85.福岡城 その1

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。

立地と歴史

Introduction

福岡城は、江戸時代の間中、黒田氏が治めた筑前国福岡藩(52万石と言われる)の本拠地でした。東西約1km、南北約700mの広さで、全国有数の大規模な城郭でした。これまでこの城は、その存在の割には注目されてきませんでしたが、最近は「天守」の話題で盛り上がっています。現在まで天守台は残っているものの、天守の建物は築かれなかったとされていました。しかし、天守の存在を示す史料がいくつも発見(または再注目)され、天守「復元」運動も起こっています。その天守台の上に、仮設のライトアップされた天守を演出するイベントも行われています。果たして福岡城に天守はあったのでしょうか?また、この城はどんな歴史を辿り、どんな特徴を持っていたのでしょうか?これから城跡がどうなっていくかも見ていきたいと思います。

福岡城の模型、福岡城むかし探訪館にて展示
現存する天守台
ライトアップされた仮設天守、Wikimediaより
果たして天守はあったのか、上記模型より

福岡城築城まで

福岡城を築いた黒田長政(生年:1568年〜没年:1623年)は、豊臣秀吉の「軍師」と言われる黒田孝高(官兵衛、如水)の嫡男でした。松寿丸と名乗り、人質だった幼少時代に、父が(荒木村重の有岡城で)囚われの身となり、裏切りを疑った織田信長から殺害を命じられました。しかし、秀吉のもう一人の「軍師」竹中半兵衛にかくまわれ、命拾いしたというエピソードがあります。1600年(慶長5年)の天下分け目の関ヶ原合戦で長政は、半兵衛の遺児・重門と同じ場所(岡山)に陣取っています。(そのとき着用した一の谷兜も、半兵衛から受け継いだものと言われています)その関ヶ原では、当日の合戦だけでなく、西軍だった小早川秀秋などの有力部将を寝返らせ、東軍の勝利に大きく貢献しました。その論功行賞が、豊前国中津から筑前国(の大半)への移封(約12万石→当初約31万石)でした。

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ケ原合戦で長政が陣取った岡山

その筑前国は、古代より海外(特に朝鮮・中国)への玄関口になった地でした。城の三の丸となった地には、飛鳥〜平安時代に「鴻臚館(こうろかん)」が設けられ、外国使節の迎賓館、日本からの遣唐使などの宿泊施設として利用されました。中世になり、1274年の元寇(文永の役)のときには、後の城周辺の「赤坂」「鳥飼潟」で激戦がありました。城に隣り合った博多は、中世最大の貿易都市として栄えました。関ヶ原当時は、戦国の乱世によって荒廃した町を、「唐入り」(朝鮮侵攻)の根拠地にしようとした秀吉が復興した直後でした。そのときの領主は小早川秀秋で、博多の北東にあった名島城を本拠地にしていました。

鴻臚館の一部復原建物、鴻臚館跡展示館にて展示
赤坂の戦い、「蒙古襲来絵詞」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

慶長5年12月、長政以下家臣団は武装してお国入りを行いました。勢力が強かった博多の商人・僧たちにその威力を見せつけるためです(筑前御討ち入り)。また、前の領地(豊前)から年貢を収納して筑前に移動したため(次の領主に引き渡すのが当時の慣習)、次の領主・細川忠興ともめ事になり、これがきっかけで両氏はその後136年に渡り、犬猿の仲になります(1736年に幕府の仲介で和解)。長政は、豊前との国境に6つの支城を築き(筑前六端城)、細川氏に対峙することになりました。更に、福岡藩はよく「筑前52万石」(支藩含む)と言われますが、引き継いだ当初の石高は約31万石(小早川氏時代)でした。入国後検地を行った結果として、自ら幕府に届け出た石高だったのです(下記補足1)。実力は、これより下回っていたと言われています。

(補足1)初めから五十万石を得んとして欲し、当時の物成(年貢)十六万五千七百九十七石を三つ三歩の率をもって除(「郡方古実備忘録」)して創り出した机上の計算(「物語福岡藩史」、「福岡城」からの引用)

細川忠興肖像画、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長政は最初、名島城に入城しましたが、手狭だったこともあり(下記補足2)、本拠地として新城を築くことにしました。これが、福岡城です。このときは築城の名手でもあった孝高が健在(1604年没)で、長政が上京などで多忙であったこともあり、共同で築城に当たりました(下記補足3)。城は、博多の町の西隣、那珂川を境界とし「福崎」という丘陵を中心に縄張りが行われました。西側には博多湾の「草ヶ江」と呼ばれた大きな入り江があり、埋め立てるとともに、一部は堀として活用しました(大堀)。長政が上方などから送った、本丸の工事に関する家臣宛の書状がいくつか残っています(下記補足4)。築城は1601年(慶長6年)から約7年間に渡って行われました。完成間際に風水害を受けてしまい、長政は修理の指示を行っています(補足5)。工事期間には、天守についての数少ない記録の一部が見られるのです。

(補足2)名島の城は三方海にて要害よしといへ共、境地かたよりて城下狭き故、久しく平らぎを守るの地にあらず(「新訂黒田家譜」)

(補足3)甲斐守(長政)居城取り替え申し候て、上下隙を得ざる事、御推量あるべく候(慶長6年9月15日付 本願寺坊官下間氏宛 黒田如水書状)

