179.河後森城 その1

国と国との境目の城

立地と歴史

国境の紛争地帯

河後森(かごもり)城跡は現在愛媛県の松野町にあり、その場所は高知との県境の近くです。同じように、その城はかつては伊予国にあり、そこは過去においても伊予国と土佐国の境目の近くでした。両国の領主がそれぞれの領地を維持(または拡大)したいがために、このような場所ではしばしば緊張状態が生じました。

伊予国の範囲と河後森城の位置

12世紀以降、渡辺氏がこの城を所有していたと言われています。渡辺氏はやがて南予地方を治めていた西園寺氏の配下となり、西園寺十五将の一人となりました。16世紀前半の土佐国の領主であった一条兼定は、親族の一人を渡辺氏の跡継ぎ養子として送り込みました。実は、これは兼定が伊予国に侵入するための準備だったのです。養子となった渡辺教忠(のりただ)は、1567年に兼定が実際に伊予国に攻め込んだときに、彼の主人である西園寺公広(きんひろ)のために何もしませんでした(出兵要請に応じなかったようです)。公広は激怒し、教忠を河後森城に包囲し、教忠は降伏しました。国境近くのこの城では、このようなことが起こっていたのです。

一条兼定肖像画、龍集寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

馬蹄形の峰に築かれた城

河後森城は、U字形(馬蹄形)の峰を持つ山の上に築かれました。その長く細い峰には、多くの曲輪が一列に並んでいました。本郭は、U字形の中央部分にあり、そこが一番北側に当たりました。本郭のとなりには、U字形の西端から9つの曲輪が並んでいました。その他に3つの曲輪が本郭の東側にありました。更に、古城曲輪と呼ばれる2つと新城曲輪がU字形の東端に作られました。一つ一つは小さいのですが、全部で16もの曲輪があったのです。これらの曲輪は基本的には土造りで、人工的に作られた堀切により隔たれ、山の傾斜も意図的に垂直に加工されていました。その上に、城があった山は南側を除き三方を川に囲まれていました。総じて、この城は天然の要害であったと言えるのです。

城周辺の起伏地図

1580年代に豊臣秀吉による天下統一がなされている間、彼の部下である戸田勝隆(かつたか)が、河後森城を含む南予地方の領主となりました。勝隆は1595年に(朝鮮侵攻の最中に病気で)亡くなり、藤堂高虎がその後を継ぎました。河後森城は、天下統一が進む期間においても土佐国との国境に近い城として重要であり続けました。日本の政治状況がまだ不安定であったからです。伊予国の領主は、長宗我部氏や山内氏といった土佐国の領主の動向を注視し続ける必要があったのです。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下統一の時期に近代化

河後森城は、基本的にはシンプルな山城でしたが、やがて勝隆あるいは高虎によって最新の技術を使った城に進化していきます。例えば、本郭の周りには石垣が築かれました。本郭にはもともと領主の主殿舎がありましたが、天守のような建物が後から追加されました。その現場では発掘により、天守に使われた可能性がある、鯱を含む大型の瓦が見つかっています。高虎の伝記によると、河後森城の天守が、彼の本拠地である宇和島城に移され、櫓として使われたそうです。しかし、今のところ科学的に十分証明されてはいません。とは言いつつ、河後森城はその頃には近代的な城の姿をしていたのかもしれません。

部分的に残る河後森城本郭の石垣
宇和島城

1615年、徳川幕府を設立した徳川家康は、大坂城にいた豊臣氏を滅ぼしました。そのことで、徳川幕府の権威が確立したのです。幕府は日本の全ての大名に対して一国一城令を発令し、幕府の統治をより強化しようとしました。河後森城は、高虎が他の国に移った後伊達氏の所有となっていましたが、この法令により廃城となったとみられます。

河後森城跡

「河後森城その2」に続きます。

80.湯築城 その3

この城跡は、愛媛県の決断によって救われました。

特徴、見どころ

丘の頂上からの景色

もちろん、丘の頂上まで登ってみることもできます。その頂上部分は本壇(ほんだん)と呼ばれていて、本丸と同じような位置づけです。現在では展望台として使われています。ここでも発掘調査は行われましたが、出土遺物はほとんど見つからなかったため、あまり城らしい展示物はありません。しかし展望台からは、松山城や道後の温泉街の景色を楽しむことができます。実は17世紀の初頭には、藤堂高虎がライバル関係にあった加藤喜明(よしあき)と伊予国を分割統治しており、喜明が築いた松山城を監視するために、高虎が廃城となった湯築城を一時使っていました。高虎も、今日われわれが湯築城から見る同じ景色を眺めていたのではないでしょうか。

