125.小机城 その2

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

ここに行くには

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

小机駅

振り返ると「小机駅前」交差点がありますので、右に曲がっていきます。商店街の通りを進みます。

小机駅前交差点
商店街

「小机辻」という交差点のところで、右に曲がりましょう。途中に金剛寺というお寺がありますが、奥の高台が「古城」と呼ばれた場所だったようです。

小机辻交差点
金剛寺

その先の横浜線の踏切を渡りましょう。渡った後に「小机城址」の案内があります、次の交差点を左です。閑静な住宅地ですが、線路の方を見ると、向こう側も結構な台地になっています。もしかすると城がそこまで続いていたかもしれません。

横浜線の踏切
左に曲がります
線路の向こう側が台地になっています

城跡への入口はどこでしょう。また案内があります。まだ住宅地が続きますが、急に竹林が現れます。突然、別世界に入った感じです。そうするうちに小机城址市民の森の入口「根古谷広場」に着きました。

電柱に案内があります(赤丸内)
竹林が現れます
根古谷広場

特徴、見どころ

巨大な土塁と空堀

「根古谷」とは、山城の麓の屋敷地という意味だそうなので、城主か城代、家臣たちの屋敷があったかもしれません。それでは、城跡へ登っていきましょう。麓からの高さは、20メートルちょっとです。竹林と城跡が一体化していて、すばらしいです。

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根古谷
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城周辺の地図

城跡へ登っていきます

登ったところが、城を囲む土塁の上です。内側に、ものすごい空堀が見えます。土塁と空堀のセットで、城を守っていたのでしょう。土塁の上を歩いていきましょう。空堀の向こう側に、土塁が高くなった場所があります。その場所は櫓跡で、監視をしたり、土塁や空堀に侵入した敵を攻撃するためでしょう。

土塁から空堀を見下ろしています
土塁の上を歩いていきます
空堀の向こうに櫓跡が見えます

遊歩道が下ったところから、空堀の中を歩くことができます。この空堀は、今でも幅約20メートル、深さは12メートルありますが、かつては深さが約20メートルもあったという記録があります。他の堀(北空堀)を約2メートル掘っても底には到達しなかったそうです。堀の形もまっすぐではなく、曲げられています。北条氏の堀の特徴である「畝堀」は見つかっていませんが、簡単に登ったり進めたりできないようになっているのでしょう。それから、空堀の両側に土塁を巡らせた「二重土塁」になっています。

空堀入口
空堀の底

城跡中心部とすばらしい竹林

今度は、城跡の中心部にやってきました。市民の森の案内図の向かい側には「井楼跡(せいろうあと)」があります。これも櫓のことです。近くの土塁の上にも「櫓台」がありますので、こちらはお城の中心的な櫓だったのかもしれません。それでは「二の丸広場」の方に入っていきましょう。名前に「二の丸」と付いていますが、城跡としては「東郭」と呼ばれています。ここを本丸とする説もあるのです。発掘調査をしたときには、建物の柱の穴が見つかっています。倉庫など、城の施設があったと考えられます。領民が集められてここで訓練していたのかもしれません。

中心部にある案内図
井楼跡
櫓台
二の丸広場(東郭)
以前は発掘調査が行われていました

二の丸広場の裏手を下ると、また見どころがあります。郭の周りを囲む空堀が、遊歩道になっているのです。城跡と自然がミックスされた道を、リラックスして歩けるのです。歴史派も自然派も、楽しめます。

空堀の遊歩道
すばらしい竹林

次は「本丸広場」に行ってみますが、その間にあるのが「つなぎの曲輪」です。ここにある「櫓跡」に行ってみましょう。ここからは、空堀が見渡すことができます。先ほど、空堀の向こうの土塁からみた櫓跡なのです。「つなぎ」といいつつ重要な曲輪だったのです。