(補足4)
・態(わざ)と申し下し候、仍って天守南の方、つきさしの石垣、急ぎつき申すべく候、拙者事は来月まてハ、此方滞留の事候間、万事普請等油断無く仕るべく候、恐々謹言(慶長6年8月23日付 黒田長政書状)
・一、其地普請之儀、てんしゆノうら石かき、九月中ニ出キ候様ニと、皆々申遣候間、惣右衛門幷年寄共はしめ普請所ニ相詰候か、石場ニ居候而振舞ニあろき申候か又ハ知行所へはいりくつろき申か、毎日よくよく見候而つきおき可申候、油断有間敷候事
(天守の裏の石垣は九月中に完成させるよう、皆に申し付けてある。惣右衛門ならびに年寄りどもは普請の現場につとめているか、石場で忙しく歩き回っているか、あるいは自分の知行所に入って楽をしていないかどうか、毎日丹念に調べて記録しておくように)(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、林家文書、訳は「甦れ!福岡城幻の天主閣」より)
・尚々、我等下国候はぬ已前に、天守どだい出来候様に精入れ申し付くべく候、権右衛門に申し遣わし候うち、石かきをも申し付くべく候、以上(慶長6年8月26日付 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)
・一、天守を此の月中に柱立て仕るべく候間、其の通り大工・奉行ともへ、かたく申し聞けべく候(年不詳(慶長7年か)2月15日付 黒田一成宛黒田長政書状)

(補足5)城中刷(修理)普請、大方出来の由、しかるべく候、このついでに天守・宗雪丸なとのつくろい申し付くべく由、尤もに候、大風吹き候事もこれあるべく候間、急度つくろい申すべく候、其れに就き、手伝の様子申し越す通り、其の意を成し候(慶長11年7月 黒田長政書状)

黒田孝高肖像画、崇福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
「博多往古図」、南が上なので右側の大きな入り江が「草ヶ江」、出展:福岡県立図書館

福岡城の構造

長政は、城とその地の名前を新たに「福岡」と名付けました。黒田氏のゆかりの地の備前国福岡にちなんだものと言われています。城が築かれた地区は、城部分(本丸・二の丸・三の丸)と城下(外郭・総構)に分かれていました。城下は、北は博多湾、東は那珂川(その向こうが博多)、西は大堀と、自然の要害に囲まれていました。城部分は城下の南側にあって、全体を内堀に囲まれていました。まるで堀に浮かぶ島のようになっていました。堀を渡った城への入口は3箇所のみで、正面の上之橋御門、下之橋御門、裏側の追廻御門でした。その出入りは「御門法」により厳しくチェックされていました。内堀は、中堀・佐賀堀を通して、那珂川・博多に接続していました。

「福岡御城下絵図」、出展:福岡県立図書館

門を入った先は、城では最も広く、低地にあった三の丸です。黒田孝高の隠居屋敷があった高屋敷とそれに続く石垣により、東西に二分されていました。東部は、江戸時代を通じて重臣たちの屋敷地となっていました。例えば、一番東端の「東の丸」と呼ばれた区画には、当初栗山備後の屋敷がありました。西部は、当初は中級以下の家臣の屋敷地(代官町)でしたが、1633年頃(寛永10年)頃に2代目藩主・黒田忠之が三の丸御殿を建てました。やがて重臣たちの屋敷や役所(勘定所など)も周りに建てられ、以後政治の中心地になります。近くにある下之橋大手門は、藩士たちの通用門として使われました。

北側から見た福岡城の模型、手前の広い部分が三の丸、福岡城むかし探訪館にて展示

丘陵部分に入ると、二の丸になります。二の丸は、東部・西部・南の丸・水の手に分かれていました。二の丸東部は、三の丸東部から入った場合の入口で、東御門がありました(脇に革櫓、近くに炭櫓)。当初は内部に二の丸御殿があり、藩主の世子の居住用だったと考えられています。やがて世子不在の時期が続き、取り壊されたようです。二の丸西部は、本丸へ通じる接続部分でした。二の丸東部からは扇坂御門、三の丸西部からは松木坂御門(脇に大組櫓・向櫓があり、下之橋大手門に近い)と桐木坂御門(追廻御門に近い)を通りました。内部には目立つ建物はなかったようです。水の手には、籠城用の溜池がありました。南の丸は、城代・城番がいた場所で、そこにあった多聞櫓は、城で唯一そのまま残っている櫓です。

上記模型の丘陵部分、外側がニの丸

本丸は、文字通り城の中心で最も高い所にあります(天守台上端で標高約36m)。北側には本丸御殿がありました。御殿に至るには、本丸表御門と本丸裏御門を通り、普段は裏御門を使っていたそうです。本丸御殿は、初代藩主・黒田長政が建て、そこに住んでいましたが、次の代からは手狭ということで儀礼・儀式の場になりました。御殿の周りには祈念櫓、月見櫓などがありました。南側には武具櫓・鉄砲櫓があって、武具櫓御門から出入りしました。鉄砲櫓には弾薬が、武具櫓には黒田家伝来の武具類などが収められていました。黒田長政は築城時に天守の守りのために30間の長さの櫓を建てると言っていて(下記補足6)これが武具櫓のことと考えられています。本丸の中心が天守台です。

(補足6)三十間に居矢倉立て候、天守之衛にて候(慶長6年9月朔日 家臣宛黒田長政書状、黒田家文書)

