209.「桶狭間」の城砦群 その1

近年、桶狭間の戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきたのです。

イントロダクション

桶狭間の戦いといえば、まだ尾張国の一大名だった織田信長が、駿河・遠江・三河三カ国の太守・今川義元を討ち取った戦いとして有名です。戦いのイメージとしては、「桶狭間」という地名から、谷間で行われた野戦という印象が一般的でしょう。また、兵の少ない軍勢が、奇襲で大軍を打ち破ったという印象もあると思います。

桶狭間古戦場公園の織田信長・今川義元像

しかし近年、この戦いについての研究が進んでいて、そのイメージが変わりつつあります。まずこの戦いは、尾張の拠点城郭をめぐる争いの中から起こったということです。それに戦いの場所も、単に谷間ではなく、「おけはざま山」を含む丘陵地一体でした。それに、信長が劣勢であったことは確かにしても、信長なりの戦略・戦術があって攻撃が行われたことが明らかになってきました。

今回は、桶狭間の戦いの背景と、その展開についての従来説・現時点での定説・最近出された新設をご紹介するとともに、戦いにまつわる城砦群もご紹介したいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

立地と歴史(桶狭間の戦いと城砦群)

桶狭間への道

織田信長は、1534年(天文3年)織田信秀の嫡男として勝幡(しょばた)城で生まれました(参考資料①②より、以下番号のみ記載)。信秀は、尾張の守護代の重臣(清州三奉行)の一人でしたが、人望と経済力により、大きな勢力になっていました(①)。また信長が成長する間、当時の戦国大名としては珍しく、居城を勝幡→那古野→古渡→末森と移していて、信長にも影響を与えたと言われています(③)。他国に対しても威勢を示していて、例えば三河に対しては、1547年(天文16年)には岡崎城を攻め、松平広忠を降伏させています(嫡男竹千代が人質に)。また、美濃にも攻め込みますが大敗しています(1544年)。やがて、三河方面で太原雪斎率いる今川勢の攻勢が始まると、美濃の斎藤道三と和睦、信長と道三の娘(濃姫)が結婚することになります。(①)

織田信秀木像、萬松寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そんな中、信秀は病に倒れ、1552年(天文21年)までに亡くなりました。そのときは天皇による停戦勧告(1550年)により今川とも一時的に平和が保たれていましたが、尾張国内は不安定でした。実はこのとき信長は完全に家督を継承していたわけではなく、弟の信勝には本城・末森城や柴田勝家など重臣の大半が付いていたのです(信長は1542年から那古野城主、下記補足1)。信秀法要(葬儀または法事)のとき、信長がバサラな格好で焼香を投げつけた一方、信勝は家督継承者にふさわしい佇まいで座っていたというエピソードもそれを表しています。(ときに信長19歳、①②)

(補足1)一、末盛の城、勘十郎公(信勝)へまいり、柴田権六・佐久間治右衛門、此外歴々相添へ御譲りなり(「信長公記」原文)

また、信長の家(織田弾正忠家)の上位の守護代家の一つ(織田大和守家)も清州城に健在でした。この状況下で、織田方の山口教継が今川方に寝返り、鳴海城などに立てこもりました。また、守護斯波氏の家臣(小守護代)の坂井大膳(さかいたいぜん)らも今川方につこうとしていました。(①)

これに対し、信長は敢然と今川方に反抗し、赤塚の戦い、萱津の戦いにより、今川義元への対決姿勢を示しました(1552年)。尾張・美濃国境の聖徳寺で、斎藤道三と会見し、バサラの恰好から正装に変身し、自慢の長槍隊・鉄炮隊を見せつけたのは翌年のことです。そして、坂井大膳・織田大和守家によるクーデター(守護殺害)に乗じて、清州城を攻め、ここに入城したのです(中市場の戦い、1553年)。協力者の叔父・信光が亡くなると、信長は尾張下四郡を支配下に置きました(①)

試練はまだ続きます。1556年(弘治2年)、舅の斎藤道三が、その子の義龍に討たれたのです。この事件後、斎藤氏と尾張のもう一つの守護代家・織田伊勢守家(岩倉)が、反信長に転じます。そしてこの状況を見た信長家臣(林秀貞ら)まで、弟の信勝をかついで敵対してきたのです。この危機においても、信長は稲生の戦いで勝利し、1558年(永禄元年)には織田伊勢守家にも勝利しました。これにより尾張をほぼ統一したのです。この裏では、守護の斯波氏を追放し、信勝も粛清しています。(①)

