203.前橋城 その1

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋に今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

立地と歴史

利根川によって生まれた「厩橋城」

前橋市といえば群馬県の県庁所在地で人口約33万人の都市です。しかし、となりの高崎市の人口は約37万人でこちらの方が多く、且つ新幹線駅など交通の要衝となっています。なぜこれら2つの都市がこのような形で並び立っているのか、他県の人からすれば、不思議かもしれません。細かい経緯はともかく、前橋の今の地位は、前橋城とそれにまつわる自然と人々の活動がなければ、なかったものと思われます。

前橋市の範囲と城の位置

前橋城そのものの話をする前に、その立地を説明する必要があります。前橋城は、旧利根川の流路に残された崖(東側)と、現在の利根川の流路が作った崖(西側)に挟まれた台地上に築かれたからです。中世の途中まで利根川は、前橋市街地の東側、現在の広瀬川の辺りを流れていたと言われています。そのルートは一定ではありませんでしたが、前橋台地の北から東側の崖を形成しました。その崖は、後の前橋城の境界線として活用され、現在は馬場川などの用水路のルートとして残っています。その旧利根川が1427年(応永34年)、400年に一度とされる大洪水によって、西側を流れるルートに変わりました。当初は細く浅いものでしたが、その後度重なる洪水により拡大していきました。その結果、台地の西側にも崖ができ、自然の要害として、城を築くには格好の場所となったのです。

前橋城周辺の地図(Google Mapを利用)

前橋城を最初に築いたのは、全語句時代の1500年前後に、箕輪城を本拠としていた長野氏の支族であるとされています。その際、現在も城の周辺を流れている風呂川を、用水路として開削したと言われています。城があった台地は、周りの自然の川より標高が高く(十数m程度)、そこからの取水が難しかったからです。この城は、当初は厩橋(まやばし)城と呼ばれていました。これまで、この名前は、奈良時代にこの地域にあった東山道の駅家「群馬駅」に由来すると言われてきました。「厩(うまや、駅家の意味)」にあった「橋」という組み合わせです。しかし「厩橋」という地名は戦国時代より前の記録にはなく、読み方も「まやばし」または「まえばし」でした。そこから考えられる別の説としては「むまやはし(崖地の谷の端の意味」」「前方にある端(はし)」というのがあります。これであれば、前橋城の立地と一致することになります。

長野氏の本拠地、箕輪城跡
城の北側を流れる風呂川

上杉謙信によりメジャー化

1560年(永禄3年)、城にとって画期的な出来事が起こりました。越後国(現在の新潟県)の戦国武将、上杉謙信が本格的な関東地方への侵攻(「越山」)を開始したのです。謙信はそのとき、自身の関東地方の根拠地として、厩橋(前橋)城を選んだのです。彼は都合17回の越山を行いましたが、毎回もこの城に滞在し、ときにはそこで年を越したりました。なぜこの城を選んだのか不明ですが、関東経営を行うための地理的な条件もあったのでしょうが、やはり地形的に要害堅固だったことがあったと思われます。謙信は、厩橋城を重臣の北条(きたじょう)高広に任せますが、高広は北条(ほうじょう)氏に転じ、城も北条氏の勢力下に入ってしまいます。その後、徳川家康が関東地方を領有し、天下を取ると、家康はこの城を重臣の酒井氏に任せました。酒井氏の時代に、城の名前は「厩橋」から「前橋」に定められました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康が、前橋城のことを「関東の華」と呼んだという有名なエピソードがあります。しかし、少なくとも江戸時代の資料には「関東の華」という表現は見られないそうです。その代わりに、1740年代に酒井家が前橋から姫路に移ろうと画策したとき(1749年に実現)、それに反対した家臣の言い分として家康の言葉が記録されています。前橋城は「二つと無き城」であるというものです。もう少し長めに引用すると、家康は「前橋城は、江戸城と同じ曲輪の配置で築いた城なので2つとはない城である」と言ったということです。江戸城は、家康の入城以降、半世紀以上をかけて巨大城郭となりましたが、当初は半島状に突き出た崖がある台地上に築かれました。「同じ曲輪の配置」とは、どの時点のどういった視点なのかわかりませんが、同じような堅固な立地であるという意味であれば、大変興味深いことです。しかし、台地が突き出る方向が、江戸城は下流の南であるのに対し、前橋城は逆で、上流の北であったため、これがその後の困難につながることになります。

