35.金沢城 その3

金沢城にもう一回行ってみます。今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

特徴、見どころ(金沢城石垣めぐり)

金沢城にもう一回行ってみます。前回「金沢城見学コース」としていくつかご紹介しましたが、城を全般的にご紹介する内容でした。金沢城は「石垣の博物館」と言われていますが、そのときは石垣を十分ご紹介できなかった、と思っていました。そこで、今回は石垣中心に城を回ってみます。城の管理事務所からも、いくつかコースが紹介されていますので、そこからピックアップして回ってみたいと思います。

金沢城・兼六園管理事務所発行のパンフレット

「城内ルート」前編

①石川門石垣:まずは「城内ルート」して設定されている10ヶ所の石垣を回りましょう。また石川門に来ました。相変わらず威厳があってかっこいいです。枡形の中の石垣に特徴がありましが、そこが1番目のチェックポイントです。枡形内の石垣が左右で違う積み方をされています。左側(北面)が租加工石積み(打込みハギ)、右側(東面)が切石積み(切込みハギ)になっています。左側の石垣にはマークがたくさんついていますが、「刻印」といってそれぞれの石を積んだ職人やグループを識別するためと言われています。その左側の方が古い形式で寛永期の築造(金沢城調査研究所の分類では4期))、右側の方が明和期の改修時(1765年、明和2年)に積まれたそうです(6期)。なぜこんな目立つところで、違う積み方を残したのでしょうか。江戸時代から「これはおかしい」という意見があったそうです。ただ、石川門の建物は、寛永期に建てたものが宝暦の大火で焼失していて(1759年)、再建されるのが石垣改修後(1788年)ですので、前からあった石垣を単純に再利用したのかもしれませんし、設計者の趣味でわざと残したのかもしれません。こんなところにも門の歴史が見て取れます。

石川門
石川門(隅櫓)
枡形内の石垣
左側の石垣に残る刻印

②内堀石垣:続いて、石川門を越えて、三の丸に入りましょう。復元された櫓や門が並んでいて壮観です。2番目の石垣は、その手前の内堀石垣です。内堀及び石垣自体は、その櫓や門と一緒に復元されたものです(1999〜2000年)。創建は寛永の大火(1631年)の後と言われているので(4期)、その時代のものを想定して復元したそうです。復元の技術も大したものです。

復元された櫓群と内堀
復元された内堀石垣

➂菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓石垣:3番目が復元された櫓群(菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓)の石垣です。ついつい櫓の方に目が行ってしまいますが、そのベースとなっている石垣も大事です。この石垣はオリジナルで、創健は寛永の大火後ですが(4期)、その後の火災の被害などからの修復が重なり、結果的に租加工石積みや切石積みが混在しています。出入口など重要なところは切石積みが多いようです。

(右側から)菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とその石垣
門(橋爪門)周辺は切石積みになっています

④二の丸北面石垣:菱櫓の角を曲がっていきましょう。4番目の二の丸北面の石垣です。結構古そうな感じがします。ここは租加工積みなのですが、石の大きさを揃えてきれいに積まれています(布積み)。寛永の大火後(4期)に創建され、1666年(寛文6年、5期)に改修されたものが残っています。石垣職人の藩士(穴生)後藤家3代目の権兵衛が携わっていて、後に6代目の後藤彦三郎が、城内で二番目の出来、と称賛しています(一番は鯉喉櫓台石垣ですが一旦壊され、現在は復元されています)。職人の仕事と誇りが今に伝えられているのです。

二の丸北面石垣
城内の直線石垣としては最長(約160m)です

⑤土橋門石垣:二の丸北面石垣と内堀に沿って進んで行くと、5番目の土橋門石垣に至ります(4期創建、西側は5期・東側は7期改修)。何気なく通り過ぎてしまいそうですが、意識して見てみると、きれいな石垣です。門東側の石垣には六角形の亀甲石が組み込まれています(切石積み)。水に親しむ亀ということで、防火の願いが込められたそうです(金沢城は火災につぐ火災でした)。実際に、この門が文化の大火(1808年)の被害を免れたときは、この石垣のおかげだと言われました。そのときの人々の気持ちを表しているのです。

土橋門跡
土橋門石垣(東側)
亀甲石(中央)

「城内ルート」後編

⑥数寄屋敷石垣:城内ルート後編は、土橋門から折り返して中心部に入っていきます。小さな門を通ります。これは現存する「切手門」で、これから行く石垣のところにあった数寄屋敷への通用門だったのです(一旦他の場所に移され、原位置に戻ってきました)。屋敷へ通う女中の通行手形を改めたということで、この名になったと言われます。その後に通り過ぎる洋館は、旧第六旅団司令部庁舎です。軍隊が使っていた頃のもので、これも城の歴史の一コマです。6番目が「数寄屋敷石垣」です。ここもきれいに積まれています(布積み)。石の表面を長方形に仕上げた「切石積み」の技法が使われています。ここは側室たちが住んだ所なので、積み方も場に合わせたのかもしれません。創建は寛永期(4期)で、その後改修が続けられました。面白いのが、進んだ先です。刻印だらけです。ここは、この城で特に刻印が多い場所です(4期の石を5期に積み直したそうです)。刻印は分担を示したものと聞いていましたが、なんだか遊び心のようなものも感じます。

