92.熊本城 その1

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。

特徴、見どころ(復興状況見学)

Introduction

熊本城は2016年の熊本地震で被災し、現在は復旧中です。現時点の熊本市による「復旧基本計画」によると、なんと復旧完了は2052年度になっています。そこで、今回はまず復旧の状況をご紹介してから、城の歴史の説明をしようと思います。スタート地点は、復旧が完了した長塀にしますが、まだまだ復旧が完了した建物は少ないのです(重要文化財の建造物は13棟のうち2棟(長塀と監物櫓)、復元または再建建物は20棟のうち1棟(天守のみ))。それから、城の中心部では、見学者が復旧状況を間近に見学できる「特別見学通路」が設けられています。本記事では、まず長塀を見学しながら、南側から入城して、復旧の様子を見てみましょう。それから「特別見学通路」に入っていきます。その通路に沿って、天守や、有名な二連の石垣を眺めてみましょう。:通路を降りたら、本丸御殿を通って、天守に到着です。

現地に掲示されている熊本城復旧基本計画
復旧された監物櫓

長塀を見ながら入城

長塀は、手前の坪井川とともに、城の東南側を防衛するために築かれました。全長が242メートルもあり、現存する城の塀では最長です。当初は、石落としも所々に備えられていたそうです。名所といっていい風格を感じます。この長塀も、熊本地震で被災しましたが、13ある熊本城の重要文化財の建物の中で、最初に復旧しました(2021年)。それでも5年かかったのです。

長塀
復旧工事中の長塀(2017年)

進んでいくと、加藤清正の像があります。熊本城の正面は、南とも西とも言われていますが、南の島津氏に備えて築城したこの清正は南を向いています。それでは、南側から行幸橋、行幸坂を通って入城しましょう。

加藤清正公像

右側には唯一の水堀「備前堀」が見えますが、その向こうに石垣があります。その上には何があったでしょうか。その場所は「飯田丸」といって、熊本地震の際「奇跡の一本石垣」として、隅の石垣一本でがんばった飯田丸五重櫓(復元建物)があった所なのです。見たところ、石垣は復旧しています(2023年完了)。一旦解体した櫓の再建も、これから始まるそうです。櫓も復旧したら、復活のシンボルになりそうです。

備前堀と飯田丸五階櫓の石垣
飯田丸五階櫓と奇跡の一本石垣、現地説明パネルより

坂を登って行くと「特別見学通路」の入口に着きますが、近くにある奉行丸の未申櫓(2003年復元)を見て行きましょう。この櫓は健在そうに見えますが、裏の石垣や塀が崩れているそうです。けなげに修理の順番を待っているのです。

奉行丸未申櫓

まるで空中回廊「特別見学通路」

それでは、特別見学通路に入っていきましょう。特別見学通路は、現在「特別公開」として設定されている南ルートの一部です。アミューズメント施設のような入口から入り、階段を登っていくと、まるで空中回廊のような通路のアーチが見えます。2020年に設置され、長さ約350メートル、高さは6メートル前後あります。復旧工事に影響を与えずに、ビジターが安全に復旧状況を見学することができます。それ以上の価値があるようにも感じます。あくまで仮設の扱いで、いずれは撤去される予定ですが、残してほしいとの声も上がっているそうです。

特別見学通路の入口
特別見学通路のアーチ

通路に上がると、今は痛々しい感じですが、確かに石垣が間近に見えます。被災した数寄屋丸の石垣です。かつては隅のところに、数寄屋丸五階櫓がありました。そのとなりには、被災した建物もあります。復元された数寄屋丸二階御広間です。かつては、主に茶会など接客用に使われていたそうです。この建物も石垣も、修理が必要に見えますが、順番待ちになっています。それまで何とか持ちこたえてほしいです。

