16.箕輪城 その1

最強の武将、長野業政の城

立地と歴史

長野氏が戦国時代に築城

箕輪城は、現在の群馬県にあたる上野国の榛名山の麓にあった丘の上に立地していました。戦国時代の間の16世紀初頭に、長野氏が最初にこの城を築きました。長野氏はもともと古代には、地方政庁の役人の一族であったと考えられています。やがて中世に有力な地方領主となったのです。彼らは上野国中心部の平地にあった国府の近くに住んでいたのですが、15世紀後半以降、関東地方全域で戦が頻発するようになり、そこに住み続けるのは危険となっていました。そういうわけで、長野氏は上野国西部沿いの山間地に城を築いたのです。

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箕輪城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

長野業政が孤軍奮闘

長野氏は、上野国守護(兼関東管領)であった上杉氏に仕えていました。その当時の当主だった上杉憲政は、1546年の川越城での戦いで、南から攻めてきた北条氏に敗れました。その後彼は上野国から、上野国の北の越後国に逃れたのです。その結果、関東地方のほとんどの地方領主は、北条氏を支持しました。ところが、長野氏の当主だった長野業政(なりまさ)はそうすることはせず、上杉氏に忠誠を尽くし続けたのです。彼は、北条氏や武田氏といった有力な戦国大名にも対抗しうる、その当時では最強の武将の一人でした。彼は、箕輪衆と呼ばれた地方領主のグループを組織し、彼らの領地の維持を図ったのです。彼は、真田幸隆などの戦いに敗れて領地を失った他の武将をかくまうことさえしていました。

長野業政木造、長純寺蔵(高崎市ホームページより引用)
真田幸隆肖像画、長国寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

幾年かの雌伏の時を経て、憲政の後継者となった上杉謙信が、1560年に越後国から上野国を含む関東地方に攻め込みました。業政は、再び上杉氏の重臣の一人となり、西上野の盟主ともなりました。ところが、謙信が越後国の本拠地、春日山城に戻ったとたん、北条氏は領地奪還を開始します。更には、業政は彼の領地の西に位置していた、国峯城にいた小幡氏を従わせようとしますが失敗します。それは、小幡氏の当主であった小幡信真(のぶざね)が(父の憲重とともに)、最強の戦国大名の一人、武田信玄に助けを求め、その家臣となったからです(いわゆる武田二十四将の一人になりました)。かつて業政に助けられた真田幸隆も、業政のもとを離れてから信玄の重臣となりました。信玄は、謙信の終生のライバルであり、そして1561年に西上野への侵攻を開始したのです。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
国峯城の想像図、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
「長篠合戦図屏風」に描かれた小幡信真、甘楽町歴史民俗資料館にて展示
武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長野氏の滅亡とともに落城

業政は、その生涯の間、箕輪城とその周辺地域を何とか維持できていましたが、1561年に病気で亡くなります。彼の息子、長野業盛(なりもり)は絶対に敵に降伏してはならないとする父の方針を引き継ぎました。しかし、信玄は1566年、箕輪城に総攻撃を仕掛け、城は落城しました。業盛とその一族は最後まで戦いましたが、ついには城の御前曲輪で自害して果てました。彼らはその死の前に、先祖の位牌を曲輪の井戸に投げ込んだと言われています。

長野氏の家紋、檜扇(ひおうぎ)(licensed by Mukai via Wikimedia Commons)
箕輪城御前曲輪にある井戸跡

その後、小幡信真は武田氏が滅亡した後、主君を織田氏や北条氏に変えていました。1590年、天下人の豊臣秀吉が北条氏が支配していた関東地方に侵攻したとき、彼の居城は落城し、その所領もまた失われました。一方、真田氏は上田城沼田城岩櫃城を基盤として独立した大名となるべく悪戦苦闘しました。最後にはそれを成し遂げるのですがいばらの道でした。

上田城
沼田城跡
岩櫃城の模型、現地案内所にて展示

井伊直政による近代化と廃城

箕輪城の落城後は、武田氏、織田氏、北条氏、そして徳川氏が城を保有しました。徳川氏の重臣筆頭であった井伊直政が城の最後の城主となりました。彼は、1590年に徳川氏が関東地方に移されたときにこの城に入城したのです。箕輪城は広大でしたが、もともと曲輪は基本的には土造りで空堀によって囲まれていました。直政はできるだけの城の改修、近代化を図りました。例えば、より防御力を増すために稲荷曲輪を水堀とともに設置しました。城主の権威を表すために、石垣が大手道沿いに築かれました。郭馬出西虎口門など、城の重要地点に櫓門がいくつか築かれたりもしました。しかし、直政は最後には1598年に、平地に新しい本拠地として高崎城を築き、そちらに移っていきました。その後、箕輪城は廃城となりました。

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
稲荷曲輪
復元された郭馬出西虎口門
三の丸門跡の石垣

「箕輪城その2」に続きます。

141.郡上八幡城 その3

最古の木造再建天守

特徴、見どころ

松の丸、城の裏手

天守の他には、腰曲輪の上段にある通路を通って、松の丸に行ってみることもできます。そこには「凌霜隊(りょうそうたい)」の記念碑があります。この隊は、明治維新のとき、郡上藩が新政府を支持した際、脱藩しました。そして、若松城で新政府軍と戦っていた、幕府を支持する諸藩の軍に加わったのです。

