20.佐倉城 その1

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。

立地と歴史

佐倉城は、千葉県佐倉市にあった城でした。この城は、佐倉藩の本拠地として江戸時代に築かれ、現在の佐倉市につながっていきます。ところで、佐倉周辺の地域には、戦国時代までは多くの城があり、歴史上重要なものもありました。例えば、佐倉市西部には、臼井城があり、1566年(永禄9年)に有名な臼井城の戦いが起こりました。関東地方の制覇を狙う上杉謙信勢が、北条氏を後ろ盾とした千葉氏の家臣・原胤貞が立て籠もる臼井城を攻撃しましたが、大損害を被り撤退したことで、失敗に終わります。この戦いは謙信の数少ない敗北の一つとされ、その後の彼の関東経営は後退を余儀なくされました。その千葉氏の本拠地・本佐倉城(もとさくらじょう)は、佐倉市の東境周辺にありました。「本佐倉城」とは戦国時代末期からの呼び名(天正18年5月2日付浅野長吉・木村一連署添状が初見)なので、元来こちらの方が「佐倉城」だったのでしょう。現在の佐倉城を語るには、千葉氏の「本佐倉城」から始めた方が分かりやすいと思いますので、この記事では「佐倉城前史」の記述から始めます。

臼井城跡
本佐倉城跡

佐倉城前史

千葉氏は、平安時代後期以来、下総国(ほぼ千葉県北部)周辺を支配する豪族でした。頼朝の鎌倉幕府創業のときに貢献した千葉常胤(ちばつねたね)が有名です。千葉氏は各地に一族を送り込み反映しますが、惣領家は現在の千葉市にあった亥鼻城(いのはなじょう、別名千葉城)を長い間、本拠地としていました。1455年1月(享徳3年12月)に享徳の乱が起こると、関東地方が戦国時代に突入します。関東公方(後の古河公方)の足利氏と、関東管領の上杉氏が戦うようになり、千葉氏も巻き込まれました。その混乱の中で亥鼻城が荒廃したため、千葉氏は新たな本拠地を築きました。それが本佐倉城で、遅くとも1484年(文明16年)には存在していました(下記補足1)。この城は、下総台地が入り組んだ丘の上にあり、当時は周りを印旛沼や湿地帯に囲まれていました。以前の城よりは防御力に優れていたのです。また、城の南側に下総街道が通り、印旛沼は霞ケ浦に通じ、「香取海(かとりのうみ)とも呼ばれ、水上交通にも利用できたため、同盟関係にあった古河公方とも連絡が容易な立地でした。

(補足1)文明十六年甲辰六月三日佐倉の地を取らせらる。庚戌六月八日市の立て初め、同八月十二日御町の立て初め也。二十四世孝胤の御代とぞ。(「千学集抜粋」)

千葉常胤蔵、千葉市立郷土博物館にて展示
佐倉城の全景(現地説明パネル)

しかし16世紀(1500年代)になると、状況が変わってきます。北条氏が、相模国(神奈川県)から関東全域に勢力を伸ばしてきたのです。千葉氏の内部でも対応を巡って争いがありましたが、重臣の原氏を中心に北条氏に傾きます。房総半島では里見氏が勢力を伸ばしていて、上杉謙信と同盟していました。そういう状況の中で、起こったのが臼井城の戦いでした。謙信は関東地方の諸将に動員をかけ、北条氏の本拠・小田原城を囲んだ時以上の軍勢だったとも言われますが、城の攻略に失敗したのです。その城の城主、原胤貞は、重臣の原氏の当主だったので、その勢力はより高まったことでしょう。千葉氏の本拠地・本佐倉城はそのおかげで無事だったのです。一方、惣領の千葉氏には本拠地を移す動きもありました。その候補地が、下総台地の西端の「鹿島台」と呼ばれた場所でした。後に佐倉城が築かれるところで、本佐倉城と臼井城の中間地点に当たりました。臼井城の戦いの10年以上前の当主・千葉親胤(ちかたね)が築城を始めたと伝わります(下記補足2)。しかし1553年(弘治3年)に家臣に殺され、頓挫しました。

(補足2)親胤或時新城を築きて之に居らんと欲し、近隣の南方に土木工事を興して、既に竣成に至 りしも、未だ果さざる事ありて、暫く鹿島大与を此所に居らしむ。即ち此の城を名づけて鹿島の新城といひ、旧城を本佐倉城と稱し、代々の菩提所海隣寺を新城の傍に移せり。(「千葉伝考記・巻四」)

城の位置

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
千葉親胤肖像画、久保神社蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

16世紀末期になると、北条氏が下総国の支配を強めるため、千葉氏の内部に介入してきます。当主・千葉邦胤(くにたね)の正室は北条氏政の娘(芳桂院(ほうけいいん))でした。そして北条氏の意向として、鹿島城(鹿島台の城)の築城を再開しますが、1585年(天正13年)に邦胤まで家臣に殺されてしまい、また頓挫したと言われています。その後北条氏政が佐倉の直接支配に乗り出し、邦胤と芳桂院の娘(東(とう))の婿として、氏政の息子・直重(なおしげ)を千葉氏の後継者としました。そして直重夫妻の居城として、また鹿島城の築城を行ったと伝わります(下記補足3)。

(補足3)氏政の末子を申受け、十二歳の姫に娶せ申し、「家督相続すべし」とて、天正十三年十一月、本佐倉は城地狭きため、神(鹿)島山今の佐倉へ、城地取立て、北条の威勢にて(中略)十一月廿二日に企て、廿三日普請始め、十二月十二日に屋形塀等大半出来、同十五日には十二歳の姫君并に母君御移し申し、其の後氏政の末子を小田原の本家へ引取られ、実子亀若丸を重胤と号し、佐倉城へ引取可申之処、俄に小田原陣始まり、小田原北条氏政の味方して籠城し給ふ。其の時亀若丸六歳なり(「妙見実録千集記」)