上記模型の本丸部分、西側からの視点です

果たして天守はあったのか

これまで、福岡城には天守がなかったと言われた時期がありました。福岡城の一番古い詳細絵図「正保福博惣図」、1646年・正保3年作成)に天守が描かれていないからです。現存する天守台は描かれています。また、福岡藩の公式史料(「黒田家譜」など)や地元の地誌(「筑前国続風土記」など)にも天守のことは記載されていません。これらのことから、天守台は築かれたが、幕府への遠慮により、天守は築かれなかったという見解が主流だったのです。

「正保福博惣図」、堀石垣保存施設にて展示

しかし、築城の部分でも触れた通り、天守の存在を示唆する史料が発見または再注目されています。まずは、福岡藩の隣の小倉藩・「細川家史料」です。藩主の細川忠利が、1620年(元和6年)に伝聞として、黒田長政が福岡城の天守を破却すると書いているのです(下記補足7)。

(補足7)
一.黒築前殿(黒田長政)行儀、二・三日以前二御目見被仕候(中略)、主居城をも、大かたはきやく(破却)被仕候而被参候様二、下々取沙汰申候、いつれに天主なとを、くつされ候事蹟必定之様二親候、定可被聞召存候事
(長政殿は二、三日前に将軍秀忠公に謁見なされた。(中略)居城をおおかた破壊されてから、また戻られるようだと下々は噂している。いずれにしても、天守はお壊しなさえれるに違いないと取り沙汰されている)
(元和6年3月15日細川忠利書状案、訳は「福岡城天守を復原する」より)
尚々(略)又ちく前縁辺今立、何とも取沙汰無御座候、ふく岡の天守、又家迄もくづし申候(中略)如右申付候よし被申上と承候

細川忠利肖像画、矢野吉重筆、永青文庫蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

また、黒田家側の史料にもそのようなものがあります。時期はわかりませんが、天守の欄干が腐ったという報告を受け、長政が調査と修繕を指示した記録があります。1623年(元和9年)に長政が亡くなるときには、遺言として伝来の「一の谷の兜」は天守にあると言っています(下記補足8)

(補足8)
高麗ニて我等着候一ノ谷ノ甲遣候、福岡天守二有之
(元和9年7月27日黒田長政遺言覚、諸家文書)

最近では、家臣(毛利氏)の家の資料から、天守の建設と石垣に関する記述がある書状が発見されました(下記補足9)。

(補足9)
石垣ノ石ハ名嶋ノ石を以、其刻ハ穴太無之、しろうとつきに仕、天守御立被成候故、石垣ヌルク御座候、(以下略)
(1640〜50年頃、毛利甚兵衛宛梶原正兵衛書状)

絵画史料もあります。長州藩の毛利氏の密偵が、1611、12年(慶長16、17年)頃スケッチしたとされる「九州諸城図」には、本丸御殿と思われる建物の左側に、4重に見える天守のような建物が描かれています。また、1668年(寛文8年)に作られた「西国筋海陸絵図」には、5重の天守が描かれています。(但し作成時期が、天守がない「正保福博惣図」より後なので想像図の可能性あり、または以前にあった情報を引き継いだ可能性もあり)

「九州諸城図」、NetIB-Newsより引用
「西国筋海陸絵図」、出展:国立国会図書館

これらを証拠として、天守の存在に肯定的な学者などは、天守は築城時に建てられたが、1620年頃解体されたと推定しています。

天守の存在と解体が正しいとすれば、なぜ長政はせっかく建てた天守を短期間で壊してしまったのでしょうか。そのカギも細川家の記録にあります。長政は、当時幕府から命じられていた大坂城再建に動員されていて、その工事の遅れを挽回するために、福岡城を解体して材料調達すると言ったというのです(下記補足10)。

(補足10)
一、黒筑手廻おくれられ候と、其元にて申候由候、ふくおかの城をくつし、石垣も、天主ものほせられ候由、愛元ニ申候、如何様替たる仁ニ候間、可為其分、乍去、別之儀有間敷候事
(元和6年月日不詳 細川忠興書状、松井家史料)

前述の通り、黒田と細川は対立していたので、細川は長政を冷やかな目で観察していたのです。長政はそのとき、自ら追加の工事負担を幕府に願い出ていたので、「変わった人」だと評しています(下記補足11)。

(補足11)
一、黒筑城を割被申候事、又御普請ニ事之外をく(遅)れられ候が、高石垣七十間分望被申之由、兎角奇特なる儀と存寄外無別候事                       (元和6年3月29日細川忠興書状、細川家史料)

現在の大坂城天守

また、それ以前には、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣の豊臣氏滅亡、同年の一国一城令、1619年(元和5年)には城の無断改修を理由とした福島正則の改易という出来事がありました。正則と同様に、外様の大大名であった長政が、自身の家の存続に過敏に対応したということが考えられます。

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

こうなってくると、天守の存在は明確になったようですが、事は少々複雑です。天守に連結された櫓があって、それを「小天守」などと呼ぶ場合、一番高層の建物を「大天守」と呼び、一般的にはそれが「天守」とされます。実は福岡城の天守台にも「中天守台」「小天守台」と呼ばれる部分があります。(江戸時代に「小天守台」と記載された記録あり)これまで福岡城で「天守」と言ってきたのは、これらの上に築かれた「中天守」「小天守」のことを指すという説があるのです(服部英雄氏による)。「天守があった」とは「大天守があった」という解釈でしょうから、そういう意味でこの説では「天守はなかった」ことになります。

