21.江戸城 その4

今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

特徴、見どころ(江戸城内堀紀行)

Introduction

ここは江戸城平川門の前、平川橋のところです。江戸城跡の中心部を見学したときのゴール地点でした。今回は、江戸城内郭をめぐろうと思いますが、内堀のラインをずっと歩くことにします。江戸城の内堀全周は約8kmもあって、その範囲だけでも日本の城で有数の規模ですが、皇居など、普段入れないところも多いので、基本、内堀沿いを巣進みます。それでも、結構変化に富んでいて、おもしろいと思います。それでは、江戸城内堀紀行として出発しましょう。

平川橋

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

すごいぞ清水門・田安門

平川橋から内堀に沿って進みましょう。竹橋の前を折れて、北の丸に向かいます。

北の丸の航空写真

門が見えてきました。清水門です。この門は、江戸時代初期から存在し、現在残る建物は、明暦の大火の後に再建されたものです。国の重要文化財に指定されています。右側は、家康時代に飲料水確保のため、せき止めて作った牛ヶ淵です。それだけでも長い歴史を感じます。

清水門
清水門土橋から見る牛ヶ淵、武道館の屋根が見えます

土橋から、石橋を渡り歩きます。高麗門をくぐって、枡形に入ります。そして、櫓門から枡形を出ます。出たところも枡形になっています。二重枡形になっているのです。

石橋を渡って高麗門へ
枡形から櫓門をくぐります
櫓門を出たところも枡形になっています

雁木を登って、門の前を見渡しましょう。ここまで通ってきた通路がお見通しです。振り返ると、二重枡形の形もばっちり見えるスポットです。

清水門に至る土橋の通路
振り返ると二重枡形の全体を見渡せます

次は、九段坂を登って、田安門に向かいます。牛ヶ淵を見ると、水が流れ込んでいるのがわかります。田安門に通じる土橋が、右側の千鳥ヶ淵と、左側の牛ヶ淵の水位調整を行う仕切りになっているのです。田安門も、現存する重要文化財の建物です。正面に武道館が見えます。かつては、清水門と並んで、御三卿の屋敷に通じる門でしたが、今は、武道館に行く人たちの入場門になっているのです。

九段坂
牛ヶ淵に水が流れ込んでいます
田安門の土橋と高麗門
正面に武道館が見えます

この門の内側も、しっかり枡形になっています。寛永時代の1636年に建てられ、明暦の大火も生き延びました。実は、江戸城でも最古級の建物なのです。そんな貴重な門が、今もなにげなくですが、しっかり使われているなんて、すごいと思います。

田安門の枡形
田安門と武道館

まるでダム・大河のような内堀

田安門から先の内堀に沿って行きましょう。今度は、千鳥ヶ淵です。桜とボートで有名なところですが、今日はボートだけです。こちらも古い堀で、牛ヶ淵同様、家康時代の飲料水確保が起源と言われています。確かにまるで貯水池のようです。内堀の中では、一番標高が高いところだそうです(約16m)。千鳥ヶ淵沿いには緑道が整備されています。散歩するにももってこいです。

内郭西側の航空写真

千鳥ヶ淵
千鳥ヶ淵緑道

千鳥ヶ淵交差点を越えると、半蔵濠になるのですが、かつては、千鳥ヶ淵と一体だったそうです。堀の向こう側には土塁と石垣が見えます。皇居がある吹上で、土塁の上部を鉢巻石垣、下部を腰巻石垣で強化しています。似たような石垣を彦根城で見ました。どちらも天下普請で築かれた大規模なお城ですので、効率よく築城しようとしたのでしょうか。

半蔵濠
吹上の鉢巻石垣と腰巻石垣
彦根城にも同様の石垣があります

また門が見えてきました。名前はよく知られている半蔵門です。現在は、皇居の入口の一つになっているので近づけませんが、こちらも門の前の土橋がすごいのです。まるでダムのようです。右側の桜田濠が、左にある半蔵濠の下流になっているのです。

