96.飫肥城 その1

伊東氏が守り続けた城

立地と歴史

当初は島津氏が所有

宮崎県南部にある日南市飫肥(おび)地区は、人気のある観光地です。九州の小京都とも言われています。古い城下町の雰囲気を残していて、1950年以来、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。飫肥杉や、さつま芋を原料とした焼酎などの名産品もあります。実はこれらの名産品は、飫肥城と飫肥藩の長く、しかも過酷な歴史から生まれたとも言えるのです。

日南市の範囲と城の位置

DSC_0101
飫肥城旧本丸に生えている飫肥杉

14世紀ころ、地元領主が最初に飫肥城を築城したと言われていますが、その詳細はわかっていません。15世紀後半から16世紀末までの戦国時代の間、日向国(現在の宮崎県)の南部地域は、北からの伊東氏と南からの島津氏の抗争の地となりました。当時は島津氏がこの地を確保していて、伊東氏の侵入を防ぐために、1458年には飫肥城を改修しました。

南九州型城郭の一つ

飫肥城は、もともと南九州型城郭の一つでした。このタイプの城郭は、古代の噴火による火山灰が積もってできたシラス台地を加工して築かれました。その土壌はもろく、容易に崩れて崖を形成します。この地域の武士たちはこの地理的な特徴を生かして、自身の城を築きました。この自然の地形を加工すれば、容易に強力な防御システムを構築できたからです。例えば、彼らは台地の土壌を削って、深い空堀、曲輪下の高い壁、入り口を細くした関門を築きました。このタイプの代表的なものとしては、知覧城志布志城佐土原城、そして飫肥城が挙げられます。また、飫肥城の場合には、酒谷川(さかたにがわ)が蛇行しながら台地を囲んでいて、自然の堀となっていました。

知覧城跡 (licensed by PIXTA)
志布志城の模型、志布志市埋蔵文化財センターにて展示
佐土原城跡

城周辺の起伏地図

伊東氏の栄光と凋落

伊東氏は、1484年に飫肥城の攻撃を始め、その後城を巡って長い戦いとなりました。16世紀中頃の当主であった伊東義祐(いとうよしすけ)は果敢に攻撃し、1569年にはついに城を落とし、子息の祐兵(すけたけ)を城主として送り込みました。この頃が義祐の絶頂期で、日向国で48もの城を支配していました。ところが栄光は長く続かず、1573年の木崎原の戦いで島津氏に敗れたことをきっかけに、飫肥城を含む48城を一つ一つ失っていきました。1577年には島津軍は、伊東一族を日向国から北の豊後国に逃亡させ、これは伊東崩れと呼ばれました。伊東一族は全てを失い、ついには漂泊することになりました。義祐は1585年にその漂泊の最中に亡くなります。

伊東義祐肖像画、「堺市史 第七巻」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
伊東祐兵の肖像画、日南市教育委員会所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

伊東氏がカムバックし長く統治

この大不幸の後、義祐の息子、祐兵は偶然1582年に、後に天下人の豊臣秀吉となる羽柴秀吉に仕官しました。これは祐兵にとって大変な幸運でした。秀吉が1586年に、島津氏がほとんど制覇していた九州地方に侵攻したとき、祐岳は秀吉の道案内を勤めたのです。島津氏は秀吉に降伏することになりました。秀吉への貢献により、祐兵はついに1588年、飫肥城に城主として戻ってきました。島津氏とのこの城を巡る戦いに100年以上を要したことになります。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

日本の支配者は豊臣氏から徳川幕府に変わっていきましたが、伊東氏は何とか飫肥の領地を維持することができました。その結果、伊東氏による飫肥藩は300年近くこの地にあり続けました。しかし、事情は単純ではありませんでした。島津氏による薩摩藩は密かに隠密を飫肥に派遣し、飫肥城がどのようになっているのか調べていたのです。状況が変われば、伊東氏から飫肥城を取り返そうと考えていたようです。一方、伊東氏もまた飫肥が唯一最後の居場所と考えていたようで、地道に城や城下町を改良していきました。一例として、17世紀後半には頂上の本丸が地震により崩壊しました。地盤であるシラス台地が軟弱だったからです。飫肥藩は、新しい本丸を旧本丸の下の方に再建したのですが、両方とも堅固な石垣を築くことで強化したのです。また、杉の植林とさつま芋の栽培を人々に奨励し、藩の継続のための産業化を図りました。

飫肥城跡(大手門)
旧本丸の石垣

「飫肥城その2」に続きます。

118.Oshi Castle Part3

Other attractions around Oshi Castle

Features

Ishida Bank

I recommend visiting some historical spots near the castle regarding the Battle of Oshi Castle. One of them is Ishida Bank Ruins, about 4km away from Oshi Castle Ruins in the southeastern direction. The bank is the nearly 300m remaining one out of the 28km banks Mitsunari Ishida originally built when the battle happened.

