38.岩村城 その2

登り甲斐がある城跡です。

特徴、見どころ

長く続く山頂への道

今日、岩村城跡はビジター向けによく整備されています。もし、山麓から山頂の方に向けて歩いていかれれば、この城がどんなに強力だったかわかると思います。山麓には太鼓櫓とともに城主御殿が一部復元されています。山麓から山頂までは、距離で800m、比高で170mを登っていく必要があります。山の上には城の石垣と基礎部分だけが残っています。ただ、もしスマートフォンをお持ちでしたら、説明板にあるQRコードをスキャンすることで、CGによる再現イメージを見て、説明音声を聞くことができます。

城跡への登り口

城周辺の地図

CGによる再現イメージの例(追手門周辺)

いくつもの関門

前半の登りは結構つらいかもしれません。急で且つ曲がりくねっている山道が500mも続くからです。この部分は藤坂と呼ばれています。ここの区間では、初門、一の門、土岐門という3つの防御拠点を通り過ぎ、追手門跡にたどり着きます。過去に城を攻めた敵も、同じルートから攻めたときには大変な困難を感じたはずです。

長く続く藤坂
かつての初門、現地掲示板より(建物は当時からなかったようです)
上の方から見た現在の初門跡
かつての一の門、現地説明板より
現在の一の門跡
かつての土岐門、現地説明板より
現在の土岐門跡
上の方から見た土岐門跡

防衛の要、追手門

追手門は防衛の要で、城を守るための複雑な仕組みを備えていました。三階建ての櫓が門のとなりにあり、城のシンボルにもなっていました。現在の山道は左側に回り込んでいますが、過去の城への訪問者は畳橋と呼ばれた門に真っ直ぐ伸びる橋を渡っていきました。その橋の橋板は、敵が攻めてきたときには畳のように取り外せるようになっていました。更に橋の上で左折し、門に入って行かなければならなかったのです。もしそれが敵だったら、その地点で釘付けとなり、櫓と門の両方から反撃を受けたことでしょう。

かつての追手門周辺、現地説明板より
現在の追手門跡周辺
現在の山道は左側に回り込んでいます
かつてはこの辺に畳橋がかかっていました

追手門跡を過ぎた後は、山道はやや緩やかになり、その周辺は比較的広々としています。かつてはここに武家屋敷が並んでいました。そこから、左側に八幡神社跡、右側に水が枯れることがないといわれる霧ヶ井という名の井戸を見ながら進んでいきます。頂上にある本丸に行くには2つのルートがあります。一つは二の丸を通り、もう一つは東丸を通ります。しかし、二の丸はビジター向けにはあまり整備されていないため、ほとんどの人は東丸の方向かって歩いていきます。

武家屋敷があった辺り
八幡神社跡
霧ヶ井
右側が二の丸

最大の見どころ、六段石垣

この城の最大の見どころの一つは、東丸のとなりの本丸の六段石垣でしょう。見事な石垣です。実は、この石垣はもともと一段の高石垣だったのですが、崩壊を防ぐために後に他の段が付加されたのです。それ以外にも、本丸は素晴らしい石垣によって囲まれています。特に西側の高石垣は、見ものです。

六段石垣(正面から)
六段石垣(右側から)
六段石垣の上からの眺め
本丸西側の高石垣

「岩村城その3」に続きます。
「岩村城その1」に戻ります。

84.高知城 その2

昔のままの城を感じることができる場所です。

特徴、見どころ

天守と追手門が同時に見れる場所

今日高知城を訪れる観光客の方は、最初は現存する追手門から入って行かれるのではないでしょうか。ここからは、向こうの方に現存する天守も眺めることができます。実は、この2種類の現存する建物を一緒に見ることができるのは大変珍しいことなのです(あとは丸亀城くらいかと思います)。

高知城の天守と追手門
追手門

城周辺の航空写真

杉ノ段から鉄門跡へ

追手門から入って石段を登っていくと杉ノ段に至ります。そこには、山内一豊の妻、千代と一頭の馬の銅像があります。この銅像は、彼女が、夫の一豊が参加する馬揃えのために持参金をはたいて良馬を購入したことで、一豊が出世するきっかけをつかんだというエピソードを示しています。ここから見上げると、三ノ丸の素晴らしい高石垣が目に入ってきます。

杉ノ段への石段
千代と一頭の馬の銅像
三ノ丸の高石垣

更に石段を登って進んでいくと、鉄門(てつもん)跡に着きます。ここは防衛上重要な地点でした。この門は、三ノ丸のとなりにあり、二ノ丸へ向かう経路の途中にあります。そのために、敵を本丸への門と勘違いさせるような詰門を使った巧妙な仕掛けがここに作られたのです。