江戸城周辺の地図(Google Mapを利用)

「前橋城」最盛期からどん底へ

酒井氏(酒井雅楽頭家)は江戸時代前期、前橋城主として前橋藩を統治し、幕府の幹部も輩出しました。特に酒井忠清は、大老として4代将軍・徳川家綱を補佐しました。前橋城は、初期の頃から西の利根川を背に、本丸・二の丸・三の丸があったと考えられています。謙信の時代までに水曲輪、金井曲輪などが加わり、酒井氏の時代に一番外側の伯耆曲輪が築かれ、最大となりました。本丸には、三層三階の天守がそびえていました。しかし、守りの要である利根川は、度々洪水を起こし、城にとって脅威ともなりました。1706年には、本丸西側の曲輪群が洪水により崩壊してしまいます。利根川の氾濫は、藩内の農業生産にも打撃を与え、藩の財政も悪化しました。そのため、酒井氏は領地替えを幕府に嘆願し、1749年に姫路藩(姫路城)に移っていきました。

酒井氏時代の前橋城絵図 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前橋城天守の想像図(現地説明板より)

代わりに前橋藩主となったのが、結城松平氏(松平大和守家)でした。しかし、前橋城崩壊の危機的状況は変わらず、ついに1767年、藩主の松平朝矩(まつだいらとものり)は、幕府の許可を得て、当時領地の一部にあった川越城に本拠を移しました。そして、1769年には前橋城は廃城となり、建物は取り壊されました。前橋には、領地を管理するための陣屋が置かれましたが、現地の状況は悪化するばかりでした。

川越城本丸御殿

地域再生と「再築前橋城」

その状況を救ったのが、前橋藩改め川越藩の郡奉行(行政官)の安井与左衛門でした。
「前橋の恩人」とも称されています。彼は、1833年に前橋に赴任し、民政や治水で大きな功績を残しました。例えば民生面では、1835年から発生した天保の大飢饉のとき、与左衛門は藩士用の備蓄米を領民に配布することを訴え、実現させました。治水という観点では、前橋は以前にも増して、危機に瀕していました。利根川が蛇行することにより、用水路の風呂川のすぐ近くまで迫っていたのです。風呂川が破壊されると、前橋の農業生産は大打撃を受けることになります。与左衛門は6年を費やして、利根川の流れをまっすぐに変える大工事を行いました。併せて川岸に護岸のための石堤も築きました。この取り組みは、目下の危機を回避させただけでなく、後の前橋の発展につながるきっかけとなりました。

安井与左衛門が着任したときの前橋の状況(Google Mapを利用)
安井与左衛門の顕彰碑
与左衛門が築いたといわれる石堤

1854年に日本が開国し、1858年に欧米諸国との通商条約が結ばれると、国際貿易が行われるようになりました。日本からの輸出品の第1位は生糸で、安くて高品質であると好評を得ました。生糸の主な産地の一つは前橋のある上野国(現在の群馬県)で、後には世界遺産になっている富岡製糸場も設立されます。前橋には有力な生糸商人たちがいて、貿易によって莫大な利益を得ていました。そのとき彼らが実現しようとしたのが「前橋城の再築」でした。彼らにとっては城というより、地元に藩庁があった方が、商売上都合がよかったからではありますが。商人たちは莫大な献金を行い、その金額は城の建設費だけでなく、窮乏していた藩財政の足しになる程でした。藩にとっても、藩庁を内陸部に移すことで、幕府から命じられていた品川台場などの沿岸警備の負担を逃れられるとの思惑がありました。幕府としても、幕末の混乱状況のなか、江戸城に危機が生じた場合の代替拠点として価値を感じたようです。そして、1863年に城の再築が許可され、1867年に城は完成、藩主の松平直克が移ることで「前橋藩」が復活します。川越城は、別途設立された「川越藩」として、松井松平家に引き継がれました。

