44.名古屋城 その3

現在の天守は残されるべきです。

これからどうなる?

河村市長はまず現在の天守を撤去することを文化庁に申請しており、2018年から天守への入場を停止しています。ところが文化庁は、河村氏が石垣がどのように保存されるか、また天守がどのようになるのか答えていないため承認していません。双方のゴールは完全に異なっているようです。何らかの妥協がない限り、しばらく何も起こらないかもしれません。

小天守(左)と大天守(右)
本丸御殿の背後に見える天守

私の意見

私は、名古屋市は現在の天守の建て替えではなく、修繕を行うべきだと思います。現在の天守に固有の価値があるからです。現在の天守がコンクリートで作られた理由の一つは、将来二度と燃えないようにと考えたからだと言われています(主たる理由はは当時の法規制によるものですが)。木造の天守は首里城のように燃えてしまう恐れがあります。

天守(左)と西南隅櫓(右)
天守の遠景

木造の天守がどんなに元の天守に似ていたとしても、それはレプリカに過ぎず、人々はすぐに飽きてしまうかもしれません。更には、そのレプリカと元の天守が似れば似るほど、一般的な利用には供されず、維持の費用も高額となります。名古屋市がこの城のために十分な予算を確保できるなら、天守台石垣のような現存物の修繕や失われている他の多くの建物の復元に使うべきです。その方が城全体がどのようであったのかより理解できるからです。

本丸表一之門跡
本丸表一之門の古写真

ここに行くには

車で行く場合:
名古屋高速都心環状線の丸の内出口から約5分のところです。
名城公園に駐車場があります。
電車の場合は、地下鉄名城線の市役所駅から歩いて5分のところです。
市役所駅に東京または大阪から行くには:
東海道新幹線に乗って名古屋駅で降り、地下鉄東山線に乗り換え、栄駅で地下鉄名城線に乗り換えます。

リンク、参考情報

特別史跡、名古屋城(公式ウェブサイト)
・「よみがえる日本の城3」学研
・「日本の城改訂版第2、4号」デアゴスティーニジャパン
・「歴史群像69号、戦国最強要塞 名古屋城」学研

これで終わります。
「名古屋城その1」に戻ります。
「名古屋城その2」に戻ります。

44.名古屋城 その2

尾張名古屋は城でもつ

立地と歴史

復活した名古屋城

戦国時代の16世紀中頃、現在の名古屋城と同じ場所に、同じ名前を持つもう一つの那古野(なごや)城がありました。この古い方の那古野城で有名な戦国大名、織田信長が生まれたと言われています。信長は、そのうちに本拠地を清州城に移し、那古野城は廃城となりました。それ以来、清州城(名古屋城の北西約10kmのところ)は尾張国(現在の愛知県西部)の中心地であり続けました。1609年、徳川幕府は度々洪水の被害にあっていた清州城の代わりに、新しい城を築くことを決めました。大坂城にいた豊臣氏との戦いに備え、徳川の親族が入るためのより強力な城が必要とされたのです。その城は、再び名古屋(なごや)城と命名されました。

名古屋城と清州城の位置

清州城跡から見た名古屋城 (licensed by 名古屋太郎 via Wikimedia Commons)

シンプルだが強力な城、最大級の天守

城の範囲は広大で、シンプルであっても強力に作られました。城の中心である本丸は、西の丸などの曲輪群によって全ての方角に対し防御されていました。二の丸は、本丸の南東に付け加えられていて、城主のための御殿が建てられていました。最も大きな三の丸は、他の全ての曲輪の南方にあり、重臣たちの屋敷地となっていました。

尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

城周辺の航空写真

本丸には5層の天守があり、史上最も大きな天守の一つでした。頂にあった2つの金鯱は人々の間で特に人気がありました。初代の金鯱には215kgもの金が使われていたと言われています。また、本丸御殿もありましたが、これは将軍が滞在するためだけに存在しました。実際には3人の将軍しか使用していません。人々は「尾張名古屋は城でもつ」と言い慣わしてきました。