北条氏政肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

これら一連の鹿島城伝承の検証は困難です。後の佐倉城と場所が重なってしまっているからです。中世の空堀跡が見つかっていることから、少なくともここに築城しようとしたことは確かでしょう。鹿島へ本拠地を移転しようとしていたならば、その理由にの一つには本佐倉城よりも敷地が広かったことが挙げられるでしょう。それから、北条氏の立場からは、西の方角への防御力に優れた鹿島城は、豊臣軍の西からの攻撃に備えるためとは言えないでしょうか。直重は、1590年(天正10年)の小田原合戦のとき、小田原城での籠城を命じられました。千葉氏は邦胤のもう一人の息子(側室の子)重胤(しげたね)が最後の当主となりますが、北条氏の滅亡とともに改易となってしまいました。重胤も小田原城に籠城したという記録があります(「総葉概録」など)。

現在の佐倉城跡(三の丸前の馬出し)
現在の小田原城

土井利勝による佐倉城築城

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、佐倉地域には一族(武田信吉、松平忠輝)や家臣(酒井家次など)が配置されますが、短期間で入れ替わったため、拠点整備には至りませんでした。1610年(慶長15年)家康は、土井利勝を本佐倉城に入れ、旧鹿島城の地に、新城と城下町を建設することを決めました。この新城が佐倉城です。この城には、家康が創設した江戸幕府の本拠地・江戸城の東方を守る役割を課せられました。江戸城が西から攻められたときに、東からバックアップし、将軍の避難場所とするための城だったと言われています。旧鹿島城の地はそれに相応しかったのでしょう。

土井利勝肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その任務を帯びた土井利勝は、徳川家康・秀忠・家光の3代に重臣として仕え、幕府の安定化に貢献しました。利勝は、家康が浜松城主時代の1573年(元亀4年)に生まれました。その出自にはいくつか説があります。1つ目は、幕府の系譜書(「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」)によると土居小左衛門利昌の子、2つ目は、幕府の正史「徳川実記」新井白石「藩翰譜」などによる家康の母・於大の方の兄、水野信元の子とするものです(下記補足4)。最後は土井家の「土井系図」で、そこでは何と家康のご落胤としているのです(下記補足5)。

(補足4)利勝實は水野下野守信元の子なり。さる御ゆかりを思召れての事なるべし(「徳川実記」)

(補足5)利勝公 実家康君之御子也 天正元癸酉年三月十八日於遠州浜松御城御誕生号松千代殿

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最近の研究(「藩祖・土井利勝」所収)によると、以下のような見解も出されています。「利勝が家康から賜った水野家の家紋(沢潟紋)入りの短刀があり、それは於大の方が実家から持参したもので、実際には家康の子であることを示すものだった。利勝の孫・利益(とします)が、当時地位が落ちていた土井家の状況を鑑み、自ら信元説(2つ目)を流した。ところが、その後幕府から利勝の生母について問合せがあり、そのときの当主・利里(としさと)が真相を回答し、幕府は公式見解は改めないものの、黙認したので、土井家の系図に残した。」というものです。利勝は7歳にして、家康の子・秀忠の傅役に任命されました。目を懸けられていたことは確かでしょう。そしてそのまま秀忠の側近(老職)となるのです。

土井利益肖像画、正定寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

関東創業時の家康には、最有力の側近として、本多正信・正純父子と大久保忠世・忠隣父子がいました。ところが、1614年(慶長19年)大久保長安の不正蓄財事件をきっかけに、大久保忠隣が失脚します。家康と正信の没後は、本多正純が抜きん出た形になりましたが、それに対抗したのが秀忠の側近、酒井忠世・土井利勝などでした。1622年(元和8年)今度は正純が失脚(改易)しますが、利勝ら側近たちが関与していたとも言われています。決断は将軍・秀忠によるものですが、そのお膳立てが、忠隣のときの意趣返しのように仕組まれていたからです。双方とも反乱を防ぐため、出張した時に言い渡されているのです。利勝は、次の将軍・家光の時代にも、自らが亡くなるまで元老として、家光の側近・松平信綱(川越藩主)、稲葉正勝(小田原藩主)、堀田正盛(後の佐倉藩主)らとともに、幕政に関わりました。やがて老中・若年寄の集団指導体制が確立され、幕府政治が安定していきます。

本多正信肖像画、加賀本多博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保忠世肖像画、小田原城蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

利勝が幕閣にいた頃は、内部抗争もあり、大物大名改易、一国一城令、参勤交代、御三家創設、鎖国政策など、幕府による統制が進んだ時代だったので、彼には冷酷な権謀術数家とのイメージもあります。しかし一方では、海外を含む情報通(「コックス日記」)であり、実直な人柄でもあったようです(下記補足6)。その利勝が7年かけて作った城が佐倉城なのです。利勝は、1633年(寛永10年)には古河藩に加増移封となり(14万2千石→16万2千石)、古河城も大拡張しました。

(補足6)土井大炊殿、いよいよ御出頭にて候、拙老も節々参会申し、別して御意をえ申し候、我等旅宿へも御出候て、しみじみと放(話)申し候、ことのほかおくゆかしき御分別者に見および申し候、両御所様(家康・秀吉)御見立の仁に候あいだ、申しおよばざることに候、今は出頭一人のようにあいみえ申し候、人の申すことをも、こまごまと御聞候、寄特に存じ候ことに候。(金地院崇伝)
私はキャプテン・アダムス(三浦按針)とニールソン君を伴ってオイエン(土井利勝)殿のところへ赴いたが、運良く彼が彼の自宅の前を通りに出たところで出くわして、閣下に皇帝(秀忠)から我々のための我々の事務処理を受けて欲しいと願ったところ、彼はすぐにも処理すると約束し、我々がそんな長く滞在していることを恥ずかしく思うとの由で、しかもその上彼が私には感謝していると私に告げた。(「コックス日記」1618年11月4日)

佐倉城の特徴

広い台地上に築かれた佐倉城には、いくつも特徴がありました。まずは、その台地の自然の地形を巧みに利用したことでしょう。台地は麓から約20メートルの高さがあり、南と西を高崎川と鹿島川に囲まれ、自然の要害となっていました。加えて、台地を水堀でも囲みました。台地上の西の先端に本丸を構え、二の丸・三の丸・惣曲輪などを周りに配置しました。そして、東に向かって巨大な大手門や空堀などを作り、防衛体制を固めたのです。城下町や武家屋敷は、その更に東側の台地上に建設されました。成田街道もその城下町を通るように設定されました。つまり城と町を丸ごと、台地の上に作ってしまったわけです。

