73.広島城 その2

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

Introduction

今日は、広島復興の象徴、平和大通りに来ています。ここは城と関係あるのかと思いますが、実はこの平和大通りの辺りが、城が築かれた時の海岸線だったのです。この通り沿いにある白神社のところに、その証拠があります。脇の方から入っていくと、自然の岩が並んでいます。これは、当時海岸線にあった岩礁なのです。広島城と町の開発の記念碑のようなものと言えるでしょう。

平和大通り
白神社
白神社の岩礁

今回は、ここを出発点にして、平和記念公園や原爆ドームを経由して、広島城に向かいましょう。そこを過ぎたら、城の痕跡がいくつもあるのです。今残っている城の範囲は、二の丸と本丸ですので、復元された二の丸の建物を見学してから、本丸と天守に向かいましょう。最後には、縮景園にも行ってみたいと思います。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

関連史跡(平和記念公園を経由して城の痕跡を探そう)

実は平和記念公園は、ここからすぐ近くなのです。平和大通りを西に進んで、平和大橋を渡れば、もう平和記念公園です。わたしたちも平和を祈りましょう。

平和大橋を渡っています
広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)

原爆ドームに向かって、川沿いを歩きます。この公園は中州にあるのです。その一部はかつては材木町といって、江戸時代は材木の集積場だったようです。ということは、きっとこの川を舟が行き来していたのでしょう。原爆ドームが見えてきました。

中州の川沿いを歩きます

こちらも世界的な平和のモニュメントです。形で残すって大事なことだと思います。実は、原爆ドームに面した通りは、広島城の外堀だったのです。

原爆ドーム(広島平和記念碑)

原爆ドームから北に歩いているところが、かつては外堀でした。ずっと水に満たされていたということです。門があったと思われる辺りに来ましたが、案内などは見当たらないので、太田川の方に出てみましょう。

外堀だったところを歩いています
この辺りに小姓町口御門がありました

川沿いに出て、北の方に歩いていくと、なにかありました。「広島城、外郭櫓跡」とあります。こんなところにまで櫓が並んでいたのです。

太田川の川沿い
広島城外郭櫓跡の説明パネル

通りに突き当たったら、右に曲がります。今度は「中堀跡」ときました。通りの地下道に入って、出たところが三の丸です。三の丸は、商業・文化施設が集まる場として開発が進められています。そこを抜けると、二の丸です。

中堀跡
通りの地下道に入ります
三の丸
二の丸に着きました

特徴、見どころ

二の丸を見学

二の丸は、本丸を守るための馬出し状の曲輪です。広島城の特徴の一つです。正面を、表御門や平櫓が守り、周りも多聞櫓や太鼓櫓が固めます。中は、兵士の集合場所になっていました。本丸の入口も枡形になっています。

二の丸全体図、二の丸建物内にて展示

御門橋を渡って、表御門に入っていきましょう。そして復元された建物群の中に入っていきます。

手前が御門橋、向こうが表御門
建物への入口

まずは、平櫓です。真ん中に畳スペースがあります。周りは、格子窓と狭間だらけです。正面の方に行ってみと、さっき歩いた三の丸が見えます。

平櫓内部
格子窓と狭間
格子窓から見える三の丸
平櫓の外観

表御門の櫓部分に入ってみましょう。結構広い感じがします。中からはさっき渡った御門橋が見えます。

表御門櫓部分内部

次は、多聞櫓の中を歩きましょう。ずいぶんと長くて、建物の長さは、約68メートルもあります。いろんな展示もあります。例えば、戦後に再建された天守の初代鯱瓦があります。台風によって尻尾が折れてしまったため、取り換えられたそうです。確かに尻尾がありません。

多聞櫓内部
再建天守の初代鯱瓦

端の太鼓櫓に着きました。角地を守る櫓でした。二階には上がれませんが、そこにあったという太鼓が一階の方にあります。門の開閉や、登城のときを告げていました。説明パネルには、たまに時刻を間違えたなんて書いてあります。

太鼓櫓内部
太鼓櫓外観
一階に太鼓が置いてあります

いよいよ、本丸に向かいます。中御門の枡形が残っています。建物は戦前まで残っていましたが、原爆により焼失し、そのときの熱で石垣が変色しています。

中御門跡
変色した石垣

「閉城」前の天守へ

本丸は、上段と下段に分かれていて、江戸時代には上段に御殿が、下段には馬場や米蔵があったそうです。

城周辺の航空写真

中御門跡から本丸下段に入っていきますが、現在奥の方には、護国神社があります。でもわたしたちは、その手前の場所に行きます。

広島護国神社

動員された女学生たちががんばっていたところで、原爆被災時、かろうじて生き残った彼女たちが、被災第一報を連絡したと言われています。

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

それでは、上段に向かいます。現在は広場になっているのですが、史跡としてはこちらが目立っています。日清戦争のときの大本営跡です。広島が臨時首都みたいになったときのことです。