姫路城の大天守と小天守

その根拠を時間の経過に沿って示すと、まず、先ほどの細川家の記録には、「天守を破却する」という伝聞に対する結果の記述が全くありません。その代わりに、1638年(寛永15年)に天守台周りの櫓を取り除いたという記録があるのです(下記補足12)。これは、1635年(寛永12年)にこの地方を襲った大型台風の被害による可能性があります。

(補足12)
御天守台廻り之御矢倉長屋御除候(三奈木黒田文書、九州大学・桧垣文庫)

そしてその結果が「正保福博惣図」に表されているというのです。「大天守」のあるべき位置には単に「天守台」としか書かれていない一方、「矢倉」が除去された中小天守台他には「矢蔵跡」と記載されています。つまり建物があった所は「跡」とし、なかった所は単に「天守台」としたとの解釈です。そして福岡藩はこれらの存在した建物(中天守・小天守)を幕府向けには「櫓(矢倉・矢蔵)」とし、内輪では「天守」と呼んだのです。

「正保福博惣図」の天守台部分

このような天守台の部分使用は、三原城篠山城などに見ることができます。福岡藩でもこの後、天守台脇に小さな天守櫓を建てたり、大天守台を蔵として使いました。大天守を建てなかったのは、コストと必要性を鑑みたものと考えられます。

篠山城模型の天守台部分、篠山城大書院展示室にて展示

今年(2025年)は、天守台の発掘調査が行われる予定です。大天守の存在についての研究進むよう、大いに期待したいところです。

仮に、大天守の存在が明らかになったとしても「復元」にはまだまだハードルがあります。どのような建物であったか確定することが必要です。福岡城跡は国の史跡なので、建物復元には文化庁の許可が要るのです。その基準は「史実に忠実な再現」を求める大変厳しいものでしたが、最近では「復元的整備」として、一部の不明な部分を多角的に検証して再現することも認められています。福岡城(大)天守の「復元的整備」をめざす人たちは、藩の家格などから、5重天守であったと推定し提案していますが、
実態としてまだ資料不足のようです。実際の建築段階では、一番大事な現存する天守台をどう保護・保存するのかも重要な課題となります。

更に、建物の仕様が決まったとしても、それが地元の人たちに受け入れられることも必要です。福岡商工会議所が市民に実施したアンケートによると、
・「賛成」「どちらかというと賛成」と回答した人が59.1%
・「反対」「どちらかというと反対」と答えた人が14.4%
・「分からない」と答えた人は26.5%
肯定的回答が6割近くになりましたが、そのうちの76%が、「過去に存在したものにできるだけ忠実なもの」を求めています。この辺も大きな課題になりそうです。

余程の大きな発見や基準の変更がない限り、天守「復元」には相当な時間がかかりそうです。

福岡城のその後

福岡城は江戸時代、ずっと黒田氏の福岡藩によって維持されました。その間に起こった大事件といえば「黒田騒動」でしょう。2代藩主・忠之と、重臣の栗山大膳が対立し、大膳が、三の丸の屋敷に武装して立て籠もったのです。大膳の追放という幕府の裁定で収まったのですが、実態としては、藩主の素行に問題があったようです。

黒田忠之肖像画、福岡市美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
栗山利章(大膳)肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つ城関連の話題として「天守櫓」をご紹介します。天守台の建物が亡くなってしまった後、天守台脇にある区画が「天守曲輪」となり、そこにある小さな櫓が「天守櫓」と呼ばれるようになったのです。その曲輪に入るにはとても狭い門(鉄御門、埋門)を通らなければならず、門(鉄御門)の上には「切腹櫓」と呼ばれた櫓もあったそうです。つまり、その曲輪は、城での最後の戦いの場とされたようなのです。

鉄御門跡
埋御門跡

明治維新後、福岡城は廃城となり、その広大な敷地は主に日本陸軍によって使われました。城の建物は、ほとんどが解体されるか売却されていきました。例えば、本丸にあった武具櫓は、黒田家のお屋敷に移築されましたが、戦争中の空襲で焼けてしまいました。一方、南の丸にあった多門櫓は、もともと倉庫として使われ、兵舎や、学校の寮として引き継がれ、同じ場所で生き延びたのです。

武具櫓の古写真、「国史跡福岡城跡整備基本計画」より引用
現存する南丸多聞櫓

戦後、城跡は舞鶴公園、大濠公園となり、多くの文化施設、スポーツ施設が建てられました。その中では、三の丸にあった平和台球場が有名です。今、その場所で鴻臚館の復元整備を行っています。福岡市は、両公園を統合したセントラルパーク構想を進めていて、そこには、福岡城の史跡整備・復元も含まれています。

舞鶴公園の入口の一つ
大濠公園
平和台球場のレリーフ

「福岡城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

71. 福山城 その2

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、福山駅福山城口(北口)の前からスタートします。この場所は、昔は城の三の丸だったので、振り返ると二の丸の高石垣がどーんと迫ってきます。三の丸は平地にあったので、今はすっかり市街地になっていますが、山の上にあった本丸、二の丸が「福山城公園」として残っています。本丸まで簡単にアクセスできますが、いくつかあるコースのうち、お城らしさをより感じられる南側階段ルートを行ってみます。