斎藤道三肖像画、常在寺蔵・東京大学史料編纂所模写 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その頃、今川方でも軍師の太原雪斎が亡くなって混乱状態にありました(1557年織田・今川間で再度の停戦成立)。しかし尾張における今川の拠点として、鳴海城の外、調略により大高城を手に入れていました。(1559年、①③)近年この大高城が注目されています。当時、この城は海に接していて、ここからは陸海両方から、信長の本拠地・清州城や商港・熱田に迫ることができるのです。城自体も巨大な空堀に囲まれていて、当時としては最先端の防御力を備えていました。(③④)実際、桶狭間の戦いのときには、今川方の軍船千艘が、大高城の下の河口まで乗り入れています(下記補足2)。この城は尾張確保のホットスポットだったのです。

(補足2)河内二の江の入道、うぐいらの服部友定は、義元に味方するといって、軍船千艘ばかり、海上に蜘蛛の子を散らしたように並べ、大高城の下、黒末川の河口まで乗り入れた(⑤)

「「尾州大高城図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

信長は、今川方の補給を防ぎ、監視するため、鳴海城の近くに丹下砦・善照寺砦・中島砦を築き、大高城には鷲津砦・丸根砦を築きました。また都に上洛し、そのことを通じ、六角氏と結んで背後を固め、最新の武器も調達したとも考えられています(③)。

城砦群の位置

1560年、永禄3年5月12日、今川義元は尾張攻略のために自ら駿府を出陣しました。具体的には、大高城・鳴海城への後詰を行うことです。家督はそれまでに息子の氏真に譲っていました。その軍勢は2万5千と言われています。(①④)今川重臣(関口氏純)の書状にも、義元は尾張国の「境目」地域に出陣する、と書かれているので、最現在では上洛説は否定されています(➉)。しかし、義元は貴族が都で使う塗輿に乗って出陣しているので、あわよくばと思っていたかもしれません(③)。一方、27歳になっていた信長の兵力は3千でした。(①④)信長が追い詰められていたのか、それとも義元が出陣せざるをえなくなったのか、見方は分かれますが、尾張の重要拠点をめぐる戦いが起こったことは確かでしょう。

織田信長肖像画、狩野宗秀作、長興寺蔵、16世紀後半(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
今川義元肖像画、高徳寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

従来説・桶狭間の戦い(迂回奇襲説)

まず従来説として「日本戦史 桶狭間役」に基づき、戦の経緯を追ってみましょう。内容としては「迂回・奇襲説」になります。このときの義元の目的は都への上洛でした(下記補足3)。5月18日、今川軍は沓掛城にて翌日の分担を定め、翌19日明け方から松平元康らが、丸根・鷲津砦を攻撃、これを落として大高城に入りました。

(補足3)今川義元近隣諸国ノ方サニ無事ナルヲ好時機ト為シ京師ニ詣リ将軍足利義輝ニ謁シ以テ威名ヲ揚ケント欲シ永禄三年五月朔日出兵ノ令ヲ領邑諸将士ニ発ス蓋シ沿道諸国ノ我行ヲ遮ル者ヲ伐ントスルナリ(⑥)

旧日本陸軍参謀本部「日本戦史 桶狭間役」(Google Booksより)

織田方は今川方に対処するため、清州城で軍議を開いていました。家老たちは、兵が少ない状況での野戦を避け、籠城策を主張しましたが、信長は城外で戦うことを決します。しかし18日夜、丸根砦より警報が来ても動かず、翌19日未明(午前2時頃)になって突然出陣を命じたのです。そして朝、熱田神宮を経由して鳴海方面に向かう途中、丸根・鷲津砦から立ち上る煙を見て、その陥落を知りました。織田軍は、丹下砦を経由し、善照寺砦に集結しました。

善照寺砦跡

織田軍の一部、佐々政次ら(3百人)は、鷲津砦を落とした今川隊に対し攻撃を仕掛けましたが、散々に打ち破られました(政次も討死)。これを見た信長は憤激に絶えず、敵前の中島砦に進もうとしますが、家老が必死に止めました。そのとき、梁田政綱の間者が、義元の本体は大高城に入るため、桶狭間に向かっていて、その近くの田楽狭間で休息していると告げました。政綱は、敵は勝利により油断していて、兵を潜め、不意に本隊を攻撃すれば、必ず討ち取ることができると進言したのです(下記補足4)。信長はこの策を取り、迂回路を通って義元に迫りました。