腰曲輪上段(桜の丸と松の丸の間の通路)
腰曲輪上段を通って松の丸へ移動
松の丸の内部
凌霜隊の記念碑

頂上にある駐車場は、もとは城の背後にあった堀切の一つでした。そこでは、1600年の戦いにおいて激戦が展開されました。そこには井戸の跡があり、戦いで戦死した武士の首を洗った場所だと言われています。

頂上にある駐車場
「首洗い」井戸跡

その後

明治維新にしたがって郡上八幡城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されました。1932年、当時の八幡町長であった仲上忠平(なかがみちゅうへい)は、町の活性化のために天守を再建することを提案しました。他の町民も賛成し、再建のための寄付が募られました。その再建天守は、その当時現存していた大垣城天守の外観を参考に建設されました。しかし、その大垣城の天守は1945年の大垣空襲により焼け落ちてしまうのです。また再建天守は、町から見上げた時にどのように見えるかということも考慮して建てられました。その再建が完成したのは1933年のことです。

大垣城の古写真、右側が天守 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
郡上八幡城の再建天守

私の感想

郡上八幡を訪れてみて、美しい城を街のシンボルとして築いた、その目的は十分達成されているように思いました。街のどこからでも天守のよき姿を望むことができるからです。そして、オリジナルの天守がそこにあろうとなかろうと、この城は街の人たちにとって今でもとても大切で、欠くべからざる存在なのだということがわかりました。

街から見える天守
腰曲輪の石垣
天守からの眺め

ここに行くには

車で行く場合は東海北陸自動車道の郡上八幡ICから約15分かかります。
公共交通機関を使う場合は、郡上八幡城下町プラザから歩いて約20分かかります。
東京か大阪から城下町プラザまで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で東海道線に乗り換え、岐阜駅で降ります。そして、岐阜バス高速八幡線に乗り、城下町プラザバス停で降りてください。

山麓にある駐車場
山の中腹にある駐車場

リンク、参考情報

郡上八幡城 日本最古の木造再建城
・「新 八幡城ものがたり(改訂版)」郡上市
・「よみがえる日本の城16」学研

これで終わります。ありがとうございました。
「郡上八幡城その1」に戻ります。
「郡上八幡城その2」に戻ります。

141.郡上八幡城 その2

美しき街のシンボル

特徴、見どころ

郡上八幡のシンボル

現在郡上八幡城は、郡上八幡の街のシンボルとなっています。街のどこからでも山の上に城の再建天守を眺めることができます。山は、春には桜に、夏には青葉に、秋には紅葉に、冬には雪に包まれます。有名な作家である司馬遼太郎は、まだ雪が残る早春にこの城を訪れたとき、「日本でいちばん美しい山城」と称しました。車でこの城を訪れる場合、山の麓にも、中腹にも、頂上付近のいずれにも駐車することができます。その停めた場所のどこからでも山に登っていくことができます。

街なかから見える郡上八幡城

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郡上八幡城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

もし山麓にある駐車場から登っていくのであれば、郡上一揆のときに農民たちが集まった御蔵会所跡や、御殿が建てられていた城山公園を通り過ぎていきます。この辺りから山道に入っていきます。

山麓駐車場からの登り口
御蔵会所跡
山の中腹へ
城山公園周辺
中腹からの登り口

三段になっている腰曲輪

10分ほど登っていくと、三段になっている腰曲輪が見えてきます。この曲輪は、自然石が積まれた古い石垣により囲まれています。最初の段(下段)は現在、頂上にある駐車場に向かう舗装道路として使われています。二段目(中段)は、ビジターが駐車場から城の施設に向かうための歩道として使われています。三段目つまり上段は、頂上にある桜の丸と松の丸をつなぐ通路となっています。

車道と歩道が混在
腰曲輪下段の石垣
腰曲輪下段の車道(左側)と中段の石垣(右側)
腰曲輪中段にある展望台(出丸か)
腰曲輪中段の歩道(左側)と上段の石垣(右側)
腰曲輪上段の通路(左側)と天守がある桜の丸の石垣(右側)

趣のある再建天守

再建された天守に行くには、桜の丸から入っていきます。専門家は、この区域に三層の天守が建てられていたのではないかと推測しています。しかし、その天守はいくつかの絵画資料に見られるだけで、発掘や記録により科学的に証明されているわけではありません。よって、現在の天守を「復興天守」と呼ぶことは難しいと思われます。もし過去においてオリジナルの天守が築かれなかった場合、現在ある天守は「模擬天守」と呼ばれます。現時点ではその真偽は不確かであるため、単純に「再建天守」と呼ぶのが妥当かと思います。

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天守
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
山頂周辺の地図

桜の丸の入口
再建天守
オリジナルの天守台石垣
「八幡城の戦い」の絵画に描かれた天守、郡上八幡城天守内で展示

この天守は、今から90年近く前の1933年に建てられた、日本で一番古い木造再建天守です。オリジナルではないのですが、伝統的な日本建築の味わいがあります。古い木造建築物であるので、天守の中を歩いたり登ったりするとき、木の床からきしみ音が聞こえます。天守は4層5階であり、各階では城や街に関する展示がされています。最上階では、階段を上がっていった後、周辺地域の素晴らしい眺めを楽しむことができます。

再建天守の内部
最上階に上っていきます
最上から見た郡上八幡の街並み

「郡上八幡城その3」に続きます。
「郡上八幡城その1」に戻ります。

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