35.金沢城 その4

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

特徴・見どころ(辰巳用水紀行)

Introduction

今回は、石川県にある辰巳ダム石碑の前からスタートします。このダムの近くに、辰巳用水の取水口があるのです。金沢城の歴史編のとき、兼六園の水は辰巳用水から引かれているとご説明しました。そもそも辰巳用水は何のために作られたかというと、金沢城の堀水や、生活・防火のためでした。辰巳用水を追えば、兼六園と金沢城がつながるのです。今回は、金沢城の番外編として、金沢城だけでなく、地域の重要なインフラとして使われている辰巳用水を取り上げます。

辰巳ダム石碑

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

辰巳用水の出発点

辰巳ダムは、洪水調節専用のダムとして、2012年に完成しました。「洪水調節専用」とは、普段は水を貯めこまず、大雨のときに貯水して、下流での被害を防ぐ用途です。当初の計画では、辰巳用水の取水口が水没する恐れがありましたが、ダムの位置が変更になり、辰巳用水用の放流口も設けられました。辰巳用水自体も、2010年に国の史跡に(一部)、2018年には土木学会選奨土木遺産になっています。辰巳用水の取水口はダムの上からも見ることができますが、ダム見学のための展望デッキがあって、そこからの方がよく見えると思います。ここにある「東岩取水口」は3代目で、当初下流にあったものを、取水量確保のために2度移したそうです。柵が付いているところが取水口です。そこから金沢城まで、約11キロメートル続いているのです。

辰巳ダム
東岩取水口

金沢では1631年(寛永8年)に大火があり、城や城下町に大きな被害がありました(寛永の大火)。時の藩主、前田利常は防火・生活用水確保のために城への用水開削を命じました。それを指揮したのが、小松出身の町人・板屋兵四郎で、わずか1年で完成させました。ところがその功績にも関わらず、藩の歴史書(正史)には用水のことは載らず、彼のこともほとんどわかっていないのです。工事が終わって亡き者にされたとも、別の所で活躍したとも言われています。真相は不明ですが、藩の最高機密だったことは確かでしょう。この用水で素晴らしいのが、取水口から自然の勾配のみで導かれていることです。当時は当たり前だったのでしょうが、今ではかえってすごいと思ってしまいます。特に取水口から約4キロメートルは、手掘りのトンネルを通っています。残念ながら、通常は見学できませんが、ほぼ正確な勾配(200分の1)で貫かれているそうです。技術もすごいですが(先進導坑工法・横穴工法など)、かなりの突貫工事だったようです(「加賀の四度飯」と言われた)。

江戸時代の辰巳用水を描いた「金城上水新川口図」、現地説明パネルより
手掘りのトンネル、現地説明パネルより

巧みに流れる用水

続いて、辰巳用水の流れを追ってみましょう。先ほどの辰巳ダムから1キロちょっと下流の地点に「三段石垣」があります。前方が小立野台地で、背後には犀川が流れています。その石垣の最上段のところを用水が流れているのですが(切石のアーチに覆われている)、台地の斜面が崩れやすく、用水の勾配を維持するために築かれたとのことです(全長260m)。この石垣はものすごく実用的で、「色紙短冊積み石垣」とはまるで用途がちがいます。

三段石垣
金沢城の色紙短冊積み石垣

次は、用水の中間点辺りの「土清水塩硝蔵跡(つっちょうずえんしょうぐらあと)」に来ました。金沢藩が、辰巳用水を利用した水車によって、火薬を製造していた場所です。用水とともに国の史跡に指定されています。足元の側溝を水が流れていますが、その元が辰巳用水で、オープンになっています(開渠)。今はきっと農業用水としても使われているのでしょう。こういうところも、自然に流れるようになっています。この辺りでは、辰巳用水沿いに、遊歩道が作られ、散策できるようになっています(約2km)。気持ちのよい散歩道です。もとは用水の見張りをするための道だったようです。:現在は、果樹園・雑木林・竹林に囲まれた道に整備されています。

土清水塩硝蔵跡
側溝を辰巳用水からの水が流れています
辰巳用水と遊歩道

いよいよ兼六園の近くまで来ました。古い土塀が続いていますが、加賀八家の一つ、奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀です。この脇を流れているのが辰巳用水です。この用水の向かう先が兼六園です。ただ、現在では水質確保のため、ずっと上流から兼六園専用地下流路があるそうです。きわめて現代的な用水事情です。

