173.新高山城 その2

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで、楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います

Introduction

今日は、新高山城跡を見学ということで、広島県の本郷駅に来ています。新高山城へは車で行く人が多いと思いますが、電車で行く場合は、ここ本郷駅が最寄りです。ちょっと城跡からは離れていますが(城跡入口まで2km弱)、途中で情報収集ができたり、沼田川沿いを歩いて、新旧高山城の山を眺めたりできるので、これはこれで楽しめると思います。もちろん、城跡についたら、山城らしい防御の仕組みや、中腹の寺跡、本丸の石垣跡、そして山頂の素晴らしい景色など、たっぷりご紹介します。井戸跡まで行ってみようと思います。新高山城一気通貫ツアー、さっそく出発しましょう。

本郷駅前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

ここに行くには

それでは、本郷駅から城跡に向かいます。交差点のようなところを、ここは左に、

本郷駅からの道路を歩き、ここは左に曲がります

次は右に進んでいくと、右側に施設の建物が見えてきます。ここは本郷生涯学習センターで、パンフレットなど情報収集をすることができます。

道なりですが、ここを右です
本郷生涯学習センター

そこから沼田川の方に向かいますが、歩行者用の橋があるので、そちらを渡ります。

歩行者用の橋が横断歩道の先にあります

橋を渡るところから、視界が開けてきます。橋を過ぎたら、横断歩道を2つ、気を付けて渡っていただくと、沼田川の川沿いの道に出ます。2つの山の城跡が一望できます。

横断歩道を2つ渡ります(手前と右奥)
沼田川沿いの道

道が分岐しますが、どちらでもいいので、川沿いを行きましょう。

道の分岐点

山がぐんぐん迫ってきます。突き当りを左に曲がれば、神社のところで、道は合流します。

突き当りを左に
先ほど分かれた道の合流点、右に行きます

ごつごつした岩山の姿もわかります。城跡の入口に到着しました。その向こう側には駐車場もあります。

新高山城の山
城跡入口(大手道入口)
ビジター用駐車場

特徴、見どころ

山城をひたすら登る

それでは、これから大手道入口に入っていきます。この先に登山道入口もありますが、その手前の道の脇にある神社(荒神社)も、かつて城の曲輪だったかもしれないのです。最初から厳重だったのです。

城周辺の地図

大手道入口から入って右側の丘が神社の敷地になっています
荒神社

案内の通り進んでいくと、大きな案内板の前に出ます。ここが登山道の入口です。新高山城は、標高200メートル近い山に築かれ、曲輪が山全体にあったそうですが、ビジターは整備された中央の登山道を進んでいきます。安全優先で登りましょう。

案内の通り進みます
登山道入口前の案内板

それでは登っていきます。左側の峰の裾を進んでいきますが、ただならぬ気配を感じます。実は左側は「鐘の段」という大きな曲輪の裾部分になっていて、訪問者は常にチェックされていたのではないかと思うのです。

「鐘の段」の裾の道を進みます
曲輪側からの視点
「鐘の段」中心部、別の道からいくことができます

道は、小川を渡って、となりの峰に移っていきます。そして、その峰にも階段状にたくさんの曲輪がありました。今度は右側の方です。石積みの跡も見られます。

小川を渡って隣の峰へ
今度は右側に曲輪群があります
石積み跡か

その曲輪の一つが「番所跡」です。今でもよく整地されているのがわかります。

番所跡入口
番所跡(内部)

更に登っていくと、開けた場所に至ります。中腹にある「匡真寺(きょうしんじ)跡」です。説明パネルには、小早川隆景が、父親の毛利元就没後に建てたとありますが、前回の記事でご説明した通り、元就の生前にこの城に招待したときから、同じか似た名前の寺があったので、そのときには、ここに「御会所」や能舞台があったと考えられます。儀式や祝宴が行われた場所です。そのあと寺を立て直したのかもしれません。寺は廃城時に移転したので、今では池の跡や、瓦の破片などが見られるそうです。背後の石の壁も、なにやら庭園の一部のように思えてきます。

匡真寺跡
現地に残る瓦の破片
石材も少し残っているようにも見えます

山上から本丸へ

道は更に険しくなってきました。本当に登山になってきました。かなり登ったせいか、景色がいいです。もうすぐ中の丸です。立派な石段があります。これが門の入口として残っているそうです。

