132.高田城 その2

残っている水堀、土塁と再建された三階櫓のコラボレーション

特徴

広大な水堀が健在

現在、高田城跡は高田城址公園として整備されています。この公園はまた、夜桜と「東洋一」と称される外堀を埋める蓮によりとても有名です。城跡に関して言えば、本丸の土塁、内堀、そして外堀の一部がほぼそのまま残っています。もし、西の方、例えば高田駅から城跡に向かった場合には、最初に大量の蓮が茂っている現存する外堀が見えてくるでしょう。

城周辺の航空写真

高田城の外堀

公園の中心地、三の丸と二の丸

外堀は今もその大きさを維持しています。過去には最大で130mの幅があり、現在もなお約100mの幅で残っています。今は堀を渡る道路を通って、内側にある三の丸と二の丸に入っていきます。三の丸は、球場や陸上競技場のような近代施設の用途で使われています。

外堀越しに見える三の丸

二の丸は、公園の中心であり、多くの桜の木が植えられています。外堀に沿った遊歩道を歩いてみることもできます。実は、堀沿いには高い土塁が築かれていたのですが、日本陸軍がこの城跡を使い始めたときに撤去しました。

二の丸にある遊歩道

二の丸には上越市立歴史博物館もあり、この城や周辺地域のことをより深く学ぶことができます。

上越市立歴史博物館

本丸と再建された三階櫓

内堀と土塁に囲まれた本丸には観光客向けに3つの入口があります。一つはもと正門だったところで、南側にある復元された極楽橋を渡って入っていきます。

復元された極楽橋

もう一つは東側にある東不開門(ひがしあかずもん)跡です。

東不開門跡

最後の一つは西側にあって近代になってから日本陸軍により作られたものです。

西側の本丸入口

三階櫓が1993年に本丸の南西隅の土塁上に復興再建されました。発掘と研究の成果に基づくものです。この櫓は実は鉄骨造りなのですが、木材を多く使っているため、復元された建物のように見えます。

土塁の上に再建された三階櫓

その内部は博物館と展望台になっています。城の外側から見ると、この櫓と内堀・土塁との組み合わせはなかなか壮観です。

三階櫓の内部
三階櫓からの眺め

本丸の内側は城主の御殿として使われていましたが、現在は学校の敷地となっています。

高田城本丸の模型(上越市立歴史博物館)
現在の本丸内部

「高田城その3」に続きます。
「高田城その1」に戻ります。

132.高田城 その1

土塁と水堀によって守られた城

立地と歴史

松平忠輝が短期間で築城

高田城は越後国(現在の新潟県)にありました。戦国時代の16世紀には、春日山城にいた上杉氏がこの国を領有していました。上杉氏が他の国に転封となった後、17世紀初めにはこの国はいくつかの大名により分割されました。その内の一つが堀氏で、越後国西部を領有し、福島城に住んでいました。しかし、堀氏は1610年に徳川幕府により改易となってしまいます。その代わりに徳川幕府の創始者である徳川家康の息子、松平忠輝が福島城に送られてきました。彼と幕府はもっと強力な城を必要としていました。幕府と豊臣氏との間の緊張が高まっており、豊臣氏に味方するかもしれない外様大名を監視する必要がありました。その新しい城が高田城だったのです。

城の位置

松平忠輝肖像画、上越市立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城の建設は1614年の3月に始まり、その年の10月に幕府と豊臣氏との戦いが起こる前に、わずか4ヶ月間でほぼ完成しました。幕府はこの建設のために、忠輝の義理の父親である伊達政宗を含む13家の大名を動員しました。この短い工事期間のためか、高田城にはいくつかの特徴がありました。城の基礎部分は、その当時の築城で通常使われていた石垣ではなく、完全に土だけで作られました。同じく他の城でよく見られた天守も築かれませんでした。その代わりに三階櫓が建てられました。

本丸に残る土塁
復興された三階櫓

広大な堀と高い土塁で防御

しかしながら、工事に手抜きがあった訳ではありません。いくつもの川の流れを利用して広大な水堀が作られました。その結果、城は内堀、外堀、そして流れを変えられた川によって囲まれることになりました。三の丸は外堀の中に、二の丸は外堀の内側に、本丸は内堀の内側に配置されました。三の丸の外側にある大手道から城に入ろうとすると、本丸に着くまでに3つの橋を渡らねばなりませんでした。また、土塁であっても10mもの高さがあり、そのためこの城は十分な防御力を備えていたのです。

高田城の模型(上越市立歴史博物館)
今も土塁に囲まれている本丸

領主が次々に交替

忠輝はその当時の日本では10人の大大名の内の一人でした。ところが、1615年に幕府が豊臣氏を滅亡させた後、1616年に忠輝は幕府から不確かな理由で改易されてしまいます。彼が父親に対して不遜な態度をとったとか、幕府内で内紛があったなどと言われています。忠輝は高島城に幽閉され、1683年に92歳で亡くなるまでそこで過ごしました。

高島城

それから何年か後、松平光長が57年に渡って城を治めました。彼は農業や商業を振興し、城下町や交通網の整備を行いました。城下町は現在の上越市の市街地となっています。ところが、跡継ぎをめぐるお家騒動により、彼もまた1681年に改易となってしまいます。

高田城下絵図、1737年作成、上越市立高田図書館蔵(上越市埋蔵文化財センター)

現在の城と市街地の航空写真

その後、いくつかの大名がこの城と高田藩の地域を支配しました。この地域は大雪が降る都市として知られており、他の地域から来た人にとっては、生活や付き合いに苦労があったようです。この城の最後の城主は榊原氏で、18世紀中盤から19世紀後半の明治維新まで城を所有していました。

雪に覆われた現在の市街地 (taken by v-pro from photoAC)
榊原氏の藩祖、榊原康政を祀る榊神社

「高田城その2」に続きます。

32.春日山城 その3

城の性格は城主次第

その後

春日山城跡は長い間放置されてきました。1901年、山の中腹に春日山神社が設立されました。それ以来、杉林が植林され、山を覆っていました。しかし、この城跡を所有している上越市は現在、山にある曲輪がくっきり見えるよう杉林を伐採しています。そして、城の実態を明らかにするための発掘がちょうど始まったところです。この城跡自体は1935年から国の史跡に指定されています。

春日山神社
約100年前の城跡の写真(上越市埋蔵文化財センター)
搦手道虎口から見た城の中心部

私の感想

私が春日山城跡を訪れたとき、この城は例えば北条氏の城に比べると、随分開けた感じになっていると思いました。多分それはこんなにも多くの曲輪があるにしては、土塁や空堀といった防御のための構造物が少ないからなのでしょう。これは上杉謙信の性格から来ているのだと思うのです。謙信は常にこの城の外で戦い、決して籠城はしませんでした。実際に謙信の時代には敵から攻撃されることはなかったのです。城の性格というのは、城主によって変わってくるものだと改めて思いました。

城跡の案内図(現地説明板より)
本丸から曲輪群を見下ろす
「川中島合戦図屏風」に描かれた馬に乗った謙信

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の上越ICから約10分のところです。
城跡にいくつか駐車場があります。
えちごトキめき鉄道の春日山駅からは歩いて約30分かかります。
東京から春日山駅に行くには:
北陸新幹線に乗り、上越妙高駅でえちごトキめき鉄道に乗り換えてください。

春日山駅からの道の途中で見える城跡

リンク、参考情報

春日山城跡、上越観光ナビ
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「日本の城改訂版第80号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書

これで終わります。
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「春日山城その2」に戻ります。