(補足4)政綱乃チ信長ニ勧メテ曰ク東軍霎時(しょうじ)ニ両砦ヲ陥レ必ス驕リテ備エサラン今兵ヲ潜メテ其不意ニ出テ本軍ヲ擣(つ)カハ義元ヲ獲ル必セリト(⑥)

案の定、義元本隊は勝利に浮かれ、酒宴を催し、警備を怠っていました。しかも織田軍が迫った正午ごろ、俄かに暴風雨となり、その接近は気づかれず、その間に山に潜みました。そして雨が上がったところで(午後2時ころ)義元めがけて突撃、見事首級を挙げたのです。この戦いでの一番の戦功は、義元を討ち取った者(毛利秀高または新介)ではなく、梁田政綱でした(沓掛城及び三千貫)。

「尾州桶狭間合戦」、歌川豊宣作(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという、日本人好みのストーリーだったことで、この説は長い間史実と信じられてきました。しかし現在では信頼できないものとされています。多くの部分は、後世の軍記物などからのフィクションによって構成されたものだったからです。従来説を作った参謀本部はこのストーリーを、明治の新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として創作したのです。(⑦⑧)

定説・桶狭間の戦い(正面攻撃説)

次に現在定説となっている正面攻撃説(藤本正行氏による)をご紹介します。この説は、信長家臣・太田牛一が著した信長の伝記で信頼性があるとされる「信長公記」を基にしています。従来説と違いが大きいところを述べてみます。なお、義元出陣の目的は、大高・鳴海城への補給と、織田方による封鎖の解除と考えられています。

「信長公記」、陽明文庫蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

まず今川軍ですが、義元は5月17日に沓掛城に到着、19日朝まで滞在したとしています。そして18日夜から松平元康隊が大高城に兵糧を入れています。(⑦⑧、補足5)

(補足5)五月十七日、一、今川義元沓懸に参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、(「信長公記」原文)

一方、清州城の信長は、家老たちとは世間話だけで帰宅させました。家老たちは信長を嘲笑していました。夜明け方、砦が攻撃されていると聞くと、信長は「敦盛」の舞を舞いました。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」という有名な場面です。そして出陣したのです。

ここから織田軍が善照寺砦に集結したところに飛びます。このとき今川義元は「桶狭間山」に陣を張っていたのです。つまり義元がいたのは谷間の低地ではないのです。また、元康隊には大高城で休息を取らせていました。(⑦⑧下記補足6)

(補足6)御敵今川義元は四万五千引率し、おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。(中略)今度家康は朱武者にて先懸をさせられ、大高に兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依て、人馬の息を休め、大高に居陣なり。(「信長公記」原文)

そして、佐々政次らが討ち取られた場面を、義元も上から見て、勝利の謡をうたったのです。つまり織田・今川両軍は真正面に対峙していたことになります(下記補足7)。

(補足7)是を見て、義元が矛先には天魔鬼神も忍(たまる)べからず。心地はよしと悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡をうたはせ陣を居(すえ)られ候。(「信長公記」原文)

善照寺砦や中島砦方面の眺望がきく高根山からの景色

信長はといえば、家老が止めるのも聞かず、迂回どころか、敵の目下の中島砦に向かったのです。そして家臣たちにこう訓示しました。「皆、よく聞けよ。今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜どおし行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れている者どもだ。こっちは新手の兵である。少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな。勝敗の運は点にある。」しかし、眼前の敵は砦を攻めた兵ではないはずなので、これは信長の誤認とされています(⑤⑦⑧)。

中島砦跡付近

織田軍が山際まで進んだ時に暴風雨となり、雨は敵の顔、味方の後方に降りかかりました(東向き)。「沓掛の峠」のクスノキが雨で、東の方に倒れたほどです。雨が止むと信長は「それ、掛かれ、掛かれ」と叫び攻めかかりました。敵は後ろに崩れ、本陣に対して五度も攻撃を加え、ついに義元を討ち取ったのです(⑤)。これが「正面攻撃」たるゆえんです。

「沓掛の峠」かと思われる場所

しかしこの定説においても疑問点は残ります。主なものを3つ挙げます。
1,信長が、正面の義元の軍を「疲れている者」としたのは本当に誤認だったのか(⑦)。そうだとしても、わざわざ伝記に書く必要があるのか。
2.義元が織田軍を見下ろしたとされる一帯と、現在「桶狭間古戦場」とされる一帯は1km以上離れている。織田軍が押したとしても、離れすぎてはいないか。
3.義元は5月17日に沓掛城に着いて、19日まで宿泊したことになっているが、18日はなにをやっていたのか。