半蔵門
ダムのような半蔵門の土橋

桜田濠に沿ってまた進んでいきましょう。歩道も下りになって、快調に歩けます。堀が、ダムから流れる大河のように見えます。元あった自然の谷や川を利用したのでしょうが、すごいと思います。こうやって見てみると、単なる内堀とは思えないスケールの大きさを感じます。起伏のある地形を、丸ごと城にしてしまっています。

まるで大河のような桜田濠
堀の向こう側が吹上、西の丸になります

道はだんだん平らになってきました。ビル群も見えてきました。門に近づいてきましたが、桜田門です、城の中枢部分に戻ってきました。歴史の舞台になったところです。

ビル群が近づいてきました
桜田門に到着です

歴史の舞台、桜田門~西の丸

桜田門(外桜田門)は、江戸初期からあったとされていますが、現在残る建物は、明暦の大火後の1663年頃に再建されたものです。こちらも重要文化財に指定されています。外側から見ると、櫓門の妻部分の装飾がきれいです、「青海波」という模様だそうです。

桜田門
櫓門の妻部分の装飾「青海波」

桜田門外の変は、門の反対側に見える警視庁の辺りで起こったそうです。こちらも「桜田門」といわれます。

警視庁

それでは、門の方に向かいましょう。高麗門から入ります。枡形の定番です。ところが、枡形に入ると、奥に石垣や塀がありません。正面から左側も一部欠けています。これは、背後の西の丸の曲輪(的場曲輪)から攻撃できるようになっているからです。枡形にもいろんな守り方があるのです。

桜田門の高麗門
枡形の内部には向こう側の西の丸からも攻撃できるようになっています

枡形から出るときは、立派な櫓門を通ります。威風堂々としています。次の歴史の舞台に向かいます。

桜田門の櫓門
櫓門を抜けて皇居外苑に入ります

かつての西の丸下、皇居外苑に入りました。この辺は江戸城の初期、日比谷入江だったのです、信じられません。

皇居外苑

場所的には定番になりますが、おなじみの構図です。一般的には「皇居二重橋前」というのでしょうが、江戸城としては、西の丸大手門前ということになります。明治天皇が西の丸に入って以来、皇居になりました。奥に見える櫓は現存する伏見櫓です。絵になる風景です。ちなみに、正面に見えている橋は、現・皇居正門の石橋で、二重橋は、奥の方にある橋をいうそうです。西の丸に入るにも、2本の橋を渡る必要があったということです。

皇居二重橋前(西の丸大手門前)

さらに先に行くと、坂下門外の変で知られる、坂下門も見ることができます。どれも激動の幕末の歴史の舞台だったのです。

坂下門

元の日比谷入江を探る

最後のセクションは、埋め立て地の西の丸下、現在の皇居外苑の周りを歩きましょう。桜田門前に戻って、内堀沿いを進んでいきます。堀は、凱旋濠から日比谷濠に移ります。先ほど歩いた桜田濠などとは全然違ってフラットです。元の地形をよく表しています。

凱旋濠
日比谷濠

西の丸から皇居外苑の航空写真

日比谷交差点のところを曲がります。現代の東京のど真ん中の場所です。今度は大きな道路と交差します。馬場先門跡です。実は日露戦争の頃まで門が残っていたそうですが、戦勝祝賀会のときに群衆が押し寄せ、枡形の中で人が亡くなる事件があり、撤去されて、今の道路になったとのことです。この近くには休憩所もあります。

日比谷交差点
反対側は広大な日比谷濠です
馬場先門跡
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馬場先門跡から、また進んでいきましょう。これらの堀は、日比谷入江を埋め残したものといわれます。入江の大きさも想像できます。また大きな通りがあって、古い交番のような構造物も見えます。通りは大正時代にできた行幸通りで、東京駅正面から続いています。交番のようなものは、皇居の入口の守衛所として使われたそうです。