中の丸手前からの景色
中の丸への石段

中の丸は、弓なりの形をしていて、山上の曲輪群をつないでいました。要の曲輪ということです。つながれる方の名前(本丸、西の丸、東の丸、北の丸など)を見てもよくわかります。本丸の反対の方に、高台になっている場所があって、そこから先には西の丸などがあります。司令塔のような場所だったのでしょう。

中の丸跡
城の縄張り図(現地説明パネル)に中の丸範囲を加筆(赤ライン)
中の丸(高台)から見た西の丸方面、こちら側はビジター向けとしては未整備
中の丸(高台)から見た本丸方面

では、本丸の方に向かいましょう。大石がごろごろして、見るからにすごいです。元は、本丸を取り囲んでいた石垣だったのです。こんな石たちが組み合わさって、壁のようになっていたのでしょう。しかし、これだけ残したのはどうしてなのでしょうか。

本丸石垣跡

いよいよ本丸入口(南西側)です。「(内)枡形」になっています。ただし、正面から入るとちょっと微妙な感じで、そうだと言われないと気が付かないかもしれません。正面右側から見ると、わかりやすいと思います。

本丸入口の枡形跡(正面から)
右側から見た本丸枡形跡

本丸の中は一見なにもないようですが、奥の方に建物跡の礎石があります。確かに石の列があります。ここは本丸なので、当然小早川隆景の御殿があったことが想定されます。しかしこの城には、元就を接待したときの、他の建物の名前も記録に残っているので(「高之間」「茶湯之間」など」どこにあったのだろうと想像すると面白いです。

本丸
本丸御殿跡か
礎石が並んでいます

岩山の頂を楽しむ?

本丸の先にはまだ高い所があります。山頂がある「詰の丸」です。これは、景色が期待できそうです。詰の丸とは、城の最終防衛ラインという意味で、そこに天守が建てられる例もありました。ということは、この城にもそこに天守があったのではと期待してしまいます。実際それはわからないのですが、例の元就接待のときに「高之間」という建物があったという記録があるので、やっぱり一番高いところにあったのでは、と楽しい想像をします。

詰めの丸へ進みます

城っぼくはないけれど、すごくインパクトがある石仏や石碑があります。この山は、城が廃城になった後、修験道の山伏たちの修行の場になったそうです。この石仏たちは、そのときに作られたらしいのです。実は、隆景にも天狗と遭遇したという逸話があって(九州領主時代)、なんだか因縁を感じてしまいます。

詰めの丸にある石仏
とても見ごたえがあります

山頂からの眺めを楽しみましょう。眼下の景色もすばらしいですし、川の向こうに高山城があった山も見えます。海がある三原方面も見渡せるので、周りの状況を把握することもできたでしょう。ここは、下から見たあの岩山の頂上なのだと思うと、城を制覇した気分です。

山頂からの景色
高山城跡も見えます

山頂から道が崖下に向かっているように見えますが、実は、山伏たちの修行の関係で崖に鎖場が設けられたそうです。今でもそこから登っている人もいるとかいないとか。通常のビジターにとっては、とても無理な話ですが・・

崖下に伸びている道?

帰りは、ちょっと寄り道をしていきます。本丸のもう一つの出入口(北側)から下っていきます。ここには門があったと言われていて(大手門か)、外側が枡形になっています。

本丸のもう一つの出入り口

「釣井の段」という井戸があった曲輪に行ってみます。ここでは井戸跡が6つも見られるそうです。一番大きい井戸は直径4.2mとのことです。城は、生活の場でもあったのです。

釣井の段、井戸跡の周りにロープが張られています
井戸跡の一つ
一番大きな井戸跡

中の丸に登って、元来た道に戻ります。本丸に接したところが関門になっていて、堀のようなものもあります。どの方向もしっかり守られていたのでしょう。本丸石垣跡の大石たちのところに戻ってきました。

中の丸から釣井の段を見下ろしています
中の丸が本丸に接するところにある関門
本丸を囲む空堀か
本丸石垣跡に戻ってきました

リンク、参考情報

新高山城跡、三原観光navi(三原観光協会)
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「早春の沼田本郷に小早川氏の夢を訪ねる」備陽史探訪の会 平成15年3月徒歩例会資料