広島大本営跡

大本営跡を通り過ぎていくと、天守が見えてきました。階段を登ったところが、ちょうど南小天守があったところです。小天守自体は明治になって取り壊されてしまいました。ここから見る天守は、コンクリート造りの建物とは思えません。外観復元天守の中でも、本物に近いと評価されています。すごい人気です。外国の人も閉城って知っているのでしょうか?わたしたちもチケットを買って並びましょう。

天守が見えてきました
南小天守跡
外観復元天守
外国の方も含めすごい人気です

中は歴史博物館で、外観と同じ5層構成になっています。第1層は「広島城の成立と役割」の展示で、お城ファンの方は必見です。出土した毛利時代の金箔瓦があります。本丸御殿の内部模型あって、さっきの広場を埋め尽くしていました。

天守第1層の展示
毛利時代の金鯱瓦
本丸御殿内部模型

第2層は「城下町広島のくらしと文化、第3層は甲冑や刀剣、第4層はときどきの企画展示と来て、第5層はやっぱり展望室です。さすがいい景色です。お殿様でもめったに天守に登らなかったというから、現在のビジターは恵まれています。しかし閉城になったら、しばらくはお預けです。

天守第2層の展示
天守第3層の展示
天守第5層、北側の眺め
天守第5層、東側の眺め
天守第5層、南側の眺め


最後にお気に入りの展示をご紹介します。第1層にある広島城下の模型です。今日歩いたルートがばっちりわかります。

広島城下の模型

せっかくなので、東小天守跡も見て行きましょう。こちらは随分ひっそりしています。傍らに、オリジナル天守の礎石も展示されています。この石の上に柱が立てられていたのです。東子天守跡も南と同じようになっています。小天守も、復元が検討されています。でも史料が少ないので苦労しているようです。もし復元されたら、天守と一緒にどんな風に見えるのでしょうか。

オリジナル天守の礎石
東小天守跡
東小天守から見た天主

平和の庭園・縮景園

これから縮景園に向かいすけど、その途中の見どころもご紹介します。東小天守の跡から石垣の上を歩いていくと、石垣が切れるところに着きます。これが、福島正則が本丸の石垣を壊したところと考えられています。ということは、元はこの石垣が続いていたのでしょうか。

崩された石垣

そこから近い、裏御門跡から出ることにしましょう。こちらも戦前まで建物が残っていました。今は車の出入口になっています。

裏御門跡
車の通り道になっています

お時間があれば、内堀の周りを歩いてみることもおすすめです。先ほど中に入った南東側の太鼓櫓や、北西側から天守を眺めるのがいいと思います。結果的に、内堀を一周してしまうかもしれません。

内堀の外、北西側から見た天守

縮景園に着きました。城と離れているように思いますが、江戸時代は、外堀が隣接していたのです。

縮景園入口

最初は浅野初代藩主・長晟(ながあきら)の別邸庭園として、上田宗箇が作庭しました。しかし大火があって、7代藩主・重晟のときに復興されました。そのときに作られたのが、現在でも一番人気の「跨虹橋(ここうきょう)」です。

跨虹橋

見どころはたくさんありますが、それぞれのお気に入りを見つけてはいかがでしょうか。例えば、石庭が好きな方には、「積翠厳(せきすいがん)」という石組や、滝に通じる流れが、白い竜のような曲水として表現されている「白龍泉(はくりゅうせん)」がいいかもしれません。

積翠厳
白龍泉

池泉庭園が好きな方は、島伝いの石橋が押しかもしれません、お殿様が参勤交代のときに眺めた瀬戸内海を表現したものとされています。

橋梁・島嶼

最高地点の「迎暉峰(げいきほう)」に登ります。お殿様もわたしたちも高い所が好きなのです。すばらしい眺めです。この庭園も原爆のときに壊滅状態になって、約30年かけて復旧されたそうです。ずっと平和のシンボルであってほしいです。

迎暉峰
迎暉峰からの眺め

リンク、参考情報

広島城公式ホームページ
縮景園公式ホームページ
・「秀吉の接待-毛利輝元上洛日記を読み解く/二木謙一著」学研新書
・「福島正則/福尾猛市郎・藤本篤著」中公新書
・「シリーズ藩物語 広島藩/久下実著」現代書館
・「歴史群像名城シリーズ9 広島城」学研
・「広島城四百年/中國新聞社編」第一法規
・「広島城天守に関する基本的な情報について」令和5年度第1回広島城天守の復元等に関する検討会議資料
・「徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察/笠谷和比古氏論文」国際日本文化研究センター学術リポジトリ
・「しろうや!広島城」広島城広報紙

「広島城 その1」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

73.広島城 その1

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにします。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

