135.増山城 その2

ここでは山城について多くを学べます。

特徴、見どころ

ウラナギ口から城跡へ

今日、増山城跡は観光客向けによく整備されています。城跡へ行くのに2つの登山道がありますが、ウラナギ口から行かれることをお勧めします。この登山口の近くに、増山陣屋という案内所があり、駐車場もあるからです。車をそこに停めて、登山道の入口に歩いて行くと、興味を引く施設が見えてきます。実は、城の周りを流れていた和田川は、現在では和田川ダムとなっているのです。ダムの堤頂部分を渡って行くと、右側に増山湖が見え、左側には水力発電所が見えます。城下町の遺跡の一部は、現在湖の底にあります。

城周辺の地図

増山陣屋
和田川ダムの堤頂部分
増山湖
水力発電所

注目の堀切と後に続く曲輪群

そうするうちに、大きな案内板のそばに模擬的に作られた冠木門が見えてきます。ウラナギ口からは坂を登っていき、そのうちに両側が峰状になっている谷底を通って行きます。最初に見えてくる曲輪はF郭と呼ばれていて、その名前は歴史研究者が使っていた命名方法によるものです。もともとの名前がわからなかったので、このような呼び方になりました。この曲輪の手前にある、峰を人工的に切った堀切は必見です。峰を伝って攻めてくる敵を防ぐためのものです。

ウラナギ口の入口にある冠木門
谷底を進むウラナギ道
F郭の手前にある堀切
F郭

F郭の上方には、馬の背のような形をした「馬之背ゴ」があります。ここはウラナギ口と七曲り口の道が合流する地点であり、訪問者を管理したり、敵を抑え込むのに重要な場所でした。

馬之背ゴ
F郭と馬之背ゴ周辺の地図(現地案内図より)

防御の要、一ノ丸

その後には、一ノ丸が目の前に立ち塞がります。この曲輪周辺の崖は垂直に削られていて、切岸と呼ばれます。とてもそこからは登れません。残念ですが崖を回り込んで曲輪の入口にたどり着くしかありません。この位置取りでは、敵が真上から反撃されることになります。そこから進むと、一ノ丸の近くにある又兵衛清水という現存する井戸があり、今日に至るまで清水に満たされています。

一ノ丸を見上げる
一ノ丸の切岸
又兵衛清水
一ノ丸周辺の地図(現地案内図より)

一ノ丸の内側からは、城周辺の地域の景色が見渡せ、またこれまで通ってきた道もよく見えます。この曲輪が防御の要であったことがよくわかります。

一ノ丸の内部
一ノ丸からの眺め
一ノ丸から元来た道を見下ろす

「増山城その3」に続きます。
「増山城その1」に戻ります。

135.増山城 その1

越中国の重要な山城

立地と歴史

戦国時代の越中国

増山城は、越中国(現在の富山県)にあった大きな山城でした。16世紀前半、越中国には有力な戦国大名がおらず、神保氏、椎名氏、一向宗他の勢力に分割されていました。この国の中央部には富山平野があり、東西と南方向は丘陵地帯に囲まれていました。各勢力はその丘陵地帯に多くの山城を築き、領地を維持していました。増山城は、守山城、松倉城と並んで、越中国の三大山城の一つとされています。

城の位置

増山城は、南方から富山平野に突き出した丘陵地帯の西端に位置していました。和田川がその端際を流れており、自然の水堀となっていました。そして、一ノ丸、二ノ丸といった多くの曲輪がありました。

城周辺の起伏地図

城周辺の地図

増山城の防衛システム

これらの曲輪を守るために、城には峰、崖、谷といった自然の地形を利用した防御の仕組みがいくつもありました。例えば、いくつかの峰は人工的に溝のように切断され、堀切と呼ばれました。崖部分は垂直に削られ、切岸と呼ばれました。そして、谷部分は空堀として使用されました。

山城の防御の仕組み(現地説明板より)