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「三原城 その2」に続きます。

7.多賀城 その2

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、国府多賀城駅前に来ています。名前がそのものずばりなので、気分が盛り上がります。普通の駅に見えますが、ここ多賀城市の面積の約3分の1は、遺跡なのだそうです。この駅から歩くともう遺跡の範囲に入っていくのです。多賀城があった場所についても丸ごと国の特別史跡に指定されている感じです。城下の町を含めると、もっと広かったのでしょう。

国府多賀城駅


今回は、その城下にある遺跡をご紹介しながら、復元されたばかりの外郭南門を見学します。続いて謎の多賀城碑から、中心部の政庁跡に向かいます。こちらも結構整備されています。そこからは、広い遺跡をできるだけ回ってみようと思います。東門があったところまで行きます。最後は、外郭の築地の跡をたどって、南門まで戻ってみます。多賀城の大きさも実感できそうです。それでは、多賀城周遊ツアー、さっそく出発しましょう!

城周辺の地図、中心の緑枠が政庁跡、赤枠が外郭ライン、黄色戦は城の主要通路

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

いきなり多賀城南門登場

それでは、国府多賀城から、多賀城跡に向かいます。駅前広場から上がったところが:小高い丘のようになっています。ここは「館前(たてまえ)遺跡」と呼ばれているところです。ここには、四面庇付きの立派な建物が建っていて、多賀城に赴任してきた国司の館ではないかと言われています。つまり、国司公邸ということです。ここから通勤していたのでしょう。

館前遺跡
現地説明パネルの復元イメージ

多賀城に通勤する気分で先に進み、駐車場を越えると、こちらも最近オープンした「多賀城跡ガイダンス施設」に着きます。是非、現地見学の前に立ち寄って、多賀城の事前学習をしていただきたいです。

多賀城跡ガイダンス施設
250809100117803

復元されたばかりの外郭南門に向かいましょう。こちらもオープンしたばかりなので、門の色が映えています。発掘調査の成果に基づき、多賀城創建1300年を記念して復元されたのです。城が一番華やかだった頃(第2期)の姿を復元しました。奈良時代にできるだけ近い工法で建てられました(高さ約14メートル、幅約11メートル)。門につながっていた築地塀も一部復元されています。塀も高くて頑丈そうです(版築工法で復元、高さ4.5メートル)。

外郭南門に向かいます
復元された外郭南門と築地塀(一部)

門は二階建てなので、敵が来たら二階から矢を放てるようにしたように思えます。しかし、二階は使わないようになっていたそうです(現地ガイドの方による)。つまり、威厳を見えるために二階建てにしたというのです。戦国時代とかの城の門とは発想が違います。

多賀城碑から政庁跡へ

次は、外郭南門から政庁の方に向かいます。しかし、まず忘れてはいけないのが国宝の多賀城碑です。現在も本物が、覆堂に守られて立っています(日本三古碑のひとつ)。覆堂は水戸黄門(徳川光圀)のアドバイスで建てられたと言われています(仙台藩が建て、現在に改修)。通常は中には入れませんが、囲いの格子から見ることはできます。しっかり見たい方は、東北歴史博物館展示のレプリカがおすすめです。文字はよく見えませんが、一番上の大きな文字は「西」とあります。初っ端に、なぜ「西」と記したのかも謎の一つなのです。石碑は西の方を向いているのでしょうが、なぜわざわざ書いたかということです。都のある方角を意識したという説もありますが、はっきりわかっていないのです。古代の人たちに聞いてみるしかないかもしれません。

多賀城碑は覆堂に守られています
中の多賀城碑

現代の道を渡って、今度は復元整備された政庁南大路を歩きます。幅は約13メートルで復元してありますが(これも第2期)、約23メートルの時代もあったそうです。まさに多賀城のメインストリートと言えるでしょう。排水施設まで復元しています(実際には暗渠)。ここにも「南門跡」があります。これは第1期の南門跡で、復元された南門は第2期のものなのです。南側に城を拡大して建て直したということでしょう。