新説・桶狭間の戦い(後退追撃説)

これらの疑問点に答えるものとして最近出されたのが、義元が大高城に入城し、城確保という目的を果たしたので撤退していたという説です(かぎや散人による)。この説では、今川方だった徳川家臣・大久保彦左衛門の「三河物語」も活用しています。

「三河物語」に書かれた義元の行動は、5月17日に知立(池鯉鮒)に着き、翌18日に大高城に行って丸根砦を巡検し、軍議の結果、19日に元康に攻めさせたと解釈できるというのです(①⑦、下記補足8)。

(補足8)永禄三年五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城に行って、丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたてた(「三河物語」、現代語訳は⑦より)

ここからは想定になりますが、義元は、救援にかけつけるであろう信長を討つために、古くからある小川道を通って、鳴海方面を一望できる漆山に布陣したと考えられます。しかし信長は来ず、砦は陥落し、当初の目的は果たしたので、大高城には元康を置き、義元は撤退を決めたのです。これも古くからの長坂道を通って高根山に至ります。ここからは善照寺砦も見えるので、敵勢を討ち取り、義元が謡をうたったのはこの場所と考えられます。そこから更に撤退して、現・桶狭間古戦場付近(桶狭間村)の山に至ったのです。

桶狭間周辺の起伏地図

漆山付近からの眺望

この状況は「三河物語」の記述からある程度裏付けられます。三河の兵士たちは、義元が討ち取られる前から撤退を急いでいた、及び織田軍を山から見下ろしていたという記述がみられるのです(①⑦、下記補足9)。

(補足9)(石川六左衛門尉がいうは)「ここに押しよせたなら、すぐに棒山を攻め落とし、番手を早く入れかえ、いったん退却しなくてはならなかったのを、あまりにぐずぐずしていて、決断が遅れた。よい結果にはなるまい。すぐに帰陣せよ」
(石川六左衛門尉が織田の軍勢を見て)「敵の人数は少なく見積もっても五千はある」という。そのときみなが笑って「どうして五千もあろうか」という。そのとき六左衛門尉笑って、「みなさまは人の数のみかたをご存じない。高いところにいる敵を下から見上げたときはすくない人数も多くにみえるものだし、また下にいる敵を高いところから見下ろすと多くの軍勢もすくなくみえるものだ。」(⑨)

信長は、今川軍が大高城から山の上を撤退していたのを、追っていたのです。ですので、信長の訓示は誤解でもなんでもなかったのです。信長は今川軍と同じ長坂道を登っていくつもりでしたが、ここで暴風雨となり、方針を変えます。その頃は間道だった現・東海道を東へ進み、太子ヶ根(現在の大将ヶ根交差点付近)と呼ばれるところに至ります。ここであれば、沓掛の峠で倒れるクスノキも見ることができたはずです。ここから南に折れ、谷筋(現・釜ヶ谷)を通って義元本陣に突入しました。この攻撃は雨を利用した「迂回・奇襲」策でもあったのです(①⑦)。

大将ヶ根交差点

個人的には、義元はこんなに危ない目に合うなら、大高城にいたはずではないかと思ってしまいます。実は、江戸時代から同じ議論があったそうです(①、補足10)。一体、義元の意図はなんだったのか、上洛か、尾張奪取か、信長征伐か、大高城に絞っていたのか、古くて新しいこの議論がますます活発になってほしいと思います。

(補足10)「一説には十八日に義元が大高城へ行き、大高城で評議をして丸根・鷲津の両砦を落としたあと、桶狭間山の北に陣を敷くというものがあるが、この説は間違っている。もし義元が丸根・鷲津の砦を攻め落としたら、鳴海にも近いため、善照寺砦や中島砦を攻め取れそうなものだし、さらに熱田方面へ侵攻することもできよう。そしてまた、敵地だからと用心するなら大高城に入っていればいいのに、なぜそこから後退して桶狭間の山の上などに陣を置いたというのか。そんな行動は理解できないゆえ、この説は間違っている」(尾張藩主従医・山崎真人「桶狭間合戦記」、現代語訳は①より)