品川台場跡

再築前橋城は、以前の前橋城と同じではなく、まず本丸は以前の三の丸だったところに作られました。利根川の浸食により、東側に後退した位置となったのです。近代的な砲撃戦の標的となってしまう天守は作られず、城の中心は本丸御殿でした。本丸や大手門など城の要所の土塁の上には、砲台が作られ、西洋式の要素も取り入れられました。ところが、明治維新が城の完成の翌年に起こり、1871年の廃藩置県により、完成からわずか4年で取り壊しとなってしまったのです。

新旧前橋城の範囲の比較(Google Mapを利用)
再築前橋城の本丸御殿(前橋県庁庁舎として使用されていた頃) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
本丸の砲台跡

「前橋城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

202.宇都宮城 その1

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

立地と歴史

話題の多い街

栃木県宇都宮市は人口50万人以上を要する北関東最大の都市であり、「餃子の街」としても知られ、最近では国内では75年ぶりの路面電車(LRT)開業で話題となりました。宇都宮の起源は、ここに古代から鎮座する宇都宮二荒山(うつのみやふたあらやま)神社の門前町であるとされています。宇都宮城の始まりはこの神社より下りますが、神社と深い関係がありました。

宇都宮市の範囲と城の位置

宇都宮餃子の老舗店
宇都宮LRT
宇都宮二荒山神社

宇都宮氏の時代

言い伝えによると、藤原宗円(ふじわらそうえん)という僧が前九年の役のとき(1063年)源頼義に随行し、敵を調伏した功績により、宇都宮二荒山神社の別当に任じられ、宇都宮氏の始祖として神社の南に館を構えたのがその始まりとされています。この言い伝えに確証はないのですが、宇都宮氏の当主は武家の当主でありながら、代々別当を兼ねていたので、ありえない話でもないと思われます。当初の城は、現在も市内を流れる田川沿いにあり(奥州街道も川沿いを通っていました)、そこから神社に通勤していたという説があります。一方、当初から現在の宇都宮城本丸付近にあったという説もあります。その辺りでは高台にあたり、館を築くのにふさわしい場所だからです。宇都宮氏の時代は約500年にも渡るので、川沿いから高台に徐々に移ってきたということも考えられます。

前九年合戦絵巻、出展:文化遺産オンライン
宇都宮市内の地図に、当初の館の位置(2説)をプロット

12〜16世紀の約500年間、宇都宮氏は宇都宮がある下野国で君臨しました。その支族は、他国(豊前、伊予など)にも領地を得て全国的に繁栄しました。常陸国(現在の茨城県)にあった笠間城を治めた笠間氏も宇都宮氏の一族です。また、地元の下野国では、飛山城を本拠とした芳賀氏などの重臣によって支えられていました。16世紀後半の戦国時代に最後の当主となる宇都宮国綱は、関東地方制覇を狙う北条氏の攻勢を防ぐため、本拠地を山城の多気城に移しました。しかし、1590年の天下人・豊臣秀吉の関東侵攻により北条氏が滅ぼされ、事なきを得ます。秀吉は、包囲していた北条氏の本拠地・小田原城から宇都宮城に移動し、そこで関東及び東北地方の戦後処置を行いました(宇都宮仕置)。

笠間城跡
飛山譲跡
多気城跡
小田原城

国綱は小田原攻めに参陣していたため領地を安堵され、その後は秀吉の国内統一事業、朝鮮侵攻に動員されます。ところが1597年、秀吉により突然改易となってしまいます(宇都宮崩れ)。その要因としては、秀吉との間の取次であった浅野長政からの養子の話を断ったからとか、長政が検地を行ったところ申告値と全く異なっていたからとか言われています。いずれにしろ、国綱本人には全く突然の話であって、結局は政権中枢(秀吉〜長政ライン)に翻弄された結果でした。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
浅野長政肖像画、東京大学史料編纂蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

宇都宮城釣天井事件

徳川幕府が政権を握った江戸時代には、宇都宮は幕府にとって最重要地点の一つとなりました。東北地方に通ずる奥州街道上の拠点だけでなく、幕府の始祖・徳川家康を祀った日光東照宮へ向かう日光街道への分岐点にもなったからです。1601年以来、幕府は家康の娘・加納御前の子、奥平家昌を宇都宮城主(宇都宮藩主)としていました。家昌が亡くなると1619年に、その子・忠昌は幼少という理由で古河藩に転封となり、本多正純が代わりとなりました。これは時の将軍・徳川秀忠の決断でしたが、秀忠の姉である加納御前は大いに不満でした。本多正純は、父・正信とともに家康を支えた優秀な官僚でしたが、正純自身に戦手柄はなく、家康が亡くなったことで世代も変わり、幕府関係者から疎まれていました。また直接的には、加納御前の娘が嫁いでいた大久保氏が改易となった事件に正純が関わっていたことで、加納御前から恨まれていました。もしかすると加納御前は、自分の孫(忠昌)が正純の差し金で宇都宮から追い出されたと思っていたかもしれません。