下総国佐倉城図、出展:国立国会図書館デジタルコレクション
大手門の古写真、現地説明パネルより
現存する空堀

次に挙げられるは、石垣を使わない土造りの城だったことでしょう(土塁、空堀、切岸など)。小田原合戦のとき秀吉が初めて、関東地方に本格的な総石垣造りの城を作りました(石垣山城)。それ以来、関東地方にも石垣を使った城が多く現れます(江戸城など)。しかし佐倉城は、関東地方ならではの、土造りの城のスタイルを継承していました。同様の例としては、川越城宇都宮城があります。一方で、城の防衛システムには、当時最新の仕組みが取り入れられていました。例えば、三の丸の門の前には「馬出し」と呼ばれる突出した防衛陣地が2ヶ所設けられていました。また、三の丸の周りの惣曲輪(東惣曲輪と椎木曲輪)は広大で、武家屋敷の他、練兵場に用いられ、多くの兵が駐留できるようになっていました。更には、台地の斜面には帯曲輪があって兵の移動が容易であり、その先の台地の西と東に出丸もあって、防衛の拠点になっていました。

石垣山城跡
佐倉城天守土台
現在の宇都宮城
佐倉城の帯曲輪
佐倉城の出丸

3つ目は城の建物についてです。本丸には高さ約22メートルの3層4階(+地下1階)の天守が建てられました。築城時期から考えると、佐倉城だからこそ許されたのでしょう。江戸城の三重櫓を移築したものとも言われています。江戸後期に盗賊による失火で焼失したため詳細は不明ですが、土井利勝が古河に移ってから建てた御三階櫓とほとんどサイズが一緒のため、似た外観だったと考えられています。本丸には他に、銅櫓と角櫓がありました。内部には本丸御殿(御屋形)がありましたが、徳川家康が休息して以来、通常は使われませんでした。藩主は代わりに通常は二の丸御殿(対面所)を使っていました。幕末になり老朽化すると、三の丸外に新たに御殿が建てられました。

佐倉城天守模型、佐倉城址公園センターにて展示

土井利勝が古河に移った後は、譜代大名が頻繁に入れ替わり、佐倉藩主(城主)となりました。
利勝以後の藩主または大名家を記載します。
・土井利勝(1610年〜):老中、後に大老
・石川忠総(1633年〜)
・形原松平家2代(1635年〜)
・堀田家2代(1642年〜):正盛が老中・将軍家光に殉死、正信が無断帰国で改易
・(大給)松平乗久(1661年〜)
・大久保忠朝(1678年〜):老中首座
・戸田家2代(1686年〜):忠昌が老中、忠真が寺社奉行・後に老中
・稲葉家2代(1701年〜):正往が老中
・大給松平家2代(1723年〜):乗邑が老中首座、
・堀田家6代(1746年〜):正亮(老中首座)、正順(京都所司代)、正睦(老中首座)
幕府の幹部、老中を多く輩出した藩であるため、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。
江戸時代後半からは安定し、堀田家が幕末まで、藩主を務めました。
その中で、幕末に藩政改革や幕府の老中の職務を通して、開国方針を貫いた堀田正睦(まさよし)を取り上げてみたいと思います。

開国に尽力した堀田正睦と佐倉城

正睦は1810年(文化7年)生まれで、32歳のとき本丸老中となり、幕府中枢のメンバーになりましたが、ときの老中首座・水野忠邦と反りが合わず、2年余りで辞職しました。このとき将軍に直接ものが言える「溜の間」格になったことが、阿部正弘や井伊直弼とのつながりができ、後に老中に再任され、彼の開国の業績につながったという見方があります。

堀田正睦 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正睦は老中になる前から、三の丸御殿に藩士を集め、藩政改革を宣言し、推進していました。その柱は「文武奨励」「兵制改革」「医学奨励」「民政改革」でした。兵制改革については、城中に西洋砲術の練習場を作り、ついには旧来の火縄銃を廃止し、いち早く西洋式の兵制に改めました。また、側近の渡辺弥一兵衛の癰(よう、腫れ物)が蘭方医の治療により完治したことから、西洋医学(蘭学)を導入し、江戸から名医・佐藤泰然を招きました。泰然は佐倉の城下町で佐倉順天堂を設立します(後の順天堂大学病院にもつながります)。佐倉はやがて長崎と並ぶ蘭学の地と称され、正睦もまた「蘭癖」というニックネームが付きます。佐倉の城と町は、正睦の改革の発信基地となったのです。

佐藤泰然 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

やがて、ペリーが来航(1853年)すると、老中首座の阿部正弘は、広く開国について諮問を行いました。正睦の回答は、当時としては思い切った開国通商論でした(下記補足7)。そのせいなのか、1855年(安政2年)彼は突然老中首座に抜擢されました(実権はまだ阿部正弘にあり)。翌年には「外国事務取扱(外交専任老中)」となり、またその翌年には阿部の死により名実ともに幕閣のトップになりました。彼の大仕事の一つが、アメリカ総領事ハリスへの対応(江戸出府問題)と通商条約の交渉でした。正睦は積極的開国派であったので(下記補足8)、ハリスの江戸城での将軍徳川家定への謁見を実現し、日米修好通商条約の交渉を進めました。交渉役には、叩き上げの優秀な官僚(岩瀬忠震・井上清直)を任命しました。内容的には、関税自主権がないなど不平等条約であったり、通貨交換規定が不備であり金が国外に大量流出することになります。しかし、神奈川(横浜)を開港場とするなど評価できる点もありました。

(補足7)彼に堅牢の軍艦これ有り、我が用船は短小軟弱、是彼に及ばざる一ツ。彼は大砲に精しく、我は器機整わず二ツ。彼が兵は強壮戦場を歴、我は治平に習い自ら武備薄く是三ツ。右三ツにて勝算これ無く候間、先ず交易御聞届け十年も相立ち、深く国益に相成らず候わば其節御断り、夫までに武備厳重に致し度候。夫とも国益に候わば其儘然るべきや。(「正睦伝」)

