77.高松城 その2

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

特徴、見どころ

駅近のお城に行ってみよう

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

高松駅

それでは高松駅から「玉藻公園」になっている城跡に向かいましょう。最初に歩いているのは、昔の中堀・西の丸辺りでしょうか。

駅から公園まで240mという表示があります

公園の入口を示す石碑があるところは、かつては内堀と海岸の境目辺りでした。駅に近い公園西門は「刎橋口」と呼ばれました。

「玉藻公園」の石碑

中に入ったところが二の丸で、先に進むと三の丸です。三の丸の北側には石垣が続いていて、かつては多門櫓が建っていました。石段を登ると海が見えて、海が近いことがわかります。かつては石垣の下が海岸でした。

三の丸の石垣、向こうに見えるのは月見櫓
石垣からは海が見えます

更に進むと、次は北の丸です。ここはなんといっても月見櫓でしょう。通常、日曜日は中に入れるのですが、当方が訪問したときはそうでなくて残念でした。ちなみに当初は「月を見る」ではなく「着くのを見る」という名前だっだそうです。平和な時代になって、名前も風流になったのかもしれません。

月見櫓(着見櫓)

月見櫓のとなりの水手御門は閉まっています。表側はどうなっているか後で見に行きましょう。

水手御門(裏側)

三の丸の中に戻ってみると、松平家が大正時代に建てた「被雲閣」があります。これも重要文化財に指定されました(2012年)。その庭園も国の名勝(2013年)になっています。もうお城のオリジナルと言っていいくらい年季が入っています。

被雲閣と庭園

天守への道

今度は、公園東門から入って、天守台まで行ってみましょう。こちら側がお城の大手口になります。ここでの見どころは艮櫓(うしとらやぐら)です。特に石落としが目立ちます。北東隅にあったものを、南東隅に移したので、90度回転させて移築したそうです。しかし櫓台の形状がちがうので、石落としの一部がお城の中に向いてしまっています。だいぶ苦労したのでしょう。

艮櫓
城の内側からみた艮櫓

大手門(旭門、公園の東門)の前の橋(旭橋)は斜めにかかっています。これは、敵に斜めに走らせて、城から側面攻撃できるようにするためだそうです。門の建物(高麗門)も現存しているものの一つです。

旭橋と現存する高麗門(奥)

門は石垣に囲まれて、枡形を形成しています。石垣をくり抜いて作った「埋門(うずみもん)」があり、敵をここから奇襲するためと言われています。

大手門の枡形
奥に見えるのが埋門

桜の馬場を通って、お堀をまた渡ると、2022年に復元された桜御門があります(高さ約9m、幅約12m)。オリジナルの図面はなかったのですが、写真・現地の痕跡・発掘調査・聞き取り調査などから復元したそうです。

桜御門

門を入って左折すると、天守台が見えます。天守台だけでも際立っているように感じますが、もし高松城の天守が復元されたとしたら、現存または再建された天守の中では、8番目の高さになります(石垣除く)。

天守台

ここ(三の丸)から天守台にたどり着くには思ったより長い道のりです。内堀端を歩いて、二の丸の関門、鉄門(くろがねもん)跡を通ります。

鉄門(くろがねもん)跡

天守があった本丸に行くには、鞘橋(さやばし)で内堀を渡ります。途中から屋根がついてこの名前になったそうです(それまでは「らんかん橋」)。かつての本丸は内堀に完全に囲まれていたので、唯一の通路でした。

鞘橋
天守台から見た鞘橋

本丸に入ります、ここも櫓群(地久櫓、中川櫓など)に囲まれていました。

本丸の中
地久櫓跡

いよいよ天守台石垣です、整備されているので、登ってみることができます。明治4年に城内見学会が開催されたときの、天守からの眺めの記録が残っています(「年々日記」)。現在の天守台からの眺めと比べてみましょう。

天守台石垣

南の方は阿波讃岐の境なる山々たたなわりたるも(重なっているが)いと近く見え・・  (年々日記)

天守台南側の眺め

東の方屋島は元よりわが志度の浦なども見ゆ。(年々日記)

天守台東側の眺め

北の方女木男木の二島は真下に、吉備の児島のよきほどに見ゆるもいわんかたなし。(年々日記)