The map around the Ishida Bank

The Ishida Bank Ruins
The monument of the bank, built at the end of the Edo Period

It goes along a river in the north and a road in the south, with some pine trees planted on it, which show it is an old road. The road was actually a byway of Nikko Road during the Edo Period and is said to have been on the major Nanasendo Road before the period.

The river in the north
The pine trees planted on the bank and the road in the south

The Horikiri-bashi Bridge over the river at the edge of the remaining bank is also said to be the place where the defenders of Oshi Castle cut and drained the water inside the bank against Mitsunari.

The Horikiri-bashi Bridge

Sakitama Ancient Burial Mounds

Another recommendation is to visit the Sakitama Ancient Burial Mounds which were built between the 5th and 7th Centuries, much earlier than Oshi Castle, but some of them are related to it. Maruhakayama-Kofun or the Round Burial Mountain was one of them and the largest round burial mound in Japan, which is 17m high and its diameter is 105m. When the Battle of Oshi Castle happened, Mitsunari put his stronghold on the mound and instructed the bank construction. You can see the top of the rebuilt three-level turret of Oshi Castle from the top of the mound, where could have been a good place for Mitsunari to see the situation of the inundation tactics. The approach to the mound is also said to have been another Ishida Bank Ruins.

The aerial photo around the Sakitama Ancient Burial Mounds

The Maruhakayama Ancient Burial Mound
The top area of the ancient burial mound
A view from the top of the direction of Oshi Castle
A view of the three-level turret, being zoomed in
The approach to the mound

In addition, Teppoyama-Kofun or the Gun Burial Mountain was involved in the history of the Oshi Domain at the end of the Edo Period. They cut one side of the mound to train their gunnery skill to prepare for their responsibility for protecting Shinagawa Batteries on Edo Bay.

The Teppoyama Ancient Burial Mound
The ground plan of the ancient burial mound, from the signboard at the site, the dark blue part was the training area

Later History

After the Meiji Restoration, Oshi Castle was abandoned and its water area was turned into a modern park with office buildings but being filled in. It could be needed for modernizing the city. The city was called Gyoda, named after the district which manufactured Japanese socks, Tabi and prospered.

An example of the Gyoda Tabi socks (licensed by katorisi via Wikimedia Commons)
The reproduced manufacturing site of Tabi, exhibited by the Gyoda City Local Museum
One of the remaining Tabi warehouses in the city

The park once had a baseball stadium, officials replaced it with Gyoda City Local Museum whose building looks like The Three-Level Turret the castle had. Some other buildings like a bell-tower, gates and walls were also restored around it, making them the city’s attractions.

The aerial photo around the Main Enclosure in the 1970’s

The current Main Enclosure
The entrance of Gyoda City Local Museum

My Impression

The result of the Battle of Oshi Castle has been said to be the only failure of Hideyoshi Toyotomi during the invasion to the Kanto Region to complete his unification of Japan in 1590, which was blamed to Mitsunari Ishida who was a foolish general. However, I think the reputation comes from being wise after the event that Mitsunari was defeated by Ieyasu Tokugawa in the Battle of Sekigahara in 1600. It is not fair. Mitsunari was the faithful executor of Hideyoshi’s order in the battle, being successful in surrounding the castle. If the defenders were not instructed by Nagachika Narita, but a magistrate from the Hojo Clan, they might have soon surrendered to Mitsunari. I think the Battle of Oshi Castle was an excellent match where Nagachika and Mitsunari took on each other.

The family crest of the Narita Clan, called Maru-ni-mitsuhiki or Three horizonal lines inside a Circle, exhibited by the Gyoda City Local Museum
The Ishida Bank Ruins seen from the Horikiri-bashi Bridge

How to get There

If you want to go there by car, it is about 30 minutes from Kazo IC or Hanyu IC on the Tohoku Expressway. there are a few parking lots around the castle ruins. It may be better to use a car if you also want to visit Ishida Bank Ruins or the Sakitama Ancient Burial Mounds as well.
By public transportation, it takes about 15 minutes on foot from Gyodashi Station on Tobu line to get to the castle ruins.
From Tokyo to Gyodashi Station: Take the Joetsu Shinkansen super express and transfer to Tobu line at Kumagaya Station.

