158.福知山城 その2

天守台石垣の南西の辺りは多くの転用石に覆われていて、天守台の隅石としても使われています。なぜ光秀はこんなにも多くの転用石を使い、しかも天守の重要な部分にはめ込んだのでしょうか。

特徴、見どころ

福知山城公園となっている本丸

現在の福知山城は、歴史公園として残っています。もとあった城は、丘陵の上に本丸、二の丸、三の丸が一直線に並んでいました。しかし公園は、丘陵の端にある本丸だけとなっています。その理由は、二の丸だった部分が削り取られて市街地となっているからです。よって、福知山城公園は小山の上にある城のように見えて、市街地の中でとても目立っています。

城周辺の地図

小山の上にある城のように見えます

公園はビジター向けによく整備されていて、丘の上の方には舗装された坂道を登って簡単に行くことができます。本丸の現存する石垣と復元された石垣に沿って登っていきますが、そこでは石垣の隙間を埋めるために、転用石が使われているのを見ることができます。

福知山城公園
坂を登る舗装路
石垣を埋めている転用石

本丸へは、そのまま坂を登って行くことも、石段を登って復元された釣鐘門経由でも行くことができます。本丸には、「豊磐井(とよいわのい)」と呼ばれる井戸があり、深さが約50m、水位も今でも37mあります。

左側が坂道の続き、右側が釣鐘門への石段
復元された釣鐘門
豊磐井

多くの転用石が使われている天守台

復元された天守は、オリジナルの天守台石垣の上にありますす。天守は元あったものが何度も拡張されて、平面上複雑な形をしています。天守の入口は東側にあって、その辺りは天守台の中では新しい部分となります。

本丸周辺の航空写真、赤線の左下が転用石が多い部分

福知山城の復元天守
東側の天守入口

天守台の南側を回っていくと、天守台には多くの転用石が使われているのに気付かれるでしょう。転用石とは、もともとは別の目的(墓石、石仏、石臼など)のために加工され使われていたものが、城を急いで建設するために集められ、再利用される石のことをいいます。他の城で転用石が使われいる事例としては、大和郡山城松坂城姫路城などが挙げられます。

天守の南側から転用石が目立ってきます
大和郡山城の転用石(真ん中上方)
松坂城の転用石

天守台石垣の南西の辺りは更に多くの転用石に覆われていて、少々驚かれるかもしれません。この方角からの天守の眺めはとても良いです。しかし、転用石がどのように使われているかも注目してみて下さい。この天守台石垣は主に自然石を使った野面積みという方式によって積み上げられています。他の面での転用石は、自然石の隙間を埋めるために使われていますが、南西面の転用石は天守台の隅石としても使われています。基本的に天守台の隅石は、天守のほとんどの重量を支えています。。

南西から見た福知山城の復元天守
夥しい転用石
隅石に使われている転用石

光秀の意図はなにか?

地震のような非常事態の場合には尚更です。例えば、2016年に熊本地震が発生したときには、熊本城の飯田丸五階櫓は一時、周りの石垣が崩れてしまっても、一角の石垣(一本石垣)によってのみ支えられる状態になっていました。この南側周辺が、福知山城天守の中ではもっとも古い部分と言われています。恐らく光秀が築いた部分なのでしょう。なぜ光秀はこんなにも多くの転用石を使い、しかも天守の重要な部分にはめ込んだのでしょうか

飯田丸五階櫓と一本石垣、2016年7月時点、産経フォトより引用

ありうる理由の一つは純粋に技術的なものです。隅石として使われている転用石は直方体で、元は墓石か仏石であったように見えます。こういった石を集めて使うことは、光秀が城を効率的に早く築くためには大変役に立ったと思われます。一方、地元の言い伝えによれば、光秀の軍勢は光秀の命令に従わない寺を破壊し、そこから墓石を持ち出して城の建設に使ったということです。これが事実であれば、このような石を使うことは、新しい領主がその地を征服したことと権威を人々に見せつけることになるでしょう。歴史家の中には、これは城の建設に人々が協力していたことを象徴しているとか、仏の力を城に取り込もうとしたのだと言う人もいます。結局のところ、その答えを知っているのは光秀のみでしょう。