政庁南大路
排水暗渠施設
第1期の南門跡

第1期の南門跡の上の方にもなにか見えます。「城前官衙(じょうまえかんが)」といって、役所の建物が集まっていたところです。ここにはどうやら鎮守府が置かれていたところらしいのです。ここで発掘された木簡などから、鎮守府の業務が行われていたことがわかったからです。地道な積み重ねで歴史がわかってくるのです。休憩所のようなところもあります。実は、ここは城前官衙の中心的建物を復元した場所で、わざと屋根を透明にして、その作り方をわかるようにしています(構造展示)。

城前官衙
鎮守府の業務が行われていたことを示す木簡、現地説明パネル
官衙主屋(構造復元)
屋根が透けています

いよいよ政庁跡です。石段を上がっていくというのもなかなかいいですが、これも発掘の成果をもとに復元されました。やはり政庁だけあって、高台の上にあるという感じがします。南門の方を振り返ると景色もいいです。

政庁跡への石段
政庁跡に着きました
外郭南門の方を振り返っています

政庁にも南門があって、ここが入口でした。政庁跡も復元整備によって、礎石と建物の範囲が平面展示されています。これも第2期です。それに一部の礎石はオリジナルということです。似たようなレイアウトの太宰府跡を思い出しました。

多賀城政庁南門跡
大宰府政庁南門跡

こちらは周りを囲っていた築地跡で、当時は高さが3,4メートルあったらしいです。その築地に続いていたのが「東殿(とうでん)」「西殿」で、その内側に「西脇殿(にしわきでん)」などがあり、石敷広場を囲んでいました。ここで儀式が行われていたようです。

築地跡(左側)と西脇殿跡(右側)
石敷広場

その奥の一段高いところにあったのが(基壇の上)正殿です。ここには、36もの礎石があって(内オリジナルは11)、二重にめぐっています。:内側に建物本体の身舎(もや)を支える柱が立っていて、外側は庇を支えていました。四面庇付きで、相当格式が高い建物でした。こういう痕跡で、どんな建物が建っていたがわかるのです。そういうことを知ると、芭蕉ではありませんが「夢の跡」という気分がします。

正殿跡
正殿跡に残る礎石群

多賀城の広さを感じよう

後半は、多賀城の範囲をできるだけ回ってみます。まずは、北畠顕家関係になります。とはいっても、多賀城の歴史ではものすごく最近(1952年)に建てられた多賀城神社のことです。顕家当時の遺跡は発見されていないということですので・・。戦前に建てられてた「後村上天皇御坐之處」の碑もここにあります

多賀城神社
「後村上天皇御坐之處」の碑

多賀城神社の脇からの道を歩きますが、この近くを、城を東西に貫く道路が走っていました(東西道路)。その道路沿いに史跡が点在しているのです。まずは「六月坂地区(ろくがつざか)地区」といわれている場所で、古代多賀城としては遅く、平安時代に行政的な役所として作られたらしいのです。国府の役割が中心になった時期なので、仕事量が増えたのかもしれません。ここにも、四面庇付きの建物がありました。現在は、政庁跡とともに桜の名所になっています。

四面庇付き建物跡
倉庫跡
桜の時期の政庁跡

次に進んで行きましょう。今度は「北門跡」とあります、多賀城に北門はなかったはずですが・・・これは外郭の北門ではなくて、城内にあった役所群の北門ということなのです。これも平安時代とあるので、この頃は役所として拡大していたのかもしれません。

役所群の北門跡
上記の説明パネル

その向こうの方にも、土塁で囲まれた本格的な遺跡があります。これが外郭の東門(とうもん)跡です。説明パネルの復元イメージを見ると、立派な感じです。こちらも南門ほどではないけれど、城を代表する門の一つだったのでしょう。

外郭東門跡
説明パネルの復元イメージ

ところが、少し離れたところにも「東門跡」があります。どうなっているのでしょう。先ほどは平安時代、こちらは奈良時代の東門跡ということです。整理しないとこんがらがってしまいます。

