147.高天神城 その1

武田氏と徳川氏の戦いの天王山

立地と歴史

城になるための山

高天神城は、現在の静岡県西部にあたる遠江国にありました。この城は土造りのシンプルな山城だったのですが、この国をコントロールするには絶妙な位置にありました。多くの戦国大名がこの城を手に入れようとした結果、この城で起こったことが中でも武田氏と徳川氏双方の運命に決定的な影響を及ぼしました。この城が築かれた山は、標高はわずか132mで、麓からは約100mの高さでした。しかし、その山の峰は複雑に入り組んでいて、且つ切り立っていました。その上に、山の頂上周辺はそれ程広くなく、そこからの眺望は抜群でした。これらの特徴は、少ない守備兵でも大軍の攻撃から城を守り抜けることにつながります。まさに城になるために存在しているような山だったのです。

遠江国の範囲と高天神城の位置

城周辺の起伏地図

高天神城想像図、現地説明板より

今川氏、徳川氏、武田氏による争奪戦

この城が最初にいつ築かれたか定かでありませんが、遅くとも16世紀前半には今川氏の勢力下となっていました。今川氏の勢力が衰えた後は、徳川家康がこの城を手に入れることに成功しました。有力な戦国大名、武田信玄もまたこの城を手に入れようとし、1571年にこの城を攻撃しました。しかし城を落とすことはできず、その後1572年に信玄は亡くなります。信玄の息子、武田勝頼は再度高天神城を攻略するため、1573年にこの城の北に橋頭保として諏訪原城を築きます。勝頼は1574年に高天神城に猛攻を加え、ついに守備兵が降伏することでこの城を手にしました。この時点で勝頼は、武田氏にとって最大の領土と(父親の信玄が果たせなかった高天神城を落としたことによる)最高の名声を得たことで、まさにそのパワーはピークに達していました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
諏訪原城跡

ところがこの流れは、1575年に長篠城近くで起こった長篠の戦いで、勝頼が織田信長と家康の連合軍に惨敗したことで急激に変わってしまいます。家康はそして、高天神城を含む遠江国の領地の奪還のための反撃を一歩ずつ開始しました。1576年、最初に諏訪原城を勝頼より奪いました。この城はかつては、勝頼が高天神城を占領するための足固めとなったのですが、今度は家康が同じ目的のために使うことになったのです。家康は次に1578年に、自軍への補給のためと、勝家の高天神への補給を断つために、高天神城の西方に新しく横須賀城を築きました。一方武田方も高天神城の西側部分の曲輪の間に、土塁、空堀、堀切などを造成し、城を強化しました。その部分は他の山につながっていて、城の唯一のウィークポイントだったからです。最後の決戦の時が迫っていました。

長篠合戦図屏風部分、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
長篠城跡
横須賀城跡

家康の慎重な城攻め

勝頼とは違って、家康はこの城を強攻しませんでした。彼は恐らくそんなに簡単にはこの城を落とせないとわかっていたのでしょう。長い時間をかけて、この城を包囲すべく周りに多くの砦を築きました。それらは高天神六砦として知られています。小笠山(おがさやま)砦、能ヶ坂(のがさか)砦、火ヶ峰(ひがみね)砦、獅子ヶ鼻(ししがはな)砦、中村(なかむら)砦、三井山(みついやま)砦です。しかし実際には、20もの砦が築かれたのです。それぞれの砦には明確な役割が与えられていました。例えば中村砦は補給のため、火ヶ峰砦は武田の攻撃を防ぐため、山王山砦は城の包囲のため、などです。このことにより、高天神城は完全に孤立しました。

高天神城と高天神六砦、横須賀城の位置

獅子ヶ鼻砦跡

1580年、家康は満を持して高天神城への攻撃を開始しました。一方、勝頼は城への援軍を送ることが困難になっていました。勝頼の勢力は衰え、また他の敵(北条氏など)にも備える必要がありました。飢餓に陥った守備兵は家康に降伏を申し出ました。ところが、家康との同盟でリーダー格だった織田信長が受け入れませんでした。これは多くの戦いが起こった戦国時代においても稀なことでした。1581年、守備兵は最後の抵抗を期して城から打って出ましたが、撃退され、ついに城は落城したのです。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

家康と勝頼の運命の転換点

信長は、勝頼の権威を失墜させるため、勝頼が城を最後の瞬間まで助けられなかったことを見せつけたのだと言われています。事実、その次の年に信長が勝頼の領地に攻め入ったとき、勝頼のほとんどの家臣は戦わずして降伏するか、主人を見限って逃亡したのです。高天神城の戦いは、武田氏の滅亡を導いただけでなく、その後家康がついに天下人となるきっかけになったかもしれません。

高天神城跡遠景

「高天神城その2」に続きます。

82.Ozu Castle Part3

People in Ozu struggled to restore the Main Tower.

Later History

After the Meiji Restoration, Ozu Castle was abandoned and once used as a government office. However, the castle land was eventually sold and the castle buildings were demolished. Four turrets lastly remain as Owata Turret in the Second Enclosure, the Southern Corner Turret in the Third Enclosure, and the two ones in the Main Enclosure. People in Ozu were afraid to lose the castle ruins, so they turned them into a park with peach trees in the Meiji Era.

