。ここから見る景色もなかなかです。

中天守台(左)と小天守台(奥)
小天守台からの眺め

現存する多聞櫓

天守台の後は、現存する南丸多聞櫓を見学しましょう(国の重要文化財)。まずは外側から見学したいのですが、櫓は二の丸にあるので、一旦二の丸の桐木坂御門(きりのきざかごもん)跡から外に出ます。この櫓は、両隅の二重櫓2つが、長さ約54メートル(30間)の平櫓を挟む格好になっています。防御のための仕掛けが見えます。鉄砲狭間、格子窓、そして石落としの3点セットです。

桐木坂御門跡
南丸多聞櫓(外側)
石落とし、鉄砲狭間、格子窓が見えます

二の丸に戻って、その一部の南の丸に入ってみましょう。多聞櫓がある場所です。普段は倉庫として使われていたそうです。現在の建物は江戸末期(1854年)に大改修されました。

二の丸の一部、南の丸に入ります
多聞櫓(内側)

訪問した日は、偶然櫓内部の特別公開日でした。さっそく入ってみましょう。中が細かく仕切られています。これがこの櫓(平櫓部分)の大きな特徴で、16の区画に分かれています。しかも番号が振られています。後に兵舎や学校寮として使われたときの名残なのでしょう。

櫓内部見学のための入口
櫓の内部

外から見えた、格子窓、石落とし、鉄砲狭間を内側からも確認できます。

格子窓
石落とし
鉄砲狭間

上を見ると、なんだか天井が透けている感じです。この天井は、細い竹を組んで作られています。火縄銃の煙を上に逃がすためとか、竹を矢の材料として、その場で使えるようにしたためとか言われています。まさに実戦に備えた櫓だったのです。

多聞櫓の屋根

リンク、参考情報

国史跡 福岡城・鴻臚館 公式ホームページ
福岡市の文化財
・「福岡城 築城から現代まで(新修福岡市史特別編)」福岡市
・「シリーズ藩物語 福岡藩/林洋海著」現代書館
・「福岡城天守を復原する/佐藤正彦著」石風社
・「福岡城天守の復元的整備について―報告と提言(概要)-」福岡城天守の復元的整備を考える懇談会
・「福岡城の天守に関する新たな資料の発見について 令和6年12月10日」福岡市 経済観光文化局 博物館
・「歴史を読み解く:さまざまな史料と視角/服部英雄著」九州大学学術情報リポジトリ
・「国史跡福岡城跡整備基本計画 平成26年6月」福岡市
・「史跡福岡城跡環境整備報告書 昭和55年度」福岡市教育委員会

「福岡城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。