56.竹田城 その1

竹田城を完成させた斎村政広の領地は2万2千石で、城の豪華な石垣を築き維持していくには少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には豊臣秀吉のバックアップがあったものとされています。

立地と歴史

天空の城として有名に

竹田城は、現在の兵庫県北部にあたる但馬国の虎臥山(とらふすやま、標高354m)にあった城です。竹田城跡は最近、歴史ファンだけではなく一般の観光客の間でも、「天空の城」として大変な人気となっています。城跡には建物は何もありませんが、素晴らしい石垣が高い山の上に残っていて、秋から冬にかけての朝に気候条件が整えば、雲海の上に浮かんでいるように見えるのです。日本のマチュピチュなどとも称されています。天空の城は現代になって新たにできた観光地であり、城跡そのものからはずっと離れた場所に行って見学することになります。しかし、この呼称は城の歴史や立地から生まれたものとも言えるでしょう。

「天空の城」竹田城の写真、現地説明版より

山名氏が最初に築城

但馬国は現代の人々にはあまり馴染みがありません。この国は小さく、最終的には兵庫県に統合されてしまったからです。しかし、過去においてはその立地からとても重要視されていました。中世の多くの期間に渡って、山名氏が山陰地域とも呼ばれる中国地方北部のいくつもの国を領有していました。但馬国は山名氏の領国の東端にあり、播磨国と丹波国と国境を接していました。そのため、山名氏が攻守の要の基地として、15世紀頃に竹田城を最初に築いたのです。その当時は、領主たちが身を守るために高い山の上に城を築くことがよく行われていました。竹田城を含むこれらの城は、その時点ではすべて土造りで、石垣は築かれていませんでした。

但馬国の範囲と城の位置

多くの戦いが起きた戦国時代の16世紀には状況はもっと複雑化します。山名氏の力が衰える一方、但馬国外の他の領主たちはより多くの領土を欲したからです。例えば1571年には、山名氏の当主、山名祐豊(すけとよ)は丹波国に攻め込みますが、逆に反撃を受けてしまい、1575年には丹波国の黒井城主、荻野直正に一時竹田城を占領されてしまいました。祐豊は自身の領地を守るために、状況に応じて織田信長や毛利氏のような最強と思う戦国大名に助けを求めるつもりでした。ところが信長は1577年に、後に天下人となる羽柴秀吉の弟である羽柴(豊臣)秀長に軍勢を預け、但馬国に派遣したのです。これによって信長は竹田城を支配下に置きました(そのとき戦いが起こったのか、降伏によって開城したか不確かです)。1582年に信長が亡くなり、秀吉が天下人になると、弟の秀長に竹田城に留まり、改修するよう命じました。城の周辺に莫大な収益をもたらす生野銀山があったことが関係していたようです。山頂に石垣が築かれ始めたのは、この頃のことと考えられます。やがて1585年に秀長が和歌山城に移されると、城の改修は、秀吉の別の家臣である斎村政広に引き継がれます。

山名氏の家紋、五七桐に七葉根笹  (licensed by Houunji 1642 via Wikimedia Commons)
荻野(赤井)直正のイラストレーション、黒井城跡現地説明版より
豊臣秀長肖像画、春岳院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

斎村政広が城を完成

政広はもともと赤松広秀という名前で、播磨国の龍野城にいた地方領主でした。1577年に秀吉が播磨国に侵攻したとき、政広は秀吉に降伏したのですが、城を取り上げられ、秀吉の家臣とされました。政広は元の城を返してもらうため、秀吉の下で一生懸命働きました。その結果、秀吉は政広に領地を与えたのですが、龍野ではなく、竹田城がある地でした。政広の領地は2万2千石で、竹田城の豪華な石垣を築き維持していくのには、少なすぎる石高でした。よって、この城の建設には秀吉のバックアップがあったものとされています。政広は秀吉への貢献を続け、秀吉の命により朝鮮侵攻にも従軍しました。竹田城のいくつかの門の構造には、朝鮮で築かれた倭城の影響が表れていると言われています。

赤松氏の家紋、二つ引き両に右三つ巴  (licensed by KfskzsuRPkwt via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
竹田城跡の山上の石垣