切手門とその奥の旧第六旅団司令部庁舎
数寄屋敷石垣(手前側、7期の改修)
数寄屋敷石垣(奥側、5期の改修)
刻印が多く見られる場所

⑦戌亥櫓石垣:続いて、二の丸を通って、本丸に向かいます。極楽橋は渡らず、違うルートの途中に次のチェックポイントがあります。戌亥櫓石垣です。これも寛永期(4期)の創建です(5期・6期に改修)。角のところはともかく、これまでと比べると粗い石を使っています(粗加工石積み)。しかし、当初は隙間に平らな石を詰め込み、切石積みのように見せていたそうです(経年で多くが抜け落ちてしまったとか)。いろんな工夫をしていたのです。

極楽橋のところは通り過ぎます
橋爪門の手前を右に曲がります
戌亥櫓石垣

⑧三十間長屋:三十間長屋にやってきました。ここにも石垣があるのか、と思ってしまいますが、土台のところを見ると、確かにあります。建物に目を奪われて気づきませんでした。こちらは切石積みですが「金場取り残し積み」という、わざと粗い面を残す技法が使われています。よく見ると随分凝っています。この建物も焼失と再建の歴史があって(現存建物は幕末(1858年)の再建)、この石垣の方が古いのです(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。

三十間長屋
三十間長屋石垣

⑨鉄門石垣:9番目は鉄門石垣です。ここは本丸の正門だったので、石垣もきれいな切石積みが用いられています(寛永期(4期)の創建、6期の改修)。石の形も多角形に加工されています。石垣を見ると、その場所の重要度がわかります。

鉄門石垣
多角形の石が積まれています

⑩東の丸北面石垣:城内ルートの最後は、本丸を下ったところにある東の丸北面石垣です。金沢城で最も古い石垣の一つです。今までに見た石垣と様子が違います。自然石や粗割りした石を積み上げた「野面積み」になっています。前田利家がいた文禄期(1期)に築造されました。そういう石を使ってよくこんなに高く積み上げたと思います(約13m)。今まで残っているわけですから、相当な職人技なのでしょう。10ヶ所の石垣、それぞれ個性的ですごく楽しめましたが、次は他のルートからピックアっプしていきます。

鉄門跡から本丸の森へ
本丸を下っていきます
東の丸北面石

「城内外連絡ルート」より

色紙短冊積み石垣:後半戦、まずは「城内外連絡ルート」から取り上げます。二の丸に戻って、いもり坂を下ります(いもり坂は明治になって作られた通路)。坂の途中から入っていくのは、玉泉院丸庭園に面した、色紙短冊積み石垣です。この石垣は切石積みで、前田綱紀が藩主だった時代(5期)に築かれたと言われています。この頃に金沢藩の石垣技術が成熟し、文化的にも発展していました。金沢城の最盛期と言っていい時期でした。色紙は方形、短冊は長方形ということなので、それらを組み合わせて、滝を表現したそうです。これはもう、庭園の景観の一部になっています。

いもり坂から下っていきます
色紙短冊積み石垣、上の方には滝を落とす石樋の石があります
玉泉院丸庭園、左後方が色紙短冊積み石垣

薪の丸東側の石垣:いもり坂に戻って、また下ります。「薪の丸(たきぎのまる)コース」という標識があります。これは「城内外連絡ルート」の一部で、ここから脇道に入っていきましょう。山道という感じです。でも、それに似つかわしくない石垣があります。これが「薪の丸東側の石垣」です。(租加工石積み、寛永期(4期)創建、寛文期(5期)改修)薪の丸には、伝来の宝物(刀剣・書籍等)を収める蔵があったそうです。それより前は薪を置いた場所で、名前の由来となりました。の石垣も後藤権兵衛が完成させました。

「薪の丸コース」入口
脇道に入っていきます
薪の丸東側の石垣

申酉櫓下の石垣:ここから上に行くと、三十間長屋に着きますが、まっすぐ進みます。山の斜面を進む、みたいです。この先にまたおもしろい石垣があるのです。斜面一杯に石垣が積まれています。それだけでもすごいですが、石垣を見上げてみましょう。石垣が継ぎ足されています。「申酉櫓下の石垣」と呼ばれている場所です。右側(東側)が主に前田利長が治めた慶長期(2期)の石垣で、割石積みといって、自然石積みから粗加工石積みの中間の段階の積み方のようです。城作りを進めていた時期です。左側は、前田利常の時代(寛永期・3期)に本丸を拡張するために継ぎ足されたのです。寛永の大火があった後で、先ほどの鉄門の造営と連動しています。仕上げは、古い方の石垣に合わせたそうです。

上に行くと三十間長屋です
本丸南斜面に積まれた石垣
申酉櫓下の石垣

「城外周コース」+おすすめ

本丸南面の高石垣:最後のセクションは「城外周コース」と独自のおすすめをミックスしてご紹介します。これも前回とかぶりますが、百間堀を歩いてみます。スタート地点は「本丸南面の高石垣」です。明治になってから改修されたそうですが、すばらしいです。かつては慶長期(2期・割石積み)に創建された城内随一の高石垣(約24m)でした。その上に櫓があったのだから、壮観だったでしょう。