被災した数寄屋丸石垣
数寄屋丸二階御広間

ところでこの特別見学通路のおかげで、新たに注目されたものがあります。建物の下の石垣をよく見ていただくと・・・ハートマークの石が見えます。しかも色もそれっぽいです。当時は、縁起のよい葉っぱをイメージしたものかもしれないとのことですが、現代になって、新たな価値が付きました。これもこの通路を作った効果かもしれません。

二階御広間の石垣
ハートマークの石

反対側を見ると、復旧工事の状況がわかる景色があります。そこは、西櫓御門の跡なのですが、石垣が崩れてしまっています。崩れた石を見ると、番号が付けられています。これは、被災前の写真などから場所が特定され、元通りに復旧されるのを待っている石たちなのです。石積みができる業者や職人も限られるので、長い時間がかかるのです。

西櫓御門跡
番号が付けられた石たち

特別見学通路を進んでいくと、天守が見えてきます。

天守が見えてきました

城を違った視点から眺めよう

やはり、天守はかっこいいです。南側から見る天守は、石垣に囲まれ、高さも感じられて、強そうに見えます。手前の方に目を向けていくと、本丸御殿、そして有名な二様の石垣も見渡せます。なかなか壮観です。

特別見学通路から見た天守
手前の本丸御殿

二様の石垣の方に近づいていきましょう。下からの眺めの写真を見たことがあありますが、今回は空中から見ているようです。二様の石垣は、勾配が緩やかな方が加藤清正時代に築かれました。急な方は、細川時代とされていましたが、最近では清正の次の忠広の時代と言われています。本丸御殿を増築するために、継ぎ足されたのです。時代の違いによる、石の加工のされ方や、積み方の違いを見ることができます。弓のように立ち上がるこの石垣は「武者返し」と呼ばれます。実はこの「武者返し」は、地震対策だったという見解があるのです。熊本地震で、熊本城の石垣は約50ヶ所で崩れましたが、その多くは明治以降に修復した部分で(約3割が崩落)、築城当初の石垣は、ほとんどが地震に耐え抜いたのです(崩落は1割)。なんと、清正は敵だけなく、地震にも耐えられる城を作っていたのです。しかし、二様の石垣の天辺を見ると、両者に少しズレが生じてしまっています。こんな頑丈な石垣でも、維持していくのはとても大変なのです。

天守と二様の石垣
下から見た二様の石垣と天守, taken by ichico from photoAC
手前が清正時代、奥が恐らく忠広時代
両者に生じているズレ

ここでも、通路の反対側を見てみましょう。迷路のようになっている場所があります。南側から本丸に向かう途中に設けられた連続枡形です。この枡形を越えるには、6回も曲がる必要があります。しかも、石垣の上には「竹の丸五階櫓」などの櫓群が築かれていました。

連続枡形


更に通路を進んで行くと、復旧工事の様子が見えてきます。本丸の東にある、東竹の丸にある重要文化財の5棟の櫓群です。源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓です。倒壊はしませんでしたが、状況に応じて解体修理などがされています。工事現場の前には、瓦が並んでいるね、新しいもののようです。復旧予定は、比較的早い時期になっています。しっかりと復旧してほしいです。

東竹の丸の櫓群の復旧工事現場
新しい瓦が並んでいるようです

違う視点から景色を眺めることができた特別見学通路もそろそろ終点です。階段をまた登っていきます。今度は本丸御殿に行きます。被害を受けて建物内部には入れませんが、関門になっていて、行ってみればよくわかります。

終点が近い特別見学通路
本丸御殿に向かいます

本丸御殿~天守に到着

通路から降りたところが本丸御殿の「大御台所(おおおんだいどころ)」、つまりキッチンです。その向かいには大きな井戸があります。朝鮮で過酷な籠城戦を経験した清正は、熊本城内に120もの井戸を作ったと言われています。この井戸は残っているものの一つで、水源は阿蘇の伏流水だそうです。

