82.大洲城 その2

復元天守と現存櫓のコラボレーションを堪能できます。

特徴、見どころ

城の入口から二の丸へ

今日、大洲城は城山公園として一般公開されています。公園の範囲は、本丸と二の丸の一部です。城の最も重要な特徴の一つであった水堀は残念ながら埋められてしまっています。そのため、公園の入口は公道に面しています。しかし、1888年に解体されたが2004年にほとんど元通りに復元された天守を見ることができます。

城周辺の航空写真

公園に入るには、恐らく元は堀の辺りだったであろう道路を通って行きます。石垣が部分的に残っている大手門跡を通り過ぎます。入った周辺が二の丸となります。この曲輪には御殿と多くの倉庫がありました。今は下台所という倉庫が唯一残っています。

城への入口
二の丸大手門跡
下台所

本丸にある復元天守と現存櫓

その後、本丸がある丘の方に登っていきます。本丸は下段と上段に分かれています。下段には大井戸跡があり、そのためここはかつては井戸丸と呼ばれました。上段は最も高い所にあり、城の中心部です。かつては門、塀、櫓によって囲まれていましたが、今では簡単に中に入ることができます。復元天守とその傍らの2基の現存櫓は、今でも際立っています。正にこの城の最大の見どころと言えるでしょう。

井戸丸周辺の石垣
本丸上段へ
復元天守(中央)と現存する台所櫓(右)、高欄櫓(左)

これら3つの建物は、これも復元された渡櫓によって連結されています。観光客は、現存櫓の一つである台所櫓の入口から中に入っていきます。この櫓は、その名前の通り台所として使われたと考えられています。換気のために多くの格子窓が備えてあるからです。その隣からは復元されたエリアとなります。そこで使われている部材は、現存している部分とは違って随分新しく見えます。しかし、双方とも木材を使い同様の伝統的工法で建造されているため、そんなに違和感は感じないかもしれません。渡櫓を通り過ぎた後はいよいよ天守に入ります。

台所櫓の入口
台所櫓の内部
渡櫓の内部

復元天守の内部

天守は4階建てです。一階と二階の中心部分は吹き抜け構造となっています。そのため、多くの柱と、それらがうまく組み合わされているのを見学することができます。これらの柱に使われた木材は、多くの地元の団体や個人から提供されました。天守の中でその提供者の名前がパネルに表示されています。また、別のパネルでは、城の歴史が説明されています。

天守一階
一階と二階の間の吹き抜け構造
天守二階

最上階には急な階段を登っていきますが、手すりがあるので安全です。最上階では、元の天守と同じ工法で作られた格子窓を通して肱川などの景色を眺めることができます。

三階から最上階に向かう階段
最上階
格子窓からの眺め

眺めがよい高欄櫓

また、天守の奥からはもう一つの渡櫓を通って、もう一つの現存櫓である高欄櫓に行くことができます。この櫓の二階には、その名前の通り、回り縁に取り付けられた高欄があります。オリジナルの階段を登って二階に行きます。恐らくは保護の観点から、実は回り縁には出ることはできせん。しかし、このフロアは開放的であり、外の景色をよく眺めることができます。昔の城主もきっとこの櫓からこの眺望を楽しんだはずです。

天守から高欄櫓へ
高欄櫓の一階内部
二階への階段
高欄櫓の二階内部
高欄から見た眺め

「大洲城その3」に続きます。
「大洲城その1」に戻ります。

82.大洲城 その1

多くの大名たちが大洲城とその地域を発展させてきました。

立地と歴史

宇都宮氏が最初に築城

大洲城は、四国の伊予国の南部(南予地方)にあった城で、その場所は現在の愛媛県大洲市にあたります。この城は最初は14世紀に宇都宮氏によって、地蔵ヶ嶽と呼ばれた丘の上に築かれました。この立地は、大洲宇和島街道と肱川(ひじかわ)との結節点の近くであり、交通の要衝でした。宇都宮氏は、やがて15世紀後半から16世紀にかけての戦国時代には伊予国の戦国大名の一つとなります。(その後中国地方の毛利氏の四国出兵により、大名の地位を追われました。伊予国は毛利氏の親族、小早川隆景が一時治めました。)

伊予国の範囲と大洲城の位置

藤堂高虎が近代化

豊臣秀吉が天下統一を果たした後、秀吉の家臣であった藤堂高虎が1595年に大洲城(を含む南予地方)を領有しました。彼は宇和島城を本拠地としていましたが、大洲・宇和島両方の城を近代化したのです。高虎によってどのように大洲城が近代化されたのか詳細はわかっていません。その遺跡は現在の大洲城の地下にあるからです。しかし、高虎が城の基本的な構造を作り上げたと考えられています。本丸は、城の東から北へ向かって流れていた肱川沿いにありました。二の丸は、川の反対側の丘の麓にありました。本丸・二の丸両方の曲輪は、南側と西側を内堀に囲まれていました。また、三の丸と外堀がそれらの外側にあったのです。堀の水は、肱川から引かれており、そのため、この城は川城というべきものでした。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊予国大洲城図、出典:国立国会図書館