福山駅福山城口
二の丸の高石垣

ところで、その石垣の周りに堀は見られません。堀はみんな埋められてしまったのです。この駅前の広場(北口広場)が内堀の名残となっています。

広場では、内張が水辺として再現されています

駅近なので いきなり本丸へ

それでは、内堀を乗り越えるつもりで、二の丸の石垣沿いを歩いてみましょう。石垣の石が変色していますが、これは第二次世界大戦での空襲の火災で焼けた痕なのだそうです。歩いてみると、迫力を感じます。現代のビルにも負けていない感じです。

二の丸石垣

現代に作られた石段を登っていくと、どっしりとした伏見櫓が急に現れます。空襲を生き延びた現存建物の一つで、国の重要文化財に指定されています。その前は伏見城にあったことを示す刻印(「松ノ丸ノ東やくら」)も発見されています。つまり、言い伝えだけでなく、証明されているわけです。伏見城は3代あって、この櫓は3代目のものだろうと言われていますが、転用材が多く、地震の跡急拵えした2代目のものではないかという意見もあります(愛媛大学社会共創学部紀要「福山城伏見櫓に関する考察」)。

伏見櫓

先に進むと、これも現存している、本丸の正門・筋鉄御門(すじがねごもん、国の重要文化財)が控えています。敵だったら、伏見櫓と挟まれて、攻撃されそうです。こちらも伏見城から移されたと言われていて、名前の通り、その扉は筋金入りなのです。さすが本丸の正門だけのことはあります。

筋鉄御門
筋金入りの扉

本丸に入ると、伏見御殿跡があります。これも伏見城からの移築とされています。天守が向こうに見えます。

伏見御殿跡
外観復元天守

本丸には、もう一つ、現存建物があって、それが鐘櫓(かねやぐら、福山市重要文化財)です。「時の鐘」として城下に時間を知らせていたのですが、今でも自動で鳴っているそうです。

鐘櫓

二の丸を歩いてみよう

今度は、本丸下の二の丸をぐるりと歩いて、天守の裏側と本丸の搦手門(棗門)に回り込んでみます。まずは本丸の、復元された御湯殿を見上げてみましょう。これも元は伏見城からの移築と言われています。蒸し風呂(サウナ)と、せりだした座敷(物見の間)のセットになっています。ただし、時代によって間取りは異なっていたようです。本丸側からでは正直よくわからなかったのですが、二の丸側から見ると目立ちます。こういう造りを「懸け造り」といって、城郭建築では珍しい事例です。

御湯殿(二の丸側)
御湯殿(本丸側)

次に進むと、角のところに櫓が見えます。外観復元された月見櫓で、現在は貸会場や、   「キャッスルステイ」の宿泊場所になっているそうです。城も多角化の時代です。

月見櫓

角を曲がって見えるのが、もう一つの外観復元された「鏡櫓」です。現在は「文書館」として使われています。

鏡櫓

更に進むと、公園の入口がまたあります。「東側階段ルート」で、北側や南側より緩やかになっています。現代になって 作られた通路です。

東側階段ルート

その脇には別の入口もあります。こちらが城のオリジナルの門跡です(東上り楯門跡)。ただし、本丸に直通はしていません。せっかくなので、こちらに進みましょう。

東上り楯門跡

そして、二の丸を回り込むと、外観復元天守の北側が見えるところに至り、黒い鉄板張りの面がよく見えます。この鉄板張りは、北側の防御のためとも、風雨への備えとも言われています。オリジナル天守の資料を参考に、現在の天守リニューアル(2022年)のときに復元されました。

外観復元天守(北側鉄板張り)
オリジナル天守の北側鉄板張りの古写真、現地説明パネルより

その先の、本丸搦手門(棗門)を通って行けば、天守の表側に到着します。

搦手門付近から見た天守

天守の中は歴史博物館になっていて、外観と一緒にリニューアルされました。水野勝成の放浪時代についての展示もあります(撮影できる範囲は限られています)。

天守内部の展示の一例
水野勝成のコーナー

最上階からは街を展望できます。南側は先ほど見学した本丸です。次は、北側に向かってみます。

天守からの眺め(東側)
天守からの眺め(南側)
天守からの眺め(北側)
天守からの眺め(北側)

城の弱点? 北側を歩く

これから、城の北側が弱点ということで、幕末に長州軍が大砲を放ったという、円照寺がある山に行ってみます。その途中では、長州軍と福山城兵が戦った場所という赤門や、水野勝成が上水道の水を溜めるために作った蓮池を、見学するといいと思います。

赤門、福山市HPより引用
蓮池

円照寺の標柱があるところから登っていきます。

山への登り口

寺の入口がありますが、まだ登り道が続きます。

円照寺入口

上の方は神社になっています(本庄八幡神社)。

本庄八幡神社

境内の奥の方が開けています。

境内の脇に進みます

この辺が頂上のようです。城は見えるでしょうか。

頂上付近

なんとか見えました、ツートンカラーの天守です。

円照寺山から見える天守

福山の歴史スポット巡り(関連史跡)

鞆の浦

最初の関連史跡として、鞆の浦(鞆ノ津)に来てみました。鞆の浦のシンボルとして常夜灯が有名です。また、古い町並みが残っていることでも知られています。

常夜灯
古い町並み

史跡としては、江戸時代に港として使われた、5つのアイテム(常夜灯、雁木、波止、船番所、焚場)が残っていることがとても貴重なのです。常夜灯は、そのうちの一つです。

雁木
波止
船番所
焚場(たでば、ドッグのような施設)