これらの石を重要な部分に使った意図は何でしょうか

これまでのところ、約500個の転用石が石垣の中か、他の場所での発掘により見つかっています。本丸の空き地には、発掘で見つかった転用石が並べられています。

本丸に並べられている転用石

「福知山城その3」に続きます。
「福知山城その1」に戻ります。

158.福知山城 その1

明智光秀は5年間かけて丹波国を平定しました。それを成し遂げた後、光秀が行ったことが福知山城の築城でした。

立地と歴史

謎につつまれた明智光秀の出自

福知山城は丹波国北部にあった城で、現在では京都府の一部となっています。丹波国は現在の人々にはあまり馴染みがありません。この国はそれ程大きくもなく、最終的には京都府と兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においてはその立地が当時の首都である京都の背後にあることから、非常に重要な場所とされました。そのため歴代の将軍や天下人たちは、常に丹波国を直接または重臣たちにより支配しようとしました。1570年代から80年代にかけての天下人、織田信長も同じように丹波国を支配するため、重臣の明智光秀を送り込みました。その光秀が福知山城を築くことになります。

丹波国の範囲と城の位置

明智光秀肖像画、本徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

光秀は、多くの歴史ファンにとって謎に満ちた人物です。彼の苗字「明智」は、高貴な源氏の出である土岐氏の一族であることを示していますが、どのような生い立ちであったかはわかっていません。彼の前半生において知られる数少ないことの一つは、信長の正妻である濃姫の親族だったということです。そして、越前国一乗谷において、将軍候補の足利義昭と出会い、その家臣となりました。これが運命の転換点となり、光秀は義昭と信長を引き合わせ、1568年の上洛により、それぞれが将軍と天下人になるに至りました。光秀は単にコネを持つ人物だったのではなく、優れた政治家であり、知性ある部将でもありました。そのため、実力主義の権化のような信長にも重用されることになったのです。

清須市清州公園にある濃姫の銅像
清州公園にある織田信長の銅像
一乗谷朝倉氏館跡
足利義昭坐像、等持院霊光殿蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

丹波攻略後に福知山城を築城

光秀は1575年に信長により丹波攻略を命ぜられました。当時の丹波国は、八木城の内藤氏、八上城の波多野氏、黒井城の赤井氏など多くの国人領主たちによって分割統治されていました。その上に彼らは、1573年に義昭を京都から追放した信長に反抗していました。攻略の初期段階は、波多野秀治が光秀に加勢したこともあり、全ては順調に進みました。ところが、強力な武将である赤井直正が籠る黒井城の包囲戦を行っていたとき、秀治が裏切ったのです。光秀は敗れ、撤退せざると得ませんでした。光秀はその後5年間かけて、亀山城などの新城を築き、波多野氏を降伏させ、直正の死後黒井城をついに落城させることで、丹波国を手に入れることができました。それを果たした後、光秀が行ったことが1579年の福知山城の築城でした。

波多野秀治肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
篠山城跡から見た八上城跡
赤井直正のイラストレーション、黒井城跡現地説明版より
黒井城跡

この城はもともと横山城と呼ばれていて、福知山盆地にあった丘の端に地元領主が築いたもので、そこからは周辺地域を見渡すことができました。また、その場所は川にも囲まれていて、防御性もありました。光秀は城を大改修し、当時最新の築城技術を導入することにより高石垣や天守を築き、信長の権威を見せつけたのです。それ以外にもこの地域に善政を施し、租税免除を行ったり、洪水を防ぐために川沿いに堤防を築いたりしました。福知山の人々は今でもそのことを記憶しています。光秀は、養子である秀満を福知山城の城主として置き、自らは京都の近くの亀山城を居城としました。

福知山城の城郭模型、福知山城天守閣内で展示
福知山城の復元天守
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

本能寺の変後は、福知山藩の本拠地として存続

光秀についての最大の謎はやはり、旧暦1582年6月2日に京都に滞在していた信長を殺した本能寺の変を、なぜ起こしたかでしょう。光秀率いる1万3千人の軍勢は、中国地方に侵攻していた他の重臣、羽柴秀吉を救援するように信長から命じられていたのですが、わずかな供回りと本能寺に泊っていた信長を急襲したのです。この経緯からすると、信長は光秀に全面的な信頼を寄せていたことになります。しかし光秀も、変から(その当時としては)たった11日で中国地方から引き返してきた秀吉によって討たれてしまいます。彼の同僚は誰も光秀を助けませんでした。このことは、光秀には周到な計画がなかったことも意味するでしょう。本能寺の変は、日本史の中でも最大の謎の一つであり、光秀自身がその動機を残さなかったことで、多くの推理・仮説を生み出しています。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』楊斎延一作、1896年 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉は次の天下人となり、豊臣秀吉と名乗るようになりますが、福知山城は彼の部下たちによって統治されました。17世紀になって徳川幕府が権力を握ると、有馬氏や朽木氏といった譜代大名たちが福知山藩として城と周辺地域を支配しました。福知山は、依然天下人や将軍たちにとって重要な地であり続けたのです。有馬氏が17世紀初頭に城を完成させ、朽木氏が17世紀後半から江戸時代末まで城主となっていました。