竹田城が築かれた山は3つの峰から成り立っていて、北方と南方の峰は長く、西方の峰は短くなっています。頂上部分には本丸が築かれ、天守もあったのですが、その詳細は分かっていません。それぞれの峰にはいくつも曲輪がありましたが、その内の大きな曲輪では兵士の駐屯や物資の備蓄ができるようになっていました。峰の端部分は外部との出入口となっていましたが、虎口によって厳重に守られていました。城は総石垣造りであり、野面積みと呼ばれる、自然石か粗く加工された石を使って積まれました。石積み専門の職人集団が招かれてこの仕事を行いました。この城の縄張りで進んでいる点の一つは、3つの峰の間をバイパスを使って移動できることです。守備兵は、ある峰から別の峰へとスムーズに動けることで、敵の攻撃に柔軟に対応することができたのです。

城周辺の航空写真

竹田城の天守台石垣

政広と竹田城のあっけない最期

政広は普段は山麓にある御殿に住んでいて、その間城下町も整備しました。彼は儒教にも関心があり、国内の儒学者たちや朝鮮の高官と交流を重ねました。山上の城にも儒学の聖堂を建てたとも言われています。ところが、政広と竹田城の時代は突然終わってしまいます。1600年に徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍との間で天下分け目の戦いが起こりました。政広は西軍に属していたのですが、関ヶ原において三成が家康に敗れたと聞くと、東軍に鞍替えします。彼は、家康に対する忠誠を示すために、他の西軍に属した大名がいた鳥取城の城下町を焼き打ちしました。しかし家康の裁定は、焼き打ちの責任を取らせるということで、政広に切腹を命じるものでした。これは理解に苦しむ決定内容ですが、家康と彼の徳川幕府が生野銀山を確保するために、政広のような謀反を起こすかもしれない人物を排除しようとしたのだと、歴史家は解釈しています。

鳥取城跡
鳥取にある政広を祀った赤松八幡宮跡

「竹田城その2」に続きます。

14.水戸城 その1

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかしこの城は、他の御三家や将軍の本拠地とは随分と違った外観をしていました。

立地と歴史

天然の要害を利用して築かれた城

水戸城は、現在は茨城県の県庁所在地となっている水戸市にありました。この城は将軍家に次ぐ徳川御三家の一つ、水戸徳川家の本拠地となっていました。しかし、この城は他の御三家の本拠地、名古屋城、和歌山城と、将軍がいた江戸城とは随分と違った外観をしていました。

水戸市の範囲と城の位置

水戸城は、中世初期のある時期に地元領主の馬場氏が最初に築いたと言われています。城は、北にある那珂川と南にある千波湖に挟まれた洪積層の台地上に築かれました。このような天然の要害の地は、もともと高い防御力があるために、領主にとってここに城を築くのは必然かつ容易であったと思われます。しかし、この城の初期段階においてはその規模は小さく、台地の端の方に領主の館があった程度だと考えられています。

城周辺の起伏地図

時が経ち、水戸城はより有力な領主である江戸氏や佐竹氏に奪取されました。そして大規模な城に拡張されていきました。佐竹氏は戦国時代の16世紀の時点で、関東地方では最も有力な戦国大名の一つでした。佐竹氏は、台地の東側から西側に向かって、本丸、二の丸、三の丸を一直線に並べ、城の基本的構造を完成させました。これらの曲輪は土造りで空堀によって隔てられていて、これは当時の東日本においては典型的な城づくりの方法でした。ところが佐竹氏は、1602年に徳川幕府の創始者である徳川家康によって、東北地方に転封となってしまいました(その地で久保田城を築城します)。1600年の天下分け目の戦いにおいて家康に味方しなかったからとされています。

久保田城跡、ここも基本的に土造りの城です

徳川御三家の本拠地となる

家康は、水戸城に彼の子息たちを送り込みました(武田信吉や徳川頼宜)。将軍の本拠地、江戸城の北方の重要な防衛拠点となったためです。最終的には家康の末子である頼房が、1609年に水戸藩の初代藩主として水戸城主となりました。それ以来、水戸藩が御三家の一つとして、江戸時代末期まで城とその周辺地を統治しました。水戸城もより整備が進みました。例えば、それまでの本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ新たに、下の丸、本丸、二の丸となりました。そして新たに三の丸が西側の方に設置されました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川家康肖像画、徳川ミュージアム蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城周辺の起伏地図