(補足8)怖れ乍ら神祖遠揉の御盛意在らせられ、慶長五年泉州に渡来仕り候阿蘭陀人英吉利人の船、江戸表へ廻され御城に召され、九カ年の遺留をも御許容もこれ有り。(中略)鎖国の法には戻られ難く存じ奉り候間、国初めの御旧例に依らせられ、異邦の御処置首尾全く御変革遊ばされ、其段海内へ御演達これ有り、公平に隣国和親の礼儀を以って、亜国官吏速やかに江戸表へ召され、登城御目見え仰付けられ、神祖遠揉の思召の如く、御懇篤の御処置御座候わば、礼儀は勿論道理も全備仕り候間、彼も是までの意匠を改め、自然感心悦服仕り、却って御益得もこれ有るべきやに存じ奉り候。(「外交関係文書」之十六)

阿部正弘肖像画、福山誠之館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
タウンゼント・ハリス (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約交渉は終わっても、もっと大変だったのが、幕府内での承認でした。創業時と違い、幕閣トップであっても重大案件は、同僚の老中だけでなく、御三家、溜の間格など関係有力大名に根回しをする運用になっていたのです。前任者の阿部正弘は周りに気を使い、周到に事を進めることに長けていました。一方、正睦は口下手だが意思を込めて淡々とことを進めていくタイプでした。実際、有力大名18名のうち賛成はわずか4名でした。そこで正睦が考えたのが、これまで必要なかった天皇の勅許を得ることでした。1858年(安政5年)正月、正睦は自ら京都に乗り込みますが、勅許獲得は失敗します。孝明天皇の条約拒否の意思が判明したからです(下記補足9)。正睦は将軍に一橋慶喜を推して政局を乗り切るつもりでしたが、それに反対する大老・井伊直弼に罷免されました。

(補足9)日本国中不服ニテハ実ニ大騒動ニ相成候間、夷人願通リニ相成候テハ天下の一大事の上、私の代ヨリ加様の儀ニ相成候テハ後々迄の恥の恥ニ候半ヤ。(「天皇紀」)

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

条約調印は井伊直弼に引き継がれ、正睦は佐倉に戻り隠居し、城の三の丸に松山御殿を建てて過ごしました。亡くなったのは1864年(元治元年)でした。明治維新後、城跡は日本陸軍第2連隊(後に第57連隊)の駐屯地となりました。その任務の一つは、城と同じく、帝都東京の東方の防衛でした。戦後は中心部分が佐倉城址公園となり、惣曲輪の一つ、椎木曲輪には、国立歴史民俗博物館が建てられてました。城の特徴(台地上の広い敷地)が、現在でも生かされていると言えるでしょう。

三の丸にある堀田正睦像
佐倉城城跡の日本陸軍駐屯地模型、国立歴史民俗博物館にて展示
佐倉城址公園
国立歴史民俗博物館

リンク、参考情報

佐倉城、まちづくり支援ネットワーク佐倉
・「上総下総千葉一族/丸井敬司著」新人物往来社
・「千葉一族の歴史/鈴木佐編著」戒光祥出版
・「佐倉市史」
・「シリーズ中世関東武士の研究 第十七巻・下総千葉氏/石橋一展編著」戒光祥出版
・「よみがえる日本の城2」学研
・「歴史群像65号、戦国の城 下総本佐倉城」学研
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「藩祖・土井利勝/早川和見著」Kプランニング
・「徳川幕閣/藤野保著」吉川弘文館
・「評伝 堀田正睦/土居良三著」国書刊行会
・「佐倉って何?」佐倉国際交流基金ゼミ資料

「佐倉城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その2

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

特徴、見どころ

現在、安土城跡は国の特別史跡になっています。城跡の前は広場になっていますが、城があったときには、この辺りから水堀や石垣に囲まれていました。安土城は、中世の東海道に沿って、京都と織田信長の以前の本拠地、岐阜の途中にあって、何かあったら両方に駆け付けることもできました。また信長は、有力家臣に琵琶湖沿いに城を築かせ、水上交通ネットワークを形成していました。今回の記事では、前回の謎対決のテーマと、城跡の見学コースに沿って、現地を紹介していきます。

安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

大手道を登る

大手道を歩く前に、大手門跡周辺を見ておきましょう。4つも作られた門の跡です。そのうち3つがまっすぐ入れる門(平虎口)でした。東側には平虎口が一つだけありますが、西側の方には平虎口と、二度曲がって入る門(枡形虎口)の2つが並んでいます。こんな近くに、わざわざ違う形の門を作るなんて、不思議に思います。平虎口はやはり行幸用だったのかなという気もします。

大手門跡
東側にある平虎口跡
西側には、枡形虎口跡(左)と平虎口跡(右)が並んでいます

それでは、大手道を進んでいきましょう。城跡は、摠見寺の所有地なので、拝観料を支払ってから入ります。それから、まっすぐな石段を登って行きましょう。現代に訪れても特別な感じがします。昔はここから天主が見えていたのでしょう。

城跡入口
大手道の石段
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

大手道の左側には「伝・羽柴秀吉邸」跡があります。道の反対側に「伝・前田利家邸」跡もありますが、いずれも江戸時代以降に憶測で付けられた名称です。伝・羽柴秀吉邸は、2段構成の屋敷になっていたと推測されています。しかし、実は別々の建物で、改造された跡もあったため、本能寺の変後に、織田三法師と信雄が入場したときに、御殿として使われたのではないかという説もあります。

「伝・羽柴秀吉邸」跡
「伝・羽柴秀吉邸」跡の現地説明パネル
「伝・前田利家邸」跡

ずっと登っていくと、右側に摠見寺の現在の本堂(仮本堂)がありますが、ここは「伝・徳川家康邸」跡だそうです。ただし、家康が安土に来たときには、別の寺に泊まっていたという記録があります。

「伝・徳川家康邸」跡(現・摠見寺仮本堂)