鯉喉櫓台から見た本丸南面の高石垣、往時は上から3段目の石垣が上まで伸びていました

蓮池堀縁の石垣、東の丸東側の石垣:百間堀跡も、ここが堀だったと思うと、すごいです。ここも飽きないコースの一つでしょう。堀跡のすぐ横の石垣は、「蓮池堀(百間堀)縁の石垣」で、少し新しいのですが(元和期・3期・粗加工石積み)、その上にそびえるのが、これも城内最古の「東の丸東側の石垣」(文禄期・1期・自然石積み)です。途中に小段が設けられていますが、高さ21mで、当時としては日本有数でした。強いお城を作ろうという意思を感じます。

百間堀跡
手前が蓮池(百間堀)縁の石垣、奥が東の丸東側の石垣

三の丸東面の石垣:石垣は、石川門の下まで続くのですが、興味深いことがあります。石垣は、ずっと古い感じのものが続いています。この三の丸東面の石垣は、江戸後期に大改修されたのですが(7期)、古い堀縁の石垣に合わせて、荒々しく仕上げられたのです。金沢城の石垣はかくあるべしというのがあったのでしょうか。

三の丸東面の石垣

河北門の石垣:次は独自のおすすめで、城内に飛びますが「河北門の石垣」です。復元された門ですが、一ノ門左右の石垣はオリジナルです。他の部分の石垣は復元されたのですが、さすが三御門の一つらしく、すばらしいです(切石積み)。強さと美しさがバランスされていると思います。オリジナルは、宝暦の大火後、石川門よりも早く改修されたそうです(6期)。それだけ大事な門だったということでしょう。

河北門一ノ門とオリジナルの石垣
復元された門の建物と石垣

大手門の石垣:ラストは城内をショートカットして、大手門(尾坂門)跡に来ました。なんといっても、ここには大手門らしい鏡石があります。右側の角にある石が、城内最大のものだそうです。築かれたのも早い時期(慶長期・2期)で、割石積みの手法です。こうやって見てくると、本丸や大手門の周りに古い石垣があって、城の中心部が別のところ(二の丸など)に移ってから、いろんな石垣が築かれたことがわかりました。城の石垣と歴史がリンクしてます。

大手門跡
城内最大の鏡石
突き当りにも多くの鏡石があります

リンク、参考情報

金沢城と兼六園 リーフレットダウンロード
石川県金沢城調査研究所Youtubeチャンネル
・金沢城調査研究パンフレット「金沢城を探る」
・「石垣の名城 完全ガイド/千田嘉博編著」講談社

「金沢城その1」に戻ります。
「金沢城その2」に戻ります。
「金沢城その4」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

50.彦根城 その2

彦根城表門橋の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。

特徴、見どころ

Introduction

彦根城表門橋(おもてもんばし)の前にいます。前回の記事では、駅からここまでの見どころや、城の初期から後に作られた表御殿や、玄宮楽々園の現地の様子もご紹介していますので、今回は、初期に築かれた彦根山の上の、お城の中心部に行ってみます。その頃は、戦に備えた城作りが行われたので、要害堅固な城の様子を、たっぷりとご紹介します。同じ城の中でも、目的によって全然違う作られ方がされているということです。まずは、山を登っていきなり現れる大堀切を見学しましょう。次は、重要文化財になっている天秤櫓や太鼓門櫓を通ったり、中にも入ってみましょう。そして、国宝天守のきれいな外観や、現存天守ならではの内装を楽しみましょう。最後は、穴場として、西の丸三重櫓や、彦根山の周りを歩いてみます。

表門橋

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表門
Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

いきなりの大堀切

内堀にかかる表門橋を渡ると、その内側が主郭(第一郭)になります。渡った所に石垣がありますが、表門の跡です。今でもなにげに厳重に感じます。その脇には、登り石垣もあります。

主郭の範囲を描いた絵図、現地説明パネルより
表門跡
表門脇の登り石垣

入っていくと右側が表御殿(彦根城博物館)で、今回は券売所から左側に向かいます。表門坂です、表御殿ができてからは主要な登城ルートだったのでしょう。わざと石段の長さを変え、登りにくくしていました。急な上に、なんだか余計に疲れるように思います。敵だったら、足元を見ているうちに、攻撃されてしまうでしょう。

表門坂

やっと坂を登ったら、いきなりの大堀切です!圧倒されます。この大堀切の右側(北側)が本丸に通じる太鼓丸、左側(南側)が鐘の丸です。太鼓丸を守っているのが、重要文化財の天秤櫓です。本丸に行くには、鐘の丸に入って、正面に見える廊下橋を渡って、太鼓丸に進む必要があります。廊下橋は、かつては屋根付きだったようです。敵が攻めてきたときは橋は落としてしまうでしょうから、両側から攻められるだけになってしまいます。向こう側(西側)は、大手門に続く坂ですので、ここは最重要の防衛ポイントでした。