本丸御殿の大御台所の出入口が見えます
本丸御殿の井戸

さて、ここからが関門です。すごい梁が横たわっていて、この下を行きます。闇り通路(くらがりつうろ)です。これが本丸御殿への入口で、天守への最後の関門にもなっています。すごい梁が続いて、圧倒されます。多くは熊本県産のアカマツだそうです。

闇り通路への入口
ものすごい梁が続きます

この通路は、東西南北に通じていて、今は、南北のみ通れるようになっています。交差点がありますが、東西の方がメインの通路だったようで、ここでクランクして、まっすぐ通れないようになっています。西側に階段のようなものが見えます。かつては、その場所が御殿の玄関でした。現在は、その階段が一部復元されているようです。御殿内部の復旧はまだちょっと先です。復旧したら、御殿の中にも入ってみたいです。

闇り通路
東側の通路
西側にある復元された玄関か

ついに、天守の前に到着しました。大天守と小天守が並んで、見栄えがします。すっかり元通りになっているように見えます。熊本地震では、天守のほとんどの瓦が落ちたり、天守台の石垣が崩れたりしました。しかし鉄筋コンクリート造りの本体は、基礎の鉄柱を、深い所から立てていたので、大きなダメージはなかったそうです。今回、耐震補強もされましたし、内部の博物館展示も、リニューアルされました。

復旧した大天守と小天守
復旧工事中の天守(2017年)

私の感想

まるで「空中回廊」のような特別見学通路にびっくりしました。旧状況を見るだけじゃなくて、いろんな視点でお城を見れて良かったです。復旧が完了した長塀や、天守を見ることで、希望も感じました。復旧が進んだら、また来てみたいと思いました。

天守入口
天守からの眺め、東の方に阿蘇の山容がうっすら見えます

「熊本城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

125.小机城 その2

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

ここに行くには

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

小机駅

振り返ると「小机駅前」交差点がありますので、右に曲がっていきます。商店街の通りを進みます。

小机駅前交差点
商店街

「小机辻」という交差点のところで、右に曲がりましょう。途中に金剛寺というお寺がありますが、奥の高台が「古城」と呼ばれた場所だったようです。

小机辻交差点
金剛寺

その先の横浜線の踏切を渡りましょう。渡った後に「小机城址」の案内があります、次の交差点を左です。閑静な住宅地ですが、線路の方を見ると、向こう側も結構な台地になっています。もしかすると城がそこまで続いていたかもしれません。

横浜線の踏切
左に曲がります
線路の向こう側が台地になっています

城跡への入口はどこでしょう。また案内があります。まだ住宅地が続きますが、急に竹林が現れます。突然、別世界に入った感じです。そうするうちに小机城址市民の森の入口「根古谷広場」に着きました。

電柱に案内があります(赤丸内)
竹林が現れます
根古谷広場

特徴、見どころ

巨大な土塁と空堀

「根古谷」とは、山城の麓の屋敷地という意味だそうなので、城主か城代、家臣たちの屋敷があったかもしれません。それでは、城跡へ登っていきましょう。麓からの高さは、20メートルちょっとです。竹林と城跡が一体化していて、すばらしいです。

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根古谷
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

城跡へ登っていきます

登ったところが、城を囲む土塁の上です。内側に、ものすごい空堀が見えます。土塁と空堀のセットで、城を守っていたのでしょう。土塁の上を歩いていきましょう。空堀の向こう側に、土塁が高くなった場所があります。その場所は櫓跡で、監視をしたり、土塁や空堀に侵入した敵を攻撃するためでしょう。

土塁から空堀を見下ろしています
土塁の上を歩いていきます
空堀の向こうに櫓跡が見えます

遊歩道が下ったところから、空堀の中を歩くことができます。この空堀は、今でも幅約20メートル、深さは12メートルありますが、かつては深さが約20メートルもあったという記録があります。他の堀(北空堀)を約2メートル掘っても底には到達しなかったそうです。堀の形もまっすぐではなく、曲げられています。北条氏の堀の特徴である「畝堀」は見つかっていませんが、簡単に登ったり進めたりできないようになっているのでしょう。それから、空堀の両側に土塁を巡らせた「二重土塁」になっています。

