77.高松城 その1

高松市といえば、四国の玄関口ともいえる都市です。本州と四国の間には本四国連絡橋や空港が整備されてはいますが、岡山から電車で気軽に訪れることができる場所です。その高松市は、高松城とともに発展してきました。高松城としてよく目にする風景は、このお堀に浮かぶ櫓のイメージですが、この絵からは、絵からだけではわからないこの城の特徴を2つ説明できます。

立地と歴史

イントロダクション

高松市といえば、四国の玄関口ともいえる都市です。本州と四国の間には本四国連絡橋や空港が整備されてはいますが、岡山から電車で気軽に訪れることができる場所です。その高松市は、高松城とともに発展してきました。高松城としてよく目にする風景は、このお堀に浮かぶ櫓のイメージですが、この絵からは、絵からだけではわからないこの城の特徴を2つ説明できます。1つ目は、この堀の水は、海水を取り入れていることです。高松城は、日本で初の本格的海城の一つで、「日本三大海城」の一つとも称されます。2つ目は、石垣の上に乗っている現存する「艮(うしとら)櫓」のことです。「艮」と北東を示す言葉ですが、この櫓は現在、城の南東の位置にあります。つまり、元あった所から、現在の場所(元は太鼓櫓があった)に保存のため移築されたのです。この記事では、このような高松城の歴史をご説明していきます。

艮櫓
艮櫓が元あった場所

高松城築城まで

現・高松市がある香川県は讃岐国と呼ばれ、京都に近く、室町時代は幕府管領家の細川氏の直轄地となっていました。その細川氏を支えた代表的な地元領主が「細川四天王」(香川氏、奈良氏、香西氏、安富氏)と呼ばれました。しかし戦国時代になって細川氏に内紛が起き、阿波細川氏が当主になると、その重臣の三好氏が台頭してきます。やがで三好長慶は、将軍や細川氏をも凌駕し、三好政権を確立しました。そして弟を、讃岐の一領主、十河氏に送り込み(十河一存、そごうかずまさ)、讃岐国まで支配を及ぼしました。

室町幕府管領の一人、細川政元肖像画、龍安寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
三好長慶肖像画、大徳寺聚光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、長慶が没すると(1564年、永禄7年)三好氏の勢力が衰え、今度は南(土佐国)から長曾我部元親が四国統一を目論み、攻め込んできました。三好氏の支配を嫌っていた香川・香西氏は元親に味方し、十河氏と対抗しました。そして、1584年(天正12年)本拠の十河城が落城し、当主の十河存保(まさやす)は、豊臣秀吉を頼って落ち延びました(奈良氏・安富氏はこのときに没落)。翌年秀吉軍による四国征伐が起こると、讃岐の大半は秀吉の配下・仙石久秀に与えられますが、存保も旧領に復帰します(香川氏は改易、香西氏は滅亡)。ところが、1586年(天正14年)の九州征伐に久秀とともに出陣した存保は、緒戦の大敗により戦死してしまったのです。久秀も敗戦の責めを負い改易となり、讃岐国はこの時点で新旧有力領主が一掃されていたのです(一時、尾藤知宣に与えられるも改易)。

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
仙石久秀肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新たに讃岐国領主となったのは、生駒親正でした(1587年、天正15年)。彼は織田信長に仕え、秀吉付属の武将として数多くの戦いを経験していました。親正の人となりを表すエピソードとがあります。後に築城の名手として有名になる藤堂高虎が、主君の豊臣秀長・秀保が相次いで亡くなったことで出家したのを、高虎の才を惜しんだ豊臣秀吉の命により、親正が再三の説得により秀吉家臣に復帰させたというものです。生駒家と藤堂家のつながりはこの後も続きます。また、親正は豊臣政権でも重責を担い、後に「三中老」と称されました。

生駒親正肖像画、弘憲寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

親正は当初、仙石久秀が使っていた引田城に入城しました。しかし、地理的に偏っていたため、国の中ほど、瀬戸内海が入り込んだ「古・高松湾」にあった中洲状の「野原」という場所に新城を築くことにしました(下記補足1)。その城は、それまでなかったような本格的な海城として1588年(天正16年)から築かれ、名前は縁起がよいものとして、近くにあった地名を採用し、「高松城」となりました。このような場所に海城を築いた理由としてまずは、瀬戸内海の水運を管理・監視するための適地だったことが挙げられます(「高松 海城町の物語」)。また親正のこれまでの経験上、水軍を活用したり、鉄砲による攻撃や・水攻めにも耐えられる城を築こうとしたのではないかという見解もあります(「よみがえる日本の城13」)。軟弱な海岸の地盤に城を築くことは、かつては困難でしたが、丹後国の宮津城や田辺城での経験により可能となっていました。

(補足1)讃岐に入った親正ははじめ引田城に拠ったが、領地の東の寄っており西讃岐の統治に不便であったため、聖通寺城に移ろうとした。しかし城が狭かったため、亀山(後の丸亀城)に城を築こうとした、ところが東讃岐の太内郡(東かがわ市)に1日のうちにつくことができない距離だったので、山田郡の由良山(高松市)を候補地としたが、こちらは水が乏しかった。最後に香東郡の野原荘に城(高松城)を築くことを決めた。(讃羽綴遺録)

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高松城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

引田城跡
「古・高松湾」の想像図、高松城跡ガイダンス施設にて展示

それに加えて、豊臣秀吉による水上ネットワーク構築や朝鮮侵攻の方針からの影響もあったと思われます。当時は秀吉による天下統一が仕上げの段階に入っていました。そのため、特に西日本に配置された大名は秀吉の方針により、拠点を移したり新城を築いたりする動きが目立ちました。四国においては、蜂須賀家政の徳島城(築城年1586年)、藤堂高虎の宇和島城(1596年)、長宗我部元親の浦戸城(1591年)が挙げられるでしょう。また四国以外でも、有名な海城として、中津城(1588年)、三原城(1595年)、府内城(1597年)、米子城(1600年)などが築かれました。高松城は、秀吉の構想に対応して、早い時期に築かれたものだということがわかります。親正は実際に、朝鮮侵攻にも参加しています。

徳島城跡
宇和島城跡
中津城跡
三原城跡
米子城跡

生駒氏時代の高松城

親正は、高松城築城を1588年(天正16年)から開始しました(生駒家宝簡集)。縄張り(レイアウト)は、黒田孝高(官兵衛)、藤堂高虎、あるいは細川忠興が行ったともされ、記録によって異なっています。数年で完成したという伝承もありますが、天主台発掘の結果などから、関ヶ原合戦の後に、親正が出家し、子の一正が高松城に入城した頃に完成したのではないかと推測されます(「史跡 高松城跡」)。関ヶ原合戦のとき、親正は西軍に、一正は東軍に味方したのですが、一正の活躍により生駒家の存続は高松藩(17万3千石)として認められていたのです(親正の肖像画は、その出家時の姿)。城下町も並行して整備されました。3代目の正俊が1610年(慶長15年)に高松城に入城した時に、丸亀から商人を移し「丸亀町」を作ったとされています。