天守台北側の眺め

天守が復元されたら、どんな景色が見えるのでしょうか。

海城らしさを求めて

今度は、公園西門から出て、海城らしさを追い求めましょう。

公園西門

海に面した二の丸北側の石垣の上には、櫓(廉櫓(れんやぐら)・武櫓(ぶやぐら))がありました。この辺は昔の海岸ですが、人工的に水辺を作って、雰囲気を残しています。

武櫓跡

水手御門の前も水辺になっています。これは海に乗り出すための門を再現しているのでしょう。海に開く門としては、唯一の現存例だそうです。

水手御門

ここでも月見櫓を間近に見ることができますが、海を正面にして作られた櫓なので、こちら側に施された装飾が美しく見えます。

月見櫓
月見櫓は、海側から眺めるのがおすすめです

月見櫓の向こうにも、石垣が続いています。昔の海岸に沿っていたはずなので、追ってみましょう。

鹿櫓(しかやぐら)跡

石垣は、現代のビルの合間に入っていきます。かつての東の丸の外側石垣で、この細い部分が史跡に指定されています。

東丸の石垣

そして、艮櫓跡に到達します。周りの様子はすっかり変わってしまいましたが、今でも存在感があります。土地の記憶にもなるのですから、大事にしてほしいと思います。

艮櫓跡
かつての艮櫓周辺の古写真(高松市資料より引用)

石垣はまだ続いています。香川県立ミュージアム辺りまででしょうか。

艮櫓跡から続く石垣
香川県立ミュージアム

実はこのミュージアムにも、海城らしい展示があります。水手御殿からお殿様が出かけて、参勤交代で乗った「飛龍丸」の「御座の間」です。原寸大で復元されているのです。

復元された「御座の間」

また、高松市歴史資料館では、飛龍丸の5分の1スケールモデルが展示されています。船の部屋は、2階構成になっていて、上記の「御座の間」は一階部分にありました。しかし二階部分にももう一つの「御座の間」があって、天気や波がいいときには、お殿様はそちらに移って景色を楽しんだそうです。

飛龍丸の模型
横から見ています

城下の一部?栗林公園

栗林公園は国の特別名勝で、三名園にも勝ると言われているのですが、今回のご説明は、高松と城の歴史に関係するものに絞らせていただきます。

栗林公園東門

まず、公園の東門前に石橋がありますが、かつて外堀にかかっていた「常磐橋」です。随分短い橋に見えますが、外堀がだんだん埋め立てられて、最後のか細くなったときに使われていたものだそうです。

常磐橋

次には公園の中、商工奨励館の中庭にある「大禹謨(だいうぼ)」も見逃さないようにしましょう。それは、「讃岐のため池の父」西嶋八兵衛が、香東川改修記念に作った石碑で、かつての分岐点に置かれていました。その後、洪水で流されてしまったのが奇跡的に見つかり、今の場所に置かれているのです。

商工奨励館(香川県観光協会ホームページから引用)
「大禹謨」石碑(香川県ホームページから引用)

公園には、見事に手入れをされた松がたくさんあります。

鶴亀松

しかし個人的には、公園の豊かな水が気になってしまいます。この辺りはかつて暴れ川が流れているような場所だったのですが、治水事業によって、こんなに風流で役に立つ場所に変えられたという経緯があるからです。

南湖
水源とされる「吹上」

リンク、参考情報

史跡高松城跡、玉藻公園 公式ウェブサイト
香川県立ミュージアム
高松市歴史資料館
特別名勝 栗林公園、香川県観光協会公式ウェブサイト
ビジネス香川コラム シリーズ中世の讃岐武士
高松経済新聞特集 かもねのたかまつ歴史小話
南正邦の覚え書き
・「史跡 高松城跡/高松市」
・「高松 海城の物語/西成典久著」
・「史跡高松城跡保存活用計画/高松市(令和4年3月)」
・「よみがえる日本の城13」学研
・「高松城天守 天守復元の取組」2018年7月高松市パンフレット
・「桜御門復元 歴史的建造物の復元」2022年7月高松市パンフレット
・「高松城天守の復元案について」高松市埋蔵文化財センター
・「むかしの高松 第21号 特集 高松城を発掘する!その3」高松市教育委員会
・「栗林公園の歴史」香川県観光協会
・「高松水道の研究」神吉和夫氏論文
・「”讃岐の禹王”西嶋八兵衛」黒下年保氏論文
・「大禹謨発見のドラマ 高松・栗林公園と西嶋八兵衛」ミツカン機関誌「水の文化」40号