つなぎの曲輪を通ります
櫓跡から空堀を見下ろしています

本丸広場に向かいます、城跡としては「西郭」と呼ばれています。中は、スポーツができる場所になっています。名前は「本丸」となっていますが、先ほどの「二の丸」と一緒で、確定されてはいません。「本丸」と名付けた事情はわかりませんが、よく防御された場所にあるとは言えるでしょう。例えば、もう一つの入口の前には、馬出しがあって、簡単に中に入れないようになっていました。それでその奥に、門を再建してみたのかもしれません。

本丸広場(西郭)
馬出し跡から本丸広場へ
本丸広場の門

出城をまわって帰還

周遊コースの最後は、第三京浜道路を越えて、出城があったかもしれない場所に行きます。現地の城の想定図でも、その辺りを「出城」と表示しています。第三京浜の下のトンネルを通るので、一旦台地から降ります。トンネルを出たら、今度は上りです。登りきると、向こう側の城の丘が見えます。周りが開けていたら、見張り台がありそうなところです。

現地にある城の想定図
第三京浜下のトンネル
出城跡への登りの階段
道路向こう側の城の丘

残念ながら、明確なお城の遺構は見つかっていないそうですが、とにかく、天辺まで行ってみましょう。その天辺は小山のようになっていて、石碑があります。「富士仙元大菩薩」と書かれていて、江戸時代のものだそうです。頂上の小山も、その時代に、富士塚として築かれたのでしょう。もしかしたらこの下に、出城の遺構があるかもしれませんが、このミニ富士山も切にしてほしいです。

頂上は富士塚になっています
富士仙元

ここから戻りますが、来た時と違う方向に行きます。すると、また世界が急に変わった感じがします。そこが市民の森と、市街地の境界なのでしょう。大都会の自然や史跡を守るのは大変なのです。駅に戻るには、出たところにある駐車場を抜けて、道を下っていきます。しばらく歩くと、幹線道路にぶつかりますので、左に曲がります。その道路をまっすぐ行くと、城跡に向けて曲がった「小机辻」交差点に至ります。駅はもうすぐです。

市民の森と市街地の境界辺り
突き当たりを左です

私の感想

きれいな竹林に飾られた城跡を満喫し、住宅地から急に別世界に入ったような感覚も面白かったです。もしかしたら城の範囲だったかもしれないところも、周遊して回れたので、かつての城の姿を想像してみるのもありだと思いました。

竹林に囲まれた空堀の遊歩道

また、小机駅のすぐ近くには、横浜市城郷小机地区センターがあって、城の模型や、パンフレット、歴史の展示や書籍などがあります。城跡に行く前か行った後に立ち寄ってはいかがでしょうか。

横浜市城郷小机地区センター

リンク、参考情報

大倉精神文化研究所 横浜市港北区地域の研究(シリーズわがまち港北)
広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ
・「横浜の戦国武士たち/下山治久著」有隣新書
・「歴史群像149号 戦国の城 武蔵小机城/西股総生著」学研
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「「太田道灌状」を読み解く/尾崎孝著」ミヤオビパブリッシング
・「小机城を明らかに―小机城跡埋蔵文化財試掘調査について―」横浜市教育委員会
・「小机城を明らかに―小机城跡発掘調査成果報告会―」横浜市教育委員会

「小机城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

125.小机城 その1

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。現在も横浜線に「小机駅」があります。しかし、「横浜」は幕末に横浜が開港してからメジャーになった地名です。それ以前は、横浜の辺りは、何と呼ばれていたでしょうか。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。もしその当時の人に聞いたら、「横浜」より「小机」の方が知られていたでしょう。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

「横浜鉄道蒸気出車之図」三代 歌川国貞作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道灌による小机城攻め

まず、小机城がどんなところにあったかご紹介します。現在は東京を中心として交通網が整備されています。小机城は、東京-横浜をつなぐラインからは外れてしまっています。一方、中世の関東地方は鎌倉を中心に、鎌倉街道と呼ばれる複数の道があって、小机城は鎌倉街道の一つに沿った位置にありました。それに近くに鶴見川が流れていて、舟による交通の便もありました。城は、その鶴見川に着きだした丘陵地帯の先端に築かれました。自然の地形を生かして築城したと考えられます。築城時期ははっきりしませんが、戦国時代になると、その名を現します。

