83.宇和島城 その3

宇和島は人々を魅了し続けています。

特徴、見どころ

天守の内部

天守の内部にも入ることができます。その内装は基本的には戦いのためではなく、居住のために作られています。例えば、一階と二階のフロアは中心部の身舎(もや)と周辺部の武者走り(むしゃばしり)に分かれていますが、障子によって区切られています。身舎の床は今は板張りになっていますが、過去は畳敷きになっていました。障子と畳と言えば、日本の伝統的な居間で使われる典型的なアイテムです。他の天守で通常みられるような鉄砲狭間や石落としなどもありません。そのため、平和の時代の天守と言われるのでしょう。

一階の身舎、江戸時代の修理の際に作られた天守雛型があります
一階の武者走り
二階の身舎

しかし、実際には最低限の防御のための仕組みとして、格子窓の下には鉄砲掛けがあり、床面の高さはその窓から鉄砲を撃てるよう適切に調整されています。

二階の武者走りにある格子窓と鉄砲掛け
一階から二階への階段、二階の床の高さを調整するために天井が高く設定されています
天守三階
天守からの眺め

その後

明治維新後、城の多くの建物は撤去され、堀は埋められました。元藩主であった伊達家は、わずかに残った建物とそれがあった山を維持し続け、1949年になって宇和島市に寄贈しました。残念ながら、大手門は1945年の宇和島空襲により焼け落ちてしまっていました。天守と、搦手道にある上り立ち門だけが今に残っています。天守は1950年以来、重要文化財に指定されています。

現存する上り立ち門  (licensed by Saigen Jiro via Wikimedia Commons)
現存天守

私の感想

宇和島市は一年中温暖で、安くておいしい食べ物がたくさんあります。作家の吉村昭は、高野長英や、日本で初めての女医となり宇和島も訪れた楠本イネについての小説を書きました。彼は、小説の取材のために宇和島を訪れるうちに、そこが好きになり、生涯で40回以上訪れたとのことです。この街には、地方都市ののどかな雰囲気と、他人を受け入れる寛容さの両方を持ち合わせているようです。私も同じように感じたので、また何度も訪れたみたいです。

高野長英隠れ家跡
楠本イネ (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
楠本イネの宇和島での住居跡

ここに行くには

車で行かれる場合、松山自動車道の西予宇和ICから約30分かかります。城の入口のところに駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR宇和島駅から歩いて約15分かかります。
東京か大阪から行かれる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

宇和島城、宇和島市ホームページ
・「よみがえる日本の城10」学研
・「よみがえる日本の城、天守のすべて2」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「伊達宗城/神川武利著」PHP文庫
・「週刊名城をゆく34/宇和島城大洲城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「宇和島城その1」に戻ります。
「宇和島城その2」に戻ります。

83.宇和島城 その2

平和の時代の天守が健在です。

特徴、見どころ

城への入口

現在、宇和島城にはあまり多くの建物は残っていませんが、日本の現存12天守の内の一つがここにあります。城の周りの海や水堀は既になくなっていて、山の部分のみが残っています。もし宇和島駅から城の方へ行かれるのでしたら、市街地を通り過ぎて消防署の脇の山の東側から入っていきます。そこは、かつては三の丸でした。入口のところに、大手門のような古い建物が見えます。これは、実は宇和島藩の家老だった桑折(こおり)氏の長屋門だったものを1963年にこの地に移築したのです。

城周辺の地図

宇和島駅方面からの宇和島城への入口
桑折氏長屋門

石垣を見ながら登る

そこからは、高虎の時代に築かれたかもしれない古い石垣を見ながら、曲がりくねった山道を通って山の頂上の方に登っていきます。まずは、その途中にある井戸丸に着きます。この曲輪は、城にある多くの小さな曲輪の一つなのですが、井戸があるだけではなく、防御のための門、櫓、石垣が組み合わされていました。更に進んでいくと、本丸の高石垣の下に至ります。その石垣をよく見てみると、半分は古い石を使って築かれたままですが、他の箇所は修理された痕跡があります。その後、二の丸を通り過ぎて本丸に到着します。

山道沿いにある古い石垣
井戸丸
本丸の高石垣
青線の右側が古い石の部分、左側が修繕された部分、現地説明板より

本丸からの眺め

本丸にはもともと天守の周りに多くの建物があったのですが、今では天守だけが残っています。本丸には櫛形(くしがた)門跡の石垣を通って入っていきます。本丸からは、北東の方には市街地が、北西の方には宇和島湾の景色が見えます。実は、この湾は山の際まで迫っていたのですが、湾の埋め立ては江戸時代から始まりました。他の城の事例よりはずっと早い事だったと思われます。