しかし、他の徳川各家が天守や高石垣など卓越した土木建築技術を擁して築いた名古屋城和歌山城江戸城とはちがって、水戸城はまだ土造りのままで、東日本の従来からの技術を使っていました。その理由として考えられるのは、水戸藩の藩主が通常、江戸の将軍の近くの御殿に住んでいたということです。または、幕府の統治が安定してきて、城をこれ以上改修する必要がなかったこともあるでしょう。しかし、もっともあり得そうな理由は水戸城は石垣がなくても十分強力だったということです。

名古屋城
和歌山城
江戸城跡
水戸城跡

尊王攘夷思想を生み出す

時代劇で「水戸黄門」として知られる2代目の藩主、徳川光圀は学芸を振興し、江戸の彰考館において「大日本史」の編纂を始めました。彰考館は後に水戸城の二の丸にも作られました。この活動は面白いことに、水戸藩は朝廷から権力を奪った幕府の親族であるにも関わらず、尊王思想(天皇が正当な権力であるとする思想)を生み出します。

徳川光圀肖像画、加納常信筆、水戸徳川博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
水戸城二の丸の彰考館跡
二の丸展示館にある「大日本史」

江戸時代末期の9代目の藩主、徳川斉昭は城の三の丸に藩校の弘道館を設立し藩士の教育に力を注ぎ、また偕楽園を築き全ての領民に対して開放しました。その当時は西欧の船が日本近海に出没していて、斉昭は幕府の開国方針に反発していました。その結果、水戸藩の尊王思想は多くの他藩の志士たちを全国的な尊王攘夷運動に導いたのです。それは最終的には幕府の支配を覆し、明治維新に至ることになりました。しかし肝心の水戸藩においては、藩士たちは尊王攘夷を支持する天狗党と、幕府を支持する諸生党に分裂し、深刻な対立と悲劇的な結末をもたらしました。

徳川斉昭画、京都大学付属図書館 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
弘道館

水戸城での悲しい同士討ち

水戸城の最終形は、もっとも大きい二の丸が城の中心地となりました。そこには、大手門、御殿(政庁の機能も果たしていました)、彰考館、角櫓、そして三階櫓(さんがいろ)がありました。特に、三階櫓は天守の代替として築かれたものです。この櫓は高さが22mもあり、三階建てとしては随分高いものです。実はその内部は5階建てになっていました。

二の丸展示館にある水戸城の模型(左が三の丸、真ん中が二の丸、右が本丸と下の丸)
三階櫓の古写真 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

天狗党は1864年に、幕府に対して反乱を起こし、海外との貿易を止め、外国人を追放するよう要求しました。天狗党は当初、民衆に略奪暴行を働く者がいて支持を失い、幕府の追討軍や諸生党に追い詰められました。そこから天狗党は西へ向かい、斉昭の息子で後に最後の将軍となる一橋慶喜に彼らの主張を訴えようとしました。しかし、慶喜の決定により拘束され、その多くは処刑されてしまいました。諸生党の面々はこれに乗じ、水戸に残った天狗党の家族をも処刑または弾圧を加えました。ところが、状況は劇的に変わり、1868年に幕府は崩壊し、新政府が設立されました。天狗党の生き残りは水戸城に戻り、今度は諸生党に対する復讐を始めたのです。そこから逃れた諸生党の一部は、天狗党が籠る水戸城を攻撃しましたが、失敗しました。この城の強靭さは、皮肉にもこの城を持つ藩士たちの間で生じた悲劇によって証明されてしまったのです。残っている資料によれば、水戸藩の藩士の数はこの内紛の間に3,449名から892名に減少しました。日本の近代化を主導する人材がこの藩からほぼいなくなってしまったのです。

天狗党の乱を描いた「近世史略 武田耕雲斎 筑波山之圖」、豊原国輝作 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)
徳川慶喜写真、1967年以前(一橋慶喜と名乗っていた禁裏守衛総督時代) (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「水戸城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