やがて直線の道から、ジグザグの道に変わります。防衛を考えた道筋ということなのでしょう。石段はオリジナルの石を使いながら、復元整備されたものですが、オリジナルでは材料として石仏も使われていました。城に使う石材は、この周辺の山から調達できたはずですが、なにか意図的なものを感じます。

大手道の石材に使われた石仏

平らなところに出ると、「伝・織田信忠邸」跡です。ここは一時お寺の施設として使われて、ほとんど城の痕跡は残っていません。大手道、通用口(百々橋口)、湖に通じる道(七曲口)と城の中心部への道が交差する場所なので、かつては石垣が積まれ、厳重に守られていたようです。

「伝・織田信忠邸」跡

城の中心部に向かう

城の中心部に向かいましょう。石段を登っていくと、立派な門の跡が見えてきます。中心部への入口「黒金門」跡です。すごく大きな石を使い、四角い枡形で防御力も高そうです。「信長公記」では「おもての御門」と表現されています。やはり、城の正門だったのでしょう。

黒金門跡

中に入ると、石垣だらけです。安土城の石垣が画期的なところは、その上に建物や塀を建てる前提で築かれたことです。集められた石のうち、大きなものが中心部に高く積まれました。荒々しいですが、巧みに積まれている感じがします。:「野面積み」といって自然石と、一部に荒く加工された石が使われているそうです。こういった積み方の技術を持つ職人集団が、後に「穴太衆」と呼ばれるようになりました。

二の丸の石垣

「二の御門」「三の御門」跡を通り過ぎると、「二の丸東溜り」と呼ばれる場所に着きます。ここから左側が二の丸、右側が本丸となります。

二の丸東溜り

二の丸には、本能寺の変の翌年に秀吉が建てた「織田信長公本廟」があります。廟への階段もそのとき作られました。ここに廟が作られたのは、信長やその家族の普段の居館があったからだという説があります。廟の一番上に石が置かれていますが、信長の化身の石とも言われる「盆山」のようにも見えます。真偽はわかりませんが、それを意識したものなのでしょう。

織田信長公本廟
廟の上に置かれた石

先ほどの「二の丸東溜り」は、「信長公記」では「御白洲」という名前で記載されています。屋外にある待機場所ということでしょう。ここから本丸に向かってもう一つ門があり、その先に「南殿」がありました。江戸時代の武家御殿の遠侍・式台・大広間にあたる建物だったようです。二条城二の丸御殿にそのセットが現存していますが、安土城はルーツの一つだったのでしょう。

この先に「南殿」があったと思われます
二条城二の丸御殿の航空写真 (Google Map)

本丸の中は、現在はところどころ木が立っているだけですが、この中のどこかに、行幸のための部屋か御殿があったはずです。向こう側には三の丸の石垣が見えます。そこには接待用の紅雲寺御殿がありました、景色が良かったそうです。今はそこには登れなくなっているのが残念です。

本丸
安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

いよいよ天主台へ!

本丸から本丸取付台を通って、いよいよ天主台に行きましょう。「取付台」といっても当時は建物があって、他の建物とは渡り廊下で連結されていたようです。進んでいくと「発掘調査中」という区画があります。2023年から滋賀県による「令和の大調査」が、この場所から始まっているのです。天主の姿や、焼失の原因が、明らかになるかもしれないと期待されています。今のところ、天主台石垣を人為的に崩した跡が見つかり、廃城のときに行われた可能性があるそうです。

発掘調査中の区画
調査が行われている天主台北側

天主台の階段を登りましょう。階段の途中の踊り場に注目です。タイルのようになっているところです。「笏谷石(しゃくだにいし)」という越前国特産の石を加工して作られたものです。北陸地方に担当していた柴田勝家から献上されたそうです。

笏谷石を加工して作られた踊り場

この階段は土蔵、つまり地下室に通じていました。中に入ると、礎石がたくさんあります。天主や城の建物がどんな姿をしていたのかは謎ですが、滋賀県によると、「高層の天主」「高石垣」「瓦葺きの建物」の3点セットが、初めて日本の城に現れた場所だったとのことです。また、金箔瓦が城の中心部で発見されています。「金箔瓦」自体も、安土城が初めてと言われています。(岐阜城でも金箔を押した跡のある瓦が発見されていますが、信長時代のものとは確定していません。)

天主台内部
城中心部で発見された金箔瓦、安土城考古博物館にて展示

「令和の大調査」には、発掘だけでなく、安土城を描いた絵画の探索も含まれています。信長が安土城を描かせ、天正遣欧使節に託してローマ教皇に送った「安土山図屏風」です。その屏風はバチカン宮殿に飾られましたが、現在は行方不明になっています。:滋賀県はこれまでも探していましたが、もう一度ネジを巻きなおすそうです。その屏風が見つかったら、世紀の大発見になるでしょう。

「安土山図屏風」の想像画、安土城郭資料館にて展示

やっぱり謎の摠見寺

城の中心部から「伝・織田信忠邸」跡に戻ると、見学コースは摠見寺の方に向かいます。ルイス・フロイスによれば、「盆山」を祀っていたところです。景色が開けたところに、本堂跡があります。かつて、その本堂は二階建てで、その二階に「盆山」が置いてあったとのことです。その場所は、一階の仏像はもちろん、三重塔よりも高い位置だったと言われています。まるで、天主の宝塔と、信長の部屋のような位置関係です(これも一説によりますが)。その本堂は、改造された後、江戸時代に火事で燃えてしまいました。もし残っていたら謎の一つが解けていたかもしれません。

摠見寺本堂跡

かつて城に接していた湖は大分干拓されてしまいましたが、今でもいい眺めです。

本堂跡からの眺め

三重塔、仁王門は、火事を生き延びて現存し、重要文化財になっています。この寺は、他の寺から建物を移築して設立されたので、両方とも、なくなった城の建物より古いのです。摠見寺を通る道は、城の通用口(百々橋口)だったので、一番使われたはずです。信長最後の正月(天正10年)の年賀行事には、百々橋から摠見寺に、大名・家臣・群衆が押し寄せたとの記録があります。