「高松城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

20.Sakura Castle Part2

If you are at JR Sakura Station, the place, where the castle ruins are located, it may looks simple at first. However, if you go there by walking up on the slopes, you will be surprised to see the spacious area on the top. Visitors coming from other places may feel the same way, too.

Features

Introduction

If you are at JR Sakura Station, the place, where the castle ruins are located, it may look simple at first. However, if you go there by walking up on the slopes, you will be surprised to see the spacious area on the top. Visitors coming from other places may feel the same way, too.

The hill area, seen from JR Sakura Station
One of the slopes from the station to the hill, called “Yakushizaka”

From Main Gate to Main Enclosure

Let us go from the ruins of the main gate to the center of the castle. Unfortunately, only a part of the earthen walls remains today.

The ruins of the main gate
The old photo of the gate, from the signboard at the site
The remaining earthen walls

There were some large enclosures inside the gate, such as Higashi-so-kuruwa. They were turned into schools, parking lots, and a square. There is also Sakura Castle Park control center in front of the square, which shows some exhibitions of the castle. The square had the main hall for the lord and another one for the retirement residence of Masayoshi Hotta at the end of the Edo Period.

The square, which is an open space
The Sakura Castle Park control center

You will eventually reach the center of the castle, which has been turned into Sakura Castle Park. You will first see the remaining large dry moat. It looks beautiful, covered in grass, however, it must have been deeper and more fortified in the past.

The remaining dry moat
The entrance of the park

You will next reach the ruins of the third gate, which was the first gate towards the center. The third enclosure is inside of the gate, and it was the residential area for the senior vassals in the past. You will find a mini crater in the enclosure. This is the trace of another dry moat, which has been filled. If you go further, you will see the statues of Townsend Harris and Masayoshi Hotta who tried to open Japan to the rest of the world.

The ruins of the third gate, The sign board will show you how the original enclosure would have looked like the past
The old photo of the gate, from the sign board at the site, The gate on the left leads to the resident of one of the senior vassals
The trace of the dry moat
The statues of Townsend Harris on the left and Masayoshi Hotta on the right

Then, you will reach the ruins of the second gate, the entrance of the second enclosure. The enclosure had had the first main hall for the lord before the one outside the third enclosure was built. There were also the rice warehouses in the back of the enclosure. You can still see its stone foundations there, too.

The ruins of the second gate
The old photo of the gate, from the sign board at the site
The ruins of the hall
The remaining stone foundations

You will eventually reach the main enclosure after going across the dry moat of the enclosure. there are the ruins of the first gate.

The ruins of the first gate behind the earthen bridge over the moat
The old photo of the gate, from the sign board at the site, Notice the people standing in front of the gate.  They are the generals

Climbing down from Main Enclosure

The main enclosure is all surrounded by earthen walls, so you may feel like you are being wrapped up. This area is the western edge of the plateau. There was the other main hall inside, however, it was rarely used just for ceremonies. This was because it was considered exclusive for the shoguns.

The inside of the main enclosure
The miniature model of the main enclosure, exhibited by the Sakura Castle Park control center

You can walk on the earthen walls around the enclosure. If you walk from the first gate ruins on the earthen walls, you will pass by the ruins of Do-yagura (the copper turret). The turret had a mysterious tradition. It says that the turret was originally built by Dokan Ota, the founder of Edo Castle, called “Shoyoken”, and moved from the castle. However, we cannot confirm whether or not the turret was moved from Edo Castle. However, if it had remained, it would have become a National Treasure of Japan.

The ruins of Do-yagura turret
The old photo of the turret, from the signboard at the site, as you can see, carpenters were removing the roof tiles partially
The miniature model of the turret, exhibited by the Sakura Castle Park control center

If you go further, you will eventually reach the earthen base of the main tower.
The tower was directly built on the base and its outside walls leaned on the earthen walls of the enclosure. That was why people saw the tower three-leveled from the outside but four-leveled from the inside. The tower was used as the warehouse for weapons. It was unfortunately burned down after a thief robbed it of guns and left his lantern there.