馬場先濠
行幸通りにある守衛所跡

江戸城の門の跡は通りを越えた先にもあります。古風な橋が見えます。和田倉門跡です。堀を渡る橋は、平川橋とともに、江戸城にある貴重な木橋です(基礎はコンクリート造り)。柱に被さる擬宝珠は、オリジナルだそうです。橋に威厳を加えています。門の建物は、関東大震災のときまで残っていました。それでも、今も枡形の石垣があります。

和田倉門跡の木橋
和田倉門跡の桝形

「和田倉」とは、海に臨んだ蔵という意味のようなので、当初の江戸城では、この辺りまで舟が入って、荷揚げを行っていたのでしょう。堀もここで一区切りしているので、これも入江の名残かもしれません。

内側の端、和田倉濠

そして、近くの大手門の前に来ました。今回はここをゴールとしましょう。前回の現本丸ツアーのスタート地点でしたし、平川門とは反対側にもう一か所ご紹介したい所があるのです。これも定番になるのですが、三の丸辰巳櫓、桔梗門、富士見三重櫓がいっぺんに見れるスポットです。これも有名な景色です。

大手門前
左から富士見三重櫓、桔梗門、三の丸巽櫓

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その5」に続きます。

8.仙台城 その2

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今日は、仙台駅前に来ています。今回は、ここから仙台城に歩いて向かいます。ここ、仙台駅はかつても城下町の一部だったようですが、前回ご説明した通り、城と城下町は、広瀬川にかかる大橋によってつながっていました。その大橋から伸びる通りは「大町(おおまち)」「新伝馬町(しんてんままち)」「名掛丁(なかけちょう)」といって、今でもその名前を残しながら現在も商店街として栄えています。仙台駅から近いところから、アーケードになっているのでわかりやすいと思います。仙台のいろんな所に行きたい人はバスなどを使われる方がよいのですが、お城一択であれば、歩いていくのもいいかもしれません。それでは、仙台城踏破ツアーとして、さっそく出発しましょう。

仙台駅
藩政時代の仙台駅周辺、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

仙台駅前から大橋までのルート

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

仙台城下町ルートを歩く

仙台駅から少し北側に歩くと、アーケードの入口が見えます。アーケード下は、先ほど申し上げた通り、3つの町名をまたいだ商店街になっています。現在の仙台の繁栄が目に見える場所です。ちょうど七夕まつりをやっています。すごい人出ですが、飾りが華やかです。この通り(現在名:中央通り)と交差するアーケード街(一番丁通り)が、この七夕飾りに彩られるのです。

アーケード入口
七夕まつりの笹飾り


城下町の中心だった「芭蕉の辻」は、七夕飾りを抜けた向こう側にあります。石碑が立っています。ここは、高札場になっていて、江戸時代後期には交差点四隅に城郭風の建物がありました。見るからに町の中心とわかります。奥州街道と交差していて、商家が軒をつらねていました。「芭蕉」という名称は、松尾芭蕉を連想してしまいますが、残念ながら、ここに住んでいた虚無僧の名前に由来すると言われています。

芭蕉の辻の石碑
「芭蕉の辻図」、明治初期の様子(仙台市博物館にて展示)
芭蕉の辻、「伊達な歴史の新体験」VR画像より

先に進んでいきます。大きな通りに合流します。有名な青葉通りです、バスで行くときにはここを通るのでしょう。橋が見えてきました。大橋です。城がある青葉山も見えてきました。何度渡っても清々しい気分です。広瀬川も見渡せるし、お城と山がだんだん迫ってきて、雰囲気が出ます。

青葉通り
大橋
大橋、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大橋を渡ります
橋から見える仙台城本丸