大高城跡

リンク、参考情報

①「若き信長の知られざる半生/水野誠志朗著」ぴあ株式会社
②「中世武士選書10 織田信長の尾張時代/横山住雄著」戒光祥出版
③「英雄たちの選択「ここまでわかった!若き信長の「桶狭間の戦い」」」NHK BS放送
④「ブラタモリ「なぜ織田信長は“桶狭間の戦い“に勝てたのか?」NHK放送
⑤「現代語訳 信長公記/太田牛一著・中川太古訳」新人物文庫
⑥「日本戦史 桶狭間役」旧日本陸軍参謀本部
⑦「歴史群像157号 新解釈・桶狭間の戦い/かぎや散人・水野誠志朗著」Gakken
⑧「信長の戦国軍事学/藤本正行著」洋泉社
⑨「現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門著・小林賢章訳」ちくま学芸文庫
➉「織田信長 戦国時代の「正義」を貫く/柴裕之著」平凡社

「「桶狭間」の城砦群 その2」に続きます。

21.江戸城 その5

皇居の乾通り一般公開に行ってみます。皇居の東側の通りを、桜の時期などに歩くことができるのです。桜見物もいいですが、その通りは、江戸城本丸の西側を通っているのです。以前、江戸城本丸こと、皇居東御苑に行きましたが、その時には見ることができなかった、本丸の別の姿を見学できるのです。これは行ってみるしかありません。

イントロダクション

皇居の乾通り一般公開に行ってみます。皇居の東側の通りを、桜の時期などに歩くことができるのです。桜見物もいいですが、その通りは、江戸城本丸の西側を通っているのです。以前、江戸城本丸こと、皇居東御苑に行きましたが、その時には見ることができなかった、本丸の別の姿を見学できるのです。例えば、富士見三重櫓は裏側からしか見れませんでしたが、今回のルートでは、正面の姿を見ることができそうです。これは行ってみるしかありません。

皇居乾通り
花木の向こうには本丸石垣が見えます
皇居東御苑から見た富士見三重櫓
坂下門周辺から見た富士見三重櫓

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(江戸城「乾通り」編)

乾通りはどんなところ?

現地に行く前に少しだけ予習をしましょう。入口は、坂下門になります。普段はその前までしか行けません。そこから入って、富士見三重櫓の近くを通ります。蓮池濠、乾濠沿いに、乾門までまっすぐ進むのが、乾通りのルートです。なお、乾門はもとは西の丸の裏門だったのが、明治時代に現在地に通用門として移されたそうです。

城周辺の地図

乾門

このルートだと、本丸の西側をずっと見学できそうです。本丸の石垣は主に徳川家康時代に築かれたので、お城らしさをがっつり見学できそうです。それでは、現地に出発しましょう!

坂下門・富士見三重櫓を見学

荷物検査が終わったら、坂下門に向かいます。右側に見えるのは、二の丸の石垣です。坂下門は「坂下門外の変」として歴史に名前も残していますが、現在は簡単に入ることができます。これは、元は高麗門と櫓門の組み合わせの枡形だったのが、明治になって、櫓門だけにして、向きを変え、まっすぐ入れるようにしたためです。

坂下門(左)と二の丸の石垣(右)
坂下門(内側から)

次の見どころは、富士見三重櫓です!土塁の向こう、木の間にちらちら見えます。遠目ですが、真正面です。屋根の装飾がかっこいいです。

富士見三重櫓(ズーム画像)

もう少し先に行っても見ることができます。今度は、斜めからのアングルです。一般参賀のルートでは、もっと近くに行けるそうですが、今日はこれで良しとしましょう。かつては、堀の間の道の向こうに門(蓮池門)があって、櫓の方にはまっすぐ進めなかったそうです。

富士見三重櫓(蓮池濠と蛤濠の間の土橋の手前より)
かつて櫓の手前にあった蓮池門 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

すごい本丸西側の石垣

それでは、乾通りを進んでいきましょう。この日は、まだ桜はあまり咲いていない感じで、雨も止んだばかりで、混んではいませんでした。お城ファンとしては良かったかもしれません。見学ゾーンぎりぎりのところまで来て、本丸石垣を見学します。右側に富士見三重櫓の端っこが見えます。かつては、左手にも数寄屋二重櫓がありました。

本丸西側の石垣、南方面

本丸の石垣が、複雑に折れ曲がっているのがよくわかります。敵をいろんな方向から攻撃するためでした(横矢掛かり)。富士見三重櫓の反対側にも建物が見えます。以前中に入った、富士見多聞です。手前の方にも、多聞櫓がもう一つあったそうです。