The parking lot of Gyoda City Local Museum with the monument of the Main Enclosure

That’s all. Thank you.
Back to “Oshi Castle Part1”
Back to “Oshi Castle Part2”

118.忍城 その3

忍城周辺のお勧めスポット

特徴、見どころ

石田堤

石田堤周辺の地図

城の近くにある、忍城の戦いに関する歴史スポットにも行かれてはいかがでしょうか。一つは石田堤跡で、忍城跡から南東に約4km離れたところにあります。その戦いのときに石田三成が築いた28kmあったとも言われる堤のうち、一部分の300m近くが残っています。

堤沿いにある「石田堤歴史の広場」
江戸時代末に建てられた石田堤碑

その堤は、北側を川に南側を道に沿っています。そして、上には松の木が植えられていて、古い街道であることを示しています。江戸時代には日光街道の脇街道として使われ、それ以前には中山道そのものであったとも言われています。

堤の北側にある川
南側の街道と堤上にある松並木

現存する堤の端にあって、川にかかっている堀切橋は、忍城の守備兵が三成に対抗するため、堤を切って中の水を溢れさせた場所とも伝わっています。

堀切橋

さきたま古墳群

もう一つのお勧めのスポットは、忍城よりずっと早い5世紀から7世紀にかけて築かれた「さきたま古墳群」です。しかし、忍城と関係しているものがあります。丸墓山古墳は古墳群の一つで、円墳としては日本最大であり、高さ17m、直径は105mあります。忍城の戦いが起こったとき、三成はここに本陣を置き、堤の工事を指揮しました。実際、この古墳の頂上からは再建された忍城の三階櫓の上層部分を遠くに眺めることができます。三成にとっては、水攻めの状況を見て取るのに格好の場所であったでしょう。古墳への参道もまた、石田堤の一部であったと言われています。

さきたま古墳群周辺の航空写真

丸墓山古墳
丸墓山古墳の頂上部分
丸墓山古墳から忍城方面の景色
忍城三階櫓をズームアップ
石田堤の一部と言われる丸墓山古墳への参道

更には、鉄砲山古墳は江戸時代末期の忍藩の歴史に関わっています。藩士たちは、この古墳の側面を加工して鉄砲の砲術訓練をしていました(「角場(かくば)と呼ばれていました)。江戸湾にある品川台場などでの防衛任務の準備をしていたと思われます。

鉄砲山古墳
鉄砲山古墳の平面図、現地説明版より、濃紺部分が角場

その後

明治維新後、忍城は廃城となり、水城であった部分は埋められて、近代的公園や建物がある場所に変わっていきました。これはこの都市を近代化するのに必要なことだったのでしょう。市の名前は、日本の伝統的な靴下である「足袋」を生産して栄えた地区の名前から、「行田」となりました。

行田足袋  (licensed by katorisi via Wikimedia Commons)
足袋の製造現場を再現した展示(行田市郷土博物館)
行田市に残る足袋倉

公園には一時球場がありましたが、城にかつてあった三階櫓のような外観を持つ行田市郷土博物館に置き替えられました。市の観光施設として、博物館周辺には鐘楼、門、塀なども復元されています。

1970年代の本丸周辺の航空写真

現在の本丸
行田市郷土博物館の入口

私の感想

忍城の戦いの結果は、1590年に秀吉が天下統一のために関東地方に侵攻したときの唯一の失敗と言われてきました。そしてそれは石田三成が愚かな武将だったからともされています。しかしその評価は、1600年の関ヶ原の戦いで三成が徳川家康に敗れたという結果から後付けされたものであって、正当とは言えません。三成は忍城の戦いにおける秀吉の命令の忠実な実行者であり、少なくとも城を包囲することには成功しているのです。仮に城の守備兵が成田長親ではなく、北条氏から派遣された代官に指揮されていたらどうだったでしょうか。三成にすぐに降伏していたかもしれません。忍城の戦いは、長親と三成ががっぷり四つに渡り合った名勝負だったのではないでしょうか。

成田氏の家紋、丸に三つ引き、行田市郷土博物館にて展示
堀切橋から見た石田堤

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の加須ICか羽生ICから約30分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。もし石田堤跡やさきたま古墳群にも行かれるのでしたら、車を使った方がよいでしょう。
公共交通機関を使う場合は、東武線の行田市駅から歩いて約15分かかります。
東京から行田市駅まで:上越新幹線に乗って、熊谷駅で東武線に乗り換えてください。

本丸跡の石碑がある行田市郷土博物館の駐車場

リンク、参考情報

忍城跡、行田市
・「よみがえる日本の城15」学研
・「天正十八年~関東の戦国から近世~」行田市郷土博物館
・「描かれた忍城」行田市郷土博物館

これで終わります。ありがとうございました。
「忍城その1」に戻ります。
「忍城その2」に戻ります。