「仙台城跡」入口に来ました。ここからまっすぐ行くと、大手門跡ですが、その手前を左に曲がると三の丸で、当初は伊達政宗の屋敷があったところです。今は仙台市博物館、とあります。そこは帰りに寄ってみます。坂を登って行くと、左側に櫓が、右側には立派な石垣が見えます。再建された大手門脇櫓と、大手門北側石垣です。この間にどーんと大手門があったのです。その大きさがしのばれます。大手門には復元計画があります。今ここを通っている道路はどうするのでしょうか。それをどうするかも課題の一つで、迂回させる案などが検討されているます。一旦亡くなった城の建物をそのまま建てようとすると、避けて通れない問題です。知恵を絞って進めていくしかありません。

仙台城跡入口
左手は三の丸です(現・仙台市博物館)
大手門跡
大手門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大手門脇櫓(再建)

大手門から本丸まで正面突破

これから大手門跡のところを左側に曲がって、本丸の方に行きます。右側は二の丸で、かつて御殿があったところです。現在は、公園や、東北大学のキャンパスになっています。

青葉山公園、二の丸広場
東北大学キャンパス


それでは、本丸に向かって登って行きましょう。ずーっと一本道の登りで、しかも、くねっています。これも城を守るための仕掛けだと思います。歩くと、そういうのがよくわかります。途中にも関門が設けられていて、「中門(なかのもん)」跡とあります。今は道が続いているだけですが、この門から先は「中曲輪(なかのくるわ)」と呼ばれていました。もう城の中ということです。

本丸に向かう一本道
中門跡


どこからか道が合流しています。ここは「沢門(さわのもん)」跡で、三の丸からの道がここに来ています。帰りはこちらのルートを通ろうと思います。道は大きくカーブしていきます。もうすぐこのセクションのクライマックスです。

沢門跡
カーブの先には・・・

すごい石垣です。もしかしたら、お城そのものの最大の見どころかもしれない本丸北壁の石垣(北面石垣)です。敵を防ぐためでもあるのでしょうけど、城の威厳も表しています。高さが17メートルもあるのです。ところで、現代になって修繕する際に発掘をしたところ、城があったときから何回も改修されたことがわかりました。元は中世の山城だったところに、石垣を築き、その後地震で被害を受けるたびに、改修を重ねたのです。そして、今見る頑丈な姿になりました。現在の石垣(3代目)は、東日本大震災で一部被害を受けたが、300年以上保たれています。

石垣が見えてきました
本丸北壁石垣

かつてはこの上に櫓がありました。しかし事は少々複雑で、最初は三重の艮櫓があったのですが、2代目の石垣のときに地震で崩れてしまい、その後は再建されなかったのです。現在の石垣は3代目ですから、その頃にはもう櫓はなかったことになります。実はこれも現代になって、櫓を再建しようという話がありましたが、今の石垣とは位置がずれた所にあったことがわかって断念されたのです。なかなか思い通りにはいきません。もうすぐ本丸の入口です。

石垣に沿って進みます
本丸入口が見えてきました

本丸跡~景色と政宗像にプラスアルファ

それでは、本丸入口、詰門(つめのもん)跡から入っていきましょう。当初は、ここの両脇にも2基の三重櫓がありました。今は立派な鳥居があります。本丸は現在、宮城県護国神社の敷地でもあります。

詰門跡
宮城県護国神社

神社の石段を登った左手に、大広間の跡があります。本丸の中心だった建物です。現在は、発掘された後に、礎石と間取りが平面表示されています。本丸入口の、西の方から大広間に入ったとすると、紅葉の間、檜の間、孔雀の間、と進んで上段の間に至ったことがわかります。政宗や藩主たちが座った所です。そして、その横には上々段の間がありました。将軍や天皇を迎えるための部屋でした。

大広間跡
大広間、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
大広間の間取り、仙台市ホームページより引用
上段の間跡
上々段の間跡