大堀切(南側)
大堀切周辺の絵図(現地説明パネル)に進行ルートを追記

鐘の丸に進みましょう。ここに入るにも、石段と枡形の組み合わせになっています。ここで滞留していたら、後ろの天秤櫓から攻撃されてしまうでしょう。橋を渡るどころではありません。鐘の丸の名前は、当初時刻を知らせる鐘楼があった(後に太鼓丸に移転)ことにちなむとのことです。

鐘の丸の入口(石段と枡形)

鐘の丸の中は、今は何もないので目立ちませんが、かつては大広間御殿と御守殿という2つの建物がありました。御守殿は、徳川秀忠の娘・和子(まさこ)が、後水尾天皇に嫁ぐときに、宿泊所として建てられたそうです(実際には使われず)。それに、ここは山の南端に当たるので、防衛上も重要な場所だったのです。ここからは、城の入口の一つ佐和口などが見渡せます。

鐘の丸の内部
鐘の丸からの眺め

天秤櫓と太鼓門櫓

それでは、廊下橋をわたって、天秤櫓に迫りましょう。名前の通りのユニークな櫓です。完全に左右対称ではないそうですが、両側の登城口から攻めてくる敵に対応するための形でしょう。あと面白いのが、江戸後期にこの櫓を大修理したことで、右側(東側)の古い石垣と、左側(西側)の新しい石垣のコントラストを見られることです。橋の上からも堀切が良く見えます。かつては屋根付きだったとしたら、ここからでも攻撃できそうです。橋を落とすタイミングと方法はどうだったのでしょうか。

天秤櫓
右側の古い方の石垣
左側の新しい方の石垣
廊下橋から見た大堀切

櫓の中も、通常公開されています。この櫓は平面上ではコの字型になっていて、その端っこから入っていきます。この櫓は、長浜城から移築されたと言われていますが、意外と中はシンプルな感じです。実用性重視だからでしょうし、実際には倉庫として使われたそうです。木材を削った跡が荒々しくていいです。作りとしては、敵が攻めてくる外側(南側)の壁を分厚くしてあります。格子窓から外を見ると、廊下橋がばっちり見えます。狭間や石落としがないように見えますが、埋められている隠し狭間がありました。使うときだけ開けられるようになっていたそうです。

天秤櫓内部
荒々しい木材の削り跡
外側の壁は厚く作られています
格子窓から見た廊下橋
隠し狭間

天秤櫓があるところが太鼓丸で、次が本丸への最後の関門、これも重要文化財の太鼓門櫓です。左側に時の鐘(時報鐘)を見ながら進みましょう。門の前に枡形がありますが、一部は山の岩盤がそのまま使われています。この門をくぐるときも、攻撃されそうな感じで一杯です。

太鼓丸を進みます
太鼓門櫓

太鼓門櫓はかつて、この山にあったお寺の山門を利用したと言われましたが、調査の結果、やはりどこかのお城から移されたとわかりました。この櫓にも入ることができます。外側に対しては厳重に監視できるようになっていますが、内側に対しては開けっ広げです。これは、かつてここに登城の合図を知らせる太鼓が置かれ、よく聞こえるようにこうなったと言われています。

太鼓門櫓の入口
太鼓門櫓内部
格子窓から外側を見ています
内側に向かって開放されています

本丸に入ったら、いよいよ天守ですが、その前に、ちょっと景色を楽しみましょう。着見櫓跡です。違う字で「月見櫓」とも書くそうですが、やはり見張りをする場所だったのでしょう。ここからは、城の周辺が一望できます。佐和山城跡の山もよく見えます。そちらに行った時には、彦根城を眺めました。両方行ってお互いを見てみると、すごく達成感があります。

着見櫓跡
櫓跡から見た佐和山城跡
佐和山城跡から見た彦根城

国宝天守を満喫

さて、現存12天守、国宝5天守の一つの彦根城天守です。他の城の天守と比べて大きくはないけれど、すごく気品を感じます。3重3階で、建物の高さは15.5メートルですが、多くの装飾がバランスよく配置されています。こちらの面だけでも、破風と呼ばれる屋根の装飾が5つも付いています。窓も、格式の高い「華頭窓」を2階と3階に使っていますし、3階の廻縁と高欄は、外に出ることができない飾りなのです。

彦根城天守
唐破風
入母屋破風
切妻破風

それから、この天守は大津城天守を移築したと言われますが、調査の結果、5階の建物を3階に改装したことが分かっています。わざわざ3階にした理由の一つとして、彦根城天守の平面は長方形になっているので、それに合わせてサイズを変更したことが考えられます。

天守内部では、移築を示すホゾ穴痕が見られるそうです
前身建物推定図、天守内部にて展示
着見櫓跡から見た天守、平面が長方形なのがわかります

それでは天守に入りましょう。ビジターの順路は、まず地下室から一階に上がります。ものものしい鉄の扉があります。

地下室と一階の間の鉄扉

天守の各階は「入側(武者走り)」という廊下のような通路に囲まれています。さすが本物だけあって「鉄砲狭間」「矢狭間」だらけです。ここも天秤櫓と一緒で、隠し狭間になっています。入側をずっと回りこんで、真ん中の身舎(もや、内室)に入って行きます。