立地と歴史

Introduction

2026年3月22日に広島城天守が閉城になってしまうということです。最初、「城が閉城」かと勘違いしてどういうことかと思いましたが、天守建物の耐久性の問題で、その日以降、入館ができなくなるという意味でした。その閉城前に是非行ってみたいと思い、まず城の歴史を調べてみることにしました。今の天守の建物がどうなってしまうのかも併せてチェックしました。

広島城天守

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

毛利輝元による築城

戦国時代、有名な毛利元就によって、中国地方の覇者となった毛利氏は、天下人・豊臣秀吉の傘下に入り、大大名の地位を維持していました。その本拠地は、元就の孫・輝元の時代になっても、山城の吉田郡山城のままで、輝元もその改修を続けていました。

「郡山全図」、山口県文書館蔵、現地説明板より


1588年(天正16年)、その方針が覆される出来事が起こりました。輝元自身が初めて上洛し、秀吉に臣下の礼をとることになったのです。これは毛利家にとって一大決心で、その是非について異論もあったそうです。輝元本人も相当緊張し、秀吉を知る小早川隆景・吉川広家に伴われた旅でした。一行は、船200艘・総勢3千人に及びました。

毛利輝元肖像画、毛利博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


ところが、畿内に入ると、秀吉配下の黒田官兵衛、弟の豊臣秀長などから、予想外の丁重なもてなしを受け、京都の聚楽第で秀吉に謁見後は、いきなり参議に任じられ、貴族身分になったのです(下記補足1)。一方、同じ時期に関東の北条氏も上洛しましたが、当主の氏政ではなく、弟の氏規でした。氏規は、自分だけ無位無官の姿で秀吉に謁見し、嘲りを受ける結果になりました。輝元の上洛は大成功に終わったのです。その中でも、秀吉の名代という立場の、後の小早川秀秋、豊臣秀俊(金吾)と対面する場面もあり、後の毛利氏の運命をも暗示するものでした。輝元は名所旧跡も訪ね、帰りには秀吉の案内で大坂城も見学しました(下記補足2)。これらの経験が、新たな城・新たな城下町建設の直接の動機になったと考えられます。

(補足1)上卿 勧修寺大納言
天正十六年七月二十五日 宣旨
 従四位下豊臣輝元
  宜しく参議に任ずべし
   蔵人頭左近衛権中将藤原慶親奉ず(「毛利家文書」)

(補足2)此の時天守を見せ参らせられ候。関白様が御案内なされ候。小女房達三人召連れられ候。此の内一人は御腰物を御持たせ候。(略)金の間、銀の間、御小袖の間、御武具の間、以上七重なり。御供の衆にまで、悉く見せ候。(「輝元公上洛日記」)

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その新たな地として選ばれたのが、太田川下流域のデルタ地帯で、当時は「五ヶ村」と呼ばれていました。元就時代から干拓が進められていました。翌年(1589年)、輝元は現地に赴き、築城を開始したとされますが、帰国直後から指示を出していました(下記補足3)。その頃に「広島」の地名も初めて現れますが、輝元が名付けたとも言われています(下記補足4)。

(補足3)
「佐東御普請、改候ハゝ定而可被仰付候」
(天正16年12月18日 井原元尚宛二宮就辰書状、井原家文書145)

(補足4)
「佐東広嶋之堀普請申付候条、頓上国候て一廉馳走肝要候、不可有緩候、元清普請奉行ニ申付候条、可申談候也」(毛利輝元が井原元尚に、「佐東広島」の「堀普請」のため速やかに安芸に移動し、普請奉行の毛利(穂井田)元清と相談して工事を進めるよう命じている)
(天正17年7月17日 井原元尚宛毛利輝元書状、井原家文書85)

築城当時の推定海岸線(赤線)、OpenStreetMapに加筆

広島の地名の由来にはいくつか説があります。
・人名説:毛利氏の祖・大江広元の「広」+在地の領主・福島元長の「島」
・地形説:デルタ地帯で最も広い島に築城したため
・元来説:元々そういう地名があった
はっきりと確定することはできないかもしれませんが、築城時から当主がそう呼んでいたということです。

工事は段階的に進み、1591年(天正19年)輝元が入城し、本拠地として機能し始めました。ただ、毛利時代にどこまて城ができたかは、はっきりしていません。完成したのは、現在も残る、本丸と二の丸の範囲くらいだろうとも言われています。特に馬出しの形をした、特徴的な二の丸がこの当時からあったかどうかが議論になっています。(発掘の結果からは当時からあった可能性あり、当時の情報を使ったとされる絵図にはなし)あったとすれば、このレイアウトは聚楽第をお手本にしたとも考えられます。ただし、聚楽第自体、伝えられる絵図の通りか確証がないので、まとめて謎になっています。