79.今治城 その1

藤堂高虎の城づくりの金字塔

立地と歴史

藤堂高虎が理想の本拠地として築城

今治城は、かつて伊予国と呼ばれた愛媛県の北部に位置している今治市にあります。この城は1604年に、築城の名人として知られる藤堂高虎によって築かれました。それまでにも彼はいくつもの城を築いていました。例えば他の武将の部下として和歌山城赤木城を、伊予国の一部を領する独立した大名になってからは宇和島城大洲城が挙げられるでしょう。しかし今治城は、彼が独立後一から築き上げることができた最初の本拠地としての城でした。つまり高虎はこの城の建設に、それまでの経験や考えの全てを投入することができたのです。その結果、今治城は高虎の城の中でも記念碑的な作品となりました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊予国の範囲と城の位置

宇和島城
大洲城

この城の建設以前に、高虎は1597年の朝鮮侵攻に水軍の大将として参陣しました。この経験から高虎は、新しい城には水軍の支援と水上交通の利便性が得られる立地が必要と考えました。そのため今治城は、海城且つ平城として瀬戸内海に面していました。しかしそれまでは、そのような立地は困難且つ危険と考えられていました。海岸の地盤は軟弱であり、平地では敵に容易に攻められてしまうからです。これらを防ぐために、まず犬走りと呼ばれる段が石垣の基礎部分として築かれました。犬走りは、敵が攻めてきたときには柵を立てて攻撃を防ぐためにも使われることになっていました。またこの城は水堀によって三重に囲まれ、堀の水は海から供給されました。

犬走りの上に築かれた今治城の石垣

シンプルだが防御力を確保した縄張り

今治地域に特有な条件の他にも、高虎は今治城に新しく共通且つ簡便な建設手法を持ち込みましたが、それであっても突然の敵襲にもきちんと対応できるようになっていました。本丸と二の丸が組み合わされた城の主要部分は、シンプルな四角い形をしていて、建設が容易で且つ多くの将兵を収容できました。一方で防御面で不安がありそうですが、広い内堀、高石垣、その上に築かれた櫓群により囲まれていました。主要部への門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により固く守られていました。その上に大手門に入るには、内堀の手前にある出丸と呼ばれる小曲輪を通らなければならず、その出丸にも桝形がありました。そして土橋を渡って大手門に至ったのです。このような構造は、高虎が後に築城に関与することになる名古屋城二条城、篠山城などにも見ることができます。

伊予国今治城図、出典:文化遺産オンライン
名古屋城
二条城
篠山城の模型、篠山城大書院にて展示

層塔式天守を考案したか

もう一つの高虎の城づくりに関する革命は、層塔式と呼ばれる新しいタイプの天守です。それまでの天守は通常、望楼式と呼ばれる形式で建てられ、破風や華頭窓といった多くの装飾がなされていました。新しい層塔式では、単純な四角い床面が、最上階に向かって逓減していき、屋根は最低限のものでした。この形式により効率的に天守を建設でき、防御にも適していました。今治城の天守は、最初の層塔式天守と言われており、5層で本丸に築かれました。

典型的な層塔式、島原城天守
典型的な望楼式、犬山城天守

実は、その天守が本当に今治城に築かれたかどうかは発掘によって科学的には証明されていないのです。それは高虎が今治城での短い在城期間の後、1608年に伊賀上野城に移った際、その天守が撤去され、別の場所に移設されてしまったからなのです。高虎は一時、その天守を自身の伊賀上野城のために使おうと考えていたのですが、幕府の命により建設された亀山城のために、幕府に献上することにしました。亀山城の天守の古写真を見ると、確かに5層で層塔式の形をしています。この逸話は、高虎の伝記と藤堂氏の年譜にしか記録されていません。今治城の現場では、天守台石垣のような直接的な証拠はみつかっていないのです。歴史家の中には、今治城天守は天守台石垣を使わず、地面の上に直接建てられたのではないかと推測している人もいます。

伊賀上野城跡
亀山城天守の古写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

今治城そのものは、高虎の親族の藤堂高吉(たかよし)が1635年まで、その後は久松松平(ひさまつまつだいら)氏が引き継ぎました。久松松平氏は、もとは単に久松と称していましたが、将軍の親族の家名である松平を名乗ることを許されました。徳川家康の母親が、後妻として嫁いでいたからです。久松松平氏は江戸時代末期まで、今治藩として城とその周辺地域を支配しました。

現在の今治城

「今治城その2」に続きます。