奥平家昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加納御前肖像画、光国寺蔵、岐阜市ホームページから引用
当時の人物相関図

それでも正純はその能力を生かし、1622年に予定されていた秀忠の日光社参に備えて、宇都宮城と街を大改修しました。まず城や町を拡張し、多くの曲輪と水堀を整備しました。東北地方と日光がある北側に大手門が作られ、その前には徳川一門らしい丸馬出しが築き防御を固めました。本丸は、他の有名な城と違って土造りで、天守もありませんでしたが、土塁の上には5つの櫓が聳えていました。その中に将軍の専用宿所(御成御殿)を造営したのもこの時と言われています。奥州街道は、城の防衛と街の拡張のため、城の更に西と北を迂回するように再設定されました。正純は、宇都宮を短期間で、将軍の逗留にふさわしい場所にすることに成功したのです。

江戸中期の宇都宮城古地図、本丸と大手門の場所を付記 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇都宮城本丸の模型、宇都宮城ものしり館にて展示
再設定された奥州街道

その1622年、秀忠の日光社参のとき(秀忠にとって3回目)、有名な宇都宮釣天井事件が起こります。秀忠は4月12日江戸を立ち、岩槻、古河、宇都宮、今市に宿泊し、16日に日光に到着しました。ところが帰路も宇都宮に宿泊する予定でしたが、19日に近くの壬生城に一泊しただけで急いで江戸に戻りました。これは、加納御前が秀忠に城に不審な点があると注進したためと言われています。同時に幕府の使者が宇都宮城を訪れ検分しましたが、不審な点は見つかりませんでした。その4ヶ月後、正純が改易となった最上氏の山形城に受取りの使者として出向いたとき、正純自身の改易を告げられました。その理由は、以前の福島氏改易時に正純が秀忠に的外れな意見をしたとか、宇都宮拝領時に不満を言った程度のことでした。要するに秀忠とその側近、及び加納御前が正純を排除するための仕掛けだったわけです。その当時、正純が秀忠の甥、松平忠直と結託して謀反を起こすという噂もあり、これらが後に、正純が秀忠を殺害するために、宿所湯殿に釣天井を仕掛けたという説話となりました。

秀忠の日光社参のルート(往路)
山形城跡

その後宇都宮城(藩)には、加納御前の望み通り、奥平忠昌が復帰しました。彼の2回目の治世46年の間に、将軍による全社参19回のうち実に13回(うち10回は3代将軍・家光)が行われました。将軍の権威を示すため、その行列は十数万人に及びましたが、幕府・関係大名・領民の負担も大変なもので、1663年の4代将軍・家綱(通算16回目)以降は財政不足でしばらく途絶えました。その間、本丸の御成御殿は取り壊されてしまいました。1728年、8代将軍・吉宗が65年ぶりに社参を行ったときには、宿所は藩主が住む二の丸御殿を使ったそうです。

奥平忠昌肖像画、奥平神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
日光東照宮
「千代田之御表」、神橋を渡る将軍一行を描いた浮世絵、「東京都立図書館デジタルアーカイブ」より
現在の神橋

宇都宮城の戦い

城にとっての大事件が江戸時代末期にも起こりました。そのとき各藩は「尊皇」⇔「佐幕」、「攘夷」⇔「開国」という価値観の中で揺れ動いていましたが、宇都宮藩では尊皇攘夷思想に影響を受けた重臣の県勇記(あがたゆうき)が藩政を引っ張っていました。彼の主君は親藩の戸田氏であったため、幕府に従っていましたが、幕府に反抗した天狗党に頼られるなど、その舵取りには苦労しました。そして明治維新となり幕府が瓦解すると、県はいち早く新政府と連絡を取り、支持を表明しました。そのこと自体は良かったのですが、それが思いもしない困難につながります。旧幕府から脱走した2千名超の新鋭装備の軍隊が、大鳥圭介・土方歳三らに率いられ、日光経由で幕府を支持していた東北諸藩と連絡しようとしていたのです。彼らの主要ターゲットの一つが、新政府の拠点・宇都宮城でした。