城周辺の航空写真

『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

広島城のシンボル、五重の天守は毛利時代に建てられたことが確実です。但し、これも細かいことを言うと、初期(1592年頃)に建てられたか、それとも後期(1598年頃)なのか議論があります。初期説の根拠は、佐竹氏の部将(平塚瀧俊)が、この頃広島を通り「石垣や天守が見事である」と書き残していることです(下記補足5)。秀吉もほぼ同じ頃に広島城を訪れ、「御殿」に上がって「内外」を全て見て感心したそうです(下記補足6)。輝元に似合いであるとも評しています(下記補足7)。一方、天守の様式から、それより遅い時期の建築との意見もあります。その天守は、大坂城天守を模したとも言われ、金箔瓦・千鳥破風などの装飾がなされました。

(補足5)
ひろ嶋と申所にも城御座候、森(毛利)殿の御在城にて候、これも五・三年の新地に候由申し候えども、更に更に見事なる地にて候、城中の普請等は聚楽にも劣らさる由申し候、石垣・天守等見事なる事申すに及ばず候、町中はいまた半途にて候、
(「名護屋陣ヨリ書翰」)

(補足6)
御堀きハより一御門を御入候て、甲丸両所 御覧候て、城取之様躰、思召候より 御仰天候、左候て、御殿へ御あがり、内外共にことごとく御覧候て、御感斜ならず候、
(「安国寺恵瓊外二名起請文」毛利家文書1041号)
(補足7)
殊更広島普請作事様子被御覧候、見事ニ出来、輝元ニ似相たる模様、被感思召候
(毛利家文書875)

広島城天守の古写真(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)


大坂城と対照的なのは内装で、古写真によると非常に質素で、普段は倉庫として使われました。戦いになった場合は、最期の場になると考えられていたようで、厳重に守られていました。天守そのものに石落とし・狭間などがある他、天守の両側には小天守が2つ連結していて、そこからしか入れないようになっていました。

天守3階の古写真、広島城広報誌「しろうや!広島城 No.70」より引用
「安芸国広島城所絵図」に描かれた天守・南小天守(下)・東小天守(右)、出展:国立公文書館

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった輝元は、減封となり、広島城を去ることになりました。その後に安芸・備後の領主となった福島正則が広島城に入城しました。

実は重要、福島正則時代

正則は秀吉の縁者で、若年より奉公したと言われています。なんといっても、賤ケ岳の七本槍の中で、一番の恩賞をもらっているのが目立ちます(下記補足8)。その後は、ひたすら武の道で、秀吉の天下統一に貢献しました。

(補足8)今度三七殿御謀反に依って、濃州大柿居陣せしむるの処、柴田修理亮は柳瀬表に罷り出で候条、一戦に及ぶべきため、一騎懸け馳せ向い候の処に、心掛深きに付て、早懸着候て秀吉眼前において一番鑓を合せ、其の働き比類なく候条、褒美として五千石宛行い畢んぬ。弥々向後奉公の忠勤に依って、領知を遣わすべきもの也、仍て件の如し、
天正十一 八月四日 秀吉御居判
                福島市松殿
(「福島文書」、京都大学国史研究所蔵)

福島正則肖像画、東京国立博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

荒くれ者のイメージがありますが、粗暴な面があったことは確かなようです。一方で、素朴で信心深く、キリスト教の宣教師の話に聞き入ったというエピソードもあります(下記補足9、正則の清州城主時代)。

(補足9)尾張の国では、信徒の仇敵であった関白殿の甥(豊臣秀次)が、神の正義の裁きで追放されてから、太閤の縁者で福島殿と呼ばれる大名がその後任になった。この人は日本中で最も残酷な一人という評判である。しかし彼はいつか大坂で、修道士ヴィセンテの説教を聞いたことがある。そのときヴィセンテが、正しい理由もなく人間を責苦して殺す行為の、如何に非難されるべきことであり、道理に反することであるかを述べたところ、彼は突然、ヴィセンテの言は全く正しいといった。それから彼は自分の残酷さを抑えるばかりでなく、キリシタンに対して非常に親切な態度をとるようになった。(「日本年報(1595年)」)

正則は、関ヶ原の戦い(1600年)において、豊臣恩顧の大名でありがなら、黒田長政などとともに徳川の東軍に味方しました。そしてその勝利の勲功第一として、毛利の後釜として、広島城に入ったのです。当然、長門・周防(現在の山口県)のみに減封となった毛利氏への押さえも期待されたでしょう。しかし、彼の統治は、1619年の「改易」までの20年足らずでした。

正則は、領国の防衛体制を固めるため、本城・広島城を中心として、6つの強力な支城を整備しました。(亀居城・三原城・鞆城・神辺城・尾関山城・五品嶽城)例えば三原城では、海岸に10基もの櫓を建設し、養子の正之を城主としました。山城の神辺城にも多くの櫓を築き、家老の福島正澄を入れています。