空堀入口
空堀の底

城跡中心部とすばらしい竹林

今度は、城跡の中心部にやってきました。市民の森の案内図の向かい側には「井楼跡(せいろうあと)」があります。これも櫓のことです。近くの土塁の上にも「櫓台」がありますので、こちらはお城の中心的な櫓だったのかもしれません。それでは「二の丸広場」の方に入っていきましょう。名前に「二の丸」と付いていますが、城跡としては「東郭」と呼ばれています。ここを本丸とする説もあるのです。発掘調査をしたときには、建物の柱の穴が見つかっています。倉庫など、城の施設があったと考えられます。領民が集められてここで訓練していたのかもしれません。

中心部にある案内図
井楼跡
櫓台
二の丸広場(東郭)
以前は発掘調査が行われていました

二の丸広場の裏手を下ると、また見どころがあります。郭の周りを囲む空堀が、遊歩道になっているのです。城跡と自然がミックスされた道を、リラックスして歩けるのです。歴史派も自然派も、楽しめます。

空堀の遊歩道
すばらしい竹林

次は「本丸広場」に行ってみますが、その間にあるのが「つなぎの曲輪」です。ここにある「櫓跡」に行ってみましょう。ここからは、空堀が見渡すことができます。先ほど、空堀の向こうの土塁からみた櫓跡なのです。「つなぎ」といいつつ重要な曲輪だったのです。

つなぎの曲輪を通ります
櫓跡から空堀を見下ろしています

本丸広場に向かいます、城跡としては「西郭」と呼ばれています。中は、スポーツができる場所になっています。名前は「本丸」となっていますが、先ほどの「二の丸」と一緒で、確定されてはいません。「本丸」と名付けた事情はわかりませんが、よく防御された場所にあるとは言えるでしょう。例えば、もう一つの入口の前には、馬出しがあって、簡単に中に入れないようになっていました。それでその奥に、門を再建してみたのかもしれません。

本丸広場(西郭)
馬出し跡から本丸広場へ
本丸広場の門

出城をまわって帰還

周遊コースの最後は、第三京浜道路を越えて、出城があったかもしれない場所に行きます。現地の城の想定図でも、その辺りを「出城」と表示しています。第三京浜の下のトンネルを通るので、一旦台地から降ります。トンネルを出たら、今度は上りです。登りきると、向こう側の城の丘が見えます。周りが開けていたら、見張り台がありそうなところです。

現地にある城の想定図
第三京浜下のトンネル
出城跡への登りの階段
道路向こう側の城の丘

残念ながら、明確なお城の遺構は見つかっていないそうですが、とにかく、天辺まで行ってみましょう。その天辺は小山のようになっていて、石碑があります。「富士仙元大菩薩」と書かれていて、江戸時代のものだそうです。頂上の小山も、その時代に、富士塚として築かれたのでしょう。もしかしたらこの下に、出城の遺構があるかもしれませんが、このミニ富士山も切にしてほしいです。

頂上は富士塚になっています
富士仙元

ここから戻りますが、来た時と違う方向に行きます。すると、また世界が急に変わった感じがします。そこが市民の森と、市街地の境界なのでしょう。大都会の自然や史跡を守るのは大変なのです。駅に戻るには、出たところにある駐車場を抜けて、道を下っていきます。しばらく歩くと、幹線道路にぶつかりますので、左に曲がります。その道路をまっすぐ行くと、城跡に向けて曲がった「小机辻」交差点に至ります。駅はもうすぐです。

市民の森と市街地の境界辺り
突き当たりを左です

私の感想

きれいな竹林に飾られた城跡を満喫し、住宅地から急に別世界に入ったような感覚も面白かったです。もしかしたら城の範囲だったかもしれないところも、周遊して回れたので、かつての城の姿を想像してみるのもありだと思いました。