大鳥圭介、幕末の頃の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
土方歳三写真、田本研造撮影、1868年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

旧幕府軍は作戦を立て、城の東側の田川から攻撃をすることにしました。この川は外堀として城の防御に組み込まれていましたが、この川を越えてしまえば本丸までは近く、城の弱点となっていたのです。4月19日、旧幕府軍は城下町に放火し、川にかか橋を渡って城に攻め寄せました。特に梁瀬橋を渡った下河原門周辺で激戦が起こりました。城は、県有記率いる宇都宮藩士と彦根藩・烏山藩などからの援兵によって守られていました。しかし藩兵はこのとき頻発していた農民による打ち壊しへの対応で疲弊していて、他藩の兵士も少なく、劣勢に立たされました。守備側は、一旦城から撤退し、後日取り戻すことを決断します。城の建物に自ら火をかけ、主君(戸田忠恕、とだただゆき)を逃がした後、主君の親族である館林藩を頼って落ち延びました。その日の夜は、火が燃えさかる中、城はほぼ無人の状態になったのです。

下河原門での戦い
現在の梁瀬橋
下河原門跡

翌日、土方と大鳥が宇都宮城に入城しました。廃墟となった城内で見たのは、物をあさっている町民と、恐らく打ち壊しの罪で囚われていた農民でした。彼らを退去させ、規律を破った兵を処分した後、旧幕府軍は戦利品を手に宴会をするのですが、大鳥や土方にとって数少ない勝利の瞬間でした。23日には増援を得た新政府軍が城の西側から反撃を開始、松が嶺門で激戦が展開されました。土方はこの戦いで負傷してしまいます。新政府軍は大砲による攻撃に加え、城の南側からも攻めることで、城から旧幕府軍を追い出しました。藩主・県有記を含む宇都宮藩士はこのとき館林にいて、残念ながら奪還作戦には参加できませんでした。

松が嶺門での戦い
松が嶺門跡

「宇都宮城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

178.Noshima Castle Part1

Noshima Castle was located on Noshima Island, which is in a narrow strait called Miyakubo-Seto, and part of the Geiyo Islands in the Seto Inland Sea. It was also built and operated by the Noshima-Murakami Clan, one of the three Murakami Navies which were very active around these islands.

Location and History

Murakami Navies, Excellent Guides of Seto Inland Sea

Noshima Castle was located on Noshima Island, which is in a narrow strait called Miyakubo-Seto, and part of the Geiyo Islands in the Seto Inland Sea. It was also built and operated by the Noshima-Murakami Clan, one of the three Murakami Navies which were very active around these islands. Before modern times, sailing along the coast was a major way of transportation. Seto Inland Sea was one of the most important sea routes, which connected central and western Japan. However, the Geiyo Islands area has lots of islands and narrow straits, which made the sea currents fast and difficult. For example, in Kurushima Strait, the direction and speed of the current frequently changes mainly due to the pull of the moon. Ships are still now required to follow instructions from the sea traffic center and its traffic signals.

The Kurushima Strait

The location of the castle

In the Middle Ages, boatmen and pilots, who sailed there, were required to have great competence instead. In addition, sailing alone could be very dangerous at that time as the police power of the central government was still weak. Each area was governed by a local lord or others, such as pirates. People at that time thought travelers should pay a toll when they passed others’ territories. The Murakami Navies, which were also some of the local lords, came out to guarantee safe travel to ships around the islands. The earliest record about them in 1349 says the Noshima-Murakami Clan guarded the sea around Yuge Island. Their system was roughly as follow: they escorted ships which had paid protection money (basically 10% of the value of the cargo), otherwise, they became pirates by chasing the ship using their boats called Kobayabune (meaning “small fast boat”).