大広間に興味がある方は「仙台城見聞館」に立ち寄ってはいかがでしょうか。大広間の模型や、再現上段の間の展示などがあります。

仙台城見聞館
大広間模型、仙台城見聞館にて展示
再現上段の間、仙台城見聞館にて展示

次は政宗像と思うかもしれませんが、もう少し、まわり道をしてみます。さっき下から見た石垣を、今度は上からながめてみたいのです。詰門の東脇櫓があった辺りから、石垣の天辺を辿っていきます。石垣が張り出した部分からは、石垣を見下すことができます。ということは、敵をここから攻撃できたということでしょう。しかも景色も素晴らしいです。石垣の隅の方に進みます。

詰門の東脇櫓跡か
石垣の張り出し部分からの眺め
石垣の隅の方に進みます

石垣隅に来ましたが、ここには櫓はありませんでした。隅の部分がもっと手前にあった時に櫓が建てられていました。同じ城でも、随分変化したということです。それから政宗像を見れば、お城に来た気がすると思うのです。大広間に櫓と石垣、天守がなくても十分城と言えるでしょう。

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伊達政宗騎馬像

ところで、懸造はどこにあったのでしょうか?政宗像から少し離れたところにあったのですが、現在、説明パネルはありますが、その頃と同じ地形とは限らないようです。崖のところにあったのだから、仕方ないかもしれません。

懸造跡
崖に面した懸造想像図、青葉城本丸会館にて展示

それから、もう一つの三重櫓・巽櫓の跡はこんな感じです。この近くからの眺めもいいです。

巽櫓跡
付近からの眺め

本丸の裏門、埋門の跡は、駐車場の入口になっています。山の上なのに、いろんな施設から駐車場まであるのです。仙台城の本丸は、諸大名の本丸の中でも有数の広さだったからです。

埋門跡
青葉城本丸会館

それから、本丸の外側、詰門の近くに、本丸北西石垣があります。度重なる地震の被害からの修復が終わったばかりです。そのため、きれいに積み直されています。だた、石の加工の仕方や、積み方が場所によって異なっているのがわかります。城があった時代にも、修復を繰り返していたということです。それを現代も営々と続けているのです。なお、ここに行くには、細い車道を歩いて通らなければいけないので、十分気を付けてください

本丸北西石垣

帰りは政宗が通った道へ

往路で申し上げた通り、帰りは三の丸を通って行きます。当初は政宗の屋敷があったところです。沢門(さわのもん)跡から入っていきます。実は、最初はこのルートが大手道だったと考えられています。ということは、政宗が本丸に通った道だと言えるのです。道が随分くねっています。この辺りに沢曲輪(さわのくるわ)というのもあって、防衛体制を整えていました。当初からある道だけあって、石垣も古そうです。

沢門跡から三の丸に向かいます
曲がりくねる道と古風な石垣

更に下ったところにあるのが、清水門跡です。その向かいにはその名にふさわしい場所があります。その場所は「造酒屋敷」跡といって、お酒を造っていました。その酒造りに使われたという清水が今も流れています。

清水門跡
造酒屋敷跡
酒造りに使ったと思われる清水が沸く場所

その下にある巽門跡の中が三の丸です。政宗より後は、蔵が建てられていたそうです。そして今は「仙台市博物館」になっています。政宗のこと、お城の事がたっぶり勉強できます。

巽門跡
仙台市博物館
仙台城模型、仙台市博物館にて展示

三の丸を反対側の子門(ねのもん)跡から出ていきます。そして三の丸の外側の堀(長沼)を進んで、行きつく先が、また政宗像です!上の部分だけですが、山の上の像にそっくりです!実はこちらは戦前に作られた初代の騎馬像だったのです。それが戦争中の金属供出で撤去され、胸から上だけが残ったのです。今ある騎馬像は跡継ぎで、戦後に作られた2代目です。城のシンボルも受け継がれていたのでした。

子門跡
三の丸外側の堀、長沼
初代政宗像

関連史跡

それから、城の周辺で政宗関連と言えば、政宗の霊廟「瑞鳳殿」、政宗が仙台に造営した大崎八幡宮、などがありますが、意外なところでは、古くからあった陸奥国分寺も、政宗が再興しているのです。やはり仙台を、東北地方の中心地にしようとした意思を感じます。