竹林に囲まれた空堀の遊歩道

また、小机駅のすぐ近くには、横浜市城郷小机地区センターがあって、城の模型や、パンフレット、歴史の展示や書籍などがあります。城跡に行く前か行った後に立ち寄ってはいかがでしょうか。

横浜市城郷小机地区センター

リンク、参考情報

大倉精神文化研究所 横浜市港北区地域の研究(シリーズわがまち港北)
広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ
・「横浜の戦国武士たち/下山治久著」有隣新書
・「歴史群像149号 戦国の城 武蔵小机城/西股総生著」学研
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「「太田道灌状」を読み解く/尾崎孝著」ミヤオビパブリッシング
・「小机城を明らかに―小机城跡埋蔵文化財試掘調査について―」横浜市教育委員会
・「小机城を明らかに―小机城跡発掘調査成果報告会―」横浜市教育委員会

「小机城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

116.沼田城 その2

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

沼田駅前

要害を感じながら城跡へ

駅から城跡の沼田公園までは、1キロくらいの距離ですが、7、80mの高さの段丘を登るので、遠く感じるかもしれません。五重の天守ディスプレイもお出迎えです。坂をずっと登っていきます。だんだん急になってきます。ここは「滝坂」と呼ばれています。近くに「滝坂川」が流れていますが、沼田の用水のことです。沼田を潤した用水が、台地の端まで来ているのです。ショートカットの階段を登ると、坂はますます急になります。:階段を出ると、崖が見えて、要害の場所というのがわかります。平らになってくると、そこは台地の上です。かつてはこの辺に「滝坂門」がありました。左に曲がって、ずーっと歩いていくと門が見えてきます。沼田公園の入口です。

街なかの五重天守ディスプレイ
滝坂
滝坂川
滝坂門のあった辺り
沼田公園入口

城跡と御殿桜を見学

公園の入口は、三の丸の一部でした。入ったところに観光案内所があります。それでは、公園の中、元の本丸に入っていきましょう。中心部は花壇になっていますが、今回は「要害」を感じたいので曲輪の縁(へり)を歩いていきます。さっそくいい景色が見えます。城が要害の地に築かれたことがわかります。近くには、公園のシンボルになっている鐘楼があります。明治時代から戦後まで、沼田の町で真田時代の城の鐘を使って建てられていたものが、公園に復元されています。現在の鐘は、レプリカだそうです。:

沼田市観光案内所
沼田公園の中心部
台地のへりを進んでいきます
復元された鐘楼

どんどん進んで行くと、次は西櫓台です。真田信利が改易となったとき、これも壊され、埋められましたが、発掘された石垣を見学することができます。その櫓台の上にある「御殿桜」は、樹齢400年以上と言われています。つまり、真田時代からあったということになります。真田時代からの石垣と桜、素晴らしいコンビです。

西櫓台の石垣
西櫓台と御殿桜

もっと見ていたいですが、次に進みましょう。公園としては「下公園」と呼ばれている場所で、城の時代には「捨曲輪」「古城」と呼ばれました。沼田城が最初に築かれた場所で、沼田顕泰が築城したと言われています。「平八石」というのが置かれています。真田昌幸が城主だったときに、顕泰の子・平八郎が城を奪おうとして返り討ちに遭い、その首が置かれたとのことです。戦国時代に逆戻りです。台地の角に着くと、これもいい眺めの場所です。ここから、名胡桃城があった辺りも見えます。名胡桃城事件があったときは、こっちは北条、むこうは真田で張り合っていました。

平八石
捨曲輪からの眺め

天守はどこに?