生駒一正肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
生駒正俊肖像画、法泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現・丸亀町商店街

次の松平氏が入った直後、つまり生駒氏時代の最終形の城の姿を描いたとされる絵図が残っています(「高松城下図屏風」香川県立ミュージアム蔵)。これによれば、城の北側が瀬戸内海に接していて、残りの三方は三重の堀で囲まれていました。城の中心部(本丸、二の丸、三の丸、西の丸、桜の馬場)は内堀・中堀の内側にあって、武家屋敷があった外曲輪と外堀が、外側にありました。全ての堀は海水を引き入れていましたが、内堀・中堀と海の間には仕切りがあって、直接入れないようになっていました。絵図のその辺りには、軍船のような船が漂っています。一方、外堀は海と直接つながっていて、東側は商港、西側は軍港として使われました。城下町は、外堀の周りに作られました。天守はこの頃からありましが、後に改装されたため、当初の詳細は不明です。絵図からは、改装後よりも古い形式(三層望楼型、下見板張り)だったろうと推測されます(「日本の城改訂版 第63号」)。

高松城下図屏風、香川県立ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高松城の模型、高松城跡ガイダンス施設にて展示

生駒氏の時代には、民政面での取り組みもなされました。瀬戸内海周辺は雨が少なく(そのため塩業が発達したのですが)、一方雨が降った時には、城の近くを流れる香東川が洪水を起こすという事態に見舞われていました。3代目の藩主・正俊は1621年(元和7年)に亡くなり、子の高俊がわずか11才で跡を継ぎました。そのため、正俊の妻の父(高俊の外祖父)・藤堂高虎が後見することになったのです。親正以来のつながりもありました。高虎は、家臣を高松藩に出向させますが、そのうちの一人が土木技術者の西嶋八兵衛でした。八兵衛は、香東川を西側に付け替え(二又の支流を一つにまとめた)高松を洪水の被害から救い、農地も増やしたのです。また八兵衛は、少雨の地の農業のため、多くのため池築造や修築を行いました。中でも、日本一の大きさと言われる満濃池の修築が有名です。八兵衛は「讃岐のため池の父」と呼ばれています。更には、付け替えられた香東川の名残りの水溜まりや伏流水を基に、作られたのが現・栗林公園でした。藩主の高俊が造園し、公園の原型が形作られたとされています(「栗林公園の歴史」)。

西嶋八兵衛肖像画、「栗林公園の歴史」より引用
八兵衛が修築した満濃池 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、高虎(藤堂家)の後見は、負の面もありました。藤堂家からは藩政を取り仕切る家老(前野助左衛門・石崎若狭)も派遣されていて、生駒家の生え抜きの家老たちと対立を深めたのです。藩主の高俊にそれを治める力はありませんでした。この対立は、幕府の審議に持ち込まれその結果、1640年(寛永17年)、生駒家は改易となってしまいました(出羽矢島で小大名・旗本として存続)。

生駒高俊肖像画、龍源寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

松平氏時代の高松城

その後1642年(寛永19年)、高松城を含む東讃岐の地域は、新・高松藩(12万石)として徳川御三家の水戸藩主・徳川頼房の子・松平頼重に与えられました。頼房の跡継ぎ・徳川光圀(水戸黄門)の兄に当たります。ちなみに、兄を差し置いて水戸藩の世子に指名された光圀は心を痛めていて、水戸藩主になるときに、兄の子(綱方・綱條)を養子として自分の跡継ぎとしました(下記補足2)。その代わりに光圀の実子・頼常が高松藩を継ぐことになりました。(幕末に水戸藩出身で有名な徳川斉昭・慶喜は頼重の血統です。)この高松松平家の家格は江戸城での「黒書院溜間詰め」という、大変高いもので、幕府から政治の諮問を受けるような立場でした。よって藩の役割には、四国・西国の外様大名の監視もあったと言われています(松平公益会編1964)。

(補足2)私儀弟の身として世継に罷成候段、年来心に恥申候。(略)夫れに就き願はくハ、貴兄の御子松千代(綱方)を我養子に下さるへく候。(桃源遺事)

松平頼重像、香川県ホームページより引用

高松城に入城した頼重は、城の改修に着手しました。この時期の幕府からは通常認められないことです。1647年(正保4年)から天守の改築を始めます。旧式の天守を、3重4階(+地下1階)の(層塔型・漆喰壁)のものに建て替えました。特徴としては三重目が上下2段に分かれていて、上段の方が下段より張り出していました。このような形式は「南蛮造り」と呼ばれます。豊前国小倉城天守を模したものという記録があります(下記補足3)。また、この天守は3重にしては巨大で、発掘の成果や諸記録から、26.6メートルの高さがあったと推定されています(石垣を含めると39.6メートル)。四国では最大の天守でした。この天守は、江戸時代の間、高松のランドマークになりましたが、城側からしてもこの高さは、瀬戸内海を監視するための役割が関係しているとの見方もあります(「高松 海城町の物語」)。天守の改修は1670年(寛文10年)に完了しました。

(補足3)一御天守先代三重にて御座候所崩取候而古材木ニ安原山の松を伐表向三重有腰を取内五重ニ御建被遊候、大工頭喜田彦兵衛被仰付播州姫路の城天守を写に参夫より豊前小倉の城を写罷帰り候姫路ハ中々大荘成事故小倉の形を以て当御天守彦兵衛仕候間(小神野筆帖)

高松城新天守の復元CG、高松城跡ガイダンス施設にて展示
小倉城天守の復元模型、小倉城天守内で展示
「讃岐国名勝図会」に描かれた高松城天守(国立国会図書館)

次の頼常の代にかけては、城の中心部の拡張・改修が行われました。1671年(寛文11年)から北の丸・東の丸が造営されました。そして、現存する月見(着見)櫓を1676年(延宝4年)に、翌年にはこれも現存する艮櫓を完成させました。これらも、瀬戸内海の監視を強化するためと思われます。大手門の位置も、この時期に変更されました。これをもって、高松城の基本骨格が完成したのです。1700年(元禄13年)には、三の丸に新御殿(被雲閣)が造営されました。