瑞鳳殿 涅槃門
瑞鳳殿 本殿
大崎八幡宮(photoAC)
陸奥国分寺仁王門
奈良時代の陸奥国分寺南大門、「伊達な歴史の新体験」VR画像より
陸奥国分寺薬師堂

リンク、参考情報

仙台城跡―伊達政宗が築いた仙台城―、仙台市
仙台市博物館、仙台市
仙台城見聞館、仙台市
・「奥州の竜」伊達政宗/佐藤貴浩著」角川新書
・「伊達政宗の素顔/佐藤憲一著 」吉川弘文館
・「歴史群像名城シリーズ13 仙台城」学
・「家からみる江戸大名 伊達家仙台藩/J・F・モリス著」吉川弘文館
・「仙台城本丸跡石垣の背面構造と変遷」我妻仁氏論文
・2016年10月17日河北新報記事(大手門復元時の迂回路案)

「仙台城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

21.江戸城 その3

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。

特徴、見どころ(江戸城登城・本丸ツアー)

Introduction

今、皇居東御苑の入口の一つ、江戸城大手門前にいます。随分たくさんの人たちが集まっています。東御苑の開門を待っている人たちなのです。江戸時代には、登城した主君の帰りを待つ家臣たちが集まっていたそうですから、今でもほうふつとさせます。私たちはこれから登城ということになります。大手門から三の丸、大手三の門跡から二の丸、そして中の門跡を経て、本丸の正門・中雀門跡と進みます。続いて、本丸の御殿跡を歩いてみましょう。富士見三重櫓、天守台、天守の模型など目に見えるものもありますが、御殿の建物は想像力で感じましょう。本丸のクライマックスは、なんといっても天守台です。本丸から出たら、外側から本丸の石垣を眺めたり、二の丸の庭園を歩きましょう。三の丸のもう一つの門、平川門を出たところをゴールとしまします。

大手門前

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

大名気分で登城

開門しましたので、行きましょう。手荷物検査が終わってから、中に入ります。現在ある建物部分は、空襲で焼けた後に復元されたものだそうです。今でも立派な門と枡形で、さすが、城の正門です。枡形内にはオリジナルの鯱があります。石製の雁木や銃眼も残っています。門を防衛する仕組みです。櫓門をくぐって、三の丸に進みましょう。

大手門が開門した状態
大手門の枡形内部
オリジナルの鯱
枡形内の雁木と銃眼(石をくり抜いている)

現在の三の丸は、宮内庁などの建物がある場所になっています。次の関門は、大手三の門の跡です。大名も駕篭から降りなければならなかった場所です。ここから先が二の丸なのですが、かつては、この前に堀がありました。横を見ると、堀と櫓群が並ぶ光景が広がっていたのです。門の中には、同心番所が残っています。新しめの三つ葉葵の瓦がありますが、元は菊の御紋だったのが、この場所を公開するときに、わざわざ取り替えたそうです。。同心番所がある場所もまた、枡形になっています。

三の丸の通路
大手三の門跡
大手三の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
中の門周辺から撮った古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
同心番所
葵の紋所の瓦が見えます

ここからが、もっとすごいです。また番所の建物がありますが。今度のは、ずいぶん大きいです。これは、百人番所で、実際に百人以上の役人が詰めていました。それに、ここにいただけではなく、ここで身支度をして、各所の警備に向かった役人もいたそうです。警備センターみたいなところだったのでしょう。24時間体制で警備をしていて、さすが江戸城、現代のガードマンも顔負けです。