城周辺の航空写真

丘の頂上へ
展望台がある本壇
道後温泉街の景色
松山城の遠景
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治時代の1888年、愛媛県は湯築城跡に道後公園を開設しました。1953年には公園の中に動物園がオープンし、大変な人気となりました。しかし、1987年に動物園は他の場所に移転しました。その理由は、市街地の中で動物園からの悪臭と騒音が問題となったからです。元動物園だった区域は近代的な日本庭園になる予定で、その前に湯築城跡としての調査が行われました。その結果、数多くの遺物や遺跡が良好な状態で見つかったのです。そのため県は跡地の開発計画を変更し、1990年に歴史公園とすることに決定しました。発掘の成果や、一乗谷城のような他の城跡での事例に基づき、湯築城の復元工事が1998年に始まり、2001年に完成しました。城跡は2002年には国の史跡に指定されました。

内堀とそれを囲む土塁
入口に掲げられた湯築城の幟

私の感想

私は、湯築城がこんなにも大変な歴史を乗り越え、残ってきたことを全然知りませんでした。愛媛県の城跡を保存する決定には、今更ながら敬意を表します。もしそれがなかったら、松山城以前の伊予国の歴史を皆忘れ去ってしまっただろうからです。城跡を含む道後公園にはとても良い雰囲気があります。公園を歩いてみた後は、近くの道後温泉街に行き、伊佐爾波神社や道後温泉本館を見学するのもよいと思います。

道後温泉本館
伊佐爾波神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約20分かかります。道後公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅前から路面電車に乗って、道後公園駅で降りてください。
東京または大阪から松山駅まで:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

国史跡 道後公園湯築城跡
・「日本の遺跡39 湯築城跡/中野良一著」同成社
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
「湯築城その1」に戻ります。
「湯築城その2」に戻ります。

80.湯築城 その2

湯築城の内堀と外堀の間がきれいに復元されています。

特徴、見どころ

城跡の入口

現在、湯築城跡は道後公園として整備されています。その公園のうち、西側と南側の部分が復元地区となっています。もともとは搦手門として使われていた西側の入口が、今では正面口のようになっています。外堀にかかる土橋を渡り、土塁の内側に入っていくと、中世城郭の中にいるように感じるかもしれません。その入口の近くには湯築城資料館があり、そこでは河野氏の歴史やこの周辺地が当初からどのように開発されてきたのか学ぶことができます。

城周辺の航空写真

湯築城跡(道後公園)入口
外堀に沿っている土塁
湯築城資料館

復元された武家屋敷

資料館に隣接する西側部分には、中級クラスの武家屋敷が、その前にある門と土塀とともに復元されています。屋敷の中に入ってみると、その内装までが復元されています。発掘によって、その屋敷のレイアウトが判明したからです。会所と呼ばれる部屋には、5体のマネキンがあり、城に住んでいた人たちが集まって句会を楽しんでいる様子が再現されています。一方、台所ではもう1体のマネキンが食事とお茶の準備をしています。

復元された武家屋敷
復元された会所の様子
復元された台所の様子

復元された武家屋敷はもう1棟あるのですが、内部は展示室になっています。その理由は、発掘調査は行われたのですが、その屋敷の元のレイアウトが確定できなかったためです(2案作られたのですが、1つに絞れなかったそうです)。

展示室となっている復元武家屋敷
展示の様子

上級武士の居住地区

南側部分は、元は日本庭園と、上級武士の居住地区として使われていました。現在は、芝生によってその居住地区の範囲が示されています。丘の自然の岩場が今でも庭園があった場所に面していて、かつてはその庭園の借景であったのかもしれません。近くには、内堀が土塁とともに残っているので、こちらもご覧になってはいかがでしょう。

元上級武士の居住地区だった区域
丘にある自然の岩場
現存する内堀

ユニークな土塁の展示室

土塁は外堀にも沿っても築かれていますが、その内部に土塁についての展示室が作られています。そこにはオリジナルの土塁から切り出した土層模型があり、土塁がどのように積まれたのかわかるようになっていて、その説明板とともに展示されています。この模型は、発掘が行われたときに実際に土塁から切り出されたもので、他の場所に土塁を復元する際の参考とされました。とても興味深い展示であり、これらの土塁の建設がいかに大がかりなものであったか理解できます。

外堀に沿った土塁に設けられた展示室
展示室内の土層模型

「湯築城その3」に続きます。
「湯築城その1」に戻ります。

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