本丸西側の石垣、北方面
富士見多聞、皇居東御苑からの入口

富士見多聞の近くまで行ってみましょう。中に入った時は、倉庫みたいに見えましたが、外側から見ると、城をしっかり守っていたのがわかります。

富士見多聞
富士見多聞内部

あと気づいたのは、隅の石垣の色が他と違っています。この部分だけ西日本からの白い花崗岩が使われているようです。他は伊豆石と考えられます。

富士見多聞近くの石垣隅部分

また、先に進みましょう。富士見多聞の反対側にも建物があります(局門と門長屋)。これらも城の建物なのでしょうか。実は、明治時代に建てられたものです。城の建物と思ってしまうくらい古いものです。江戸時代、この奥には紅葉山東照宮があって、山麓には紅葉山文庫がありました。今いる辺りが、先ほどご説明した紅葉山下門だったと思われます。

局門
門長屋

初めて見る道灌濠

乾通りも後半に入ります。左側にも堀があります。「道灌堀」です。あの太田道灌が作ったのかと思ってしまいますが、今の形になったのは、西の丸工事などを行った徳川時代と思われます。しかし、築城経緯や、周りの様子からすると、城では最古級のものの一つではないでしょうか。由緒ある名前の堀を見られただけで満足です。

道灌濠(下道灌濠)
道灌濠の石垣

きれいに花が咲いているところもあります。石垣のデザインも、花崗岩を散りばめたようなところがあって面白いです。

咲いているところには人が群がっていました
白い花崗岩を散りばめたような石垣

城の見どころもまだあります。本丸と、西の丸などとの間の通用門だった西桔橋門(にしはねばしもん)跡です。細い土橋の先には、小さな橋がかかっています。あれが、当初は名前の通り、跳ね橋だったのです。普段は通れなかったということです(幕末には木橋に変更になりました)。

西桔橋門跡
かつて跳ね橋があったところ

土橋の先は、乾濠になります。実は、堀の向こうにもっと大がかりな仕掛けが見られるのです。それが、皇居東御苑の出入口の一つである北桔橋門で、乾通りからは横から見る形になります。ここも元は跳ね橋だったのですが、それだけではなく、なんと、その手前の堀を、北から続く台地をカットして作ったのです。跳ね橋どころか、台地まで切り離してしまったのです。

乾濠
北桔橋門の橋
北桔橋門(正面から)

最後は、お花見をしながら乾門に向かいます。短いけど、密度の濃いツアーでした。

お花見は一本ずつ楽しみました
乾門に到着しました

私の感想

富士見三重櫓はかっこよかったですし、本丸の石垣は、シンプルにすごいと思いました。前に行った大手門からのルートは、やはり豪華さが目立ちましたが、こちら裏側のルートは、本来の城らしい守り方をしていると感じました。

リンク、参考情報

・「幻の江戸百年/鈴木理生著」ちくまライブラリー
・「江戸城の全貌/萩原さちこ著 」さくら舎
・「歴史群像名城シリーズ7 江戸城」学研

「江戸城 その1」に戻ります。
「江戸城 その2」に戻ります。
「江戸城 その3」に戻ります。
「江戸城 その4」に戻ります。
「江戸城 その6」に続きます。

96.飫肥城 その2

大手門から城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

イントロダクション

今日はまず、観光案内所の前に来ています。ここには駐車場もあって、飫肥観光の拠点になっています。さすが飫肥だけあって、案内版にも昔の絵図が載っています(1652~55年の承応年間のもの)。今の町の道路とほとんど同じに見えます。自分で回っているところが、絵図ではどこなのかチェックしてみるのもいいかもしれません。

飫肥城下町 案内処
案内板に載っている江戸時代前期の絵図

城周辺の地図

それでは、城に向けて出発しましょう。大手門通りに入ったところで、最初のチェックポイントがあります。この大手口の道は、かつてはクランクして、門が横向きに建てられていました。曲がっていたところの石垣が残っています。

大手口の門跡

大手門の方に向かいます。道は既に石垣に囲まれています。左側は、明治になってお殿様が移り住んだ「豫章館」、右側は「小村寿太郎記念館」です。見どころがそこら中にあります。

大手門前の通り
豫章館
小村寿太郎記念館

大手門に着きました。ここから城跡の中心部を見て、シラス台地の城の痕跡を探します。続いて武家屋敷界隈を歩きますが、ここにもかつての城の痕跡があります。最後は、城下町を楽しみましょう。

大手門

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

特徴、見どころ(飫肥城と城下町めぐり)