元あった天守と本丸御殿の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

焼亡と復興

明治維新後、二の丸、三の丸といった大きな曲輪は日本陸軍の駐屯地となりました。しかし、政府は本丸周辺は城として維持していくことを決断しました。天守や本丸御殿を含む伝統的建物群がそのまま残されたのです。1930年には、城として初となる国宝にも指定されています。ところが、誠に残念なことに1945年にほとんどの建物が焼け落ちてしまったのです。現在は3つの櫓と3つの門が残るのみです。

空襲で燃え上がる天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現存している本丸の西南隅櫓
現存している本丸表二之門

その悲劇から14年後、名古屋の人々は現在見る天守を再建しました。再建のための予算の3分の1は市民からの寄付によりました。天守の外観はほとんど元通りでしたが、実は元の石垣の内側にあるケーソンの上に建てられた、コンクリート製の近代的ビルだったのです。元あった金鯱は1945年に一緒に燃えてしまいましたが、同時に復元されました。現在のものは88㎏の金を含んでいるそうです。2018年、本丸に、従来工法により本丸御殿が復元されました。本丸はかつての姿を取り戻しつつあります。

現在の再建された天守
現在の復元された金鯱
復元された本丸御殿

「名古屋城その3」に続きます。
「名古屋城その1」に戻ります。

44.名古屋城 その1

本当に木造天守が必要でしょうか?

何が起きているか?

名古屋市の方針

名古屋市にある名古屋城はとても有名です。その天守の頂には金鯱がそびえ、市の最も知られたシンボルの一つです。天守は現存しているものではありませんが、1959年に外観復元されました。元の天守は、第二次世界大戦中の1945年の名古屋空襲により焼け落ちてしまいました。

城の位置

名古屋市長である河村たかし氏は、元あった天守と同じ設計の木造天守の建設を提案しています。現在の天守は建設から60年以上経ち、耐震性が低いことが指摘されています。河村氏は現在のコンクリート製の天守をほとんど元通りの木造製に置き換えるいい機会だと強調しています。また、市には焼け落ちる前の天守の多くの写真、図面、その他の記録があるので十分可能だと言います。彼は市民に対して、木造の天守は自信を与え、観光にも有効だと説明しています。多くの市民は彼を支持していますが、事はそう単純ではありません。

元あった天守の写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

文化庁の主張

河村市長は、天守置き換えを始める前に文化庁からの承認が必要です。城が国の特別史跡に指定されているからです。文化庁は名古屋市に天守置き換えの前に天守台石垣を調査するよう要求しています。天守台は現存しているものですが、空襲のときに傷んだままになっています。文化庁にとっては、木造天守を復元するより天守台を修理する方が重要なのです。

天守台の石垣
空襲で傷んだ部分

現在の天守は実際にはエレベーター付きの近代的なビルであり、博物館として使われています。もしこの建物が元通りの木造天守として置き換えられた場合には、エレベーターを付けることはできません。障がい者の団体は新しい建物にもエレベーターを付けるべきだと主張しています。更には、その木造の建物が火災防止のためスプリンクラーを付けたり、地震から守るために柱を増やしたとしても、政府は博物館として使うことは認めないでしょう。また、入場時の人数制限のような規制も行われるでしょう。

現在の天守には外側と内部にエレベーターがあります。

他の意見

木造の天守は、全く元通りではなく、エレベーターや非常設備を備えられるよう設計変更されるべきだと言う人もいます。役所の中にもこれに賛同する人がいますが、河村市長はあくまで木造天守は元のまま建てられるべきだと言っています。少数派ですが、木造天守は不要で、代わりに現在の天守を耐震工事と博物館改装により一新すべきだとの意見もあります。木造天守を作るには500億円以上かかるのに対し、改装は70億円程で済みます(大坂城での実績)。また、現在の天守自身が文化遺産になりうるのです。事実、大坂城の現在のコンクリート製の天守は、現在建設から90年経っており、最近、国の登録有形文化財になっています。

登録有形文化財になっている大坂城天守

「名古屋城その2」に続きます。