現存する三重塔
現存する仁王門

現在の見学コースでは、その百々橋口には出ることができません。それなので、山の中腹を回って、「伝・羽柴秀吉邸」跡に戻ってきます。

百々橋口は塞がれています
山の中腹を通って戻ります
「伝・羽柴秀吉邸」跡に到着

私の感想

安土城の謎を考えても、ますますわからなくなるというのが正直な感想です。しかし、その謎解きを考えること自体が面白かったです。織田信長は常識を打ち破ってきた人物なので、彼の安土城を現代の常識で考えても、答えは出ないのかもしれません。よって、決定的な証拠が出てくるまでは、謎解きを楽しめばよいのだと思います。

安土山

その謎解きの助けになる博物館が、城跡の近くにいくつもあります。併せて行ってみてはいかがでしょうか。

安土城郭資料館(中に展示している安土城天主20分の1モデル)
安土城考古博物館
安土城天主 信長の館

リンク、参考情報

織田信長の安土城址と総見寺(安土城址の公式サイト)
滋賀県立安土城考古博物館
城びと、理文先生のお城がっこう、城歩き編 第24回 安土城の石垣1
・「信長の城/千田嘉博著」岩波新書
・「安土 信長の城と城下町」滋賀県教育委員会
・「現代語訳 信長公記/太田牛一著、中川太古訳」新人物文庫
・「歴史群像名城シリーズ3 安土城」学研
・「復元安土城/内藤昌著」講談社学術文庫
・「逆説の日本史 9戦国野望編 10戦国覇王編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城22」学研
・「新「近江八幡市」誕生までのあゆみ」近江八幡市
・「特別史跡安土城跡整備基本計画」令和5年3月 滋賀県文化スポーツ部文化財保護課
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第20号 安土城の大手道は無かった」木戸雅寿氏論文
・「滋賀県文化財保護協会 紀要第30号 安土城の空間特性」大沼芳幸氏論文
・「鳥取環境大学 紀要第8号 安土城摠見寺本堂の復元」岡垣頼和氏・浅川滋男氏論文

これで終わります。ありがとうございました。
「安土城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

51.安土城 その1

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

安土城は言わずと知れた、織田信長の最後の、そして最も有名な本拠地の城でした。それだけでなく、彼が想像した城のスタイル(高くそびえる天主(守)、高石垣と櫓や白壁、厳重な門構え、周りには水堀をたたえているなど)は、その後の有力な大名に受け継がれました。それぞれのパーツは以前の城にもありましたが、信長はそれらを組み合わせ、自らの城として表現したのです。いわば安土城は、日本の典型的な城スタイルの始祖と言えるでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし、この城はそのインパクトの割には短命でした。1576年(天正4年)正月に城の建築が開始され、3年後に信長が天主に移り住みました。最終的な完成は1581年(天正9年)9月で、本能寺の変(翌年6月3日)において信長が倒れるわずか9ヶ月前でした。6月13日の山崎の戦いで、羽柴秀吉が明智光秀を破った直後、天主を含む城の中心部は焼失してしまったのです。その後は織田家の嫡男(三法師)が織田信雄とともに入城し、残った部分を使用しますが、1858年の八幡山城の築城とともに、廃城になったとされています。

八幡山城跡

このように、主人の信長同様、際立った個性を持ちながら、突然のごとく現れ、去っていったこの城は、多くの謎に満ちています。例えば、「安土」という名前自体から謎めいています。大名家の記録(「細川家記」)に「天正四年正月、信長江州目賀田を安土と改む」とあることから、信長が「平安楽土」をもじって命名したと考える人もいます。しかし現在の安土山が、もともと弓の練習場で、標的を置く土盛りを「垜(あずち)」といったところからだとか、他の山を安土山といっていたのを、信長が自分の城用に採用したのだとか、異説もたくさんあり、どれも憶測の域を出ないものです。

安土山

この記事では、安土城の主な謎のうち、論争になっているもの5つをピックアップし、対比させてみたいと思います。(「従来説」として、調査主体の滋賀県や他の識者が唱えるもの、「新説」として、城郭考古学者の千田嘉博氏の唱えるものをベースとしました、但し新説のうち、最後の論点は自分で考えてみました。)

立地と歴史(安土城謎対決)

山上に伸びる大手道の謎

1989年に始まった、滋賀県による平成の発掘調査では、驚くべき発見がありました。当時、山の上に築かれた城への経路は複雑に曲げられ、門や櫓が障壁になるよう配置されるのが普通でした。安土城跡もセオリー通り、大手道とされる経路の前に、石垣が立ちはだかっていました。ところが、その石垣は、安土山にある摠見寺(そうけんじ)が江戸時代に作ったもので、その石垣を取り除いたところ、長さ約180メートル(幅約8メートル)もの直線の大手道が、山上に向かって現れたのです。その脇には、「伝・羽柴秀吉邸跡」など、有力家臣の屋敷跡とされる区画が並んでいました。しかも、大手道の入口には、大手門を含め4つも門跡があり、うち3つはまっすぐ入ることができる平虎口でした。これら、一見して防御には適さない大手道とその門の作りは、どう考えたらよいのでしょう。

調査前の安土城跡のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
安土城の大手道
伝・羽柴秀吉邸跡

従来説:この大手道は、特別な身分の人だけが通ることができる通路である。具体的には、天皇が行幸のときに使われる予定だったと考えられる。この道のことは記録に出てこないのだが、それは通常使う機会がなかったからである。(通常は、「百々橋口」と呼ばれる通用口が使われた)また、3つの平虎口の門も、天皇の行幸のときに、身分別に使い分けるために用意されたものである。有力家臣の屋敷跡とされる区画は、行幸などの行事のための施設だったのではないか。もちろん、「平安楽土」の信長の城を、象徴するものでもあったはずだ。大手道の先に見える天主の姿は、信長の権威を高めたに違いない。

現在の大手門跡
安土城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示、大手道の前には門が4つもあった
安土城大手道周辺の想像図、岐阜城展示室にて展示