また、この城にはいくつか井戸があり、兵士たちは容易に水を得られるため、長い籠城戦にも耐えられました。増山城のとなりの丘陵には亀山城のような他の城もあり、連携できるようになっていました。最盛期には、山城の麓に城下町も建設されました。

増山城の想像図(現地説明板より)

上杉謙信が三度攻撃

この城がいつ最初に築かれたかは定かではありませんが、戦国時代の16世紀中頃には神保氏がこの城を所有していました。1560年、有力な戦国大名、上杉謙信が越後国(越中国の東)から椎名氏を支援すると称し、越中国に侵攻しました。神保氏は守りを固め、増山城に籠城します。謙信は書状の中で「増山之事、元来嶮難之地、人衆以相当、如何ニも手堅相抱候間」(増山城はもともと要害の地である上に、守備兵を多く揃え、堅固に守られている)と言っています。謙信は三度増山城を攻撃し、ついに1576年に占領しました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1578年に謙信が亡くなった後、織田氏配下の佐々成政が1581年に増山城を上杉氏から奪います。その後、天下人の豊臣秀吉や後には徳川幕府を支持した前田氏がこの城を所有しました。城には、前田氏の重臣たちが在城していました。この地方一帯を治めるためには、この城は常に重要であり続けたのです。しかし、1615年に徳川幕府によって出された一国一城令により、ついに廃城となってしまいました。最後の方では、重臣の妻で、前田氏の創始者、前田利家の娘でもあった蕭姫(しょうひめ)がこの城を治めていたと言われています。

佐々成政肖像画、富山市郷土博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田氏の創始者、前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「増山城その2」に続きます。

33.高岡城 その3

短命に終わった城の跡地が、なぜこんなによく残っているのでしょうか?

その後

高岡城が公式に廃城となった後、高岡は商業で栄えました。加賀藩は、高岡城跡を保護するため、人々の立ち入りを禁止しました。ところが、明治維新後、城跡は民間に売却されてしまいます。そして住宅や会社が建てられました。一方で、その状況を憂慮する人たちは、同時に城跡を公園化する活動を開始します。そして、1875年に高岡城址公園が設立され、拡張されていき、1909年には全ての住宅や会社が立ち退きとなりました。それ以来、多くの公的施設が公園に建設されました。第二次世界大戦後には、一時本丸に野球場さえありました。最終的には、城跡は2015年に国の史跡に指定されました。

明治後期の公園の古写真(高岡市立博物館で展示)
1948~1950年の「高岡公園現況図」(高岡市立博物館で展示)
高岡城跡が国指定史跡になった記念碑

私の感想

高岡城跡を訪れたとき私は、城があったのは短い期間なのに、なぜ城跡に広大な曲輪や水堀がいまだに残っているのか不思議に思いました。高岡城と同じ時期に廃城となった他の城の場合では、大抵は破壊されたり、放置されたりしています。城跡に行った後、城の基礎部分と水堀が実は長い期間かけて作られたかもしれないことを学びました。また、加賀藩や地元の人たちが大変な努力をして城跡を維持してきたことも知りました。そのために城跡が良好な状態で残り、この地域でとて有名な行楽地になっているのです。

城跡に残る曲輪と水堀
この城跡には滝さえあります
城跡から見える高岡市街

ここに行くには

車で行く場合:
能越自動車道の高岡ICから約15分かかります。
公園の中にいくつかの駐車場があります。
電車で行かれる場合は、高岡駅から歩いて約15分かかります。
東京から高岡駅まで:北陸新幹線に乗り、富山駅であいの風とやま鉄道に乗り換えてください。

公園の現地案内図

リンク、参考情報

国指定史跡「高岡城跡」、高岡市立博物館
高岡古城公園、公式ウェブサイト
・「加賀藩二代藩主 前田利長が造った城/杉本宏著」22世紀アート
・「日本の城改訂版第46」号」デアゴスティーニジャパン
・「よみがえる日本の城8」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「高岡城その1」に戻ります。
「高岡城その2」に戻ります。