The ruins of the main tower
The miniature model of the tower, exhibited by the Sakura Castle Park control center

There are the other ruins of the corner turret in the enclosure. The turret also has the tradition which says it originally came from Motosakura Castle. That may have been the reason why it deteriorated sooner than the others and was renovated during the Edo Period.

The ruins of the corner turret

Let us next get out of the enclosure through the ruins of the back gate and climb down the slopes of the plateau. The slopes are steep which made the castle fortified. You will eventually see some trails on the mid slopes, which are the belt enclosures of the castle. The enclosures were said to have originally been dry moats and were changed to the trails by being filled naturally. If you look up the main enclosure, you will realize it is protected by the natural terrain even though it doesn’t have stone walls.

The ruins of the back gate
The miniature model of the gate, exhibited by the Sakura Castle Park control center
Climbing down the slopes of the plateau, please be careful when climbing down because it’s very steep
The belt enclosures
Looking up the main enclosure

You will eventually arrive at the foot of the plateau and see the southern barbican enclosure. If you go around the enclosure, you will see it is still surrounded by water moats. It looks very defensive and cool! If you enter the enclosure as well, you will see the outside which you walked around on.

The exterior of the southern barbican enclosure
The inside of the southern barbican enclosure
The view from the inside of the enclosure

I recommend you to go back to the belt enclosure and walk on it to the other western barbican enclosure. The enclosure still has its earthen walls and water moats in good conditions. There is the only remaining building at its entrance, called Yakui-mon gate. However, No one knows for certain its original name and position, because it was moved multiple times from the current position that it is in now.

The western barbican enclosure
The earthen walls of the enclosure
The Yakui-mon gate

Looking at Umadashi system and Dry Moats

If you don’t mind, it may be better to walk around the plateau to another entrance from the north to the castle. It was called Tamachi-mon which was the back gate of the castle, on Atago slope. It is now the front gate of the National Museum of Japanese History. A large enclosure of the castle, called Shinoki-kuruwa has become the museum. The enclosure was originally used as Samurai residences and was turned into barracks for the Japanese Imperial Army before the museum. It has been used effectively because it is massive.

The Atago slope
The ruins of Tamachi-mon Gate
The miniature model of Shinoki Enclosure when it was used as the barracks for the Japanese Imperial Aemy, exhibited by the National Museum of Japanese History

The floor space of the museum is about 35,000 square meters big. It exhibits the Japanese histories by classifying 5 different periods. If you want to look through all of them, you may have to spend all day long. It may be better to split up your visits to fully see everything.

The entrance of the National Museum of Japanese History
The miniature model of Taga Castle, an ancient castle in the Tohoku Region, exhibited by the National Museum of Japanese History
The miniature model of the hall of the Asakura Clan in Ichijodani Castle, exhibited by the National Museum of Japanese History

Going back to the attractions of the castle, the Umadashi system has been restored near the museum. The system was a fortified square position in front of Shinoki Gate, which was surrounded by dry moats. The long side of the square is 121m long and the short side is 40m long, same as the original. The dry moats were originally 5.6m in depth but is only 3m in depth probably for safety reasons. The system is only connected by a narrow path to the gate. It was once filled by the Japanese Imperial Army before its restoration.

The Umadashi system in front of the Shinoki Gate Ruins

The Shinoki Gate Ruins have no buildings now, and its inside is the third enclosure. So, you can visit the second and main enclosures again. However, let us go to another place by walking down from the plateau again. It is a pond, called Uba-ga-ike, which means “The Pond of a Nursing Mother”. The name comes from a sad and unfortunate story. It says that one day, a nursing mother took the daughter of a senior vassal to the pond. However, she didn’t keep her eyes on the daughter, which lead to the daughter drowning in the pond She felt very sad and guilty about it, so, she decided to throw herself into the pond as well. For the castle, this pond divided the main gate and the back gate sides to force the defenders protect the castle quickly. It also became famous for Japanese iris and croaking sounds of frogs during the peaceful Edo Period.