次は、今は幻の天守の場所を探しましょう。絵図を見ると、天守は、捨曲輪(古城)から続く、本丸の東側の堀に沿って立っています。そこで捨曲輪から折り返して、堀みたいなところを探すと、向かって左側は堀っぽいです。なるべくそれに沿って進んでみますが、今は完全に公園になっていますので、それなりに歩くと通路に出ます。その辺りに「天守跡」の石碑があります。これがなければ、五重の天守があったとは、全然わかりません。ただこの周辺(本丸堀)を発掘調査したときには、大量の瓦及び金箔瓦が発見されています。最近では、信之時代(旧)と信利時代(新)と考えられる新旧の天守礎石が発見されました。信利が天守を修復した記録があるそうです(1658年、明暦4年に本丸をかさ上げした時など)。天守も城も短期間で埋められたそうですから、他にもいろいろ出てきそうです。これからに期待です。

「上野国沼田城絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館
天守跡

発掘されて見学できるものが他にもあります。本丸堀と石垣の一部です。発掘された辺りにも櫓がありました(「東櫓」または「巽櫓」)。櫓があったと思われる場所まで行けそうです。休憩スペースになっていて、石垣も見学できます。城の姿が、少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。

本丸堀跡
東櫓(巽櫓)跡周辺の石垣

公園パートの最後に、面白い現象をご紹介します。公園の東側の、旧野球グラウンドの場所を航空写真で見ると、箇所によって、植物の成長に違いに見られるそうです(クロップマーク)。これは、堀跡だった場所と、それ以外の場所によって生じた可能性があるそうです(沼田市資料による)。城が自己主張しているようです。

沼田公園の航空写真、出展:国土地理院

天空の城下町を散策

今度は城下町(市街地の坊新田町)にやってきました。ここも坂になっています。この通りは大手道で、この辺りには木戸が設けられていました(七木戸の一つ)。ちょうど坂を上がった所が関門になっていたのです。最近は「ようやっと坂」とも呼ばれているようです。大手道は当然防御されるべきなので、他にも仕掛けがありました。右側(東側)には寺が続いています。いざというときに、防衛拠点にするためです。この辺は「坊新田町」といって、信之から信吉の時代に作られ、寺が集められました。金剛院の大灯篭が見物です。少し離れますが、左側(西側)にも、小松姫のお墓がある正覚寺があります。

坊新田町周辺(ようやっと坂)
金剛院の大灯篭
小松姫墓(正覚寺)

中町を越えると、道は狭くなります。「お馬出し通り」と呼ばれていて、今もかつての雰囲気が残っています。また門が見えてきました。大手門跡です。

お馬出し通り
大手門跡

次は、先ほど大手道と交差した中町です。一見普通の商店街に見えますが、ちょっと歩いてみると、建物が少し斜めに建てられて、手前にスペースができているのが見て取れます。これは「武者隠し(武者最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。隠れ)」といって、通りを攻めてくる敵を、待ち伏せできるようになっていました。

中町
「武者隠し」と思われるスペース

最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。お寺の傍らを、沼田の用水が流れています。最初に見た滝坂川のことですが、城堀川とも呼ばれています。町の開発に努力した信吉が眠るのに、相応しい場所だと思います。

天桂寺
沼田の用水
真田信吉墓

私の感想

真田の城や町づくりが、一見あまり残っていなさそうで、実は今でもしっかり保存されていることがわかりました。御殿桜もきれいでした。

御殿桜

リンク、参考情報

沼田城跡、沼田市ホームページ
沼田市歴史資料館、沼田市ホームページ
・「沼田市史」
・「歴史群像188号 分析 謙信越山/入澤宣幸著」
・「真田信之 真田家を継いだ男の半生/黒田基樹著」角川選書
・「沼田藩真田用水群の魅力/真田陽水研究会」上毛新聞社
・「磔茂左衛門一揆の研究 /丑木幸男著」文献出版
・「発掘 沼田城かわら版 第1号、第2号」沼田市教育委員会文化財保護課
・「沼田市指定史跡沼田城跡 調査・保存整備事業の成果1・2」沼田市教育委員会文化財保護課

「沼田城その1」に戻ります。

「沼田城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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