こちらは、鞆城跡です、江戸時代には奉行所が置かれていました。今は、歴史民俗資料館の敷地になっています。やはりここはいい場所で、鞆の浦全体を見渡すことができます。

鞆城跡
鞆の浦歴史民俗資料館
鞆城跡からの眺め

おすすめは、朝鮮通信使が宿泊した場所の一つ、福禅寺です。境内の対潮楼からの景色は「日本で一番美しい景勝地(日東第一形勝)」として賞賛されました。柱が額縁みたいで、絵になる風景です。

福禅寺
対潮楼からの眺め

草戸千軒

次のスポットは、中世の港町・草戸千軒跡です。ここは、近くにある明王院です。背景の五重塔・本堂は、鎌倉・室町時代に建てられたもので、国宝に指定されています。草戸千軒の町と同じ頃から存在していました。当時は常福寺といって、草戸千軒はその門前町でもあったそうです。

明王院

町は、ここから見える芦田川の中州あたりにありました。当時、川は別の所を流れていて、町は三角州の上にあったようです。環境の変化(自然及び社会)によって町が消滅し、伝説的存在になっていましたが、芦田川の改修作業中に遺跡が見つかり、発掘されたのです。幻の町が発見されたのです。でも、川の中の遺跡には行けません。

草戸千軒町遺跡

そこで、現地で発掘されたものや、研究の成果が、福山城近くの広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)で展示されています。

広島県立歴史博物館
発掘・展示されている遺物(貯蔵用の陶器)
発掘・展示されている遺物(建築部材の一つ、壁木舞)
発掘・展示されている遺物(舶来磁器)
発掘・展示されている遺物(信仰に関するもの)

それらを基に、復原された町並みを歩いてみることもできます。草戸千軒は地域の港町だったので、こういう町がいろんな所にあったのでしょう。

復原された町並み

神辺城

最後は、神辺城跡です。福山城の前にあった城です。黄葉山(こうようざん)という山の上に築かれましたが、近くに神辺歴史民俗資料館があって、山頂近くまで車で上がってくることができます。

神辺歴史民俗資料館
資料館の駐車場

さっそく城跡に進みましょう。山道をまっすぐ進むと、鬼門櫓跡に着きます。景色がよくて、周辺一帯を見渡すことができます。このあたりは、備後国分寺が置かれるなど、古代から栄えた場所だったのです。

鬼門櫓跡
備後国分寺の模型、神辺歴史民俗資料館にて展示

それでは、本丸に向かいましょう。今は曲輪の敷地が残っているだけです。しかし福島正則の領地だったときには、石垣の上に神辺一番櫓(天守)がありました。福山城築城時に石垣と一緒に移されたのです。福山城にその跡があります。神辺城本丸の回りには、わずかながら石垣が残っています。

本丸
福山城に移された神辺一番櫓の古写真、福山城現地説明パネルより
福山城の神辺一番櫓跡
神辺城本丸周りに残る石垣

本丸下には段状に曲輪が続いています。それぞれに「二番櫓」「三番櫓」「四番櫓」があって、これらも福山城に移されました。山の上にこんなに櫓が並んでいたのです。

本丸下に続く曲輪群
神辺城の二番櫓跡
福山城の神辺二番櫓跡
神辺城想像図、現地説明パネルより

こちら側の景色もいいです。この城は、この辺りでは最適の拠点だったことがわかります。

三番櫓跡からの眺め

私の感想

神辺城を見てから再認識したのですが、福山城は、ただ新しいお城として作られたのではなく、新しい町と土地を開発するために築かれたのではないでしょうか。現地に行って感じることがとても大事だと、改めて思いました。

ライトアップされた伏見櫓
ライトアップされた御湯殿
ライトアップされた天守

リンク、参考情報

福山城博物館
広島県立歴史博物館(ふくやま草戸千軒ミュージアム)
福山の郷土史、大和建設株式会社
御湯殿の変遷について、備後歴史訪訪倶楽部
・「放浪武者 水野勝成/森本繁著」洋泉社
・「初代刈谷藩主 水野勝成展」刈谷市歴史博物館
・「中世瀬戸内の港町 草戸千軒町遺跡 改訂版/鈴木康之著」新泉社
・「新版 福山城」福山市文化財協会
・「シリーズ藩物語 福山藩/八幡浩二著」現代書館
・「阿部正弘/後藤敦史著」戎光祥選書ソレイユ
・「青年宰相 阿部正方」福山城博物館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「史跡福山城跡整備基本計画」2020年10月28日 福山市教育委員会
・「福山城伏見櫓に関する考察/佐藤大規氏論文」愛媛大学社会共創学部紀要第7巻第2号

「福山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

27.Ueda Castle Part2

This article will start from Ueda Station which the bullet trains stop and it is a very popular destination. The center of Ueda Castle has become Ueda Castle Ruins Park, about 1km away from the station. However, the castle was larger than the park, which means we will see other attractions of the castle on the way from the station.

Features

Introduction

This article will start from Ueda Station which the bullet trains stop and it is a very popular destination. The center of Ueda Castle has become Ueda Castle Ruins Park, about 1km away from the station. However, the castle was larger than the park, which means we will see other attractions of the castle on the way from the station. Atter arriving at the park, we will next see the main enclosure with the remaining turrets and natural hazards for the castle such as “Amagafuchi”. We will finally visit some sites regarding the battles of Ueda; Toishi Castle Ruins and Kangawa River, which are little far away from Ueda Castle.