天守一階の入側
矢狭間と鉄砲狭間
入側を回り込んで身舎に入っていきます
こちらは二階の身舎

二階、三階に上がるときには、ものすごく急な階段を昇ります。江戸時代のオリジナルですから、頑張りましょう。

二階から三階への階段

三階は最上階なので、屋根の木組みを見ることができます。巧の技という感じがします。下の方を見ると、破風の内側に「隠し部屋」があります。それから、最上階までしっかり狭間があるのもわかります。廻縁は飾りなので外には出られませんが、窓から外の景色を楽しめます。

天守三階(最上階)
屋根裏の木組み
隠し部屋に入るための引き戸
回縁には出られません
窓からの景色(琵琶湖方面)

穴場?西の丸三重櫓など

最後のセクションは「穴場」としていますが、見どころ満載です。まずは西の丸です。これまでご紹介したところに比べ、人気はありません。また櫓が見えてきました。重要文化財の西の丸三重櫓です。こんなところにも重要文化財があるのです。城の北側を守る要の櫓でした。

閑散としている西の丸
西の丸三重櫓

この櫓の中にも入ることができます。この櫓も小谷城から移されたという伝承があるのですが、調査では、移築の痕跡は見られなかったそうです。幕末に大修理されているので、それ以前は移築された建物があったかもしれません。他の現存建物よりは新しめなのです。格子窓から琵琶湖が見えます。それに、ここの狭間は塞がれていません。かつては琵琶湖の水辺がもっと入り込んでいたそうで、そこから攻めてくる敵にすぐ対応できるよう、このようにしたそうです。この櫓の前面(北側)にも大堀切があるのですが、残念ながら、そこの通路は通行止めになっています。

西の丸三重櫓内部
格子窓からの眺め
この櫓の狭間は最初から開けられています
櫓前の大堀切(以前の撮影)

天守の方に戻って、裏側の西の丸水手御門跡を通って山を下ります。天守に附櫓と多聞櫓が付いています。こちら側を守るために加えられたのでしょう。裏側っぽいところなのに、斜面の石垣がすごいです。下る途中に井戸曲輪がありますので、こちらも重要な場所だったのです。

天守と附櫓
天守の多聞櫓に続く石垣(右側)と井戸曲輪(左側)

山を下ると黒門口なのですが、山裾を進みます。かなり飛ばして、一番北の山崎曲輪まで来ました。初期の頃、重臣の木俣守勝がここに住んで、さっきの西の丸三重櫓に通っていました。ここにも幕末まで三重櫓があったそうです。現在は山崎門跡が残っています。

黒門跡
この付近にも登り石垣があります
内堀と石垣沿いを進みます
山崎曲輪
山崎門跡

ここから折り返していきましょう。自然の山っぽくなっています。タヌキもいました。また、登り石垣が見えてきました。ここが一番分かりやすい気がします。上の方に建物が見えます。西の丸三重櫓です。この石垣と連携してお城を守っていたのがよくわかります。

彦根山のタヌキ
西の丸三重櫓下の登り石垣

どんどん進んでいきましょう。今は梅林になっているところは、初期の頃は重臣屋敷、その後は米蔵として使われていました。

梅林

大手門坂に着きました。ここを登っていくと、最初に見た大堀切です。大手門跡も近くにあります。やはりここにも登り石垣があります。建物はないけれど、すごい枡形で、さすが大手門らしい場所です。

大手門坂
大手門跡上の登り石垣
大手門跡

大手門橋を渡って、内堀の外に出ましょう。堀の内側の石垣が変わっています。鉢巻石垣と腰巻石垣で、土塁を挟んでいます。石材を節約しながら土塁を強化するやり方です。他では江戸城などで見られるそうです。江戸城は幕府のお膝元だから、彦根城はやはり幕府の肝いりなのです。スタート地点の表門橋に戻ってきました。山の上に登ったと思ったら、最後は一周してしまいました。

鉢巻石垣と腰巻石垣
表門橋が見えてきました

関連史跡、名物

今日は、内堀の中の見どころを、駆け足でご紹介しましたが、彦根城は中堀までしっかり残っていますので、お時間があれば、その周りを歩いてみるのもいいと思います。天守や三重櫓を眺めながら歩けるのもいいです。

京橋口門跡
旧西郷屋敷長屋門
中堀から見える天守
中堀から見える西の丸三重櫓

最後は、ひこにゃんの登場です。

表御殿(復元)に現れたひこにゃん

リンク、参考情報

国宝 彦根城、公式ウェブサイト
・「歴史群像名城シリーズ6 彦根城」学研
・「中世武士選書39 井伊直政/野田浩子著」戒光祥出版
・「幕末維新の個性6 井伊直弼/母利美和著」吉川弘文館
・「幕末維新の城/一坂太郎著」中公新書
・「彦根城を極める/中井均著」サンライズ出版
・「城の科学/萩原さちこ著」ブルーバックス

これで終わります、ありがとうございました。

「彦根城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

50.彦根城 その1

今回は、彦根駅改札前からスタートします。以前、佐和山城跡に行ったときは右側(東口)に進みました。今回は左側(西口)の彦根城の方に行きます。彦根駅前に、井伊直政の像がありますが、本記事は歴史編なので、井伊氏を大名にした直政から始めたいと思います。

ここに行くには

今回は、彦根駅改札前からスタートします。以前、佐和山城跡に行ったときは右側(東口)に進みました。今回は左側(西口)の彦根城の方に行きます。彦根駅前に、井伊直政の像がありますが、本記事は歴史編なので、井伊氏を大名にした直政から始めたいと思います。駅前の通りがまっすぐお城に通じていて、街がお城と一体化しているのを感じます。お堀(中堀)端からもう天守を見ることができます。直政の次は、彦根城の築城、発展について説明します。中堀沿いには、幕末の大老として有名な井伊直弼が若い頃を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」があります。最後のセクションでは直弼とその後の彦根城についても触れてみます。中堀を渡ると佐和口(門跡)です(左側の建物が重要文化財)。その前に城の歴史を勉強しましょう!