三原譲模型、三原市歴史民俗資料館にて展示
神辺城想像図、現地説明パネルより

そして、広島城についても、後の絵図に見られる姿は、正則の時代に完成されたと考えられます。城は、内堀に加え、中堀・外堀によって三重に囲まれました。更に、西側の太田川などを城の外郭としました。城内には88基もの櫓が建てられていたと言います。絵図の太田川の部分を見ても、櫓がずらりと並んでいるのがわかります。

「安芸国広島城所絵図」、出展:国立公文書館
「安芸国広島城所絵図」の太田川周辺

従来のイメージとは異なり、正則は内政にも力を注ぎました。毛利時代は、伝統的な地元領主層の力が強く実施できなかった、本格的な検地を行い(一部例外あり)、大名が領民や収穫高を直接把握し、家臣に給米を支給するスタイルに改めました。領地の村々が再編成され、それが現在の行政区分にもつながっていきます。これだと年貢が重くなるのではと思いますが、他の大名との比較では逆に年貢率は低かったとのことです。(領地が拡大したため、余裕があった模様)また、正則の性格もあって、寺社も保護されました。正則は、広島城と広島藩の基盤を立派に整備したのです。

そんな正則がなぜ改易になったのかというと、個人的には、徳川秀忠など幕府トップとの意思疎通に齟齬が生じたからだと思うのです。1611年(慶長16年)加藤清正などとともに徳川家康・豊臣秀頼の会見を実現させた正則は、将軍・秀忠から帰国を許されますが、感激のあまり辞退したというのです。そして、その後豊臣氏滅亡まで、帰国が許されることはありませんでした。後に幕閣の重鎮・本多正純も秀忠によって改易されますが、その理由の一つが「(一旦)宇都宮藩拝領を断った」ことだとされます。正則も、このときから「意に沿わない者」と認識されたのではないでしょうか。(もちろん幕府側の豊臣恩顧大名に対する警戒心もあったでしょう。)

徳川秀忠肖像画、西福寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

正則の広島藩は、毎年のように天下普請に動員されるようになります。名古屋城で正則が不平を言ったところ、加藤清正にたしなめられたエピソードはこの頃のことです。正則は江戸に留め置かれ、豊臣氏滅亡に際して、ほとんど何もできませんでした。

名古屋城

そして、1617年(元和3年)大洪水により広島城が損傷します。久々に帰国していた正則は、翌年から城の修繕を始めますが、かなり大規模なものだったようです(新規の普請も含む可能性)。豊臣氏滅亡後に出された武家諸法度により、その場合は幕府の許可が必要になっていましたが、その届け出が事後か、または手続きが滞留していました。(本多正純がわざと遅らせたという説は事実でないようです。)それが1619年(元和5年)になって秀忠の知るところとなり、一時は正純の取り成しによって、城の相当部分を破却することでゆるされることになりました(元和5年4月)。(本丸以外は全て破却、または新規普請分を破却という条件だった模様)しかし破却されたのは本丸の一部であり(人手不足という面もあり)、ついに元和5年6月、秀忠は正則を「改易」したのです。正則は一部破却でゆるされると思ったのか、もしくは開き直ったのでしょうか。

正則が崩したとされる本丸石垣

正則は、粛々とその決定を受け(そのときも江戸にいた)家臣は一糸乱れぬ行動で城を引き渡したそうです。そのため、「改易」後の行先が、遠方の津軽から、信濃川中島(4万5千石)に変更になりました(下記補足10)。ついでながら、後に宇都宮を改易された本多正純は、大幅に減らされた所領(由利本荘)も断ったため、流罪(横手にて幽閉)になってしまいました。

(補足10)「挙動厳正なりと世もって称嘆しければ、かの家人どもは、みな諸家より旧禄を加倍して召抱られしに、(福島)丹波一人はかたく辞して任をもとめず。入道して世を終りしとぞ(「徳川実紀」)

正則の同僚というべき黒田長政は、正則の改易後、大坂城普請を命じられ、その工事の遅れに関して、
・本拠の福岡城の天守・石垣を崩してでも間に合わせる
・(遅れているのに)追加の工事を承りたい
と将軍・秀忠に言上しています。「大名もつらいよ」といったところでしょう。(もちろん秀忠及び幕閣の側にも、家康なき後も絶対権力を確立するという事情があったでしょう。)

黒田長政肖像画、福岡市博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

最も長かった浅野時代

正則が改易となった後は、和歌山から、浅野長晟(ながあきら)が、安芸と備後の一部42万石の領主として、広島城に入城しました。浅野氏はこの後、ほとんどが直系の藩主によって、江戸時代末まで比較的安定的な統治を行いました。浅野といえば、赤穂の内匠頭を連想してしまいますが、赤穂藩は長晟の弟の家系で、広島藩は本家だったのです。

浅野長晟肖像画、広島市立中央図書館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

長晟は、家老を要所に配置し、境目を守らせる体制を取りました。その中には、浅野の縁者でもあった桃山時代の大名茶人、上田宗箇がいました。彼は、和歌山時代の浅野家に来る前には徳島藩にいて、徳島城表御殿の庭園を造っています。広島藩では、浅野家の別邸・縮景園を作庭しました。

