185.唐津城 その1

寺沢氏が築いた城

立地と歴史

海上交通で栄えた地域

唐津城は、現在の佐賀県唐津市にあたる、九州の北西部にあります。唐津市の市域は、日本と朝鮮の間にある玄界灘に面しています。このため、この地域は海外貿易を含む海上交通により栄えていました。例えば、2千年近く前には末盧(まつら)國があり、その国の港には海外からの使節が到着していました(「魏志倭人伝」の記述で魏の使者が上陸した地とされます)。中世には、松浦(まつら)党と呼ばれる武士団が、水軍ときには海賊を駆使して活躍しました(その中でも「上松浦党」と呼ばれる武士団がこの地域を支配していました)。1588年、天下統一を進める豊臣秀吉が海上交通を統制するために海賊禁止令を出しました。その後、秀吉の部下、寺沢広高がこの地に派遣され統治を行いました。彼は優秀な実務官僚であり、秀吉が近くの名護屋城から大軍を朝鮮に派遣した時には兵站を担当しました(他に長崎奉行を兼務していました)。

城の位置

寺沢広高が築城

広高はやがて徳川幕府を支持するようになり、唐津藩の初代藩主となりました。彼はまた、1602年から1608年の間に、新しい本拠地として唐津城を築きました。この城の中心地は、松浦(まつうら)川河口沿いにある満島(みつしま)山の上に作られました。広高はその川の流路を変え、この山と他の曲輪が半島のような陸地に一直線に並ぶようにしました。これにより、この山が海に向かって一番向こう側に配置されることで、敵が簡単に陸地を伝って城の中心部に攻められないようにしたのです。中心部はまた、海に沿った石垣に囲まれ、その石垣の上には櫓がいくつも築かれました。海上を監視するために使われたのでしょう。舟入門などの海港設備も河口の傍らに作られました。山の頂上には天守台石垣が築かれましたが、天守は建てられなかったと考えられています。天守があったことを示す証拠が見つかっていないからです。

肥前国唐津城廻絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
唐津城の現存天守台石垣

寺沢氏は島原の乱後に改易される

広高は(関ヶ原の戦いの)戦功により、九州西部の天草に飛び地の領地を幕府から与えられました。ところが、これが寺沢氏に大きな不運を呼び込んでしまったのです。そこには、幕府により改易となった小西氏の元家臣であった浪人衆がたくさん住んでいました。またそこには、幕府が禁じていたキリシタンの人たちも多くいました。広高は、幕府の方針に従って双方を弾圧しました。その結果、天草の人たちも参加した島原の乱が1637年、広高の息子、堅高(かたたか)の代に発生します。その乱が終息した後、幕府は寺沢氏から天草の地を取り上げました。堅高はそれを恥辱に感じ、1647年にはついに自殺してしまいます。寺沢氏は、跡継ぎがいないという理由で幕府により改易されました。

島原陣図屏風部分、秋月郷土館蔵、有馬キリシタン遺産記念館の展示より

水野氏、小笠原氏などが引き継ぐ

その後、5つの大名家が唐津城と唐津藩を江戸時代末まで統治しました。そのうちの何人かは日本史の中でも有名です。例えば、水野忠邦は老中首座として、中央政府で天保の改革を進めました(そのときは浜松城に移っていました)。また、小笠原長行(ながみち)は老中の一人でしたが、徳川幕府が倒れるそのときまで忠節を尽くしました(奥羽越列藩同盟にも参画)。

水野忠邦肖像画、東京都立大学図書情報センター蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
小笠原長行肖像画、国立国会図書館デジタルコレクションより (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「唐津城その2」に続きます。

136.Torigoe Castle Part1

It’s history and role in the Kaga Ikko Uprising

Location and History

Emergence of Ikkoshu Sect

Torigoe Castle was located at the foot of the Hakusan Mountain in Kaga Province, which is now Hakusan City, Ishikawa Prefecture. It is known for the final place where the people of the lkkoshu Sect in the province, fought with the warlords to the last man in a conflict known as the Kaga Ikko uprising. After the Onin War in Kyoto in 1467, almost all the people in Japan had to protect themselves because the authority of the Ashikaga Shogunate had decreased in power. This is called the Sengoku Period, also known as the Warring States Period. Not only the lords and warriors, but also farmers and merchants along those at the temples had the power to maintain their territory and rights.