彦根駅改札前
井伊直政像
中堀端
天守のズームアップ
埋木舎
佐和口
佐和口多聞櫓(重要文化財)

立地と歴史

井伊氏の立役者・直政

井伊氏を大名家に押し上げた井伊直政は、戦国時代の1561年(永禄4年)、遠江国(静岡県西部)の井伊谷で生まれました。当時、井伊氏は今川氏に仕えていましたが、
前年の桶狭間の戦いで、当主の井伊直盛が戦死するなど、波乱の時を迎えていました。
この地域をめぐって今川、徳川、武田が争う中、直政の父・直親も、謀反を疑われ、今川氏によって亡き者にされました(1562年)。幼少だった直政(当時は虎松、2歳)は、唯一の跡継ぎとして、親族や重臣たちによってかくまわれ、養育されたのです。そして、1575年(天正3年)、鷹狩りをしていた徳川家康に見いだされ、小姓となったのです(万千代と名乗る、15歳)。ただその裏には、井伊氏の跡継ぎとして、家康の下に出仕させようとした重臣たちの演出がありました(松下清景の養子にするなど、松下氏は今川に没落後に徳川配下になっていました)。

家康・直政出会いシーンのジオラマ、犀ヶ崖資料館にて展示

直政は家康の小姓として、高天神城の戦いなどで初陣を果たしたようですが、その能力を発揮し始めたのが、本能寺の変後の、天正壬午の乱のときです(1582年、22歳で元服し「直政」に)。武田の旧領をめぐって争っていた北条氏との講和の使者に抜擢されたのです。このときは、井伊氏の当主という格もあって、北条氏5代目・氏直と交渉をまとめ上げました(後に重臣となる木俣氏が補佐、下記補足1)。

(補足1)同年(天正十年)冬、領国堺目争いの事により、上様(家康)また氏直と甲州新府において御対陳(陣)、その後御制、この御制使直政に仰せ付けらる、副使我に仰せ付けらる、直政自筆五箇条の覚書をもって我に渡さる、我すなわち氏直の陳(陣)に至り、問答しこれを陳説す、氏直点頭し制を受け互いに証文を取り御馬を入れらる、これをもって上様御領国相定まり、北条家と御縁組相調い御輿入あり、右五箇条の覚書我が家に諸事す。(「木俣土佐守守勝武功紀年自記」)

井伊直政肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そして、甲斐・信濃の多くの武田旧臣が徳川に仕える際の仲介も務めました(井伊直政が奉者となった天正十年中の旧武田家臣の本領安堵状が67通確認されています)。彼らは、直政の下に編成され、家康の直轄軍の一部となり、武田の軍制を引き継ぐ「井伊の赤備え」と言われるようになります(下記補足2)。1584年(天正14年)の豊臣秀吉との小牧・長久手の戦いでは、井伊隊は戦功を挙げ、「井伊の赤鬼」と恐れられました。

(補足2)井伊万千代とゆふ遠州先方侍の子なるが、万千代殿、近年家康の御座をなをす。此万千代を兵部少と名付、大身に取りたてらるゝ。万千代同心に山形三郎兵衛衆・土屋惣蔵衆・原隼人衆・一条右衛門大夫殿衆四衆を、兵部同心に付らるゝ。山形衆中ニまがりぶち勝左衛門をば、むかわ衆なミにして、是ハ家康へ直参なり。今福もとめハきんじゆになるなり。然者、井伊兵衛そなへ、あかぞなへなり。(本編巻二十、酒井憲二「甲陽軍鑑大成」第二巻)

井伊直政所用と伝わる甲冑、彦根城博物館にて展示

秀吉との講和後のエピソードとして、秀吉の母・大政所が実質人質として徳川に送られてきたとき、世話役の本多重次は、いざというときのために、大政所の屋敷の周りに薪を積み上げた一方、直政は菓子などを持って大政所のご機嫌をとり、信任を得たというのです。そのせいか、家康が秀吉に臣従すると、家康家臣では唯一の公家身分(侍従)に抜擢されるのです。1590年(天正18年)の小田原合戦のときには、小田原城での数少ない戦いで戦功を挙げました。合戦後、家康の関東移封の際には、家臣では最高の12万石の領地とともに、上野国箕輪城主になりました。