旧徳島城表御殿庭園
縮景園

城の方ですが、長晟が入城早々に洪水が起こり、二の丸太鼓櫓が崩れて、再建されました。もちろん、改易事件のことがあったので、手続きは慎重に、建物も以前のままということでした。この後も、このようなことが繰り返しありました。デルタ地帯のお城の宿命でしょうか。

二の丸太鼓櫓(復元)

一方で、城の中心は、本丸御殿に移り、天守や櫓は普段は鍵がかけられていたそうで、藩主が天守に登りたいと言うと、大騒ぎになりました。本丸御殿は、儀式を行う表御殿、藩主公邸の中奥、私邸の奥などに分かれていました。5代藩主・浅野吉長は、世襲の家老が私邸で政務を執っていたのを改め、人材本位で抜擢した年寄が、御殿の役所で政務を行うようにしました。今でいう県庁のような場所になったのです。

本丸御殿の内部模型、広島城天守内で展示

広島城下は、ずっと整備が続けられていて、西国街道沿いに、城下町が発展しました。一方、農地を増やすための干拓も進んで、江戸時代のうちにかなり陸地が広がりました。

時は過ぎ、幕末になると広島藩は動乱の時を迎えました。幕府に反抗した長州藩に対して、幕府は征討を命じ、広島が最前線になりました。家康の想定が現実になったのです。広島には各藩の将兵が集まっていました。広島藩の実権は、改革派年寄の辻将曹が握っていましたが、戦いを避けることに努め、第二次征討ではなんと、幕府に対して出兵を断ったのです。こちらは、家康の時代とは様変わりです。

幕府は長州に敗れ、政局は京都に移っていき、広島藩は、薩長や土佐と盟約を結びました。新政権では広島藩から辻などが参与に登用されたのですが、なぜか明治維新後には、彼らの名前は外されてしまいました。改革が遅れ、十分な財政・軍備がなかったからとも言われます。なお、彼らに関する人事評定の記録も残っています(下記補足11)。

(補足11)重職中遊冶(ゆうや)二溺レ失役不少(明治2年1月人事稟議書記録より、「大久保利通文書」)

そして近現代、天守はどうなる?

明治維新後、広島城には日本陸軍の広島鎮台が置かれました。度重なる洪水対策の結果、城の辺りは安全とみなされたようです。そのため、天守など一部の建物以外は取り壊されていきました。全国の城が試練を迎えたときです。そして、南部に宇品港、中心部に広島駅が開業すると、城と広島に新たな役割が与えられました。大陸侵攻への前線基地です。日清戦争が起こると、兵士は鉄道で広島まで来て、港から船で輸送されたのです。なんと大本営まで、東京から広島城内に移されて、明治天皇が御座所に入りました。広島が臨時首都のようになったのです。以降、広島は軍都として栄えていきます。

後に大本営になった広島鎮台司令部(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太平洋戦争当時の広島城周辺は、軍関係の建物でぎっしりでした。この戦争では動員数も増えたので、一時天守も兵舎として使われたそうです。

1945年7月の城周辺の航空写真、現地説明パネルより

戦争末期、城内には防空作戦室というのがあって、女学生が動員されていました。そのうちの一人が、8月6日、午前8時13分に空襲警戒警報が出たという情報を受け取り、すぐ連絡をしようとした午前8時15分・・・

中国軍管区指令部 防空作戦室跡

原子爆弾がさく裂し、何十万人もの人とともに、城も被災、天守は爆風で倒壊しました。火災のためではなかったのです。散乱した部材は、人々の生活再建の資材として使われたそうです。城の再建に使うどころではなかったのです、どんなに大変な状況だったのか、わかるような気がします。

倒壊した天守、広島城天守内展示より
天守のものとされる木材、広島城天守内で展示

戦後、広島は平和記念都市として生まれ変わりますが、被災して6年後には、城跡で行われた博覧会のシンボルとして、臨時に天守が建てられました。これがきっかけで、天守復元の運動が盛り上がり、被災後13年目に、現在私たちが見る天守が建てられました。火災に強いということでコンクリート造りになりましたが、当時は長く持つとも考えられていたそうです。今度は広島復興のシンボルになったのです。

現在の外観復元天守

1994年には、二の丸の建物も復元されました。こちらは、江戸時代以前の形の復元を目指し、木造で建てられています。

二の丸の復元建物群

こうやって見てくると、この城に天守がなかった期間はほとんどなかったのです。ところで、これからもこの天守を眺めることができるのかというと、できるのです。現在広島市は、有識者会議を開いて、天守、小天守を含めた天守群の木造復元の検討を進めています。ただ、具体的な方針はまだ決まっていません。少なくともそれまでは今の天守を外から見学することになります。ただ、小天守も一緒に復元されることになれば、これはすごいと思います。