改修後の城の中心部(文化遺産オンライン)
月見櫓

月見櫓の脇には、水手御門があり、直接海に船で乗り出せるようになっていました。当初は、軍船の運用を想定していたのでしょうが、藩主が江戸に参勤交代に行くときもこの門を使っていました。そのために大名専用に作られたのが御座船の「飛龍丸」です。松平頼重が1669年(寛文9年)に初代を造らせ、以降3代目(1789年、寛政元年)まで建造されました。その大きさは、全長約32メートル、497石積みで、幕府が諸藩の軍船に許したぎりぎり一杯でした。つまり軍船の技術が、このような用途に転用されたのです。藩主は、水手御門から小舟で乗り出し、沖で待っている飛龍丸に乗り替えたそうです。(高松市歴史資料館)

水手御門
「高松旧藩飛竜丸明細切絵図」、東京大学駒場図書館蔵(東京大学デジタルアーカイブ)
飛龍丸(3代目)の模型、高松市歴史資料館にて展示

松平頼重は、民政にも力を注ぎました。ため池の築造(土木技術家の矢延平六の登用など)を進める一方、高松水道を創設しました。高松の城下町拡大に伴う水不足に対応するためです。大井戸・亀井戸・今井戸などの井戸を水源として、1644年(正保元年)から運用が始まりました(下記補足4)。河川以外の水源から町人地に配水する公設の水道システムとしては日本初です(「高松水道の研究」)。水源となった井戸は、生駒時代に付け替えられた古香東川の川床であるとする説(「高松水道の研究」)や、それより更に昔に流れていた川の跡だったとする説(「高松 海城町の物語」)があります。いずれにせよ、前代からの治水事業の延長であったと言えるでしょう。

(補足4)--正保元年十二月--高松城下乏水、士民患之、至此就地中作暗溝、引清水于井、衆皆大喜(高松藩記)

このセクションの最後は、再び栗林公園です。松平頼重が政務を跡継ぎの頼常に譲った後、自らの居所とし、庭園として整備したのが栗林の地だったのです(栗林荘)。次の頼常は、領民の飢饉対策の公共事業として、庭園の拡張を行ったと伝わります(うどん県旅ネット)。栗林荘が完成したのは、5代目の頼恭(よりたか)のときでした。この庭園の位置づけも、高松の地の開発と関係しているため、単なる庭園に留まらず、この地ならではの役割があったとされています。一つ目は、ため池としての機能で、元香東川の伏流水による湧水をため込んでいたというものです。次には、急な大雨・増水のときには遊水地として機能したのではというものです。また、庭園の築山や周りの土塁は、想定外の水害から高松を守るためだったという説もあります(「ブラタモリ」など)。更には、高松城・川の付け替え・栗林荘の造営を一体のものとして考え、治水・水運・軍事などの総合的な都市計画の一環であったとする見解(南正邦氏)もあります。

現・栗林公園
「栗林図」、1844年(弘化元年)作、「栗林公園の歴史」より引用

その後(明治維新後の高松城)

明治維新後、高松城は陸軍の管理下に置かれました。城の建物はほとんどが取り壊しとなり、しばらく残っていた天守も残念ながら1884年(明治17年)に解体されました。(下記補足5)

(補足5)内に入りて東の方に御天守あり、人々はい入れば皆々入りぬ。内いと暗くて見えず。梯を上るに窓あれば、明るく広きこといはんかたなし。おどろおどろしきものなり。廻りに床ようの物あれはめぐりつつ窓より外のかたを見るに、御県の家々いらかのみ見ゆ。梯を上るに下よりは狭けれども、大かたは同じ、又梯を二つ上れは中央に畳などしきて広し。上層のたる木のもとにやあらん、棟の如きいみしき木の扇子の骨のことく、四方へつき出たり。その木を歩み渡って窓より見渡すに、まづ南の方は阿波讃岐の境なる山々、たたなわりたるもいと近く見え、また御県の町々の家々真下に見下すさまの、かの何とか言う薬をのみたる鶏犬の、大空を翔かけりしここちはかくもやありけんと、おしはからるるもいみじうおかし。東の方屋島は元よりわが志度の浦なども見ゆ。それより北の方女木男木の二島は真下に、吉備の児島のよきほどに見ゆるもいわんかたなし。まだ上えかかる梯もあれど、甚あやうく見ゆればえものせず。さて大方見はてたれば、梯を下るに手すり網などをとりて、かろうじてやうやうに降りぬ。このおほん天守外よりは三層に見ゆれど、内は五層につくりなしたり。(明治4年の城内見学会を記した「年々日記」八月四日部分)

高松城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後は1890年(明治23年)に城の中心部分(内曲輪)が高松松平家に払い下げとなりました。1902年(明治35年)には天守台に初代藩主賴重を祀る玉藻廟が、1917年(大正6年)には三の丸の御殿があった所に、松平家の別邸「被雲閣(以前の御殿と同名)」が建築されました。一方で外堀・外曲輪は市街地化が進み、中心部の一部も売却されました。(第二次世界大戦)戦前の時点で残っていた城の建物は、月見櫓・水手御門・渡櫓・艮櫓・桜御門でした。

玉藻廟 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
被雲閣

瀬戸内海に面していた城の北側は明治時代になってもその景観を維持していましたが、交通網と都市機能の近代化のため、変化せざるをえませんでした。1897年(明治30年)から始まった高松港の大規模修築工事により、城の外側は埋め立てられ、海城としての姿は失われました。それでも、高松の地形や河川が少ないことから、他の地域の元海城に比べれば、海に近いロケーション(100メートル以内)に留まりました。鉄道の高松駅も、藩の港があった場所に誘致されました。そして、岡山県の宇野港から高松港への鉄道連絡船が就航することで、四国の玄関口としての地位を獲得したのです。

明治時代の艮櫓(前方)と月見櫓(後方)、高松市資料より引用
埋め立てらえたエリア

残った城跡にはなお試練がありました。1945年(昭和20年)7月4日の高松空襲により、桜御門が焼失してしまったのです。戦後、城跡は高松市の所有となり「玉藻公園」として一般公開されました。残った4棟の建物は、1950年(昭和25年)に国の重要文化財になっています。1967年(昭和42年)には、私有地にあった艮櫓が、そのままでは修理が困難なことから、太鼓櫓があった場所(現在位置)に移築されました。最近では史跡としての価値が見直され、天主台の解体修理などが行われた他、2022年(令和4年)には桜御門が復元され、77年振りに姿を現しました。現在高松市は、天守復元にむけた取り組みを行っています。また、海城らしい景観を復活させるような取り組みも検討中とのことです。

焼失前の桜御門、高松市資料より引用
復元さらた桜御門

「高松城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

205.松尾山城 その1

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。しかし近年、秀秋の「裏切り」には疑念が挟まれています。数少ない信頼できる史料を再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。