The ruins of Shinoki Gate
The old photo of the gate, from the signboard at the site
The Uba-ga-ike Pond, Since the pond is covered in lotus leaves, it’s hard to see how deep it truly is

You can go back from the pond to the main gate ruins by passing through a path which was another dry moat. The path has a fork which still looks like the dry moat. If you go straight, you will eventually reach the entrance of the park near the gate ruins.

The former dry moat, which is used as the path, the fork on the right, which is the dry moat today, the fork on the left which leads to the main entrance
The fork on the right remains as a dry moat

Visiting Samurai Residences and Sakura Juntendo Memorial Building

Atter visiting the castle ruins, let us go to Sakura Samurai Residences. The residence area is in Miyakoji of Sakura City, which originally had middle-class warriors’ residences. However, the current area exhibits three different residences: one of the remaining one for middle class warriors, another one form high-class warriors and finally, the other one form low-class warriors. The last two residential areas were moved from other areas, making it accessible to the public for viewing.

Sakura Samurai Residences Street, Notice the samurai residential homes on the right

These residences were owned and maintained by the Sakura Domain like official residences. They were made differently by each warrior’s class. That was because of the class system as well as the budgetary restrictions of the domain. For example, the entrance of the high-class residence looks high in quality, but the others are simpler. The walls of the high class’s one used white plasters, while the others only used brown mud walls. The high and middle class’s ones used fine Tatami mats in their rooms, however the low class can only use simple mats without the edge decorations.

The high-class residence
Its entrance is fine
The middle-class residence
Its living room is fine
The low-class residence (its roof has been replaced with a modern style)
Its living room is simple

You should also try to walk along Hiyodori-zaka Slope near the residences, which was the commuting route to the castle. The route goes down on a trail, surrounded by bamboo trees, which looks exactly same as it used to.

The Hiyodori-zaka Slope

We will finally go to Sakura Juntendo Memorial Building. It was originally built by Taizen Sato as his Rangaku (Dutch studies) school and clinic. Part of it opens to the public as a museum. The museum is about 2km away from the main gate ruins of the castle and was at the edge of the castle town. This is probably because Taizen was not an official doctor of the domain. A guide of the museum suggested to me another speculation. Taizen’s father was an agent in lawsuits who was against the policies of Tadakuni Mizuno, the top of the government. Therefore, Taizen might have had difficulties in his work in Edo City. He might also have been accommodated by Masayoshi Hotta. If it’s true, Sakura Juntendo was also like a place of refuge.

Sakura Juntendo Memorial Building
The statue of Taizen Sato

One of the exhibitions of the museum is the miniature model of the original buildings. You can see the buildings were so large. It is said that over one thousand students were there in total.

The miniature model of the original buildings

Another interesting exhibition is the original medical board which is hung on the top of the wall. The clinic mainly offered surgeries. However, the doctors didn’t use anesthesia because it was still dangerous at that time. Therefore, patients endured the pain because they wanted to get well after that.

The original medical menu, Notice the price of each procedures on the bottom of the medical board

The clinic is the origin of Juntendo University in Tokyo, one of Taizen’s successors who founded it. However, there is still the current Sakura Juntendo Clinic next to the museum. The spirits of Sakura are alive.

The plaque of Juntendo, It’s written in Chinese Characters (Kanji)

My Impression

Honestly, at first, I thought the castle park looked like a natural park. However, the more I looked around, the more my impressions changed. Currently it’s trendy for cities to revive castles across Japan. I think Sakura City does not need to ride the boom. This is because the city has already preserved the land of the castle as the park. The city can take enough time and be patient when developing it further. The important thing is preserving it as accurate as possible. In addition, you can still enjoy the castle ruins even without its visible buildings. So I highly recmmend you visit Sakura Catle in the future!

That’s all. Thank you.