内堀から見た天主

「広島城 その2」に続きます。

172.三原城 その2

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

特徴、見どころ(海城・三原城めぐり)

Introduction

前回の新高山城跡見学に引き続いて、三原駅に着いたところです。駅には、三原城の素晴らしい絵が飾られていて、気分が盛り上がります。すぐ近くには三原観光協会があって、情報収集もできます。

三原駅前に飾られている「絹本著色登覧画図」(複製)

今私たちがいるところは、かつての本丸で、周りもすっかり市街地になっているのですが、ところどころ、海城の痕跡が残っているのです。前半は、そんなスポットを巡ってみましょう。後半は、駅の反対側に残っている天主台に行ってみます。まわりを歩いて、その大きさを実感したり、駅に直結した通路から、天主台の上に登ってみます。これぞ「城の駅」です。さっそく出発しましょう。

城周辺の航空写真

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しています。よろしかったらご覧ください。

かつてのフロントラインを歩く

すっかり市街地になったといっても、意外と海城の形は残っているのです。昔の絵図を見ると、本丸と二の丸が堀に囲まれていますが、そのラインを、街の中に追ってみようと思います。

「備後国之内三原城所絵図」、出展:国立公文書館

駅前広場から通りを渡って、右側にある通りが、大体そのラインに沿っています。ということはこの通りはお堀だったのです。と思っていたら、堀が残っています。実際は、通りを含めてもっと幅が広かったのでしょう。お堀沿いには石垣も残っています。

駅前の通りを渡って右に進みます
最初に入れる通りへ左折します
通りには堀と石垣が残ります(一部復元)

説明パネルがあって、本丸中門跡ということです(「二の丸中門」ではないかという意見もあるようですが)。ここは、西側に張り出した二の丸の一部から渡れるようになっていたのです。限られた出入口の一つでした。今も施設の出入口として使われているところがいいです。

本丸中門跡

お堀を追って行きましょう。堀が切れた角のところに、石碑があります。「三原城 臨海一番櫓跡」とあります。ネーミングのおかげで、ここが曲輪の端で、この先が海だったことがわかります。ということは、ここを曲がった通りは、海に面した曲輪のラインなのです。この歩いている道の右側がみんな海でした。そして、左側には、二番櫓、三番櫓が続いていました。このまま行くと、別の隅っこに着きます。そこが、次のご案内場所です。石垣が見えてきました。

臨海一番櫓跡
この通りが海岸のラインだったことになります
街なかに石垣が現れます

城町(しろまち)公園のところに、船入櫓跡の石垣が残っているのです。こちら方が先にできたのですが、街中に突然現れる感じがします。石垣自体は、福島時代以降に築かれたとされています。石垣のラインが折れ曲がっていいますが、ここは船入なので、敵船がきたときに、いろんな方向から反撃できるようにしたのです(横矢)。

船入櫓跡の石垣
石垣の折れ曲がっている部分

そして、なによりも面白いところが、曲輪の南東の隅に当たる場所にあります。石垣の石ではなさそうな岩があります。これは、元からあった岩礁なのです。ここは元あった島の一つ(小島)で、残っているこの岩礁がその証拠なのです。その周りも少しお堀として残しています。

曲輪の南東隅に向かいます
かつての「小島」時代から残る岩礁

明治時代に撮られた古写真と比べると、今は全然違う様子ですが、この岩だけは、島だったとき、城だったとき、周りが市街地になってからも生き残ったのです。

明治時代の周辺の古写真、現地説寧パネルより

まだ残っていた船入

船入櫓の傍らには、船が入れる「船入」があったのですが、今は、岩礁の廻りのこの細い堀を残して、埋められてしまっています。でも実は、この奥の方に船入の一部が残っているのです。行ってみましょう。

船入櫓跡周辺の現況

通りを少し歩きます。かつては、大体この左側が船入でした。左に曲がって、ずっとまっすぐ行くと、突き当りのところに水辺があります。錦鯉が泳いでいます。ここがわずかに残っている船入なのです。一部とはいえ、船が入ったところだとわかります。向こう側の岸は、二の丸への入口から、曲輪の東側のラインが残ったものです。

石垣の前が船入でした
この先を左折します
わずかに残る船入

そのラインの先は船入櫓跡になっていて、石垣の上も公園になっています。そこにも行ってみましょう。今いるところは行き止まりになっているので、少し戻る必要があります。一旦三原駅の方に向かいます。案内があるので、斜めの道に入っていきましょう。

三原駅前の方に行きます
案内があるので、脇の道に入ります

また船入が見えてきて、この辺からまた曲輪のラインに沿っています。登って行く感じが、島っぽくていいです。門がお出迎えで、入ってみると、垣根に囲まれた何気ない空間です。