奈良時代の東門跡、奥の方に先ほどの平安時代の東門跡が見えます

このセクションの最後には、外郭の北東隅まで行ってみます。トレッキングのようになってきました。この道に沿って、築地があったそうです。

北東隅に向かいます

隅に着いたでしょうか。その先は、沼になっているそうです。北側は自然の障壁にも守られていたのです。

外郭北東隅

築地をめぐって南門に帰還

最後のセクションは、もう一つの隅(南東隅)に向けて、なるべく築地跡を歩いてみます。多賀城の大きさを更に実感できそうです。北東隅から折り返して、2つの東門跡の間を歩いていきます。また建物跡らしきものが見えてきました。ここは「大畑地区」といって、やはり平安時代の役所が立ち並んでいたそうです。この辺一帯は官庁街だったのです。今は散策にちょうどいいコースになっています。

2つの東門跡の間を進みます(左が奈良時代、右が平安時代)
大畑地区の建物跡

ぴったり築地跡沿いには行けないので、道なりに進んで行きます。なんとなく、台地の縁を歩いているような気がします。城内といっても、結構変化に富んでいます。

大地の縁のようなところを進みます

展望所があります。行ってみましょう。まだ台地の上にいるというのがわかります。南門の屋根も見えます、あそこがゴール地点です。

展望所
展望所からの景色
外郭南門の屋根が見えます

少し戻って、内側に入ります。今度も役所の跡で、作貫(さっかん)地区と呼ばれています。ここは、政庁の近くなので、奈良時代から使われていたのです。しかも、中世にも館として使われていて、土塁や空堀が発見されています。中世ということは・・多賀国府(たがのこう)が関係している可能性もあるのです。もしかすると、北畠顕家がここにいたかもしれないと思うと、わくわくします。

作貫地区の建物跡
中世の土塁や空堀もある発掘現場の模型

作貫地区から政庁跡に行くこともできますが、今回は「隅」に行きたいので、外側の方に戻っていきます。坂をどんどん下ります。道路に出ました。最初のときに渡った、南門と政庁南大路の間の道路です。道路を渡ってみると・・・「外郭南東隅」の案内表示がありました。行ってみましょう。前方の丘っぽいところでしょうか。

台地から下っていきます
道路に出ました
外郭南東隅」の案内表示

案内はありませんが、階段を登ってみます。「外郭南東隅」の標柱がありました!

小丘の階段を登ります
「外郭南東隅」の標柱

ここからは、一部復元された外郭築地跡を見ることができます。(外郭のサイズは、南辺約870m、東辺約1050m、北辺約780m、西辺約660m、多賀城陸奥総社宮HPより)完全復元ではないけれど、なかなか壮観です。最終コーナーを回って、ゴールの外郭南門に向かいましょう。

外郭築地跡

外側の中尊寺ハスも見ものです。道路で区切れたところから外に出ることができます。:それから、その辺りには櫓があったそうで、その土台や説明パネルもあります。

中尊寺ハス
櫓跡
説明パネルの櫓復元イメージ

ラストスパートです。この築地のラインが、南門の脇に復元された塀にミートします。

もうすぐゴールです
外郭南門に戻りました

リンク、参考情報

多賀城市の文化財、多賀城市
史都、多賀城 多賀城市観光協会
東北歴史博物館
・「古代東北統治の拠点 多賀城/進藤秋輝著」新泉社
・「多賀城碑 その謎を解く(第三版)/安倍辰夫・平川南編 」雄山閣
・「日本の遺跡30 多賀城跡/高倉敏明著」同成社
・「多賀城・大宰府と古代の都」東北歴史博物館
・「中世武士選書22 北畠顕家/大島延次郎著」戒光祥出版
・「多賀城市歴史的風致維持向上計画」平成28年10月変更版
・「特別史跡多賀城跡 城前官衙プレオープン資料」宮城県多賀城跡調査研究所
・「特別史跡多賀城跡 政庁南大路が完成しました」宮城県多賀城跡調査研究所
・「城柵の北の平安時代/鐘江宏之氏論文」
・「多賀城創建木簡の再検討/吉野武氏論文」東北大学機関リポジトリ
・「政治拠点としての多賀国府/吉川一明氏論文」岩手大学リポジトリ
・「浸水範囲概況図13」国土地理院
・「北畠顕家卿の上洛遠征路 花将軍、駆ける」伊達市
・Youtube「みやぎ文化財チャンネル」

「多賀城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

21.江戸城 その4

今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

特徴、見どころ(江戸城内堀紀行)