立地と歴史

Introduction

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。秀秋は、関ヶ原南方の松尾山城に陣を布き、合戦が始まってもなお東軍につくか、西軍につくか明らかにしていませんでした。そして、しびれを切らした東軍の総帥・徳川家康の命による「問鉄砲」に刺激され、ついに東軍に組みし、その勝利に貢献したというストーリーです。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし近年、秀秋の「裏切り」と「問鉄砲」には疑念が挟まれています(白峰旬氏などの指摘)。関ヶ原合戦の記録は、同時代の当事者が記した一次史料がとても少なく、大半は後の時代に記された二次史料に頼っているからです。例えば、「問鉄砲」の記述は、合戦から半世紀以上後の軍記物「慶長軍記」からとのことです(呉座勇一氏による)。「問鉄砲」の事実が揺らぐと、秀秋の「裏切り」のタイミングも、本当に合戦の最中だったのか怪しくなってしまいます。また、秀秋がどのように松尾山城に着陣し、いつ東軍に味方する決断をしたのかとういことも謎めいてきます。最近は、その少ない一次史料・それに準ずるものを再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。それにより、「問鉄砲」の見直し以外にも、いくつも新説が提起されています。それに松尾山城については、通常は小早川秀秋陣と言われますが、そもそも何のために築かれ、使われるはずだったのかも気になります。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこで、この記事では、小早川秀秋と松尾山城との関わりについて、主に3つの視点をもって、従来説を含めた3つの仮説にまとめて、ご紹介したいと思います。
3つの視点とは、
a.関ヶ原合戦前、秀秋はどこで何をしていたのか。
b.なぜ関ヶ原が決戦場となり、秀秋はいつどのように松尾山城に布陣したのか。また西軍諸将はどこに布陣したのか。
c.秀秋は、いつ東軍に加わると決心したのか。
3つの仮説とは、
1.「問鉄砲」を含む従来説
2.小早川秀秋は裏切っていないとする説
3.西軍が松尾山城攻めをしたとする説
です。

ただしまずは、小早川秀秋と松尾山城の、関ヶ原合戦に至るまでの来歴を、簡単にご紹介してから、各説のパートに入ります。

関ヶ原に至るまでの小早川秀秋と松尾山城

秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の五男として1582年(天正10年)に生まれたとされています(足守木下家譜)。幼少の頃より秀吉の養子となり、北政所に養育されていたようです。その当時から秀吉から「きん吾」と呼ばれていました(天正13年閏8月秀吉書状)。そしてわずか7歳のときに元服し、従五位下・侍従(公家成)になり、秀吉の後継者候補の一人として扱われました。秀吉が天下を取った頃には、権中納言に昇進(13歳)、丹波亀山城主にもなっていました。ところが、文禄2年に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、翌年に秀秋は、小早川家に養子に出されてしまいます。秀吉が、秀頼の後継者としての地位を安泰にしようとしたためと考えられます。

木下家定肖像画、建仁寺常光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このときの逸話として、跡継ぎのいなかった小早川隆景が、同じく跡継ぎのいなかった本家の毛利輝元の養子にされないよう、秀吉に秀秋の受入れを申し入れたという逸話(陰徳太平記)が残っています。しかし実際には既に輝元には別の養子(一族の秀元)が決定していたため、隆景が自分の所領(九州)を引き継がせ、秀吉との関係を良好に保つために自ら決断したという見方もあります。文禄4年、秀秋と毛利輝元の養女との婚姻が行われました。輝元からその養女にあてた手紙の中に、秀秋は「利口者」であるとの記述があります。内々の手紙なので、輝元の秀秋に対する評価の一端が伺えます。一方で家臣と度々諍いを起こし、秀吉にたしなめられているので、若年による未熟さもあったと思われます。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時は、秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)が行われていたため、秀秋の領地(筑前国)は支援基地の一つになりました。秀秋自身も慶長の役では、16歳で初陣(総大将)として朝鮮に渡っています。ところが、1598年(慶長3年)に帰国すると、秀吉から越前国(現・福井県)への転封を言い渡されました。これは、秀秋の朝鮮での軽率な行動(自ら最前線に乗り込んだ)が原因とも言われますが、これも後の軍記物での記述です。実態としては、筑前国を秀吉の直轄領とし、侵攻の統制を強化するためだという見方もあります。代官として、石田三成が派遣されています。秀吉没後は、秀秋は筑前国の領主に復帰し、豊臣一門に準ずる大大名として、五大老に次ぐポジションと認識されていました(九条兼孝日記)。そのとき、関ケ原合戦が起こったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つの主役・松尾山城は、近江国(現・滋賀県)と美濃国(現・岐阜県)の国境に位置していて、1570年(元亀元年)には、近江の浅井長政が家臣をこの城に配置したという記録があります(偏照山文庫所蔵文書)。当時長政が、織田信長と対立するようになったからと思われます。その後、信長が近江国を支配下に置くと、一旦廃城となりました。1600年(慶長5年)8月10日、石田三成は大垣城に入城すると、城主・伊藤盛正に対して、松尾山城に新城を築くことを命じました。三成はそのとき、大垣城と岐阜城(8月23日に落城)を拠点に、東軍に攻勢をかけることを考えていました。そして、その後詰(後方支援)として南宮山に毛利勢を入れました。また、背後の松尾山城には毛利輝元が入るはずだったという説(中井均氏)や、そのまた奥の玉城(たまじょう)には豊臣秀頼が入ることを想定していたという説(千田嘉博氏)もあります。いずれにしろ、関ケ原合戦のときには、松尾山城は西軍の有力部隊が布陣するために整備されていたのです。

松尾山城跡に立つ小早川秀秋の幟

「問鉄砲」を含む従来説

関ヶ原合戦の従来説は、明治時代に陸軍参謀本部が作成した「日本戦史」をもって固まったと言われています。歴史の本に出てくる関ヶ原の布陣図も、「日本戦史」のものがベースになっているそうです。今回注目する視点から、従来説をご説明しますが、新説の広まりによって、従来説を補強する意見(笠谷和比古氏などによる)も出てきていますので、併せてご紹介します。

西軍は8月1日に伏見城を落城させましたが、小早川秀秋勢は、主力としてこの戦いに参加しました。その後は表向きは、西軍の一員として行動していました。西軍の主力は大垣城に籠城していましたが、小早川勢は近江国周辺を行軍していたとされています。実際に、秀秋が近江の寺(成菩提院)に出した禁制(兵士に対する禁止事項)が残されています。その一方で東軍側とも交渉していて、東軍に味方する密約も交わしていました。これについては、東軍の黒田長政・浅野幸長からの密書があります。その中では「北政所」の名前を出され、東軍に味方することが彼女に報いることだと説かれています(下記補足1)。