船入沿いに進みます
門がお出迎え
船入櫓跡

しかし周りと比べると随分高くなっています。しかも昔は周りは海だったのです。櫓があったらしい場所もあります。角地の下が例の岩礁です。ここも島時代から、現代に生き残っているのです。

櫓跡から石垣を見下ろしています
櫓の建物跡か
この下に先ほど見た岩礁があります
下に見えるのは別の岩礁のようです

最大級の天主台を見学

後半は、天主台を中心にご案内します。また駅前に戻っています。ここが本丸だったので、スタート地点にはちょうどいいです。今度は駅の反対側にいきます。また石垣が見えます。駅をくぐっている間にあるのが本丸の石垣で、出たところに現れるのが、小早川隆景が築いた天主台です。この隅の石垣の積み方がなんともかっこいいです。

駅前から左側に見える通路を進みます
天主台は駅の北側にあります
手前が本丸の、奥が天主台の石垣

こちら西側の石垣は、その特徴から、隆景の時代に積まれたと考えられています。「あぶり積み」という方法で積まれています。通常は石の広い面を寝かせて積むのですが、この方法では広い面を表に出して積んでいるそうです。安定的ではないので危険な積み方とも言われるのですが、今でも健在です。当時としては最高レベルの職人技だったのでしょう。高さは約13メートルで、堀から直接積み上げる石垣としては最古級とのことです。

天主台西側の石垣、背景は桜山
天主台石垣の北西側


北側正面から見た天主台です。駅と一体化している姿も、定番になってきたように思います。その近くに、一部復元された後藤門石垣というのがあります。城の南側が海だったので、北側に西国街道が通り、その途中に後藤門があったのです。

天主台石垣の北側
後藤門石垣(一部復元)

石垣を越えから見える天主台東側は、福島時代の改修または増築なのだそうです。隅の算木積みの積み方を比較すると、新しい福島時代方が整っているとのことです。

天主台石垣の北東側

これぞ「城の駅」

最後のセクションでは、駅から天主台の上に登ってみましょう。「城の駅」を堪能します。先ほど通った駅前から天主台への通路の途中から、駅構内に入っていきます。右側が改札ですが、私たちは左に曲がって、階段を登ります。天主台の案内があります。向こう側に見える絵は、海に面した城の姿でしょう。

天主台に向かう途中を右折して駅構内に入ります
左側が天主台方面、右側が改札方面
天主台入口案内

ここが入口のドアです。ドアを開け閉めして階段をまた上がります。天主台上に到着です。ゴツゴツした感じがして、ここも島だったという雰囲気があります。実際、新幹線の工事のときに、島を削って造成したことがわかったそうです。

天主台へのドア
天主台の上に到着
新幹線工事のときの様子、三原市歴史民俗資料館にて展示

周りを歩いてみましょう。天主台というより、曲輪という感じもします。実際に隅には櫓が3基ありました。駅に一番近いところに一基、そこから離れていって、北西隅のところに一基、元々城があった桜山を見ながら、進んだ先の北東隅にも一基あったのです。

天主台の中心部
駅に一番近い櫓跡
北西隅の櫓跡
北東隅の櫓跡、桜山も見えます

「城の駅」らしさをもっと体感してみたければ、新幹線が通り過ぎたり、発着するのを眺めましょう。

登りの「のぞみ」が三原駅を通過するところ

関連史跡

他の見どころも少しご紹介します。まず「水刎(みずはね)」です。昔の絵図で見ると、堀と一緒に外側の川(和久原川)が曲げられているところで、水の流れを緩やかにするために築かれた石垣です。

水刎

それから城の西の方、西国街道沿いのかつての城下町には、今も古い町並みが残っています。

西国街道沿いに残る旧家

その周辺には、三原城から移されたと伝わる門(順勝寺山門)や、新高山城から移されたと言われる門(宗光寺山門)があります。宗光寺山門については、建物の形式からは、福島時代に建てられたとも考えられるそうです。

宗光寺山門

私の感想

最期は、三原港に来てみました。意外と駅から近いところにあります。残っている史跡をめぐってみて、海城・三原城を想像することができました。それに昔、島だったところが、天主台や櫓跡として市街地の中で残っているのを見て、先祖返りしたようにも思えました。自然の地形が、ずっと今の町の姿にも影響しているのです。

三原港

リンク、参考情報

三原城跡、三原観光navi(三原観光協会)
中井教授インタビュー、三原市
戦国ジジイ りりのブログ
まっつんのブログ 明るく楽しく元気よく!
・「ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「小早川隆景のすべて」新人物往来社
・「”大気”な武将 小早川隆景/中西豪著」歴史群像125号記事
・「三原城本丸大広間についての考察 /佐藤大氏論文」 広島大学学術情報リポジトリ

「三原城・新高山城 その1」に戻ります。
「新高山城 その2」に戻ります。

これで終わります、ありがとうございました。

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