The restored Kobayabune boat, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

Home of Noshima-Murakami Clan

The navies were eventually divided into three clans: the Innoshima-Murakami, Noshima-Murakami, and Kurushima-Murakami Clans. Their territories were based on the northern, middle, and southern Geiyo Islands respectively. Noshima is a small island in the Miyakubo-Seto Strait which is between Ushima Island to the north and Oshima Island to the south. The strait was on one of the shortest paths for ships to pass through the Seto Inland Sea. However, the speed of the current is at most around 10 knots and kept changing constantly. The sea around the island is shallow and kept swirling, which is uncontrollable for regular ships. For the navy members, Noshima is about 300m away from Oshima Island where they usually live, so they could communicate verbally. That meant they could immediately ask or provide help to each other in the event of an emergency. From the top of Noshima, they were able to see the whole strait, beacon fires on mountains of Oshima Island and even Shikoku Island over Oshima between the mountains. Overall, it was suitable for the home base of the Noshima-Murakami Clan.

The diorama of the area around Noshima Island (marked by the red circle), exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
The Oshima Island seen from Noshima Castle Ruins, can we communicate with voice?
The ruins of Koga Yashiki residence in the Oshima Island, which was said to have been the residence of the Noshima-Murakami Clan

They operated Noshima Castle on the island between the 14th and 16th Centuries. Several enclosures and buildings were built after leveling the land. The navy members lived in or were stationed at the site not only to guard the strait, but also to trade and fish. The defensive systems of the castle were few, excluding artificial vertical cliffs on the sides, because its sea barrier was strong. Instead, they constructed harbors, landing places and maintenance yards at the seaside. On the other hand, the island didn’t provide water, food and other supplies they needed, which had to be brought from other islands.

The imaginary drawing of Noshima Castle, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum

“Largest Pirates of Japan”

The Murakami Navies also often joined battles to support other warlords. In the case of the Noshima-Murakami Clan, it had a good relationship with the Kobayakawa Clan, a branch of the Mori Clan which was the greatest warlord in the Chugoku Region nearby. They needed the superior navy power to survive during the harsh Sengoku Period. Other warlords, such as the Otomo Clan, also invited the Noshima-Murakami Clan. When it once switched to the Otomo’s side, the Kobayakawa Clan, which also had a navy, attacked and blocked Noshima Castle by interrupting the supplies (laying siege) to the castle until it returned to the Kobayakawa’s side.

The portrait of Takakage Kobayakawa who was the clan’s lord at that time, owned by Beisanji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The power of the Noshima-Murakami Clan reached its peak when Takeyoshi Murakami was the lord during the late 16th Century. The most popular battle his navy fought in was the First Battle of Kizugawaguchi between the Mori and Oda Clans in 1576. In this battle, the Mori’s navies, supported by the Takeyoshi’s navy, who tried to bring supplies to Ishiyama Honganji Temple (currently Osaka Castle), and blocked by the Oda’s navies. Tekayoshi’s navy attacked the Oda’s ships with bombs, which eventually burned and sank. The supply operation was a success. In 1586, a Portugal missionary, Luis Frois visited Noshima Castle while sailing the Seto Inland Sea. He recorded in his book “The History of Japan” that they were the largest group of pirates. His crew was given a passport-flag which would guaranteed his safe voyage considerably.

The imaginary drawing of the First Battle of Kizugawaguchi, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
The imaginary drawing of Luis Frois‘s visit to Noshima Castle, exhibited by Murakami KAIZOKU Museum
One of the remaining passport-flags, owned by Yamaguchi Prefectural Archives (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Sudden Ending of Navies and Castle

The three Murakami Navies basically cooperated with each other, however, they eventually took different paths. The Kurushima-Murakami Clan switched to the Oda’s side through the invitation of Hideyoshi Hashiba, who would later be the ruler. Therefore, Takeyoshi occupied the Kurushima’s territory. However, this would be a misfortune for him. In the process of the unification of Japan by Hideyoshi, he was asked to return it to the Kurushima by Hideyoshi. He seemed to want to maintain his clan’s independence. However, when the Kobayakawa Clan, which was the current boss of the Noshima-Murakami Clan, was transferred to the Kushu Region by Hideyoshi, Takeyoshi finally had no choice but to leave all his territories including Noshima Castle.

The current Noshima Castle Ruins, seen from the Oshima Island

To be continued in “Noshima Castle Part2”