丹波国福知山平山城絵図(部分)、出典:国立公文書館

「福知山城その2」に続きます。

14.水戸城 その3

大手門や隅櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての御三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。

特徴、見どころ

本丸にある唯一の現存建物

二の丸の中央の通りに戻ると、更に本丸の方に行くことができます。その本丸の手前では、もっと深い(22m)別の空堀があって、ちょっとびっくりされるかもしれません。この空堀の底は、鉄道の水郡線の敷地になっています。もちろん空堀は城の時代からあったものです。本丸には、城の唯一の現存建物である薬医門があり、佐竹氏が建てたものだと言われています。もしそれが本当なら、佐竹氏の時代には大手門だったのかもしれません。堀を渡る本城橋を渡ってからは、ビジターは指定された範囲から門を見学することになりますので、注意してください。

本丸周辺の地図、赤破線は杉山坂、青破線は柵町口

本丸手前の大空堀
空堀の底は水郡線の線路として使われています
橋を渡って本丸に向かいます
水戸城唯一の現存建物、薬医門

二の丸、三の丸の他の見どころ

二の丸からは元から2つの裏道があり、今でも通ることができます。北側の杉山坂と南側の柵町(さくまち)口です。両方の道にはそれぞれ、杉山門と柵町坂下門という復元された門があります。南側の道を下って水戸駅の方に戻っていくと、右側には巨大な台地が目に入ってきます。現在では崩落を防ぐためコンクリートパネルで覆われています。過去には左側にこれも大きな千波湖が見えていたはずですが、現在では干拓され、偕楽園周辺に元あったうちの西側部分のみに縮小しています。

復元された杉山門
復元さらた柵町坂下門
巨大な台地の南側

もしお時間があるようでしたら、三の丸の外側の大空堀も見に行ってください。ここは台地の根っこの部分に当たります。この空堀はそのままの状態で残っていて、土橋のみが堀を渡って茨城県庁三の丸庁舎に通じています。ここは過去は重臣の屋敷地や弘道館の一部でした。まとめて言うと、水戸城は三重の巨大な堀により守られていたことになります。

城周辺の航空写真

三の丸外側の大空堀
現在は庁舎入口となっています

その後

明治初期に悲しい出来事があった後でも、水戸城二の丸にあった三階櫓(さんがいろ)は、その素晴らしさから現存20天守の一つとされ、第二次世界大戦までは残っていました。しかし、1945年の水戸空襲により燃えてしまいました。戦後になって弘道館地区は、1952年に国の特別史跡に指定されました。他の土塁、空堀、薬医門といったものは茨城県の史跡に指定されています。水戸市は最近、これまで見てきたように城の建物を復元しています。

本丸薬医門周辺に残る土塁
内側から見た大手門

私の感想

水戸城跡を訪れてみて、改めて強い城というものは、必ずしも石垣を必要としないことがよくわかりました。このことは、過去の戦争だけではなく、2つの空堀が現在でも交通のために使われていることでも証明されています。また、大手門や二の丸角櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。第二次世界大戦の前後で焼けてしまった8つの天守は、水戸城を除いて皆復元されているからです。しかし、その計画はないそうです。

大手橋から見た二の丸の土塁と空堀
御三階櫓については、元あった場所とは違うところに説明版があるだけです

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の南水戸ICから約15分かかります。大手門脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR水戸駅から歩いて約10分です。
東京から水戸駅まで:東京駅で特急ひたち号に乗ってください。

大手門脇の駐車場

リンク、参考情報

水戸城跡、水戸観光コンベンション協会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「シリーズ藩物語 水戸藩/岡村青著」現代書館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「徳川斉昭と弘道館/大石学編著」戒光祥出版
・「天狗争乱/吉村昭著」新潮文庫
・「逆説の日本史16 江戸名君編・水戸黄門と朱子学の謎/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「水戸城その1」に戻ります。
「水戸城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。