(補足1)(前略)あなた様がどこに居られようとも、この度の忠節が非常に大切です。二・三日中に家康公がご到着されますので、それ以前に決断しなければなりません。我ら二人は北政所様に引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです。速やかなご返事をお待ちしております。(8月28日付黒田長政・浅野幸長小早川秀秋宛連署状。訳を「小早川隆景・秀秋」から引用)

成菩提院、米原市ホームページから引用

9月14日に家康が大垣近くの赤坂に着陣すると、得意の野戦に持ち込むために、西上して佐和山城を攻略作戦を立て、その情報をわざと西軍に流しました。その情報を得た西軍総大将の石田三成は、急きょ先回りをして夜中に関ヶ原に布陣しました。秀秋も三成指示により、それまでに松尾山城に着陣していました。これについては、三成が新しい事態に対処するために、自ら選択した結果とも考えられます。戦い直後に吉川広家が、西軍は佐和山に撤退しようとしていたと書状に書いているからです(下記補足2)。しかし東軍の動きが早くなったことで、関ヶ原で食い止めることになったのです。また、西軍諸将は、一旦関ヶ原より西側に移動したようですが、結果的に迎撃しやすい関ヶ原に、ほぼ従来説通りの布陣をしたと考えられます。江戸時代前期に既にそれに近い布陣図が作られているからです(下記補足3)。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測し、わざと松尾山近くの山中に布陣したとされていますが、最終的に関ヶ原の方に前進してきたようです。。

(補足2)これは佐和山へ二重引きをする心づもりであると見えました。(一重目が関ヶ原に当たる)(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足3)武家事記所収の布陣図(山鹿素行)

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦いは、午前8時頃始まりましたが、午前中は一進一退で、西軍は善戦していました。しかし東軍と密約を交わしていた南宮山の吉川勢と、松尾山の小早川勢は動きませんでした。秀秋は東軍に寝返る約束もしていましたが、それもしていませんでした。業を煮やした家康は、小早川勢に対して発砲を命じ、狼狽した秀秋はついに西軍への攻撃を決心したのです。この開戦と、小早川参戦の時間差については、戦いに参加した島津義弘や島津家臣が証言しています(下記補足4)。また「問鉄砲」は否定されているということですが、それに近い話が伝えられています(備前老人物語)。松尾山の麓で鉄砲の音がしたので、秀秋が調べさせたところ、それは徳川方の誤射だったというのです(下記補足5)。それは実は抑制された警告射撃かもしれず、もしかしたら「問鉄砲」ストーリーの元になった可能性もあります。小早川勢は大軍(8千とも1万5千とも)だったので、一部は山麓に展開していて、このようなことに気づくこともあったのではないでしょうか。

(補足4)
慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山逃げ登った。(島津義弘「惟新公御自記」、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)
夜明けとともに東国衆が大谷吉継の陣地へ攻撃を開始しました。6,7回戦闘が繰り返されましたが、小早川秀秋隊が山から降りてきて側面を攻撃し、吉継の人数を一人も残さず討ち取ってしまいました。(神戸五兵衛覚書、訳を「関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足5)小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して調べようとした。ところが、そのとき徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた。しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情がある行為であったようだ。(「備前老人物語」のエビソード、「論争 関ヶ原合戦」から引用)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小早川秀秋は裏切っていないとする説

次は、最近出ている新説(白峰旬氏などによる)から、秀秋と松尾山城に関係するものをご紹介します。まず合戦前の秀秋の所在ですが、実はあまりはっきりしていないのです。近江にいたというのは、秀秋の家老を務めていた稲葉家が江戸時代に幕府に提出して記録に基づいていると思われます(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。そこには、小早川勢が9月14日、松尾山城にいた伊藤盛正を追い出して入城したともあります。それであれば、既に「裏切り」を決断していたように思えるのですが、この記録は稲葉家の徳川家への貢献を強調するよう編集されている可能性があるので、鵜呑みにはできません。一方、大垣城に籠城していたという記録もあります。東軍として浜松城にいた保科正光が、籠城中の武将として、秀秋の名前を挙げているのです(下記補足6)。いずれにしろ、東軍からの勧誘を受けていたのは確かですので、西軍と行動を共にしつつ、迷っていたのではないでしょうか。同盟のため、9月14日付で秀秋の家老宛に出された東軍の井伊直政・本多忠勝連名の起請文があったとされていますが、これも江戸時代の軍記物(関原軍記大成)に記載されているだけなので、確実とは言えません。

(補足6)昨日(28日)、東軍先手衆から何度も報告がきました。それによりますと、大柿城には、三成・秀家殿・秀秋殿・惟新・行長ら、そのほか豊臣馬廻衆の精鋭らが2万人ほどで立て籠もっています。(8月29日付黒河内長三宛保科正光書状、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

秀秋の家老だった稲葉正成肖像画、神奈川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、秀秋が開戦時に松尾山城にいたことを示す確実な史料はないのです(白峰旬氏による)。しかし開戦直前の状況として先ほどの吉川広家の書状に「秀家の逆意がはっきりしたので、大谷吉継救援のため、西軍が山中(関ヶ原の西)に移動した」とあるのです(下記補足7)。これによれば、関ヶ原周辺に秀秋と吉継が既に布陣していたことになります。また、戦い直後に伊達政宗は、西軍は南宮山の毛利勢を支援(後詰)するため大垣城から陣を移したと言っています(下記補足8)。これらから考えると、関ヶ原合戦直前、赤坂にいた徳川家康が南宮山の毛利勢を攻めようとし、秀秋が寝返ったことも伝わったので、三成は大垣城から出る決断をしたのだと考えられます。そして南宮山にいた吉川広家は不利を悟り、家康に事実上の降伏をしたのでしょう。そのため東軍は、三成が率いる西軍主力を追って、関ヶ原に進出したのではないでしょうか。なお、西軍が布陣したのは、前述の通り、関ヶ原ではなく、その西の「山中」でした。三成にとっては、そのときその場で戦になるとは想定外だったかもしれません。

(補足7)筑中は早くも逆意を明らかにしました。それにつき、大垣の衆(三成ら)も(かの地(大垣)にいられなくなり)大刑少(吉継)の陣が気がかりとのことで、山中へ向かって引き揚げました。(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足8)大垣城への「助衆」(毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて美濃の「山中」というところへ打ち返して陣取りをした(9月晦日付家臣宛伊達政宗書状、訳を「歴史群像145号」から引用)