Back to “Sakura Castle Part1”

205.松尾山城 その2

今回は、関ヶ原合戦の陣地を西軍中心に回ってから、最終的には小早川秀秋が布陣していた松尾山城跡を目指す形で、見どころを紹介します。西軍陣地も、従来説のものに加えて、新説で言われている新たな候補地も回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション

今回は、関ヶ原合戦の陣地を西軍中心に回ってから、最終的には小早川秀秋が布陣していた松尾山城跡を目指す形で、見どころを紹介します。西軍陣地も、従来説のものに加えて、新説で言われている新たな候補地も回ってみます。そこで、スタート地点として大垣城を選びました。関ヶ原合戦は、西軍を率いていた石田三成がここから移動したことをきっかけに起こったからです。大垣城天守内にも、やはり三成や関ヶ原合戦の展示があります。大垣から関ヶ原までは、電車ですぐです。

現在の大垣城天守
大垣城天守内の展示(一例)
関ヶ原駅

西軍陣地めぐり(従来説)

従来説の各陣地は、現地の案内表示が充実しているので、観光マップが手元にあれば、迷うことはないでしょう。まずは従来説の、石田三成・笹尾山陣地に向かっていきます。

現地案内表示の一例

笹尾山に行くには、一旦「関ヶ原古戦場決戦地」を目指すといいと思います。向こうの方に三成の陣の幟が見えてきます。

関ヶ原古戦場決戦地
決戦地から見える笹尾山

笹尾山の麓に着くと、そこは三成の重臣・島左近陣地となっています。そして笹尾山を登っていくのですが、ここに三成が陣を布いたという合戦当時の記録はありません。恐らくは江戸時代の地誌などに基づいて、明治時代に各部将の陣地を定めたものの一つなのです。

島左近陣跡
笹尾山陣地への入口
石田三成陣跡

しかし場所的には、いかにも本陣がありそうなところで、南宮山から、松尾山まで、怪しい人たちの様子も見渡せたのではと思ってしまいます。

笹尾山からの眺め

次の目標地点は大谷吉継墓ですが、その間に西軍諸将の陣地跡を通過します。「島津義弘」「小西行長」「宇喜多秀家」と続きます。その間は結構な距離(キロメートル単位)になりますが、島津隊の兵士からは、各部将は密集して布陣していた(百メートル単位の距離)との証言もあります。

島津義弘陣跡
小西行長陣跡
宇喜多秀家陣跡

そこから後は、文字通り「山中」に入っていきます。その辺りからは、陣地を構築した跡が多くみられるそうです。吉継が先に行って、陣地を構築していたのかもしれません。この墓の場所の由来としては、自害した吉継の首を、部下(湯淺五助)が埋葬し、後に敵方の藤堂家によりお墓が建てられたと言われています。今でもお供えが絶えることがありません。

大谷吉継墓

西軍陣地めぐり(新説)

大谷吉継墓からは、近くにある吉継の陣跡に向かいます。これは「従来説」による呼称なのですが、新説の一つ(高橋陽介氏による)では、島津隊の陣となっているのです。

大谷吉継陣跡

ところで、この近くに「松尾山眺望地」という場所があります。そこからは、松尾山の小早川秀秋陣地跡を望むことができます。従来説では、秀秋の裏切りを見抜いた吉継がこの辺に布陣したことになっているので、きっとこの眺望も根拠の一つになったのでしょう。しかし、前回記事でご紹介したどの説(従来説は現代の歴史家による修正布陣図による)でも、吉継は別の所に移動していることになっています。よって、先ほどの新説では、三成との位置関係から、島津が使ったとしたのではないでしょうか。

松雄山眺望地
山に「小早川秀秋陣地」の幟が見えます

今度は山を下って、新説による三成陣地に行きましょう。旧中山道に入ると、前方に小山が見えてきます。新説で三成陣地とされた「自害が岡」です。不吉な名前だと思うかもしれませんが、古代にこの地から起こった壬申の乱の史跡(自害峯の三本杉)になっているのです。乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の御首(みしるし)を、皇子を慕ったこの地の人たちがもらい受け、ここに埋葬したという伝説があります。名前はその故事に由来していて、御陵候補地にもなっています。時代がクロスオーバーした場所なのです。

自害が岡
自害峯の三本杉

そのような場所がもう一つあります。藤古川を渡ったところに、不破関資料館があるのですが、そこは、古代の不破関跡で、新説では大谷吉継布陣地ではないかとされています。不破の関と関ヶ原、この地はずっと境目の場所だったのです。