新説:この大手道は、天皇の行幸用だけでなく、有力家臣の居住区として作られたものである。信長の以前の本拠地、小牧山城でもまっすぐな大手道が山の中腹まで作られていたことが分かっている。信長はそこに有力な家臣団を住まわせ、そこから上を本来の城の区域として、防御を行っている。安土城も同じで、大手道から先は、道を複雑に曲げて、黒金門などを配置して攻めにくくしている。行幸用ということであれば、なぜ山頂まで道をまっすぐ作らなかったのか。門を多く作ったのも、家臣の中でも、身分別に使い分けをさせるためだったのだろう。記録に出てこなかったのは、有力家臣は遠征や、自分の領地の城にいることが多く、大手道周辺は閑散としていたからだと思われる。

小牧山城跡
小牧山城の大手道
小牧山城の中腹から上のジグザグ道

本丸御殿の謎

平成の発掘調査では、山上の本丸も対象になりましたが、ここでも大きな発見がありました。柱を立てる礎石の間隔が、武家建築のものより長くなっていました。復元図面を作り、比較検討を行った結果、後に江戸幕府が建てた京都御所の清涼殿に酷似することが判明しました。(レイアウトが東西逆になっているだけ)。信長の最も信頼できる伝記「信長公記」には、安土城に「御幸の間」「皇居の間」があったと記載されています。貴族の日記(「言継卿記」)にも天皇の安土行幸予定についての記述があります。安土城の本丸は、どのような場所だったのでしょう。

現在の安土城本丸

従来説:本丸には、まさに天皇のための行幸御殿があった。もしかすると信長は、そこを天皇の御所とし、遷都することまで考えていたかもしれない。信長は、安土城を築城するとき、織田家の家督を息子の信忠に譲っていた。また、彼は朝廷の官職として右大臣・右近衛大将まで登っていたが、1578年には両方とも辞任している。つまりこれらは、武家・公家両方を超越した頂点に立とうとしていた意思の現れではないか。信長は、京都での自身の居城を皇太子・誠仁親王に譲り、親王の皇子・五宮を自分の猶子にしている。いずれ、親王父子のいずれかに即位させ、安土に迎えるつもりだったのではないか。もし、天皇が本丸の行幸御殿にいたとすると、信長は彼の住む天守から、天皇を見下ろす形になる。これこそ、信長が日本の絶対君主になろうとしたことを示している。

誠仁親王肖像画、泉涌寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:安土城の本丸は、天主・二の丸・三の丸より低い位置にあり、後の大坂城の例からすると、普段の政務の場であったのではないか。信長は天主や家族の居館(二の丸にあったと想定)には、滅多に他人を入れなかった。三の丸には「江雲寺御殿」という眺望の良い接待用の御殿があった。通常家臣と対面する場が別途必要となる。本丸を行幸御殿で一杯にしてしまったら、普段の政務の場がなくなってしまう。建築の専門家によれば、礎石だけでは部屋のレイアウトはわからないそうだ。信長公記にも、本丸に「南殿」と呼ばれる、遠侍・式台(待合所)や大広間(対面所)にあたる御殿があったとの記載がある。「御幸の間」は、それら本丸にあった建物の一つだったのだろう。天正10年正月には、特別に家臣たちが、順々にこれらの御殿群を特別に拝観している。どうやら渡り廊下で連結されていたようだ。信長の意思はわからないが、本能寺の変の直前には、将軍職を受けようとしていたという研究結果もある(三職推任問題)。

安土城中心部のジオラマ、安土城考古博物館にて展示

天守の姿の謎

安土城天主(天守、信長のときは「天主」と表記されていた)は、城郭に初めて本格的高層建築が建てられた例とされています。また、信長は普段から天主に住んでいた最初で最後の人物だと言われています。そこは彼にとって崇高で且つ権威そのものを表す場所だったのでしょう。「信長公記」の著者・太田牛一や、宣教師のルイス・フロイスの記述などによると、高さは約32メートル(石垣を含めると約41メートル)、5層6階(+地下1階)の構造で、それぞれの階は違う形や色彩になっていました。特に、5階(4層目)は赤色の八角形で内側には仏画が描かれ、最上階の6階(5層目)は金色の四角形で古代中国の聖人が描かれていました。現在残る天主台には、天主の礎石が残っていますが、なぜか真ん中の1個が欠けています。調査によれば、これは当初からの状態とのことです。信長の天守はどのような姿をしていたのでしょう。

安土城天主台の礎石群、真ん中の一つが欠けています
天守五階モデル、安土城郭資料館にて展示
天守六階モデル、安土城郭資料館にて展示

従来説:これは、「天守指図」という決定的な別の物証がある。加賀藩作事奉行の家に伝えられたもので、「安土城」とは明記していないが、先ほどの記述や現地の状況と一致していて、他の城や架空のものとは考えられない(昭和初期の最初の発掘までは現場は放置されていて、江戸時代には未調査と判断される)。「天守指図」を基にした(内藤昌氏による)復元案が広く受け入れられている。内部は吹き抜け構造になっていて、その一番下、礎石がない部分には、宝塔が安置されていた(最初の調査において、柱用ではない穴に、火災で木炭化した木片や褐色の破片が埋まっていた)。この宝塔は法華経で宝塔が「地下から湧出」したことを象徴しているのではないかとする見解がある。「天守指図」を基にした20分の1スケールの模型が「安土城郭資料館」に展示されていて、その外観と内部(分割式になっている)をじっくり観察できる。また、最上部2階分の実物大模型が、1992年のセビリア万博向けに製作され、現在は「安土城天主 信長の館」に展示されている。そこは信長にとっての天堂であり、「生き神」として地下の宝塔の上に君臨しようとしたのだ。

「天守指図」を基にした安土城天主模型、安土城郭資料館にて展示
吹き抜け構造と地下の宝塔も再現されています
信長のミニフィギアが天主模型五階に置かれています

新説:従来からも「天守指図」を基にした案には批判があった。特徴ある吹き抜け構造が一切文書に記録されていないことである。吹き抜け構造を除いた復元案も提示されている(宮下茂隆氏によるものなど)。また、太田牛一の言う通りに一階を作ると、実際の天守台をはみ出してしまう問題点も指摘されている。この矛盾点を解消する案(千田嘉博氏による)も示されている。それは、はみ出した部分を懸け造りの構造でサポートするものである。実際に、天主台石垣の外側には柱を2列並べることができる礎石群の跡が発見されている。他に外観を決定的に証明できる方法としては、信長が天正遣欧使節に託し、ローマ教皇に献上した「安土山図屏風」を発見することである。信長が、安土城の障壁画も描いた狩野永徳に命じて作らせたという。その屏風はバチカン宮殿の「地図の間」に飾られたが、現在は行方不明になっている。滋賀県は、その屏風を海を越えて探していて、もし見つかったら世紀の大発見となるだろう。