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以上が正しければ、秀秋は合戦前日には、東軍への参加を表明したことになります。合戦当日の経緯ですが、西軍は従来説よりも短時間で敗北したと考えられます(下記補足9)。また、開戦時間も早朝ではなく(午前10時頃)、秀秋も当初から戦いに参加したとの記録があります(下記補足10)。開戦時刻については史料によって早朝から10時頃までまちまちですが、以下のようにも考えられます。関ヶ原一帯は当日霧が深く、西軍ではそこに大谷勢が進出していました。そこで東軍先鋒との戦いが早朝に起こり、霧が晴れた段階(10時頃)で、松尾山から降りてきた小早川勢が参戦し、大谷勢が全滅したのです。そして東軍と西軍主力の戦いが山中で始まり、短時間で決着したという流れです。というのは、家康がそのとき発した書状に両者(関ヶ原・山中)の使い分けが見られるからです(補足11・12)。

(補足9)家康方軍勢が山中に押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「歴史群像145号」から引用)

(補足10)15日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の4人が御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した(9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(堀文書)、訳を「動乱の日本戦国史」から引用)

(補足11)今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候(9月24日付小早川秀秋宛徳川家康書状)

(補足12)今十五日午前、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候(9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)今月十五日の午の刻(正午頃)、美濃国の山中において一戦におよび、備前中納言(秀家)、島津(惟新)、小西(行長)、石治部(三成)の軍勢を悉く討ち取りました。(訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

徳川家康最後陣地

西軍が松尾山城攻めをしたとする説

前説においても、秀秋が関ヶ原合戦の最中に「裏切り」を決断したわけではないことがわかりますが、状況証拠の集まりで、明らかに合戦当日に最初から東軍側に立ち、西軍と対峙していたという形にはなっていません(戦とはそういうものかもしれませんが)。それを明確にしてくれるのが「関ヶ原合戦は西軍が、松尾山城に籠る秀秋を討とうしようとして発生した」という説です(高橋陽介氏による)。この説での秀秋の合戦前の行動は、前説とそれ程変わらないようにも思えますが、東軍側のつく意志は早く固めていたことでしょう。

松尾山城跡

前説と異なってくるのは、開戦直前の三成など西軍主力の状況です。この説では、前説で取り上げた吉川広家の同じ書状の解釈が異なり、西軍主力が秀秋のいる「山中」に攻め込み、大谷吉継が後を追いかけているとしているのです(下記補足13)。また、島津家臣の後年の記述によると、9月14日の大垣城の軍議中に注進が入り、秀秋が寝返ったことが判明したというのです。(下記補足14・15)つまり、三成たちは秀秋を討つために関ヶ原方面に向かったのです。

(補足13)宇喜多・島津・小西・石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿にいた者たちも、そこに留まっていることができなくなってしまいました。吉継は心細くなって、山中に向かって撤退していきました。きっとそのあと、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います。(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足14)「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(宮之原才兵衛書上)

(補足15)「ヶ様之御談合最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (井上主膳覚書)

大谷吉継墓

三成が陣を布いたのは、従来説の「笹尾山」ではなく、藤下村の「自害が岡」という所でした(下記補足16)。島津家臣の後年の記述を検討すると、松尾山に対して、第一陣が宇喜多・小西、第二陣が島津、その東に石田という布陣になっていました。他の史料で「第一陣が石田、第二陣が島津」となっているものがありますが、それは、秀秋を救援するために駆け付けた東軍主力部隊からの見方です。大谷隊は後から来たために、一番東の関ヶ原に布陣することになりました。そのため、東軍先鋒と戦うことになり、結果的に小早川隊と挟み撃ちに遭い、一番最初に壊滅してしまったのです(上記補足4)。同じ史料でも全く違う局面を表わしていることになります。

(補足16)「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄「戸田左門覚書」)

自害が岡

リンク、参考情報

関ヶ原の残党、石田世一の文学館
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋/黒田基樹著」戒光祥出版
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均・内堀信雄編」吉川弘文館
・「歴史群像105号 戦国の城 美濃松尾山城/中井均著」学研
・「新説戦乱の日本史/千田嘉博他著」SB新書
・「論争 関ヶ原合戦/笠谷和比古著」新潮選書
・「関ヶ原合戦を復元する/水野伍貴著」星海社新書
・「歴史群像145号 関ヶ原合戦の真実/白峰旬著」学研
・「新視点 関ヶ原合戦/白峰旬著」平凡社
・「関ヶ原合戦全史 1582-1615/渡邊大門」草思社
・「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった/乃至政彦・高橋陽介著」河出書房新社
・「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」高橋陽介氏・石田章氏論文
・「動乱の日本戦国史/呉座勇一著」朝日新書

「松尾山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

20.Sakura Castle Part1

Sakura Castle was located at the current Sakkura City of Chiba Prefecture. The castle was built as the home of the Sakura Domain during the Edo Period, which is the origin of the city. The areas around the city had many other castles until the Sengoku Period and some of which were very important.

Location and History

Sakura Castle was located at the current Sakura City of Chiba Prefecture. The castle was built as the home of the Sakura Domain during the Edo Period, which is the origin of the city. The areas around the city had many other castles until the Sengoku Period and some of which were very important. For example, there was Usui Castle in the western part of the city, where the battle of Usui Castle happened back in 1566. Kenshin Uesugi, who tried to rule the whole Kanto Region, attacked the castle but failed. There was also Motosakura Castle in the eastern part, which was the home of the Chiba Clan. Usui Castle was a branch of the clan. Cuttently, this castle is called “Motosakura” but back then, it was called “Sakura Castle”. So therefore, Sakura Castle was the former name of Motosakura Castle. This article will explain the formative years of Sakura Castle including the formation of Motosakura Castle, which should make it easier for people to better understand the history.

The ruins of Usui Castle, Notice the wooden log steps covered in soil
The ruins of Motosakura Castle, Notice the icon on the wooden shields.  This is the family crest of the Chiba Clan

Formative Years of Sakura Castle

The Chiba Clan had owned Shimosa Province, which was the northern part of Chiba Prefecture, since the end of the ancient times. The most famous person of the clan would be Tsunetane Chiba who supported the launch of the Kamakura Shogunate at the end of the 12th Century. Their home, Inohana Castle, was located at the current Chiba City for a long time. However, the castle was destroyed when many battles occurred in the 15th Century during the Sengoku Period. The clan decided to rebuild their new home in another location, which would be called Motosakura Castle. The castle was on the Shimosa plateau and was surrounded by Inbanuma Lake and other waterlogged areas. Its location was much more fortified than before and more convenient for water transportation. The lake was also much larger than now, where people could easily access Kasumigaura Lake and other great rivers. The wide water area was even called Katori-no-umi, which means the Katori inland sea.

