4.弘前城 その3

美しい桜の花で飾られる公園

特徴、見どころ

城の一番北側になる北の郭にはもう一つの現存している門の建物があります。この門は、城への道筋が変更されるまでは、追手門だったのです。そのため、この門は他の残っている門よりもサイズが大きくなっています。城に残っている建物を全て見てみると、この城がどんなに大きいか実感できるでしょう。

現存する北の郭北門

その後

明治維新後、弘前城は廃城となり、城主の御殿などの居住用の建物は撤去されました。しかしながら、失火により失われたものもありましたが、幸い天守や、櫓や門の建物は残りました。1895年、城跡は弘前公園となりました。それ以来、桜の木が少しずつ植えられてきました。そして今やその数は2,600本に及びます。最初の観桜会は早くも1918年に開催されています。100回目の観桜会が2021年にあったところです。

弘前城天守と桜 (taken by shirakami730 from photoAC)

史跡に関しては、天守、3基の三階櫓、5つの門が最終的に残り、重要文化財に指定されています。

3基の三階櫓の一つ、二の丸丑寅櫓
5つの門の一つ、二の丸東門

私の感想

江戸時代の弘前城の絵図と弘前公園の最近の地図を比べてみて、今でも同じように見えて大変驚きました。また、多くの城の建物が残っているため、城がそのままそこにあるようにも感じました。

城周辺の位置

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

石垣の修理が無事終わり、天守が元の位置に早く戻ってくるように望みます。また、ここでは城とともに、公園の四季~春の桜、夏のねぷた祭り、秋の紅葉、冬の雪を楽しむことができると思います。

石垣修理前の天守
二の丸東門と紅葉 (taken by まさあき from photoAC)

ここに行くには

車で行く場合:
東北自動車道の大鰐ICから約10分かかります。
公園周辺にいくつか駐車場があります。
電車では、弘前駅から歩いて約30分かかります。または、駅から土手町循環100円バスに乗り、市役所前バス停で降りてください。
東京から弘前駅まで:東北新幹線に乗り、新青森駅で奥羽本線に乗り換えて下さい。

弘前駅

リンク、参考情報

弘前公園、青森県弘前市
・「よみがえる日本の城9」学研
・「日本の城改訂版第125号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書

これで終わります。ありがとうございました。
「弘前城その1」に戻ります。
「弘前城その2」に戻ります。

4.弘前城 その2

城は、ほとんど元と同じ範囲で残っています。

特徴、見どころ

外堀から三の丸へ

驚くべきことに、ほとんど全ての弘前城の範囲がそのまま弘前公園として残っています。

城周辺の航空写真、下の古絵図とほとんど同じに見えます

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

南の方、例えば弘前駅の方から公園を訪れる場合、土塁と外堀に囲まれた三の丸にある追手門から入って行くことになるでしょう。また、その土塁には夥しい数の桜の木が植えられていて、春でなくても美しい桜の花で飾られるだろうと想像できます。

桜の木が植えられた外堀周辺

追手門は三の丸に残っている2つの門のうちの一つです。門に入るとき、その門が正面を向いていないことに気づくかもしれません。それは、弘前城と同じ時期に建てられた城には、通常2つの門の建物を持つ関門がありました。1番目の門は正面を向き、2番目の門は別の方向を向いていました。2つの門は、壁面とともに四角い空間を形作り、「桝形」と呼ばれ、城を守っていました。弘前城の場合は、その1番目の門が省略されていて、とても独特なスタイルです。

弘前城の追手門
甲府城に見る桝形の例(復元された山手門)

三の丸は現在、植物園、公共施設、リラックスゾーンになっています。

三の丸

全ての門と櫓が残る二の丸

二の丸周辺の航空写真

更に中に入っていくと、土塁と中堀に囲まれた二の丸が見えてきます。これもまた驚きですが、二の丸にあった2つの門と3つの三階櫓が今日全て残っているのです。櫓の屋根には銅板が使われていて、それが櫓をスマートに見せています。櫓と土塁の組み合わせもとても合っています。二の丸にはインフォメーションセンターがあります。