大政所肖像画、大徳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
井伊隊が攻撃した篠曲輪
箕輪城跡

そして直政が最も活躍するのが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いです。直政は、本多忠勝とともに、家康本軍の先鋒として、東軍最前線の指揮に当たりました。それだけでなく、西軍を含む全国の諸大名を味方につける工作も行いました。吉川広家などへの工作により、毛利本軍が戦いに参加しなかったことなどが挙げられます(下記補足3)。戦い当日では、福島正則との先陣争い(抜け駆け)のエピソードがありますが、戦いが終わってからも、西軍諸将との講和の窓口となって活躍しました(毛利・島津など)。直政自身は、東西日本の要にあたる、石田三成がいた佐和山城主となりました(18万石)。しかし、関ヶ原での戦傷がもとで、1602年(慶長7年)佐和山で亡くなってしまうのです(享年42歳)。既に新しい城に移ることを考えていたそうです。

(補足3)
一、輝元に対して家康は、少しも粗略に扱うことはない。
一、吉川・福原の両人が、家康に対して特段の忠節を尽くされるならば、家康は今後、両名を粗略にはしない。
一、家康への忠節が確認できたなら、家康が直筆で輝元の領地を保証する文書を出す。
(慶長5年9月14日、吉川広家・福原広俊宛井伊直政・本多忠勝起請文現代語訳、「中世武士選書39井伊直政」より)

大政所肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
関ヶ原の松平忠吉・井伊直政陣跡
佐和山城跡

彦根城の築城

新城建設は、直政の後継者に引き継がれました。関ヶ原後も大坂城の豊臣氏は健在で、外様大名が多い西国に向き合う城として、備えを強化する必要があったのです。とはいっても、跡継ぎの直継が若年(13歳)だったため、実際には、家老の木俣守勝(もりかつ)が家康と相談しながら進めました。守勝は、元は家康の家臣で、家老として直政時代から送り込まれていたのです。候補として、直政が推していたという磯山、佐和山にとどまる案、そして彦根山の3つがあったといいます。(「木俣土佐武功紀年自記」による)それぞれ一長一短あったのですが、家康が彦根山に決定しました。短所だった「街道」への接続は、バイパスを整備して補うことにしました。

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時の彦根山は、北に松原内湖があり、南を流れる芹川が暴れ川で、周辺は湿地帯になっていたそうです。これまでの経緯から、彦根城築城は、江戸幕府の「天下普請」として行われました。幕府から奉行が派遣され、周辺の多くの大名(7ヶ国12大名と言われます)が助役として動員されたのです。工事は1603年(慶長8年)から始まりましたが、建設を急ぐため、周辺の城の資材が活用されました。井伊家の記録(「井伊年譜」)によると、天守は大津城から、天秤櫓は長浜城からの移築と伝わります。実際に、その2つの建物からは、移築された痕跡が見つかっています。また石垣の一部には、佐和山城の石材を使っていたことも判明しています。そして、1606年(慶長11)年に天守が完成し、直継が入城しました。

彦根城天守
天秤櫓
佐和山城からの移築石垣についての説明パネル(ビジターはその場には行けません)

初期の城は、内堀が彦根山を囲む「主郭」と呼ばれる範囲まででした。大手門は京都や大坂のある方向の南西側に設置されました。彦根山は城郭として大改造され、ここならではの特徴ある構造物が築かれました。例えば、山の南北に大堀切が掘られ、中心部に簡単に移動できないようにしました。また、山の斜面5ヶ所に登り石垣が築かれました。これは、敵が斜面を横に移動できないようにするためです。彦根藩主となった城主の御殿や重臣屋敷も、この範囲に集められました。まさに臨戦態勢にあったのです。

主郭の範囲、現地説明パネルより
大手門跡
大堀切(南側)
登り石垣(西の丸三重櫓下)

1614年(慶長19年)幕府と豊臣氏の対決のときが来ますが(大坂冬の陣)、家康は、直継の弟、直孝に出陣を命じました。その後、直継は、彦根藩主を更迭され、安中藩(3万石)に移されました(それ以後直勝と改名)。その理由として、病弱であったとも、家臣の統制ができなかったとも言われます。一方で、直継には、彦根城天守の工事が進まないので人柱を提案する家臣に対し、それを拒否した逸話が伝わっています。シビアな幕部幹部になる器ではなかったかもしれませんが、人を労わる優しい殿様だったのでしょう。

彦根城の発展

井伊直孝は、大坂冬の陣では真田丸で大苦戦しますが、夏の陣では戦功を挙げ、凱旋しました。彦根藩の藩主になってからは(第2代という扱い)、2代将軍・秀忠にも重用され、松平忠明とともに、3代・家光の後見役に指名されました。これが、大老職の始まりとも言われています。石高も30万石となり、譜代大名筆頭のポジションを確立しました。

井伊直孝肖像画、清涼寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

彦根城の方は、築城以来拡張が続けられていました。中堀・外堀が整備され、その中は内曲輪(第二郭・第三郭)と呼ばれ、重臣屋敷や城下町(内町)となりました。その外側は「郭外」でしたが、更に城下町(外町)が広がっていきました。流路を付け替えられた芹川も、防衛ラインとして機能しました。しかし大坂の陣後の平和な時代ならではの変化も見られました。主郭(彦根山)にあった家老たちの屋敷が内曲輪に移り、その跡は米蔵などになりました。

「彦根御城下惣絵図」(出展:彦根城博物館)