Ueda Station

Attractions in the Town

Let us first go along the street in front of the station after you exit the Oshiro-guchi exit of the station.

The street in front of the station

Turn left at the “Chuo-Nichome” intersection, then you will walk on the Ote-dori Street.

The “Chuo-Nichome” intersection
The Ote-dori Street

You will soon see the street winding down, which is the ruins of the main gate. This spot is said to have been one of the battle grounds during the battles of Ueda. It used to be surrounded by stone walls and moats, forming a defensive square space, called Masugata during the Edo Period. However, it was also said that the gate didn’t have buildings because of the cancelation of the reconstruction by Tadamasa Sengoku.

The ruins of the main gate; I recommend crossing the street to access the small park.  Please be careful when crossing the street since there are no traffic lights
The display of the third enclosure which had the main gate; The sign says this is the 3rd enclosure of Ueda Castle where The Battle of Ueda took place

There are the ruins of the residence for the lords of the Ueda Domain since Nobuyuki Sanada was in power, which is now used as a high school. Its front gate and earthen walls and water moats have survived. However, if you look at the corner of the earthen walls, you will notice the corner lacks an edge. The reason for this will be explained in the later parts.

The ruins of the residence (the remaining gate); Unfortunately, the gates were closed that day because it was a holiday.  Normally the gates are open for high school students
The remaining earthen walls and water moats; When it’s spring, or summer you will see lotus flowers on the water

As we continue to walk towards the park, there are the ruins of another residence, called Naka-yashiki. It has been turned into an elementary school, where only the base of the residence has survived. Historians point out that the residence might have been used by Masayuki Sanada, the founder of the castle.

The ruins of the Naka-yashiki residence

When you get close to the park, you will also find the ruins of the domain school, called “Meirindo”.

The ruins of the domain school

Visiting the Second and Main Enclosures

Let us go across the bridge over the moat to enter the eastern entrance of the second enclosure, which is also the park entrance.

The bridge to the entrance of the park

If you look at the inside, you will see the turrets of the main enclosure on the left over there. Visitors can go straight there through the second enclosure today. However, visitors in the past were not able to do so due to the Masugata system at the entrance. In addition, there was a large moat, called “Sanjikken-bori” and the waiting area for the warriors, called “Musha-damari”, in the enclosure to avoid the visitors from walking straight. The officials are currently researching the areas in order to restore the Musha-damari in the future.

The entrance which had the Masugata system; The front used to be the old location for the Masugata.  In the back where you see red cones will be the future location of the Musah-damari
The Musha-damari area which is being researched
The displays about the future restoration

The eastern entrance of the main enclosure has become a viewing spot of the castle. There is the restored turret gate between the remaining southern turret on the left and northern turret on the right.

The southern turret on the left, the turret gat on the center, and the northern turret on the right; The sign on the left have cutouts for faces where visitors can stick their head out and pretend to be a samurai

There is also the largest stone of the castle beside the gate, called “Sanada-ishi(stone)”. its name came from a folklore which says when Nobuyuki Sanada wanted to leave the castle with this stone, but it was too heavy for him to carry. However, historians speculate that the stone walls including it were built by Tadamasa Sengoku.

The Sadada-ishi Stone

If you enter the gate, you will eventually see the Sanada Shrine in the front. The shrine worships not only the Sanada Clan but also the Sengoku and Matsudaira Clans.

The Sanada Shrine

You can also see the other remaining western turret in the back of the shrine. It was once the only remaining building of the castle. It looks like it is still hanging on the cliffs. If you stand by the turret, the view with the cliffs opens up so that you will better understand the location of the castle.

The western turret
The view from the turret

Let us next got to the center of the main enclosure. There were no buildings in the center from the beginning.

The center of the enclosure
Autumn leaves in the enclosure; In the Spring, visitors will be able to see cherry blossoms instead of the Japanese maple tree

There were 7 turrets around the enclosure. In fact, there were 2 turrets at the northeastern corner of the enclosure. These two were built close to each other but unfortunately, they didn’t survive. The method was not effective for the defensive system. In addition, no one knows their original names.

The ruins of the first turret at the comer
The ruins of the second turret at the comer

There was one turret at the northwestern corner of the enclosure. The rooftiles with golden leaves were found in the moats nearby. That means there might have been the main tower there during the Sanada Period.

The ruins of the northwestern turret
The rooftiles were found around the corner

Let us go out of the enclosure and walk around it in order to solve the question of why there were two turrets at the northeastern corner. We will go through the western entrance of the enclosure. It also had the Masugata system. If you walk along the water moat of the enclosure, you will notice the enclosure is the highest enclosure in the castle.

The western entrance of the main enclosure
The water moat of the main enclosure at its northwestern corner

When we arrive at the northeastern corner of the moat, you will find the corner of the main enclosure lacks an edge. This system is called “Sumi-otoshi” which means “lack of the corner”. It is said that the system originated from a tradition that misfortunes come from the northeastern direction. People believed that the shape of the northeastern corner would avoid the misfortunes. The system is one of the features of Ueda Castle. The lacking of the edge of the corner of the residence ruins we saw also came from it. If you look at the illustration of the castle during the Edo Period, you will notice several areas lacking edges at the same direction.