百人番所

百人番所の反対側へ振り返ると、すごい石垣があります。中の門跡です。古写真で見たときも大きいと思いましたが、建物がなくても十分わかります。見せる石垣です。この石垣は、明暦の大火や、元禄時代の地震の後に修復されたものです。白っぽい石も多くて、それに精密に積まれています。石は、伊豆半島からだけではなく、西日本から花こう岩が集められました。色の違いは、石の種類が多いからでしょうし、精密さは時代の進化なのでしょう。それに、石積みは町人にも依頼されたそうです。そのころには幕府も安定し、町人も力をつけていたのです。この門は枡形ではありませんが、その頃には門の目的が、防衛より権威に移っていたのでしょう。

中の門跡
中の門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
すごい石垣です

ここにも番所が残っています。大番所です。明治時代にも作業所として使われていました。それで壊されずに残ったのです。そして、本丸に到着します。登城は順調にいきました。

大番所
本丸に向かいます

本丸ツアー(御殿跡)

それでは、本丸の正門だった、中雀門跡に入っていきます。こちらも堂々としています。この門跡の注目点は、焦げている石垣です。最後の本丸御殿が火災に遭ったときの痕跡とのことです。ただ、明暦の大火で焼けた天守台の石を持ってきたのでは、という意見もあるそうです。これは歴史の生き証人なのです。

中雀門跡
中雀門古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
火災で焦げた石垣

門の内側が本丸御殿の跡なのですが、今は広場になっています。想像力が必要な場面です。思うに、広場に出たところは、「虎の間」あたりだったのではないでしょうか。大名が将軍に謁見するのを待っていた部屋です。それなので、左の方に行けば、大広間があったところだと思うのです。

本丸御殿跡の広場
天守台にある本丸御殿平面図で照合してみましょう

ここからちょっと寄り道をします。現存する富士見三重櫓です。ひっそりとしたところにあります。御苑の中では端っこですし、櫓としても裏側なのです。皇居の方から見ると、かなり見栄えがするらしいです。

富士見三重櫓
富士見三重櫓の表側(photoACより)

推定・大広間跡に戻って先に進みましょう。次はと言えば・・松の大廊下です。有名どころとあって、説明パネルがあります。次はどこでしょうか。その先にある分岐点は、白書院のあたりでしょうか。ここから左手の方にも、現存建物があります。そこに行く途中の土地が盛り上がっているのですが、家康時代の天守の名残りではないかという説があります。。

松の大廊下跡
松の大廊下跡の先にある分岐点、右側がかつての白書院辺り、左側の高まりが天守の名残りか

その現存建物は、富士見多聞です。本丸の西側を守る櫓の一つで、中に入ることもできます。別名は「御休息所前多聞」といいます。「御休息の間」というのが中奥にありましたので、富士見多聞より少し内側の場所は、黒書院や中奥の辺りのようです。

富士見多聞
富士見多聞内部
富士見多聞から内側に入った所、かつての黒書院と中奥辺りか

ちょっと遠い寄り道をしてみましょう。富士見多聞と反対側の方に行きます。本丸休憩所に新しめの建物があるのですが、そこに寛永天守の模型があるのです。それから、休憩所の裏手の石垣を登ったところに、台所前三重櫓があったのですが、そこが現在は展望台になっています。昔の景色とは全然違うのでしょうが、城から見るビル群の景色もおもしろいと感じます。

本丸休憩所の天守模型がある建物
寛永天守模型
かつて台所前三重櫓があった展望台からの景色

本丸ツアー(天守台)

富士見多聞まで戻って、先に進みます。天守台に行く前に、もう一つ現存アイテムをご紹介します。「石室」です。御金蔵だったという説もありますが、非常時に大奥の調度品を避難させる場所だったようです。つまり大奥が近くにあったということです。石室から少し離れた辺りに、将軍が大奥に渡った御鈴廊下がありました。

石室
御鈴廊下があったと思われる場所から石室を見ています

元大奥だったところを通って、天守台に向かいましょう。時期によって異なりますが、天守台への途中に大奥の「御主殿」や「対面所」があったようです。かつては建物がひしめいていたのです。いよいよ天守台です。これまたすごい石垣です。