山上にあった藩主の御殿も、手狭だったため直孝の代に山麓に移され、「表御殿」が建築されました。その場所は本来の大手門と反対側の場所なので、実質的に城の正面が変更されたことになります。時代の変化を象徴していると言えるでしょう。御殿は大きく2つの部分に分かれていて、「表(おもて)」は政務や儀式が行われる場で、「奥向き」は藩主の生活の場となっていました。江戸時代後半には、14代藩主の井伊直中が、御殿内に能舞台を建築しました。表御殿の建物の中で、唯一現存しています。御殿全体としては、「表」に当たる部分は外観復元され、彦根城博物館の展示・管理スペースとして使われています。そして「奥向き」は博物館の奥に木造復元され、藩主たちの生活空間をそのまま追体験することができます。中にある庭園も、発掘調査や古絵図により、かなり正確に復元されています。

現存する能舞台
外観復元された「表」部分
博物館の展示スペース
木造復元された「奥向き」部分(茶室「天光室」)

また、城北側の松原内湖に面した場所に、庭園「玄宮園」が造営されました。4代藩主・井伊直興(なおおき)の時代のことと言われています。となりにある「楽々園」も同じ時代に建てられた御殿と言われていて、現在、二つを合わせた「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

玄宮園、天守が借景になっています
楽々園

井伊氏最後の大老、井伊直弼

井伊氏は、江戸時代通算で、臨時の幕府最高職・大老を6名も輩出しました(直孝などを含める場合)。そうでないときも、定席の「溜間詰」大名として、常に幕府の政治に関与する立場にいました。その中で最も有名な人といえば、やはり井伊直弼でしょう。彼は14代藩主・直中の十四男として生まれたため、跡継ぎはもちろん、養子の行先もなく、部屋住みとして、自ら「埋木舎」と名付けた住居で暮らしていました(17歳からの15年間)。それでも、不遇の身を忘れるよう、武芸・学問・文化活動に没頭していました。特に、茶道についての自身の著書「茶湯一会集」に書かれた「一期一会」の言葉が、現在にまで知られています。

井伊直弼肖像画、彦根城博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後偶然が重なり、彦根藩主、幕府大老にまで上り詰めるのですが(下記補足4)、彼については両極端の評価があります。天皇の勅許なしでの通常条約調印を決断した「開国の恩人」とするもの(ライトサイド)と、強権的な政治を行い、反対派を大弾圧した(安政の大獄)ために暗殺されてしまった(桜田門外の変)というもの(ダークサイド)です。

(補足4)松平越前守(慶永)へ御大老仰せ付けらる然るべき旨伺に相成り候処、上様御驚、家柄と申し、人物に候へば、彦根を指置、越前へ仰せ付けらるべき筋これなく、掃部頭へ仰せ付けらるべしとの上意にて、俄に御取り極に相成り候との事承り申し候(「公用方秘録」)

桜田門外の変を描いた浮世絵、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


しかし直弼自身は天皇の許可を必要だと考えていましたし、(交渉役の岩瀬忠震らに、やむをえない場合は調印してもよいと伝えていた)安政の大獄は、将軍・家定が決めた人事に反発する一橋派の行動や、朝廷から水戸藩に出された異例の密勅(戊午の密勅)をきっかけに始まっています(下記補足5)。その密勅の返納命令に反発した水戸藩士らが起こしたのが桜田門外の変でした。直弼としては、責任を取りつつ、将軍を中心とする幕府体制の維持に身を捧げていたのではないでしょうか。現代は当時と価値観が違うので、評価が難しい人物には違いありません。

(補足5)この節柄につき、明君を立て申すべくと下より上を撰み候は全く唐風の申すもの、況や我身の為に勝手がましく御撰出申すべき訳、かつてこれなき事、不忠の至りに候(「井伊家史料」)

その後

事件後、彦根藩は不始末を問われ、石高が20万石に減俸になります(後に3万石を回復)。そのためか、明治維新が起こると、藩は真っ先に新政府に加担しました。その働きにより、2万石を拝領したほどです。彦根城は一度も戦いに巻き込まれることのないまま、明治維新を迎えました。城は陸軍の所管となり、1878年(明治11年)には城の不要な建物は壊すことになり、それには天守も含まれていました。入札が行われ(天守は800百円で払下げ)解体作業が始まろうとするとき、明治天皇の北陸巡幸がありました。随行していた大隈重信が、解体寸前の彦根城を訪れ、その保存を天皇に献言したのです。そして天皇の「思し召し」により、城は保存されることになったのです。皇室から保存のための補助金も下賜されました。大隈は維新の功労者の一人ですので、維新のときの彦根藩の態度が、影響しなかったとは言えないのではないでしょうか。

大隈重信(壮年期)

この彦根城のケースは、城郭保存の運動の先駆けとなりました。名古屋城姫路城の保存建白書には、彦根城が前例として挙げられています。彦根城は、皇室の附属地(1891年)から、井伊家へ払下げ(1894年)となり、1944年に彦根市に寄贈されました。太平洋戦争での空襲も免れ、現在に至るのです(1956年から「彦根城跡」として国の特別史跡)。

名古屋城(焼失前)(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
姫路城

「彦根城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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