大手門~すごい石垣

大手門に入っていきましょう。その前には古い空堀があります。現在の門の建物は、1978年に再建されたものです。オリジナルの門は、もう少し小ぶりだったそうですが、今の門もすっかり定着しています。石垣はオリジナルで、門内は枡形になっています。

大手門前の空堀
門内石垣の枡形

石段を登っていきましょう。本丸石垣が見えてきました。ツートンカラーがかっこいいです。石の種類が違うのでしょう。手前のエリアがずいぶん細長くなっていますが、「犬の馬場」と呼ばれた場所で、中世に犬追物が行われたのが由来だそうです。石垣の向こうには南櫓がありました。

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犬の馬場

そして、石垣の途中を反対側から見ると、出入口になっています。ただ、普段は開かない「開かずの門」でした。

「開かずの門」跡

本丸に行く前にまだ寄り道します。急に世界が変わった感じです。どこまでも伸びる飫肥杉に、地面は絨毯のように苔むしています。この奥に、土塁が残っているのです。戦国時代以来の城の様子を表すとされています。

飫肥杉と苔の絨毯

この大手門西側の土塁は、高さが約4メートルあるのですが、最初に見た空堀の底からだと、かつては約16メートルもあったそうです。

大手門西側の土塁

本丸に向かいましょう。石垣はまだまだ続きます。左側の松尾の丸の古い石垣も注目です。広い石段を歩くのが気持ちいいです。また門の跡があります。ここも枡形になっていました。最近では、枡形の隅にある4本の杉の対角線の中心に立つと、幸せパワーをもらえるというパワースポット(しあわせ杉)になっています。

本丸への通路
本丸枡形跡
「しあわせ杉」の案内

本丸~シラス台地の痕跡

本丸枡形の出口には、すごい櫓門がありました。その先には本丸御殿がありました。そこは今は学校になっていますので、ビジターが行けるスポットとしては、右手の飫肥城歴史資料館があります。伊東氏や飫肥藩、そして飫肥場や城下町についての展示が充実しています。

本丸枡形出口
飫肥城歴史資料館
現在の地形図に承応年間の絵図を投影した展示

それから、本丸のとなりには松尾の丸があって、石段を登っていくと、上級武士の屋敷が再現されています。面白いのは、蒸し風呂まであることです。

松尾の丸への石段
松尾の丸の再現屋敷
再現された蒸し風呂

城の遺構としては、奥の方の旧本丸が見どころです。17世紀後半に発生した地震の前までは本丸だったところです。古いだけあって土塁に囲まれているようです。入口の石垣はちゃんと残っています。城内最古級の石垣を、地震の後に修復したそうです。江戸時代初期には門がありました。さすが、ここも枡形になっています。しかも、その枡形の石垣が苔むしています。

旧本丸への通路
旧本丸の枡形
苔むしている石垣

中に入ってみると、やっぱり飫肥杉と苔の絨毯です。ここもすばらしいパワースポットです。ここはシラス台地なのだから、周りはどうなっているのかというと、やはりすごい崖になっています。それでも、しっかり土塁で固めています。さすが伊東氏と飫肥藩です。

旧本丸内部
旧本丸周りの崖(柵の内側から手を差し出して撮影)
旧本丸の土塁

帰りは再建された裏門から出てみましょう。その外は、シラス台地の群郭式の曲輪が続いていました。ところが、意外と開けた景色になっています。北側の曲輪群の多くは、グラウンドや住宅地などとして開発されてしまったのです。ですので、階段を下った先にある道路は、かつては堀底道だったそうです。

旧本丸裏門
開発された北側曲輪群の跡
かつての堀底道
旧本丸裏門を見上げています

とすると、この辺りは、前回行った志布志城みたいだったのかもしれません。

志布志城跡の堀底道

武家屋敷界隈にも痕跡が!