天守台に向かいます、この辺に大奥の建物がありました
天守台

この天守台は、明暦の大火の後、前田綱紀が築いたものです。前田家といえば、本拠地の金沢城は石垣の博物館と言われています。現場では、わずか2ヶ月で石を積み終えたそうです。石は、瀬戸内海沿岸から御影石が調達されました。それで、全体が白い色になっています。大きさは、四方が40メートル以上もあります。高さは約12メートルですが、前の寛永天守より2メートルほど低いそうです。

天守台に登ります、白い御影石が目立ちます
上まで登ります

ご存じの通り、この天守台に天守は築かれませんでした。再度の再建計画もありましたが、実現しませんでした。現代も再建運動がありますが、どうなるのでしょうか。上は展望スペースになっています。石蔵になっていた所が埋められているようです。つまり、この石垣の内側が地下室になっていました。寛永天守のときには、武器や金銀を蓄えてありました。明暦の大火が起こると、金銀が溶けて、塊になっていたそうです。

展望スペース
石垣の内側は石蔵になっていました

天守台の外側を歩きましょう。改めてその大きさを感じます。天守台の脇には、大奥の長局、つまり奥女中の住居がありました。こんなところにまで建物があったのです。この石垣にも火災の痕があります。こちらは、安政時代の火災によるものだそうです。これからも大事にしたい遺産です。

天守台側面

本丸下も見どころが沢山

ここは本丸の出入口の一つで、太田道灌が梅を植えたことにちなむと言われる、梅林坂です。江戸城の中でも、特に歴史が古い所です。ここから下って、本丸の周りを歩きましょう。

梅林坂

下った所にある梅林坂と汐見坂の間にある石垣は、随分精密に積まれています。この辺の石垣は、江戸時代以来、地震などで何度も修復されているので、「切り込みハギ」「すだれはつり」など新しい技法が使われています。

梅林坂~汐見坂の石垣

かつては海が見えたという「汐見坂」の下にきました。今はどんな景色なのか登ってみましょう。坂の右と左の石垣ってだいぶ違います。右の石垣は先ほど見た石垣です。左側の白鳥濠にある石垣は、家康時代に築かれ、技法も粗い加工の石を使った打ち込みハギなのですが、関東大震災のときも大丈夫だったそうです。古い石垣だから、弱いということではないようです。坂の上あたりまで来ました。やっぱりビルの景色です。でも、名前を残してもらえば、昔はこうだったとわかります。

汐見坂
汐見坂の左側にある白鳥濠とその石垣
汐見坂からの景色

白鳥濠の石垣を下から眺めましょう。上のところは、先ほど行った展望台です。石垣のラインもきれいです。何だか熊本城の武者返しの石垣を思い出します。

白鳥濠の石垣

二の丸は、簡単なご紹介になってしまいますが、開発されてしまった武蔵野から移された雑木林、84品種もの花菖蒲がある菖蒲田、そして、9代将軍・徳川家重時代を復元したという庭園などが見どころです。

雑木林
菖蒲田(6月下旬撮影)
庭園

最後は、梅林坂の下に戻って、平川門に向かいます。下梅林坂門跡を通るのですが、堀に挟まれた細長い枡形になっています。枡形を出てからも更に回り込んで、やっと平川門に到着です。この門は残っています。

下梅林坂門跡と細長い枡形
枡形から出てまた左に回り込みます、右側はわずかに残る二の丸の堀「天神濠」
平川門が見えてきました

城の通用門の位置づけなのですが、北東にある鬼門ということで、城内で亡くなった人や罪人が出たときは、門の枡形の中にある小さな門(山里門、不浄門)から外に出されたそうです。浅野内匠頭も江島もここを通ったと言われます。私たちは、普通に門を出ていきましょう。

平川門(櫓門)
枡形内の山里門(不浄門)
ビジターは枡形から高麗門経由で外に出ます
平川門の外側にある平川橋

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その4」に続きます。

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