The remaining Owata Turret in the Second Enclosure
the remaining Southern Corner Turret in the Third Enclosure
The remaining Handrail Turret
The old photo of the Main Enclosure after being planted with peach trees, exhibited in the castle

After World War II, people in Ozu had been thinking about restoring the Main Tower in the original way, while many other Main Towers in Japan were restored in a modern way like Nagoya Castle. This was because many materials for the restoration remained, such as drawings, the frame model of the tower made when it was repaired, and several clear photos taken before it was scraped, which was a very rare case in Japan.

The Main Tower of Nagoya Castle, restored in a modern way
the frame model of the Main Tower of Ozu Castle, used for the restoration, from the signboard at the site

However, there was a big problem with the law. Japan’s Building Standard Act has very strict rules on wooden buildings which are over 13m tall. The original Main Tower of Ozu Castle was over 19m, which meant it couldn’t be restored. The good news came in the 1990’s, the wooden towers in the other castles of Shirakawa-Komine, Kakegawa and Shiroishi were allowed to be restored. Ozu Castle’s Main Tower is the tallest among other towers, but after a long negotiation with the officials, the tower’s restoration was completed in 2004.

The restored wooden three-leveled turret of Shirakawa-Komine Castle
The restored wooden Main Tower of Kakegawa Castle
The restored wooden Main Tower of Shirakawa-Komine Castle
The restored wooden Main Tower of Ozu Castle

My Impression

I think the Main Tower of Ozu Castle is the best one out of the restored Main Towers in Japan. This is because the tower and two remaining turrets both sides are in perfect harmony. In addition, I recommend seeing the castle from the riverside. River traffic was one of the main means of transportation, so the castle’s design was done considering the view from the riverside. You can see a beautiful completely restored appearance of the Main Tower and the collaboration with the turrets.

A view of Hijikawa River from the Main Enclosure
The riverside of Hijikawa River
A view of the Main Tower and the Handrail Turret from around the river

How to get There

If you want to visit the castle by car, it is about 10 minutes away from Minami-Ozu IC on the Matsuyama Expressway. There is a parking lot for visitors in the city area near the castle.
By public transportation, it takes about 25 minutes on foot from the JR Iyo-Ozu Station.
If you go there from Tokyo or Osaka, I recommend traveling by plane or using an express bus.

That’s all. Thank you.
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82.大洲城 その3

大洲の人たちは苦労して天守を復元しました。

その後

明治維新後、大洲城は廃城となり、一時官庁(明治初頭の大洲藩、大洲県など)として使われました。しかしやがて城の敷地は売却され、城の建物は撤去されていきました(天守は1888年に解体)。最終的には4つの櫓だけが残りました。二の丸にある苧綿(おわた)櫓、三の丸にある南隅(みなみすみ)櫓、そして本丸にある2つの櫓です。大洲の人々は城跡が失われるのを恐れ、明治時代に公園とし桃の木を植えました。

現存する二の丸苧綿櫓
現存する三の丸南隅櫓
現存する高欄櫓
桃の木が植えられた頃の本丸の古写真、城内展示より

第二次世界大戦後、大洲の人たちは天守をオリジナルと同じ工法で復元することを考えていました。一方、日本の他の天守は名古屋城のように現代の工法で再建されていました。オリジナルの工法にこだわった理由は、多くの復元のための材料が残っていたからです。図面や天守を修理したときに作った天守雛形、そして天守が解体される前に撮られた鮮明な写真などです。このような事例は日本ではとても稀なことでした。

現代の工法で復元された名古屋城天守
復元の際参考とされた大洲城天守雛形、現地説明板より

しかし、このような天守復元には大きな法律の壁がありました。日本の建築基準法は、13mを超える高さの木造建築物に対してとても厳しい内容となっているのです。大洲城のオリジナルの天守の高さは19mを超えており、そのまま復元するのは不可能でした。ところが1990年代に状況が好転し、白河小峰城掛川城白石城といった他の城の天守や櫓の木造による復元が許可されたのです。大洲城の天守はそれらの中では最も背が高いものでしたが、当局との長い交渉の結果、2004年に天守が元の高さのまま木造で復元されたのです。

木造復元された白河小峰城の御三階櫓
木造復元された掛川城天守
木造復元された白石城天守
木造復元された大洲城天守

私の感想

大洲城の天守は、日本の復元天守の中では一番だと思います。この天守とその脇にある2基の現存櫓が、完璧な調和を保っているからです。それから、この城を川の方から見てみることもお勧めしたいです。河川交通はかつては主要な交通手段の一つでした。よってこの城は、川沿いからの見栄えを意識して設計されたのです。今でも、美しく完璧に復元された天守の外観と櫓とのコラボレーションを眺めることができます。

本丸から見た肱川の流れ
肱川の川岸
川側から見た大洲城天守と高欄櫓

ここに行くには

車で行く場合は、松山自動車道の南大洲ICから約10分かかります。城の近くの市街地にある観光駐車場を利用することができます。
公共交通機関を使う場合は、JR伊予大洲駅から歩いて約25分かかります。
東京か大阪から来られる場合は、飛行機か高速バスを使われることをお勧めします。

リンク、参考情報

大洲城公式サイト
・「大洲城下物語」愛媛県大洲市
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「週刊名城をゆく34/宇和島城大洲城」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
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