奥村家(宗家)上屋敷跡の土塀と辰巳用水、その先が兼六園

この近くには、他のおすすめスポットもあって、一つは石川県立歴史博物館の屋外に、用水で使われた石管が展示されています。一瞬大砲の筒かと思ってしまうほどです。この辺りはかつて重臣たちの屋敷地で、ここには加賀八家の筆頭・本多氏が住んでいました。本多正純の弟、本多政重の家です。歴史博物館のとなりには、加賀本多博物館があって、ゆかりの品を見学できます。

展示されている石管
大砲の筒のようです
加賀本多博物館内の展示

それから兼六園入口近くには、石川県立伝統産業工芸館では、松平定信が揮毫した「兼六園」の扁額が展示されています。兼六園の命名者とも言われています。兼六園の名前の由来は、六つの名勝(宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望)を兼ね備えていることですが、少なくとも「水泉」は辰巳用水のおかげです。

「兼六園」の扁額

水泉の地・兼六園

兼六園にはいくつも入口がありますが、辰巳用水が流れてくる小立野口から入って、水の流れに沿ってご紹介したいと思います。

兼六園・小立野口

まず園内の水源を探します。沈砂池です。ここで用水から来た水を浄化します。そこから、山崎山の下の洞窟を通って、反対側に流れ出ています。それが「曲水」です。用水が自然の小川のように変身しています。辰巳用水の説明もあります。

沈砂池
山崎山
曲水
辰巳用水の説明板
曲水を渡る雁行橋

眺望台からの眺めもすばらしいです。その反対側では、曲水が霞ヶ池に注いでいます。あんなすばらしい眺望と、こんな豊かな池を一緒に見れるところが、またすごいです。これも、矛盾した名勝を実現したといわれる兼六園と辰巳用水のなせる技です。

眺望台からの眺め
曲水が霞ヶ池に合流する地点にある「瀬落とし」
霞ヶ池

ここからは、金沢城に向かって、栄螺山を見ながら下っていきます。また水路があります。瓢池(ひさごいけ)まで来ました。この辺りに「蓮池庭」を作ったのが、兼六園の始まりと言われています。ここには名所の「翠滝(みどりたき)」がありますが、さっきの水路から流れているようです。演出がすごいです。

栄螺山
途中にある水路
瓢池と翠滝

最後は、少し上の方に戻ってから、とっておきの見どころをご紹介します。噴水です。でもただの噴水ではなくて、水源の霞ヶ池との高低差を使った、動力を使わない「噴水」なのです。次の金沢城にも関係することですので、覚えておいてください。

噴水

辰巳用水 城での行方

金沢城の白鳥堀跡に来ました。上の方に、石川門の櫓が見えます。実はここも辰巳用水と関係あるのです。用水の水が、先ほどの兼六園の霞ヶ池から、石管でここまで落とされ、城内の内堀や二の丸御殿まで上げられたのです。機械もない時代にそんなことができたのは、先ほどの噴水と同じで、「逆サイフォンの原理」というそうですが、上流からの高い水圧を利用していたためです。これも、板屋兵四郎の功績とされています。当時、この原理は「伏越の理」と呼ばれていました。

白鳥堀跡
金沢城の給水の仕組み、現地説明パネルより

白鳥堀跡にはまだ水辺が残っていますが、現在は、井戸水を使っているそうです。堀跡は「白鳥路」という公園になっていて、これも気持ちのいい散歩道です。

堀跡に残る水辺
白鳥路

また、現在の内堀は復元されたもので、地下水を使っているとのことです。

復元された内堀

大手門跡の手前には、唯一そのまま残っている大手堀があるのですが、これも現在の水源は、井戸水と地下水になっています。

現存する大手堀

それでは、辰巳用水を使っている堀はなくなってしまったのかというと、そうでもありません。復元されている外堀(いもり堀)の一部分が、兼六園経由で辰巳用水から給水されているのです。これは、城にとっての、辰巳用水の復活といえるでしょう。それから、玉泉院丸庭園も復元されてから、いもり堀から給水されていますので、間接的に辰巳用水を使っていることになります。かつてのやり方と違う点はあるかもしれませんが、着々と城の再整備が進んでいるのは確かです。

復元されたいもり堀
玉泉院丸庭園

リンク、参考情報

歴史都市金沢のまちづくり、金沢市ウェブサイト
水土の礎
水の物語、兼六園観光協会

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その3」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

36.丸岡城 その2

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

特徴、見どころ

Introduction

丸岡城天守下の、駐車場に来ています。ここからなら、天守まですぐに行けそうです。ここはかつての二の丸で、裏門があった辺りでしょうか。天守がある本丸は、ここから丘を登ったところにありますが、高さは20メートルもありませんし、通路もよく整備されています。城めぐりとしては、簡単に終わってしまいそうに思えます。しかし、今回は現地で唯一残っている天守を満喫したいので「天守尽くし」と称してご案内します。