鉄門跡
鉄門跡から見える詰門

三ノ丸と二ノ丸

三ノ丸は、この城では最も大きな曲輪であり、かつては儀式のために使われた大きな御殿がありました。発掘により、長宗我部時代の石垣がここから見つかっています。

三ノ丸
長宗我部時代の石垣
三ノ丸から見える天守

二ノ丸には、本丸以外のもう一つの領主の御殿があり、領主は通常ここに住んでいました。本丸にあった御殿は日常生活をおくるには狭すぎたからです。現在の二ノ丸は広場となっています。

鉄門跡から二の丸へ
二ノ丸

ほとんど元のままの本丸

二ノ丸から現存する詰門を渡って行くと、ついに本丸に到着します。驚くべきことに、本丸には元あった状態とほとんど変わらないまま、11もの建物が残っています。また、同じ場所にオリジナルの天守と本丸御殿が残っている日本で唯一の例でもあります。

二ノ丸から詰門に入ります
天守から見える本丸の建物群

天守に至るには、まず最初に御殿の方に入る必要があります。双方が直接つながっているからです。この御殿は、本丸の大きさが限られているため、確かにそんなに広くありません。しかし、藩にとって重要な儀式はここで行われました。

本丸御殿の入口
本丸御殿の内部

天守は四層六階です。つまり、六階のうちの二階は屋根裏部屋となっています(3階と5階)。この天守は、望楼型と呼ばれる形式です。高知城の場合は、入母屋屋根を備えた大型の二層櫓の上に、小型の二層望楼が乗っかっています。また、天守の屋根には唐破風や千鳥破風、最上階には漆塗りの欄干付きの回り縁といった装飾がされています。古い伝統と美しさ両方が見られる天守です。

高知城天守

「高知城その3」に続きます。
「高知城その1」に戻ります。

4.弘前城 その2

城は、ほとんど元と同じ範囲で残っています。

特徴、見どころ

外堀から三の丸へ

驚くべきことに、ほとんど全ての弘前城の範囲がそのまま弘前公園として残っています。

城周辺の航空写真、下の古絵図とほとんど同じに見えます

津軽弘前城之絵図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)

南の方、例えば弘前駅の方から公園を訪れる場合、土塁と外堀に囲まれた三の丸にある追手門から入って行くことになるでしょう。また、その土塁には夥しい数の桜の木が植えられていて、春でなくても美しい桜の花で飾られるだろうと想像できます。

桜の木が植えられた外堀周辺

追手門は三の丸に残っている2つの門のうちの一つです。門に入るとき、その門が正面を向いていないことに気づくかもしれません。それは、弘前城と同じ時期に建てられた城には、通常2つの門の建物を持つ関門がありました。1番目の門は正面を向き、2番目の門は別の方向を向いていました。2つの門は、壁面とともに四角い空間を形作り、「桝形」と呼ばれ、城を守っていました。弘前城の場合は、その1番目の門が省略されていて、とても独特なスタイルです。

弘前城の追手門
甲府城に見る桝形の例(復元された山手門)

三の丸は現在、植物園、公共施設、リラックスゾーンになっています。

三の丸

全ての門と櫓が残る二の丸

二の丸周辺の航空写真

更に中に入っていくと、土塁と中堀に囲まれた二の丸が見えてきます。これもまた驚きですが、二の丸にあった2つの門と3つの三階櫓が今日全て残っているのです。櫓の屋根には銅板が使われていて、それが櫓をスマートに見せています。櫓と土塁の組み合わせもとても合っています。二の丸にはインフォメーションセンターがあります。

二の丸の入口
現存する二の丸南門
現存する二の丸辰巳(たつみ)櫓
現存する二の丸未申(ひつじさる)櫓

天守が引越し中の本丸

本丸周辺の航空写真

やがて、内堀の中の、天守がある本丸に到着します。実は、本丸の東側の石垣が修理中です(2021年12月現在)。その石垣の表面が膨張しており、地震が起こった場合崩れかねないからです。

修復中の本丸石垣

そのため、天守は本丸の東南隅にある天守台石垣から一時的に移動されています。よって、天守をすぐ近くに見ることができます。外側を向いている二面は、派手に飾り付けられています。一方、内側を向いている他の面はとても地味です。最初は天守の代用品として作られたからかもしれません。いずれにせよ大変面白いことです。

天守のない現在の天守台石垣
天守の飾り付けされた面
天守の飾り付けがない面

本丸の西南隅には、最初の天守があった大規模な石垣台があります。天気が良ければ、ここから岩木山の雄大な眺めを見ることができます。

最初の天守があった石垣台
石垣台からの眺め
晴れていればこのように見えるはず (taken by u****************m from photoAC)

「弘前城その3」に続きます。
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