櫛形門跡
本丸
「宇和島城下絵図屏風」に描かれたかつての本丸の姿、現地説明板より
本丸から見た宇和島市街
本丸から見た宇和島湾

優雅な姿の天守

本丸の見どころはもちろん天守です。この天守は、他の現存天守と比べると、それ程大きくはありません(高さ15.7m)。しかし、白い漆喰壁と多くの飾りによってとても優雅に見えます。天守は三階建てであり、三層の屋根はそれぞれよくデザインされています。最上階の屋根は唐破風となっています。そして二階の屋根には大型の千鳥破風があり、一階の屋根は2つの小振りの千鳥破風となっています。更には、一階への入口には、もう一つの唐破風が屋根に付いています。

高石垣下から見た天守
天守(正面)
天守(側面)

「宇和島城その3」に続きます。
「宇和島城その1」に戻ります。

83.宇和島城 その1

藤堂高虎が築き、伊達氏が維持した城

立地と歴史

藤堂高虎が築城

宇和島城は、過去には伊予国といった愛媛県の南部地方(南予地方)にある城です。伊予国は、15世紀後半から16世紀までの戦国時代には多くの戦国大名によって分割されていました。後に宇和島城が築かれることになる山には、板島丸串(いたじままるぐし)城という城があり、西園寺氏が居城していました。豊臣秀吉が天下統一事業を進めているとき、秀吉の家臣、藤堂高虎が1595年に南予地方の領主となりました。高虎は、築城の名手として知られるようになるのですが、このとき初めて独立した領主になったのです。彼は本拠地として、もと板島丸串城だった山を選びました。そして1596年に宇和島城の築城を始めたのです。

伊予国の範囲と宇和島城の位置

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

板島丸串城は、シンプルな山城でした。高虎はそれを、当時最新の技術と彼の構想によって、近代的な城に作り変えました。その山は、北側と西側が宇和島湾に面していました。そこで高虎は、南側と東側も海水を引き込んで堀としたのです。その海岸と堀から作られる形は五角形のようになっていて、敵が城を攻撃してきたときに惑わせる効果もあったようです。高虎は、山を覆うような石垣や、敵の攻撃を防ぐための桝形と呼ばれる四角いスペースを備えた虎口(入口)も築きました。更には、山の頂上の自然の岩の上に、三層の天守が築かれました。城の建設は、1601年に完了しました。

宇和島御城下絵図、元禄16年(1703年)、宇和島伊達文化保存会蔵(現地説明板より)

その一方でこの城には、本丸、二の丸、三の丸、長門丸といった小さな曲輪がたくさんありました。これは古い山城の特徴の一つであり、前身の板島丸串城もそうでした。宇和島城はその特徴を引き継がざるをえなかった訳です。次に、天守は廃材を利用して建造されましたが、その完成の60年後には老朽化が激しくなってしまいました。また、高虎の伝記によれば、高虎の領地にあった支城の河後森城の天守が、1604年に宇和島城に移築されてきて櫓として使われたとあります。これらの状況を勘案すると、当時の高虎には理想の城を完成させるには十分なリソースがなかったのかもしれません。1600年には、高虎は新しい領地の今治城に移っていきました(領地替えではなく、今治の地を加増され、宇和島城は家臣が城主となりました)。

密集している曲輪の配置図、現地説明板より
河後森城跡

立て替えられた天守

1614年、伊達氏が宇和島城主と宇和島藩主となり、江戸時代末期までこの地を統治しました。2代目藩主、宗利(むねとし)は、1660年代に老朽化と地震の被害による城の大改修を行いました。特に、天守は完全に新しいものに置き換えられます。新しい天守は古いものと同じ三階建てでしたが、外観は全く違っていました。古い方は望楼型であり、新しい方は層塔型でした。しかし、新しい天守における一番重要なことは、それが平和の時代に建てられたということです。天守は、他の建物に連結されるのではなく、独立して本丸の中心にある石垣上に建てられました。そして、天守には見栄えをよくするための装飾が多く付けられ、戦いのための装備はわずかでした。総じて、この天守はしばしば「太平の世を象徴する天守」と言われたりします。それが現在われわれが目にしている天守です。

旧天守(右側)と新天守(左側)との比較、現地説明板より
宇和島城の現存天守

幕末に多彩な人材が結集

8代目藩主の宗城(むねなり)は、幕末の日本政界で大変活躍しました(いわゆる四賢侯の一人とされます)。強力な西洋の蒸気船が日本に現れ、日本が脅威にさらされる中、宗城は藩独自の蒸気船を建造しようとしました。彼はこれを成し遂げるために、異才を放つ人材を招きます。例えば、医者で後に初期の日本陸軍の指導者となる村田蔵六、こちらも医者で幕府から追われる身であった高野長英、そして下層の職人たち(前原功山など)です。彼の試みは成功します(藩としては薩摩藩に次ぐ2番目、純国産では最初との評価もあります)。宗城は、宇和島城を新しい状況に適用させるのは難しいと考え、蒸気船を動く城として作り上げたのかもしれません。

伊達宗城、「徳川慶喜公伝」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
村田蔵六、「近世名士写真 其2」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
高野長英肖像画、高野長英記念館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「宇和島城その2」に続きます。