丸岡城駐車場

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

天守にアクセス

まず、天守に行くにも、2通りのルートを通って、天守の周りを見学します。最初は、駐車場から本丸の方に登っていきます。この通路は明治以降に作られたのですが(おそらく昭和時代に公園として整備されたとき)、現在、ビジターに一番よく使われています。階段を上がっていくと、すぐ本丸に着いてしまいます。

城周辺の地図

駐車場から本丸への通路

本丸に上がった所は「松の丸」とも呼ばれていて、本丸の正門と不明門(あかずのもん)がありました。実は不明門は、民家に移築されていて、調査により天守と同様の古さであることが証明されています。実は天守はひとりぼっちではなかったのです。現在券売所がある辺りにも埋門がありました。現代は関門がないので、簡単に天守の方に向かうことができます。

松の丸
不明門についての展示(丸岡城観光情報センター)
券売所周辺

もう一つのルートからアクセスしてみましょう。反対側から登ります。こちらも明治以降の通路になりますが、石垣が残っていて雰囲気が出ます(ここは通称「おとこざか」かもしれません)。途中から、天守の周りを歩いていけそうです。石垣が段状になっていて、腰曲輪のようです。昔の絵図(「越前国丸岡城之絵図」)も同じようになっています。城らしい場所です。

反対側からのルート
腰曲輪
「越前国丸岡城之絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館

進んでいくと、井戸があります。説明板によると、一向一揆との戦いのときに、この井戸から大蛇が出て、霞をかけて城を守ったという伝説があるそうです。井戸から上がるところも、門の跡のようになっています。天守に着きました。

伝説をもつ井戸
天守の方に向かいます
天守に着きました

古風な天守を鑑賞

古風な天守のルックスを、改めて鑑賞しましょう。この姿を見ていると、どうしても現存最古の天守に思えてしまいます。無理もありません、この天守は古風な天守の特徴をいくつも持っているのです。

丸岡城天守

一つ目は、望楼型天守であることです。望楼型とは、大きな入母屋造りの建物の上に、望楼を乗せた形式で、初期の天守に見られた特徴です。例えば、新しい型式(層塔型)の福山城天守と比べると、全然違います。

望楼型天守の典型、犬山城天守
福山城天守(外観復元)

次に、最上階に廻縁や高欄(べランダ)が取り付けられていることが挙げられます。これも、初期の天守に用いられていました。でもこの天守には、当初は違うもの(腰屋根)がついていました。廻縁は、外には出られない飾りとして後付けされました。

当初の天守想像図、丸岡城観光情報センターにて展示

それから、板張りの多くの部分がむき出しになっていることも挙げられるでしょう。松本城天守などに、同様の特徴が見られます。松本城の場合は、黒い部分が漆塗の下見板張りになっています。

松本城天守

更には、石垣が古い形式(野面積み)であることと、石瓦を使っていることも、武骨で古風に見せています。丸岡城天守は、現存天守唯一の石瓦葺きで、近隣の北ノ庄城や、福井城も、石瓦を使っていました。寒冷地に適応できる耐久性があったことと、越前国では、笏谷石が優れた石材として知られていました。安土城天守台階段に、笏谷石を使ったタイルがありますが、柴田勝家が織田信長に献上した石を使ったと言われています。しかし、廻縁と一緒で、この天守は当初、こけら葺きで、後から石瓦葺きになったのです。現在まで必要に応じ、瓦の修理・交換が行われていますが、笏谷石の調達は困難になっているため、昭和時代から石川県産の石材を使っているそうです。

天守台石垣
笏谷石の石瓦、丸岡城観光情報センターにて展示
福井城の模型、福井市立郷土歴史博物館にて展示
安土城で使われている笏谷石のタイル
一時使われていた石製の鯱、丸岡城観光情報センターにて展示

最近行われた調査により、この天守は、現存最古ではないことがわかったのですが、天守を築いた本多成重やその跡継ぎたちが、意識して古風なスタイルにしたということなのです。どうしてなのでしょうか。そんなことを考えながら、天守の中に入りましょう。

現存天守に突入

いよいよ天守の中に入ります。この天守は、2重3階、高さは約12メートル、石垣を含めると約18メートルです。現存12天守中、11番目の高さです。でも、低いとは全然感じません。単独で立っている「独立式」だからでしょうか。このまっすぐな石階段も面白いのですが、調査によれば、かつては曲げられていた痕跡があったそうです。階段の脇の石垣に建物があった可能性もあるそうです。謎は尽きません。