二の丸の入口
現存する二の丸南門
現存する二の丸辰巳(たつみ)櫓
現存する二の丸未申(ひつじさる)櫓

天守が引越し中の本丸

本丸周辺の航空写真

やがて、内堀の中の、天守がある本丸に到着します。実は、本丸の東側の石垣が修理中です(2021年12月現在)。その石垣の表面が膨張しており、地震が起こった場合崩れかねないからです。

修復中の本丸石垣

そのため、天守は本丸の東南隅にある天守台石垣から一時的に移動されています。よって、天守をすぐ近くに見ることができます。外側を向いている二面は、派手に飾り付けられています。一方、内側を向いている他の面はとても地味です。最初は天守の代用品として作られたからかもしれません。いずれにせよ大変面白いことです。

天守のない現在の天守台石垣
天守の飾り付けされた面
天守の飾り付けがない面

本丸の西南隅には、最初の天守があった大規模な石垣台があります。天気が良ければ、ここから岩木山の雄大な眺めを見ることができます。

最初の天守があった石垣台
石垣台からの眺め
晴れていればこのように見えるはず (taken by u****************m from photoAC)

「弘前城その3」に続きます。
「弘前城その1」に戻ります。

4.弘前城 その1

津軽氏によって築かれ、維持された城

立地と歴史

津軽為信が独立して築城

弘前城は、現在の青森県弘前市にありました。この城は実際、弘前藩の創始者、津軽為信が築いて以来、弘前市の礎となってきました。彼はもともと大浦為信といい、戦国時代の16世紀に北東北地方の有力戦国大名であった南部氏の一族でした。ところが、彼は南部氏からの独立を目論んでいました。

津軽為信肖像画、弘前城史料館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

天下人の豊臣秀吉が天下統一を進めていたとき、為信は1590年に秀吉に会い、秀吉により独立した大名として認められることに成功しました。この機会に彼は苗字を津軽と改めたのです。その後、彼は徳川幕府に与することで津軽郡(現在の青森県西部地方)の彼の領地を維持しました。そしてついに、彼は1603年に新しい本拠地として、津軽平野に新しい城の建設を始めました。それが弘前城です。

城の位置

弘前城は、岩木川と土淵川という2本の川に挟まれた平野にある丘の上に築かれました。不幸なことに為信は建設が始まってすぐに亡くなってしまいますが、彼の息子、信牧(のぶひら)が1611年に完成させました。

津軽信牧肖像画、東京大学史料編纂所データベースより(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今は市街地を流れる土淵川

近代的と伝統的な部分の組み合わせ

城の西側の背後には岩木川が流れており、いくつもの曲輪が水堀に隔てられ、南北そして東側に広がっていました。本丸は城の中心部であり、五層の天守や城主の御殿がありました。本丸は全て石垣で囲まれていて、城の中では最も近代的な部分でした。

弘前城本丸、津軽弘前城之絵図(出展:国立公文書館)
岩木川の支流に由来する西濠
本丸の石垣

二の丸は、本丸の南と東の外側にあり、重臣たちの屋敷がありました。二の丸は土塁により囲まれていましたが、東日本ではこのやり方の方が一般的でした。また、二の丸には防衛のために2つの門と3つの三階櫓がありました。三の丸は、城では最も外側にあり、且つ最も大きな曲輪でした。ここには藩士たちの住居があり、ここもまた土塁で囲まれ、2つの門がありました。門の一つは南側にあり、追手門でした。北の郭と四の丸は、本丸に続いており、城の北側を守っていました。

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
二の丸の土塁と堀
三の丸にある追手門

天守を復興し、明治維新を乗り切る

1627年、落雷と火薬の着火により天守で爆発が起こりました。それ以来200年近く城には天守がありませんでしたが、1811年に弘前藩は三階櫓を改修し、天守の代用とする許可を幕府から得ました。これが現在われわれが見ることができる現存天守です。明治維新の1868年、新政府と幕府を支持する東北諸藩の間で戊辰戦争が起こりました。多くの藩が新政府と戦い、そして敗れていきました。しかし、津軽藩は最初から新政府を支持していました。そのため、弘前城は無傷で残ったのです。

現存天守
弘前藩最後の藩主、津軽承昭(つぐあきら) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「弘前城その2」に続きます。

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