Introduction

ここは江戸城平川門の前、平川橋のところです。江戸城跡の中心部を見学したときのゴール地点でした。今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

平川橋

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

すごいぞ清水門・田安門

平川橋から内堀に沿って進みましょう。竹橋の前を折れて、北の丸に向かいます。

北の丸の航空写真

門が見えてきました。清水門です。この門は、江戸時代初期から存在し、現在残る建物は、明暦の大火の後に再建されたものです。国の重要文化財に指定されています。右側は、家康時代に飲料水確保のため、せき止めて作った牛ヶ淵です。それだけでも長い歴史を感じます。

清水門
清水門土橋から見る牛ヶ淵、武道館の屋根が見えます

土橋から、石橋を渡り歩きます。高麗門をくぐって、枡形に入ります。そして、櫓門から枡形を出ます。出たところも枡形になっています。二重枡形になっているのです。

石橋を渡って高麗門へ
枡形から櫓門をくぐります
櫓門を出たところも枡形になっています

雁木を登って、門の前を見渡しましょう。ここまで通ってきた通路がお見通しです。振り返ると、二重枡形の形もばっちり見えるスポットです。

清水門に至る土橋の通路
振り返ると二重枡形の全体を見渡せます

次は、九段坂を登って、田安門に向かいます。牛ヶ淵を見ると、水が流れ込んでいるのがわかります。田安門に通じる土橋が、右側の千鳥ヶ淵と、左側の牛ヶ淵の水位調整を行う仕切りになっているのです。田安門も、現存する重要文化財の建物です。正面に武道館が見えます。かつては、清水門と並んで、御三卿の屋敷に通じる門でしたが、今は、武道館に行く人たちの入場門になっているのです。

九段坂
牛ヶ淵に水が流れ込んでいます
田安門の土橋と高麗門
正面に武道館が見えます

この門の内側も、しっかり枡形になっています。寛永時代の1636年に建てられ、明暦の大火も生き延びました。実は、江戸城でも最古級の建物なのです。そんな貴重な門が、今もなにげなくですが、しっかり使われているなんて、すごいと思います。

田安門の枡形
田安門と武道館

まるでダム・大河のような内堀

田安門から先の内堀に沿って行きましょう。今度は、千鳥ヶ淵です。桜とボートで有名なところですが、今日はボートだけです。こちらも古い堀で、牛ヶ淵同様、家康時代の飲料水確保が起源と言われています。確かにまるで貯水池のようです。内堀の中では、一番標高が高いところだそうです(約16m)。千鳥ヶ淵沿いには緑道が整備されています。散歩するにももってこいです。

内郭西側の航空写真

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵交差点を越えると、半蔵濠になるのですが、かつては、千鳥ヶ淵と一体だったそうです。堀の向こう側には土塁と石垣が見えます。皇居がある吹上で、土塁の上部を鉢巻石垣、下部を腰巻石垣で強化しています。似たような石垣を彦根城で見ました。どちらも天下普請で築かれた大規模なお城ですので、効率よく築城しようとしたのでしょうか。

半蔵濠
吹上の鉢巻石垣と腰巻石垣
彦根城にも同様の石垣があります

また門が見えてきました。名前はよく知られている半蔵門です。現在は、皇居の入口の一つになっているので近づけませんが、こちらも門の前の土橋がすごいのです。まるでダムのようです。右側の桜田濠が、左にある半蔵濠の下流になっているのです。

半蔵門
ダムのような半蔵門の土橋

桜田濠に沿ってまた進んでいきましょう。歩道も下りになって、快調に歩けます。堀が、ダムから流れる大河のように見えます。元あった自然の谷や川を利用したのでしょうが、すごいと思います。こうやって見てみると、単なる内堀とは思えないスケールの大きさを感じます。起伏のある地形を、丸ごと城にしてしまっています。

まるで大河のような桜田濠
堀の向こう側が吹上、西の丸になります

道はだんだん平らになってきました。ビル群も見えてきました。門に近づいてきましたが、桜田門です、城の中枢部分に戻ってきました。歴史の舞台になったところです。

ビル群が近づいてきました
桜田門に到着です

歴史の舞台、桜田門~西の丸

桜田門(外桜田門)は、江戸初期からあったとされていますが、現在残る建物は、明暦の大火後の1663年頃に再建されたものです。こちらも重要文化財に指定されています。外側から見ると、櫓門の妻部分の装飾がきれいです、「青海波」という模様だそうです。