The location of the castle

A scene of the Onin War, from a picture scroll of the Origin of Shinnyo-do Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

The lkkoshu was one of the sects of Buddhism, which spread across the country during that period. Many people believed it because the sect says if you only speak “Hail to Amitabha Buddha”, you would go to heaven. In addition to this simple doctrine, the 8th head of the sect in the 15th Century, Rennyo worked actively to build local organizations especially in what is now the Chubu Region, including Kaga Province. The organizations were primarily religious, but they eventually had political, economic, and military power with the situation of the period. Even a warlord asked the sect for help when fighting another warlord. When the sect fought for something, it was called Ikko-Ikki, or the Ikko uprising, having a big impact on the entire country. As a result, the sect acted like a warlord and his warriors, with its headquarters, called Ishiyama-Honganji Temple, at the former Osaka Castle.

The portrait of Rennyo (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The miniature model of the Ishiyama-Honganji Temple, owned by Osaka Castle Museum (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
The present Osaka Castle

Castle in Province owned by Peasants

Kaga Province had one of the strongest organizations in the sect. The people in the organization, called the Kaga Ikko uprising, first supported the governor of the province, from the Togashi Clan, but soon fought against and defeated the clan. This was due to the high taxes the clan imposed, but the local lords in the sect also wanted to take lands away from the clan. The sect established Oyama-gobo Temple, the former Kanazawa Castle, to govern the province by themselves. Kaga Province was known as “a province owned by peasants”. The temple was the home base of the Kaga Ikko uprising and probably looked like a castle. The Kaga Ikko uprising also had many branch castles, including Torigoe Castle, in the province to protect themselves.

Gokuraku-bashi Bridge in Kanazawa Castle, which derived its name from the period of Oyama-Gobo Temple
The present Kanazawa Castle
The restored Torigoe Castle in the present time

Torigoe Castle was the site of an internal group, called Yamanouchi-shu, in the Kaga Ikko uprising. The castle was built on a mountain above the meeting point of the Tedori-gawa and Dainichi-gawa Rivers. The castle had the Main Enclosure on the top. The other enclosures were around the Main Enclosure and along the ridge of the mountain. All the enclosures were made of soil and divided by the dry moats, using natural terrain. Such a castle could have been seen across Japan at that time as a “mountain castle”. It is thought that the head of the group, Suzuki Dewa-no-kami built the castle to protect them from Nobunaga Oda’s attacks.

The map around the castle

The relief map around the castle

Torigoe Castle was built using natural terrain

End of Kaga Ikko uprising

Nobunaga Oda was a great warlord who processed the unification of Japan in the 1570s-80s. He asked the religious institutions to waive their political and military power. If a temple rejected his request, he would destroy the temple completely, such as the fire attack on Mt. Hiei in 1571. Previously, in 1570, Nobunaga asked the Ikkoshu Sect to withdraw from its home base, Ishiyama-Honganji Temple. The sect refused, and after that, they fought each other for the next 11 years, known as the Battle of Ishiyama. Nobunaga’s retainers also attacked the local organizations of the Ikkoshu Sect, including the Kaga Ikko uprising. The Yamanouchi-shu group battled Nobunaga’s troops at Torigoe Castle even after Ishiyama-Honganji Temple surrendered in 1580. However, they were finally defeated, and with the rest of the survivors being killed in 1582. This could be considered as the final resistance of the Kaga Ikko uprising.

The portrait of Nobunaga Oda, attributed to Soshu Kano, owned by Chokoji Temple (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
The image of Battle of Ishiyama, owned by Wakayama City Museum (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Torigoe Castle, the final place for the people of the Kaga Ikko uprising

To be continued in “Torigoe Castle Part2”

136.鳥越城 その1

加賀一向一揆の歴史とその果たした役割

立地と歴史

一向宗の台頭

鳥越城は、現在の石川県白山市にあたる、加賀国の白山山麓にありました。この城は、加賀国一向宗門徒の最後の抵抗地とされており、加賀一向一揆として知られる闘争の中で、彼らは戦国大名と最後の一兵まで戦ったのです。1467年に起こった応仁の乱の後は、日本のほとんど全ての人たちは自衛しなければならなくなりました。足利将軍家の権威が著しく衰えてしまったからです。これが戦国時代と呼ばれている時代です。領主層や武士だけでなく、農民や商人、そして寺院の僧までが、領地や権益を守るために武装する必要がありました。