旧本丸から裏手の道を通って、上級家臣が住んでいたところまで戻ってきました。ここから、かつての城の曲輪の一つ、八幡城に行ってみます。今いるところは「武家屋敷通り」として、門構えや石垣を残しています。中身も、御用商人の屋敷を移築して食事処になっていたり、庭園として残されていたりします。

武家屋敷通り(横馬場通り)
服部亭
旧伊東民部邸

その先を左に曲がって「八幡通り」に入ります。この角地にある石垣は立派です。この中では、文化財になっているお屋敷がホテルになっています。

八幡通り(十文字馬場通り)
旧伊東伝左衛門家

その先にも重要な建物があります。藩校の振徳堂が、修復・復元されているのです。小村寿太郎を出した学校です。

藩校・振徳堂
振徳堂の内部

こうやって歩いてみると、町中が石垣で固められています。石垣でなければ、土塁と杉という感じです。

ひたすら続く石垣
土塁と飫肥杉

現在は田ノ上八幡神社になっている八幡城に着きました。ここには、興味深いものがあります。まず、伊東祐兵が植えたと言われるクスノキです。飫肥は、杉の前はクスノキの産地だったのです。それから、その奥には空堀が残っています。ここが城の曲輪の一つだった証拠というわけです。ここまで城域が広がっていたとわかる場所です。

田ノ上八幡神社(八幡城)
八幡神社境内のクス
八幡城の空堀

通りを反対側に下り、もっと城下町を散策しましょう。

八幡通りを下ります

城下町を散策!

ここで、江戸時代の城下町の構成を確認しておきましょう。真ん中が、商人のエリアになっています。これを、重要伝統的建造物群保存地区の地図に置き換えると、昔の商人エリアがほぼ抜けているのがわかります。

城下町の構成図、飫肥城歴史資料館にて展示
重要伝統的建造物群保存地区の地図、飫肥城歴史資料館にて展示

つまり、今でもそこが商業エリア(本町商人通り周辺)になっているのです。それでも、スーパーもコンビニも城下町風にしつらえられています。

本町商人通り
城下町風スーパー
城下町風コンビニ

そこから、広く保存地区に指定されていて、中級家臣が住んでいた後町(うしろまち)通りに行ってみたいと思います。その途中に小村寿太郎生誕地があるのですが、その生家は上級家臣の「武家屋敷通り」に移されています。建物までも出世したのです。

小村寿太郎生誕地の碑
武家屋敷通り沿いにある小村寿太郎生家

後町通りに来ました。ここも石垣や塀に囲まれていて、武家屋敷があった場所だとわかります。少し歩いてみると、水の音がします。かつては、町中が酒谷川の水を引き入れた水郷だったそうですが、水路を整備してその面影を復活させたのです。水路では錦鯉が泳いでいます。城下町の景観にマッチしていて、すばらしいです。

後町通り
水路を泳ぐ錦鯉

石垣も注目です。自然石を使った「玉石積み」というのもあります。ここはまさに「石垣の町」です。

小鹿倉邸の石垣
「玉石積み」の石垣
伊東邸の石垣

下級家臣や医者などが住んでいた前鶴(まえづる)通りにも行ってみましょう。こちらは、低い石垣に生垣が目立つ造りになっています。藩医だった家が大正時代に建てた洋館もあります。

前鶴通り
勝目氏庭園
梅村家の洋館

他には、古い商家も点在していますので、行ってみてはいかがでしょう。

旧山本猪平家(大手門通り沿い)
商家資料館

私の感想(エンディング)

エンディングでは、またシラス台地のお城にこだわってみます。酒谷川沿いを進んで、城の台地が良く見える城之下橋まで来ました。ここから眺めてみましょう。旧本丸から見た崖がすごかったですが、どの辺なのでしょう。木に覆われていてわかりづらいですが、飫肥杉がまっすぐ立っている辺りでしょう。コンクリートで固められているところもあり、川沿いということで、急崖が続いています。改めてシラス台地の城だったことを実感しました。

酒谷川
城之下橋からの景色
飫肥城の崖地帯
旧本丸の辺りか

感想として、ここはやはり「伊東氏最後の地」だと思いました。ここしかないと思ったからこそ、シラス台地を石垣や土塁で固めて立派に仕上げたのです。城下町も城と同じようなつもりで作ったのではないでしょうか。

リンク、参考情報(追加分)

「日南市の「飫肥城跡(おびじょうあと)」を紹介!!~宮崎文化財めぐり」MCN宮崎ケーブルテレビYoutube公式チャンネル
「飫肥」~「外城の町並み、麓の町並み」ウェブサイト
「飫肥城下町の町並み」~「古旅、日本の古い町並み」ウェブサイト
「飫肥」~「町のかたち、村のかたち」ウェブサイト(「うしろまち」の読み方など)
コトバンク「前鶴」(「まえづる」の読み方)
・「飫肥 重要伝統的建造物群保存地区」日南市教育委員会パンプレット
・「雨と川が育んだきらめきの歴史」 宮崎県資料

「飫肥城その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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