藤古川を渡る橋(手前)と不破関資料館(奥の丘の上)
不破関資料館、不破関跡、そして新説における大谷吉継布陣地

いよいよ松尾山です。山への入口には、小早川の旗印が並んでいます。雰囲気満点です。

松尾山(小早川秀秋陣跡)への入口

松尾山城へ

松尾山は標高293メートルありますが、麓からは約200メートルの高さだそうです。麓に駐車場もあって、山道は「東海自然歩道」の一部として整備されています。秀秋の軍勢は8千人とも1万5千人とも言われていますので、山麓まで兵がいたかもしれません。そうであれば、「問鉄砲」が本当なら銃声も聞こえたことでしょう。

松尾山登山口
山麓の登山道

松尾山城は「小早川秀秋陣」と言われますが、実は本格的な山城だったのです。山頂がある「主郭(本丸)」を中心に、山の峰に曲輪群が配置されていました。曲輪を土塁で囲み、空堀・堀切・竪堀を掘って、敵の移動や攻撃を防ぐようになっていました。これらの城の改修のほとんどは、関ヶ原合戦の前に行われました。山の地形を加工して、このような城を作ったのです。

松尾山城のジオラマ、関ヶ原町歴史民俗学習館にて展示

途中から右に曲がって、山道という感じになります。あと850メートルという案内があります。

旗印のところを右に曲がります
あと850m!

だんだん山頂に近づいていきますが、道は「東の曲輪」の下を通っているので、敵だったら攻撃されてしまいます。

道は、東の曲輪の下を通ります

やがて、幟が何本も見えてきます。ついに山頂の主郭に着きました。山の向こうから見えていた「小早川秀秋陣地」の幟も立っています。

山頂近く
山頂の主郭
「小早川秀秋陣地」の幟

山頂からは関ヶ原が一望できます。従来説の小早川秀秋ではなくとも、本当に日和見してしまいそうです。

山頂からの眺め

果たして陣なのか城なのか?

松尾山城が「お城」に値するものなのか、実地でチェックしてみましょう。実は、登ってきたのと反対側の方が、城の防御がより充実しているのです。そちら側に行ってから、改めて入城してみましょう。

松尾山城の縄張り図、「松尾山城パンフレット(関ヶ原観光協会)」より、来た道は上方から、これから進む道が下方から

最初の入口は、堀切を作ってわざと細くしています。

堀切に挟まれた入口

その次は、陣地のような曲輪を通ります。「馬出状の曲輪」と呼ばれています。

馬出状の曲輪

道はまた細くなって、曲がりながら主郭に入っていきます。

道はまた細くなります
主郭に向かいます

主郭の入口は土塁に囲まれた四角いスペースになっています。「枡形虎口」です。まるでこちらが正面のようです。小早川秀秋もここから入城したかもしれません。

桝形虎口

桝形虎口の手前からは空堀に下っていくこともできます。斜面を人工的に削った「切岸」が見えます。

空堀の方に下ります
切岸

空堀の底は、草木で覆われてはいるものの、結構広々としています。通路や兵士の居場所にも使われたと想定されています。また、堀の底にも防衛用の土塁を築かれています(喰違い土塁)。

空堀
喰違い土塁

本郭から空堀を挟んだ曲輪(名無し?)にも登ってみましょう。ここも広々としていて、城全体が基地のようになっているのがわかります。

となりの曲輪に登ります
曲輪の内部

松尾山城はただの「陣」ではなく、本格的な「城」ということが実感できました。

私の感想

関ヶ原は、いろんな説が出てくるだけの謎とロマンに満ちていると、現地をめぐって改めてそう思いました。また、古代から関所や決戦の地だったこともわかりました。東西対決は今でも続いていて、麺の東西対決のお土産を買うことができます。それから、岐阜関ヶ原古戦場記念館では、陣地めぐりをしたビジター向けに御朱印を販売していますので、こちらもおすすめです(別館ショップ、訪問したときの写真等が必要)。古戦場記念館も2020年にオープンし、人気のスポットになっていますので、中の展示をご覧になってはいかがでしょう。

岐阜関ヶ原古戦場記念館
麺の東西対決
関ヶ原合戦御朱印

これで終わります。ありがとうございました。

「松尾山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。