The statue of Tsunetane Chiba, exhibited by Chiba City Folk Museum
The whole map of Motosakura Castle, from the signboard at the site

The situation changed during the 16th Century. The Hojo Clan was invading the Kanto Region from the west. On the other hand, the Satomi Clan also got the power from the south (Boso peninsula). The Chiba Clan wondered what to do and they eventually allied with the Hojo Clan. That’s why Kenshin Uesugi, who would help the Satomi Clan, decided to attack Usui Castle, a branch of the Chiba Clan. The victory of the clan was partially due to the Hojo Clan’s help. As a result, the Hojo became more effective to the Chiba Clan. As for the home of the clan, Chikatane Chiba, who was the lord of the clan before the battle, originally planned to move his home from Motosakura to another. The new land for his new home later became Sakura Castle, which was called Kashima Castle then. Mysteriously, he died in 1533, which ultimately canceled his plans of moving the castle.

MarkerMarkerMarker
Sakura Castle
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
The location of the castle, Notice the smaller Inbanuma Lake on the left next to Usui Castle. This important river used to span much larger that what the current map is showing. It used to be part of a much larger body of water.

The portrait of Kenshin Uesugi, owned by the Uesugi Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Chikatane Chiba, owned by the Kubo Shrine (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The Hojo Clan interfered in the internal affairs of the Chiba Clan at the end of the 16th Century. For instance, Ujimasa Hojo married his daughter to Kunitane Chiba, the lord of the clan. The Hojo Clan allowed Kunitane to resume the construction of Kashima Castle but failed to do so because the lord was killed again. Ujimasa next married his son to Kunitane’s daughter, in order to be the successor of the clan. It was said that Kashima Castle was finally finished for the new home of the couple.

The portrait of Ujimasa Hojo, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

However, it is difficult to confirm whether these records are the factual, as Sakura Castle was built on the old Kashima Castle. The few discovered old dry moats at the site proved that they were at least trying to build the castle there. So, why did the Chiba and Hojo Clans want to move there again and again? One of the reasons would be that the land for the new castle was much larger than the old one. For the Hojo Clan, another possible reason may have been to protect their territories from the potential invasions by Hideyoshi Toyotomi from the west. The plateau, where the new castle was built on, had steep slopes and was surrounded by rivers towards the direction. That would have had a very defensive fort against the invasion. However, the Chiba Clan was eventually fired by Hideyoshi, after their master, the Hojo Clan was defeated at the battle of Odawara Castle in 1590.

The current Sakura Castle
The current Odawara Castle

Toshikatsu Doi builds Sakura Castle

After the Battle of Odawara Castle, several lords were assigned one after another by Ieyasu Tokugawa who was the founder of the Tokugawa Shogunate. In 1610, Ieyasu ordered his retainer, Toshikatsu Doi to stay in Motosakura Castle and to build a new home at the former location of Kashima Castle, which would eventually be called, Sakura Castle. The new castle was supposed to support Edo Castle, the home of the shogunate. If Edo Castle was attacked by enemies from the west, the shogun could escape from his home to Sakura Castle towards the east. Sakura Castlewas situated in a great location that had very strong natural defense.

The portrait of Toshikatsu Doi, owned by Jojoji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Toshikatsu served three generations of the shoguns: Ieyasu, Hidetada, and Iemitsu. He was one of the most important senior vassals for them and established the system of the government. He was born in 1573 when Ieyasu was only a warlord during the Seongoku Period. There are some theories about who his father was.
The first one is that Toshimasa Doi was his father, according to the official family trees by the shogunate.
The second one claims that he was a son of Nobumoto Mizuno who was a brother of Odai, Ieyasu’s mother, according to the official history books of the shogunate. Odai originally came from the Mizuno Clan.
The last theory is the most surprising theory, it was said that Toshikatsu was an illegitimate son of Ieyasu, according to the official trees of the Doi Clan.
Each theory has substantial evidence, however only one theory can be true. Why were there different theories?

The Portrait of Ieyasu Tokugawa, attributed to Tanyu Kano, owned by Osaka Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Recent studies believe the followings. Toshikatsu has a short sword where the family crest of the Mizuno Clan was engraved. It was passed down from Odai to Ieyasu who gave it to Toshikatsu. That meant Toshikatsu was Ieyasu’s son. However, it was a very know fact, which was not recorded officially. That’s why the official family trees simply say Toshikatsu was a biological son of the Doi Clan (in fact, adopted). After that, Toshimasu Doi, who was a grandson of Toshikatsu, was worried about the declining reputation of his clan. He thought that he should settle the mystery of his grandfather to gain a stable position for the clan. His decision was that he would announce that Toshikatsu was a son of the Mizuno Clan by using its family crest on the sword. The writers of the official history books probably heard about it. Finally, Toshisato Doi, the 8th lord of the clan, was asked as to who Toshikatsu’s mother was by the shogunate. Toshisato decided that he would answer by telling the truth and put it on his clan’s official trees. However, the shogunate couldn’t accept it because the matters of Ieyasu were too serious to change for them. As a result, the three theories certainly unchanged today. As for Toshikatsu himself, he became a close vassal of Hidetada, who was the successor of Ieyasu, when Toshikatsu was only 7 years old. No matter who his father was, it’s no mystery that he was a very talented person.

The portrait of Toshimasu Doi, owned by Jojoji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

When Ieyasu established the shogunate, his most influential retainers were the Honda and the Okubo Clans. However, they often had internal conflicts with each other. As a result, Masazumi Honda survived when Hidetada became the 2nd shogun. Hidetada didn’t want to let Masazumi have more power. He and his close vassals, including Toshikatsu Doi, decided to trick Masazumi. When Masazumi went on a business trip from his home, Utsunomiya Castle, to another castle where he was told about his replacement. That’s the reason Masazumi would not be able to raise a rebellion. In fact, that’s the same way Masazumi excluded the Okubo Clan earlier on. Toshikatsu must have joined the careful planning of the strategy. He continued to serve the shoguns, including the third shogun, Iemitsu, for a long time. He also contributed to the shogunate by building the group guidance system of the shogunate. The system would avoid relying on individual abilities and having internal conflicts so much like the shogunate had used to.

The portrait of Masanobu Honda, owned by Kaga-Maeda Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The portrait of Tadayo Okubo, owned by Odawara Castle (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

In reality, Toshikatsu survived these internal conflicts. Therefore, people sometimes viewed him as a Machiavellian. On the other hand, he was a well-informed and kind person whom the shoguns, his colleagues, and even foreign merchants often relied on. That may be one of the reasons for his longevity. He was also the founder of the Sakura Domain and built Sakura Castle in over 7 years, which was eventually completed in 1616.