城の位置

応仁の乱の様子、「真如堂縁起絵巻」より  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

一向宗は、仏教の宗派の一つで、この時代に国中に広まりました。この宗派では、「南無阿弥陀仏」と唱えされすれば極楽に行けると称したため、多くの人々が信仰しました。この単純な教義に加えて、15世紀後半に第8代の宗主であった蓮如が精力的に活動し、(講などと呼ばれる)地方組織を構築し、特に、加賀国を含む現在の中部地方に広まりました。この組織はもともと宗教のために存在していましたが、時代の状況の中で、政治、経済、そして軍事的な色彩も帯びていきました。戦国大名でさえ、他の大名と戦うために一向宗に援軍を求めたりしました(例えば幕府の管領、細川政元が1506年に畠山氏と戦ったとき、当時の宗主、実如は援軍を政元側に派遣しました)。一向宗が何かのために戦ったとき、その行為は一向一揆と呼ばれ、全国的に大きなインパクトを与えました。その結果、一向宗はまるで戦国大名とその配下の武士のように振舞うようになりました。その本拠地は、後の大坂城となる石山本願寺にありました。

蓮如影像  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山本願寺の模型、大阪城天守閣蔵 (licensed by ブレイズマン via Wikimedia Commons)
現在の大坂城

百姓の持ちたる国の城

加賀国では、一向宗の中でも最も強固な組織化がなされていました。その組織内の人々は加賀一向一揆と呼ばれ、当初は加賀国の守護、富樫氏を支持していましたが、やがて戦うことになり、ついにはこれを倒しました。このことは、富樫氏が高い税を賦課したのが原因ですが、一向宗に属していた地元領主たちが領地を富樫氏から奪いたかったという事情もあったのです。彼らは、国を自分たちで治めるために、後の金沢城となる尾山御坊を設立しました。加賀国は、「百姓の持ちたる国」として知られました。尾山御坊は、加賀一向一揆の本拠地であり、恐らくは城のような姿をしていたのでしょう。加賀一向一揆はまた、国の防衛のために多くの支城を持っていました。鳥越城はその内の一つでした。

金沢城内ある極楽橋、その名前の由来は尾山御坊時代に遡ると言われています
現在の金沢城
現代に復元された鳥越城

鳥越城は、加賀一向一揆の内部組織である山内衆(やまのうちしゅう)の拠点でした。この城は、手取川と大日川(だいにちがわ)の合流時点の上流側にある山の上に築かれました。頂上には本丸があり、他の曲輪は本丸の周辺や山の峰に沿って配置されていました。全ての曲輪は自然の地形を生かしながらの土造りで、空堀によって隔てられていました。このような城は「山城」として、その当時日本中で見られたのです。山内衆のリーダーであった鈴木出羽守が、織田信長の攻撃から防御するためにこの城を築いたと考えられています。

城周辺の地図

城周辺の起伏地図

鳥越城は自然の地形を生かして築かれました

加賀一向一揆の最後

織田信長は有力な戦国大名で、1570年代から1580年代にかけて天下統一を進めていました。彼は宗教勢力に対して、政治的軍事的領域から手を引くよう求めていました。もし、寺院側がその要求を断った場合、信長は1571年の比叡山焼き討ちのように、その寺院を徹底的に破壊しました。それ以前の1570年には、信長は一向宗に対して本拠地の石山本願寺から退去するよう求めていました。一向宗はそれを断り、それから石山合戦として知られる11年にもわたる戦いを行ったのです。信長の部下たちもまた、加賀一向一揆を含む一向宗の地方組織を攻撃しました(柴田勝家が北陸方面に派遣され、加賀一向一揆と戦いました)。山内衆は、1580年に石山本願寺が信長に降伏した後でさえ、鳥越城で信長の軍勢と戦い続けました(城を取ったり取られたりする激戦でした)。しかし、ついには落城し、戦いに生き残った者も殺されました。1582年のことです。これが、加賀一向一揆の最後の抵抗とされています。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
石山合戦図、和歌山市立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
加賀一向一揆の最後の拠点となった鳥越城

「鳥越城その2」に続きます。