桜田門
櫓門の妻部分の装飾「青海波」

桜田門外の変は、門の反対側に見える警視庁の辺りで起こったそうです。こちらも「桜田門」といわれます。

警視庁

それでは、門の方に向かいましょう。高麗門から入ります。枡形の定番です。ところが、枡形に入ると、奥に石垣や塀がありません。正面から左側も一部欠けています。これは、背後の西の丸の曲輪(的場曲輪)から攻撃できるようになっているからです。枡形にもいろんな守り方があるのです。

桜田門の高麗門
枡形の内部には向こう側の西の丸からも攻撃できるようになっています

枡形から出るときは、立派な櫓門を通ります。威風堂々としています。次の歴史の舞台に向かいます。

桜田門の櫓門
櫓門を抜けて皇居外苑に入ります

かつての西の丸下、皇居外苑に入りました。この辺は江戸城の初期、日比谷入江だったのです、信じられません。

皇居外苑

場所的には定番になりますが、おなじみの構図です。一般的には「皇居二重橋前」というのでしょうが、江戸城としては、西の丸大手門前ということになります。明治天皇が西の丸に入って以来、皇居になりました。奥に見える櫓は現存する伏見櫓です。絵になる風景です。ちなみに、正面に見えている橋は、現・皇居正門の石橋で、二重橋は、奥の方にある橋をいうそうです。西の丸に入るにも、2本の橋を渡る必要があったということです。

皇居二重橋前(西の丸大手門前)

さらに先に行くと、坂下門外の変で知られる、坂下門も見ることができます。どれも激動の幕末の歴史の舞台だったのです。

坂下門

元の日比谷入江を探る

最後のセクションは、埋め立て地の西の丸下、現在の皇居外苑の周りを歩きましょう。桜田門前に戻って、内堀沿いを進んでいきます。堀は、凱旋濠から日比谷濠に移ります。先ほど歩いた桜田濠などとは全然違ってフラットです。元の地形をよく表しています。

凱旋濠
日比谷濠

西の丸から皇居外苑の航空写真

日比谷交差点のところを曲がります。現代の東京のど真ん中の場所です。今度は大きな道路と交差します。馬場先門跡です。実は日露戦争の頃まで門が残っていたそうですが、戦勝祝賀会のときに群衆が押し寄せ、枡形の中で人が亡くなる事件があり、撤去されて、今の道路になったとのことです。この近くには休憩所もあります。

日比谷交差点
反対側は広大な日比谷濠です
馬場先門跡
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馬場先門跡から、また進んでいきましょう。これらの堀は、日比谷入江を埋め残したものといわれます。入江の大きさも想像できます。また大きな通りがあって、古い交番のような構造物も見えます。通りは大正時代にできた行幸通りで、東京駅正面から続いています。交番のようなものは、皇居の入口の守衛所として使われたそうです。

馬場先濠
行幸通りにある守衛所跡

江戸城の門の跡は通りを越えた先にもあります。古風な橋が見えます。和田倉門跡です。堀を渡る橋は、平川橋とともに、江戸城にある貴重な木橋です(基礎はコンクリート造り)。柱に被さる擬宝珠は、オリジナルだそうです。橋に威厳を加えています。門の建物は、関東大震災のときまで残っていました。それでも、今も枡形の石垣があります。

和田倉門跡の木橋
和田倉門跡の桝形

「和田倉」とは、海に臨んだ蔵という意味のようなので、当初の江戸城では、この辺りまで舟が入って、荷揚げを行っていたのでしょう。堀もここで一区切りしているので、これも入江の名残かもしれません。

内側の端、和田倉濠

そして、近くの大手門の前に来ました。今回はここをゴールとしましょう。前回の現本丸ツアーのスタート地点でしたし、平川門とは反対側にもう一か所ご紹介したい所があるのです。これも定番になるのですが、三の丸辰巳櫓、桔梗門、富士見三重櫓がいっぺんに見れるスポットです。これも有名な景色です。

大手門前
左から富士見三重櫓、桔梗門、三の丸巽櫓

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その5」に続きます。

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