The “Sumi-otoshi” system at the northeastern corner of the main enclosure
Part of the illustration of Ueda Castle in Shinano Province, exhibited by National Archives of Japan

The remaining Natural Hazards

Let us next visit where we can see the castle was built using natural hazards. We will walk down from beside the bridge we first entered to the bottom of the dry moat under the bridge. The bottom has been converted to a good straight pavement which originates from a railway during the Showa Era. If you turn right at the edge of the pavement, you will come the cliff area of the southern part of the castle. The cliffs faced a branch of Chikuma River, called “Amagafuchi”. They are about 12m high and 3 layered. The layers have different terrains which were made from volcanic activities and river flows, which make the cliffs vulnerable.

The tunnel under the bridge to the entrance of the park
The pavement on the bottom of the moat
The cliffs on the southern part of the castle

We will eventually arrive at a large square where the branch of Chikuma River flowed. You will be able to see the entire cliff area from there. It was said that after the great flood in 1732, the main flow of Chikuma River might have flowed there, too. The Ueda Domain built the remaining stone walls covering the cliffs in order to maintain them and protect the shore. The river was moved to its original position and the Amagafuchi area turned dry due to the modern constructions during the Taisho Era.

The whole view of the Amagafuchi area

For example, if you look at the stone walls under the southern turret of the main enclosure, you will notice they have three tiers. The upper tier was first built as the turret base. The lower tier was built next as the shore protection. The middle tier was finally built in order to maintain the cliffs. However, the surface of the cliffs is not flat, so the builders were not able to cover all of them. In addition, the builders also had to rebuild the walls several times because they kept collapsing. The original cliffs are partially covered with mortar by the recent repairs.

The stone walls under the southern turret

We will next walk towards the western part of the cliffs. You can see the western turret of the main enclosure is still errected alone on the cliffs.

The stone walls widely cover the cliffs
Looking up at the western turret

Three are other natural hazards around the castle such as the former large moats. One of them is the ruins of Hiro-hori, which means “large moat” outside of the ruins of the western entrance on the second enclosure. However, the moat has been turned into a baseball field.

The ruins of Hiro-hori moat

The other moat was outside of the northern entrance of the second enclosure. The entrance still has stone walls. The walls were restored recently using the few remaining original stones.

The northern entrance of the second enclosure; You’ll notice the stone walls have a blue color because of recent modern construction

The moat was called Hyakken-bori, which means “180m wide moat”. (Hyaku = 100, ken = 1.8m, a traditional Japanese measurement unit, and bori = moat) It has become a huge playground. These grounds had originally been rivers and were turned into the moats.

The ruins of Hyakken-bori moat

The places related to Battles of Ueda

Let me introduce other few places related to the battles of Ueda. One of them is the ruins of Toishi Castle. The site is about 7km away from Ueda Castle, so it may be better for you to use a car to get there. Nobuyuki Sanada used Toishi Castle during the first battle of Ueda. His brother, Nobushige used it as well during the second battle of Ueda. The castle has always been important, even before their time. For example, Shingen Takeda wanted to capture the castle where Yoshikiyo Murakami lived. However, Shingen was defeated badly, this was often referred to as “Toishi-kuzure” which means “collapsing at Toishi”. After that, Yukitaka Sanada, who was the founder of the clan and began working under Shingen, managed to quickly capture the castle by conspiracy. This incident enabled the clown to prosper later on.

The distant view of Toishi Castle Ruins

Toishi Castle was very large, in fact, it was the aggregate of 4 smaller castles: Komeyama, Toishi, Honjo and Masugata. This time, let us visit one of them, the small Toishi Castle because it is the highest of the 4 smaller castles where we would see Ueda Castle clearly.

The explanation of the 4 smaller castles on the signboard at the site; On the map, you’ll noticed dotted lines that show you the hiking trail

From the parking lot at the foot of the mountain, we will next enter the imitation turret gate to go on the trail.

The imitation turret gate

After climbing for a while, we will arrive at the fork to the Komeyama Castle and Toishi Castle. This is where you turn right.

The fork to the Komeyama Castle and Toishi Castle

We need to continue to climb long steep slopes to get there. The slopes were probably part of the castle’s defensive system.

The long steep slopes to Toishi Castle

We will eventually see something like a gate and steps which are made of stones. They are likely to have been an entrance of the mountain castle.

Is this really an entrance?

We will soon get there.

We are close to the top

We have reached the top!

The top of Toishi Castle Ruins

Can we see Ueda Castle from the top?

The view from the top

I think Ueda castle is in the area covered with trees in front of the chimney of the waste treatment facility.

The area around Ueda Castle; It’s hard to see, but in the distance, you will see a chimney with smoke coming out, this is basically Ueda Castle Park

We will finally visit the area around Kangawa River where the severe battle happened during the first battle of Ueda. There is also Shinano-Kokubunji Temple where Nobuyuki Sanada of the Eastern Allies along his father, Masayuki of the Western Allies met during the second battle of Ueda.

Shinano-Kokubunji Temple
The stone monument of the meeting between Nobuyuki and Masayuki

We have reached Kangawa River but unfortunately it’s getting dark. The river flows from the area near Toishi Castle to Chikuma River. That meant it was one of the most important defensive lines for Ueda Caste although it looks nothing special now.

Kangawa River

That’s all. Thank you.

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