吹き抜け構造を除いた復元案を基にした天守風建築物、ともいきの国 伊勢忍者キングダム (licensed by D-one via Wikimedia Commons)
城に適用された懸け造りの例(福山城御湯殿)、福山城博物館Websiteから引用
懸け造りの柱を建てたかもしれない礎石群が発見された場所(天守台石垣の脇)
「安土山図屏風」の推定画か?、安土城郭資料館にて展示

摠見寺設立の謎

信長は、安土城内に摠見寺(そうけんじ)を設立しました。仁王門・三重塔・本堂・鐘楼・能舞台などを備え、城郭内に建てられたものとしては大きな寺です。建設を急ぐため、建物は各地からかき集められました。今では信長の菩提寺ですが、なぜか信長が亡くなった後に来た住職が開山したことになっています。また、天主一階の書院の床の間には、「盆山(ぼんさん)」という石が置かれていましたが、その後、その石は寺の方に移されたようなのです(牛一とフロイスの記述による)。寺があるのは、城下町から城に入る百々橋口(通用口)と城の中心部との中間点で、重要な場所でした。そこに防衛施設ではなく、寺を作ったのはなんのためだったのでしょうか。

現存する摠見寺仁王門
現存する摠見寺三重塔
現在の百々橋口

従来説:フロイスによれば、信長は、自身を神として人々に崇拝させるために摠見寺を創建したということである。「盆山」は信長の化身だったのだ。信長は高札を立て、自分の誕生日に、この寺に参詣することを命じた。参詣したものは豊かになり、長生きするという功徳があるとも書かれていた。信長は、暦や占いの結果を信じず、その代わりに自らの誕生日(旧暦5月11日)を特別な日と考えていた。天主に移った日も、わざわざその日を選んだと言われている。つまり、信長は摠見寺を建てた重要な場所を、自らを崇拝させる聖地としたのである。

二の丸にある信長廟
そこには「盆山」を意識したような石が置かれています

新説:城内に寺を建てるのは珍しいことではなく、安土城近くにあった観音寺城でも、観音正寺が中にあった。中国地方でも、毛利氏の一族、小早川隆景の新高山城には匡真寺(きょうしんじ)という寺があり、饗応・宿泊のために使われていた。室町から戦国時代にかけての武家儀礼は、主従関係を確認する主殿での儀礼と、人間関係を深める会所での儀礼で成り立っていた。これらの寺院は会所的儀礼で使われていた。安土城の場合も同様で、安土城中心部はガチガチの主従関係の場でしかなかった一方で、通用口にも近い摠見寺が、親交を深める場になったのではないか。例えば、本能寺の変直前に信長が徳川家康を接待した時は、ここで能楽を開催している。ちなみに、信長崇拝や高札の記述は、日本側の記録にはない。

観音寺城のジオラマ、安土城考古博物館にて展示
観音正寺 (licensed by Jnn via Wikipedia Commons)
新高山城跡
匡真寺跡

天主焼亡の謎

安土城天主を含む城の中心部は、本能寺の変の直後、1582年(天正10年)6月15日頃焼け落ちました。このときに城に関わった関係者の動きを追ってみます。
・蒲生賢秀:信長から城を預かっていたが、本能寺の変のことを聞き6月3日に退去(城を焼いたらどうかという意見があったが自分の立場ではそれはできないと拒否)
・明智光秀:5日に入城、城にあった金銀財宝を分け与え、8日に自身の本拠地・坂本城に移動
・明智秀満:光秀から城を預かるが、光秀敗北の報を聞き14日に退去(「太閤記」などはこのとき秀満が放火したと記述)
・織田信雄:15日に城を接収(フロイスはこのとき信雄が放火したと記述)
焼失の原因は他にも失火や野盗による放火も考えられますが、上記人物から選ぶとしたら誰がもっとも怪しいでしょうか(城下町の火災からの延焼説もあるが、城の周辺部は無事だったので、その可能性は低いでしょう)。

安土城天主台の礎石群

従来説:フロイスが言っている信雄が犯人と考える。「太閤記」は秀吉の宣伝誌だし、秀満は15日には坂本城にいたのでアリバイがある。フロイスは「(信雄は)ふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく」城に放火したと言っている。信雄は、信長生前にも勝手に伊賀国を攻めて失敗し、信長に叱責されている。本能寺の変後は、秀吉と対立し、家康と組んで秀吉と戦ったが、秀吉からエサを与えられると家康には無断であっけなく講和してしまった。その後は領地替えを断ったばかりに改易となり、落ちぶれている(後に小大名として復活)。このような何をしでかすかわからない「バカ殿」ならば、自分を虐げた父親の遺産を発作的に破壊したことは、十分考えられる。

織田信雄肖像画、摠見寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

新説:誰かと言われればやはり信雄だっただろうが、彼なりの正常な判断によるものだったろう。信長・秀吉・家康と比べればどうかと思うが、「バカ殿」とまでは言えないのではないか。伊賀攻めは失敗だったが、当時は「北畠信雄」という独立した大名だった。家康と組んだときは、秀吉に北畠の領国(伊勢国)を攻められ、講和せざるを得なかった事情があった。その後は秀吉と家康の仲介役として行動している。小田原合戦のときには、北条方との交渉役を務めている。それを領地替えを拒んだだけで改易とは、その答えを予想した秀吉の仕掛けだったのではないか。本能寺の変後、信雄は織田家当主を目指すのだが、有力なライバルとして弟の信孝がいた。信雄は、信孝や他の有力家臣たちに城を勝手に利用されないよう、天主を焼いたのではないか。

織田信孝肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「安土城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。