天守への石階段

天守一階に入りました。すごい柱の数です。部屋の中だけで、26本もの柱があります。中央の6本を含め、多くは古材が今も使われています。天守全体の重さは公表されていませんが、石瓦だけでも約6千枚で120トンもあるそうです。柱は追加されたり入れ替えられたりしていますので、途中で石瓦に変わったことが関係しているかもしれません。

天守一階

部屋の中を歩いてみましょう。「石落とし」がありますが、実際には「格子出窓」と言っていいものです。狭間や通常の格子窓もあります。さすがにたくさん備えられています。城の模型もあります。

石落とし
格子窓、狭間
城の模型

二階に行きます。とんでもなく急な階段です。傾斜は65度あります。ロープまでついていて、これは大変です。

二階への階段

二階に昇りました。望楼型で、一階の屋根裏部屋の位置付けなのですが、意外と明るいです(狭間・屋根の窓から採光しています)。本多親子のディスプレイがあって、かっこいいです。二階は柱が少ない空間ですが、周りはいろいろあります。まず、東西にある破風の内側が部屋になっています。また、南北にある切妻屋根の中も出部屋になっていて、中に余裕で入れます。石瓦が間近に見学できます。守備兵がこもって戦うための場所だったのでしょう。

天守二階、本多親子のディスプレイ
破風の内側
切妻屋根の中の部屋
石瓦がよく見えます

そして、最上階への階段です。傾斜はさらにきつく、67度です。がんばって昇るしかありません。最上階は開放的で、昇った甲斐がありました。ここからは、東西南北全方位の眺めを楽しむことができます。昔は戦いのための物見をしたのでしょうが、今は平和で豊かな街を眺めることができます。屋根の骨組みも直接見えます。笏谷石で作ったかもしれない鬼瓦の裏面も見えます。

最上階への階段
天守最上階
屋根の骨組み
最上階からの眺め(西側)
鬼瓦の裏側

内堀ラインから天守を眺める

まずは、現在の地図と、昔の絵図を比べてみましょう。現在の地図の赤いラインが昔の内堀です。ただ、ほとんどは市街地になってしまっていますので、天守のビュースポットを探したり、これからの城跡の開発プランについて、紹介します。

現在の地図

「越前国丸岡城之絵図」の内堀部分、出展:国立公文書館

駐車場から、天守と反対方向に進みます。右側には「一筆啓上 日本一短い手紙の舘」があります。その辺りから左に曲がります。五角形の内堀の頂点の一つです。なぜ五角形の形をしているかというと、攻めてくる敵を混乱させるためにこうなったという説があります。

一筆啓上 日本一短い手紙の舘

北側から西側に回り込む辺りに追手門がありました。もうすぐ天守のビュースポットです。また天守が見えてきました。お天守前公園です。丸岡城天守は、丘と石垣と建物合わせて、高さが35メートル以上あるはずです。ここからだと、その高さを丸々感じることができます。石瓦の屋根もはっきり見えるので、渋さが光ります。

追手門があったと思われる辺り
お天守前公園
天守がよく見えます

先に進んで南側を回ります。民家が多い場所です。実は、この内堀を一部復活させる計画があるのです。もちろんすぐにはできませんが、半世紀くらいかけて、建て替えの際にお願いするなどして、公有地化を進めるそうです。遠大な計画です。現在は、丸岡城観光情報センターなど、天守周辺の整備を進めています。駐車場に戻ってきました。内堀一周、達成です。

民家の合間から見える天守
丸岡城観光情報センター
駐車場に戻ってきました

リンク、参考情報

丸岡城公式ウェブサイト
坂井市 丸岡城国宝化推進事業
・「丸岡城 ここまでわかった!お天守の新しい知見と謎/吉田純一著」坂井市文化課丸岡城国宝化推進室
・「一筆啓上 家康と鬼の本多作左衛門/横山茂著」郁朋社
・丸岡城研究調査パンフレット「知られざる丸岡城」
・「丸岡城お天守物語~天守を守った人々~」坂井市
・「坂井市埋蔵文化財発掘調査報告書 丸岡城跡」2021 坂井市教育委員会
・「丸岡城周辺整備基本計画」坂井市
・「江戸期天守と大名支配」中尾七重氏研究論文
・「本多作左衛門重次と子孫たち」取手市埋蔵文化財センター第2回企画展資料
・「福井の戦国 歴史秘話 第5号」平成29年6月30日福井県発行資料

「丸岡城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

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