Features of Sakura Castle

Sakura Castle, which was built on a large plateau, had several distinctive features. First, the castle wisely used the natural shapes of the plateau. The plateau was basically a natural hazard, which was about 20m above the foot of the hill and surrounded by Takasaki and Kashima Rivers. The main enclosure was built at the western edge of the plateau, and other enclosures were built around it. Large dry moats and the main gate were also constructed to the east for fortification. The Samurai residences and the castle town with Narita Road were built over the gate. Overall, the castle and town were all created on the plateau.

The illustration of Sakura Castle in Shimousa Province, exhibited by the National Diet Library
The old photo of the main gate, from the signboard at the site, Notice how small the people are.  The gate was so much bigger compared to modern gates today
The remaining dry moat

Secondly, the castle foundations were all made from soil, not using stone walls. When the battle of Odawara Castle happened, Hideyoshi Toyotomi built a castle made of pure stone walls, called Ishigakiyama Castle, for the first time in the Kanto Region. Since then, similar castles, such as Edo Castle, were built in the region. However, Sakura Castle kept the traditional method of the region, using only soil. Other castle used the same method, such as Kawagoe and Utsunomiya Castles. On the other hand, the castle had some of the latest defensive systems at that time. There were two defensive positions, called Umadashi, in front of the gate of the third enclosure. There were also huge enclosures outside the third enclosure, which could accommodate lots of soldiers and was used as a parade ground. Furthermore, the belt enclosures were built on the slopes of the plateau where the defenders were able to move easily. Finally, the enclosures connected to two barbican enclosures outside the plateau.

The ruins of Ishigakiyama Castle
The main tower base of Sakura Castle, Notice that not one stone was used
The current Utsunomiya Castle
The Umadashi enclosure of Sakura Castle
The belt enclosure of Sakura Castle
The barbican enclosure of Sakura Castle, Notice the amount of algae covering the moat

The final feature is about the buildings of the castle. There was the main tower in the main enclosure, which was about 22m high and had three levels (four floors). It was extremely rare for that type of castle to be built at that time. (The shogunate basically didn’t allow new castle constructions after its rules were established.) The tower was said to have moved from Edo castle. Its details are unknown, however, because it was unfortunately burned down by an accidental fire during the Edo Period. Historians speculate that it was similar to that of Koga Castle, which Toshikatsu also built later on. There were also Do-yagura (Copper Turret) and Sumi-yagura (Corner Turret) in the main enclosure. The enclosure also had the main hall inside but was barely used. This was because it was once used by Ieyasu Tokugawa, so it was considered exclusive to the shoguns. Instead, the lord of the castle lived in the main hall of the second enclosure. Atter the hall deteriorated; a new hall was built outside the third enclosure.

The miniature model of the main tower, exhibited by Sakura Castle Park Information Center

Masayoshi Hotta comes up with an idea to Open the Country from Sakura Castle

After Toshikatsu Doi moved to the Koga Domain in 1633, several lord families ruled the Sakura Domain during the Edo Period. In particular, the Hotta Clan owed the domain and castle for a long time until the end of the period. I will describe Masayoshi Hotta who was one of the lords and how he devoted his life to reforming and opening the country to the rest of the world. Masayoshi was born in 1810 and became one of the core members of the central government when he was 32 years old. However, he quit the position 2 years later because he didn’t really get along with Tadakuni Mizuno, the top of the government under the shogun. However, he kept in touch with his colleagues like Masahiro Abe and Naosuke Ii.

Masayoshi Hotta (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

He also reformed the government of the Sakura Domain. He declared the reform to the retainers of the domain at the main hall in the third enclosure of Sakura Castle. One idea was to include the military system of the domain. He changed it to the western style and he allowed the soldiers to exercise in the castle. Another major change from the reform was that Masayoshi introduced the western medicine to the domain. He invited a famous doctor, Taizen Sato from Edo City, who opened a medical school, called Sakura-Juntendo. Lots of students gathered there from all around Japan, which gave Sakura the name Rangaku (Dutch studies) town similar to Nagasaki. (At that time, the western science was provided from the Netherlands, one of the few countries which had diplomatic relationship with Japan.) Masayoshi was also called “Ranpeki” which means a person who devotes oneself entirely to Dutch studies and way of life. As a result, the scenery of Sakura Castle and the town dramatically changed.

Taizen Sato (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

After the arrival of Matthew Perry’s fleet in 1853, Masahiro Abe, who was the top of the government, asked the country to vote on whether or not Japan should open the rest of the world. Despite Masayoshi’s wishes to open Japan, most people voted against it. Masayoshi was suddenly assigned the top of the government (the chief of the members of shogun’s council of elders) in 1855. However, the reason why Masayoshi was appointed the top official was still uncertain. One of his tasks was to negotiate with Townsend Harris, the council of the U.S. about the trade treaty. Masayoshi actively dealt with Harris because both of them really wanted Japan to open to the rest of the world. The treaty was still unfair, however. For example, Japan didn’t have autonomy to tariffs. On the other hand, Masayoshi decided to open Yokohama Port which would become a worldwide port even today.

The portrait of Masahiro Abe, owned by Fukuyama Seshikan High School (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Townsend Harris (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons), An older picture of Townsend Harris

Even after the deal with Harris was finalized, Masayoshi still needed to handle a more difficult task. It was to get approval of the treaty from many relative lords in the government. When Toshikatsu Doi was the top, the system was simpler than the period of Masayoshi. However, the system had completely changed. The result was that only 4 of the 18 relative lords supported it. Therefore, Masayoshi’s second option was to get approval from the emperor, which had ever not been done. It would be the most effective way to overrule the lords. He visited the imperial court in Kyoto in 1558 to persuade the emperor and the nobles but he failed. This was because the emperor Komei himself did not want to open the country to the rest of the world.

The portrait of Naosuke Ii, owned by Hikone Castle Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Masayoshi was unfortunately fired, and the matter of the treaty was contnued by Naosuke Ii. He went back to the hall of Sakura Castle and lived there until his retirement and until his death in 1864. After the Meiji Restoration, the castle was used as a base for the Japanese Imperial Army. The mission of the base was to guard the eastern areas of Tokyo, the new imperial capital and the former shogun’s capital. That meant the role of the castle was the same between the Edo Period and the Meiji Era. After World War II, it became Sakura Castle Park and part of the park is used as National Museum of Japanese Histories today. The location of the castle is very suitable for such a large museum.

The statue of Masayosho Hotta in the third enclosure of Sakura Castle
The miniature model of Sakura Castle when the Japanese Imperial Army used it, exhibited by the National Museum of Japanese Histories
The entrance of Sakura Castle Park
The entrance of National Museum of Japanese Histories

To be continued in “Sakura Castle Part2”