脇坂安治が天守築造か

1609年、脇坂安治(わきざかやすはる)が洲本城から大洲城に移され、大洲藩の初代藩主となりました。彼が本丸に四層の天守を建てたと言われています。また、歴史家の中には安治が洲本城の天守を大洲に移したのではないかと考えている人もいます。最近の調査によると、双方の天守台の大きさがほとんど同じだったからです。台所櫓と高欄櫓という2基の二階建て櫓が天守の両側に建てられ、渡櫓によって連結されていました。他にも多くの櫓がそれぞれの曲輪の重要地点に建てられました。

脇坂安治肖像画、龍野神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
洲本城の天守台石垣と模擬天守
大洲城天守と台所櫓の古写真、現地説明板より

加藤氏が幕末まで継承

1617年、加藤氏が米子城から大洲城に転封となり、城と大洲藩を13代に渡って江戸時代末期まで統治しました。大洲藩は大藩ではなく(石高6万石)、裕福ではありませんでしたが、産業振興に努めました。例えば、砥部焼、和紙、木蝋などです。また、藩校の明倫館を設立し、藩士の教育を行いました。幕末の頃には、藩士の一人、武田斐三郎(あやさぶろう)が藩校修了の後、西洋軍学を学びました。彼はついには北海道の函館に、日本で初めての西洋式城郭である五稜郭を建設しました。そこで徳川幕府の指揮官として活躍したのです。

加藤氏の初代、加藤貞泰肖像画、大洲市立博物館所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田斐三郎 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
五稜郭

大洲城に関しては、平和の時代には二の丸が城の中心部となり、御殿や倉庫が建てられ、大手門やいくつかの櫓によって囲まれていました。

元禄五年大洲城絵図に描かれた二の丸、城内展示より

「大洲城その2」に続きます。

83.宇和島城 その3

宇和島は人々を魅了し続けています。

特徴、見どころ

天守の内部

天守の内部にも入ることができます。その内装は基本的には戦いのためではなく、居住のために作られています。例えば、一階と二階のフロアは中心部の身舎(もや)と周辺部の武者走り(むしゃばしり)に分かれていますが、障子によって区切られています。身舎の床は今は板張りになっていますが、過去は畳敷きになっていました。障子と畳と言えば、日本の伝統的な居間で使われる典型的なアイテムです。他の天守で通常みられるような鉄砲狭間や石落としなどもありません。そのため、平和の時代の天守と言われるのでしょう。

一階の身舎、江戸時代の修理の際に作られた天守雛型があります
一階の武者走り
二階の身舎

しかし、実際には最低限の防御のための仕組みとして、格子窓の下には鉄砲掛けがあり、床面の高さはその窓から鉄砲を撃てるよう適切に調整されています。

二階の武者走りにある格子窓と鉄砲掛け
一階から二階への階段、二階の床の高さを調整するために天井が高く設定されています
天守三階
天守からの眺め

その後

明治維新後、城の多くの建物は撤去され、堀は埋められました。元藩主であった伊達家は、わずかに残った建物とそれがあった山を維持し続け、1949年になって宇和島市に寄贈しました。残念ながら、大手門は1945年の宇和島空襲により焼け落ちてしまっていました。天守と、搦手道にある上り立ち門だけが今に残っています。天守は1950年以来、重要文化財に指定されています。

現存する上り立ち門  (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)
現存天守

私の感想

宇和島市は一年中温暖で、安くておいしい食べ物がたくさんあります。作家の吉村昭は、高野長英や、日本で初めての女医となり宇和島も訪れた楠本イネについての小説を書きました。彼は、小説の取材のために宇和島を訪れるうちに、そこが好きになり、生涯で40回以上訪れたとのことです。この街には、地方都市ののどかな雰囲気と、他人を受け入れる寛容さの両方を持ち合わせているようです。私も同じように感じたので、また何度も訪れたみたいです。

高野長英隠れ家跡
楠本イネ (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
楠本イネの宇和島での住居跡

ここに行くには

車で行かれる場合、松山自動車道の西予宇和ICから約30分かかります。城の入口のところに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR宇和島駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から行かれる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

宇和島城、宇和島市ホームページ
・「よみがえる日本の城10」学研
・「よみがえる日本の城、天守のすべて2」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「伊達宗城/神川武利著」PHP文庫
・「週刊名城をゆく34/宇和島城大洲城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
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