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小机城
Leaflet, © OpenStreetMap contributors
城の位置

鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

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小机城
Leaflet|国土地理院
城周辺の起伏地図

戦国時代になると(15世紀後半)関東地方は、関東公方・足利氏と、関東管領・上杉氏が、二分して争っていました。上杉氏には2つの系統があって、山内上杉氏の家宰(筆頭の重臣)長尾氏と、扇谷上杉氏の家宰・太田氏が力を持っていました。1476年(文明8年)、長尾景春は、その家宰の地位を継げなかった不満から反乱を起こしました(長尾景春の乱)。上杉方の中からも景春に味方する者が多く、陣営は大混乱に陥りました。この乱を鎮めたのが、もう一方の家宰・太田道潅だったのです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道潅は江戸城河越城を築いたことで有名ですが、その連絡線上に勢力があった豊島氏が反乱軍に加わったので、それを撃破しました。更に現在の川崎市辺りに攻め込みますが、そのとき敵が逃げ込んだのが小机城だったのです。道灌も「太田道灌状」の中で「小机要害」と呼んでいるので、それなりの城になっていたと思われます(下記補足1)。道潅は、鶴見川の対岸に布陣し、約2ヶ月もかけて、城を攻略しました(下記補足2)。

(補足1)翌朝(文明10年正月26日)丸子へ陣を張り候。御敵に向い差し寄せ候の処、小机要害へ逃げ籠り候間、其の儘押し詰め、二月六日近陣に及び候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

(補足2)景春蜂起せしめ、浅羽へ打ち出し、吉里に一勢相加え、大石駿河守在城地二宮へ着陣、小机城へ後詰いたし、謀略を廻らせ候の処、三月十日、河越より浅羽陣へ差し懸かり、追い散らし候の間、(略)方々の儀共此の如く候間、小机城四月十一日没落せしめ候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

道潅が、兵士を鼓舞するために詠んだ歌が残っています。
「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」
小机城は「小机を用意して「いろは」の習いを始めるくらい、簡単に落とせるよ」という意味でしょうか。この歌は江戸時代の記録によるものなので(「新編武蔵国風土記稿」など)、本当に道灌が詠んだのかどうかは何とも言えません。乱が収まった後、小机城は一旦廃城になったようです。

北条氏と小机領

道潅による小机城攻めから数十年後、再び城が注目されるときがきました。15世紀末までに相模国(現・神奈川県中西部)を治めた北条氏が、武蔵国への侵攻を始めたのです(小机城があった現・神奈川県東部地域は武蔵国の範囲内でした)。北条氏2代目の北条氏綱が、扇谷上杉氏の江戸城を攻略したのが1524年(大永4年)なので、同じ頃に小机城も北条氏の支配下となり、再興されたと考えられています。小机城は当初、相模国玉縄城の管轄下で、城代として、初代・早雲以来の重臣・笠原氏が入りました。
やがて、城主として、北条一族が宛がわれるようになり、三郎、氏堯(うじたか)、氏信、氏光と続きました。笠原氏は、引き続き代々城代を務めました。

北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに伴い、小机城がある地域は「小机領」として、北条氏の領国支配の単位として認識されます。小机領の西隣りは玉縄領で、東隣りは江戸領でした。その範囲は厳密にはわかっていませんが、支城がいくつもあったので(下記補足3)、その分布から大まかに推定できます。また現在でも「旧小机領三十三所観音霊場」というのが残っていて、その分布も参考になると思います。これらの分布は、北部横浜市域が中心ですが、一部は川崎市や東京都町田市にも及んでいます。現在の川崎市と東京都を分ける多摩川は、かつてはもっと川崎市側を流れていたそうなので、現・川崎市が全て小机領というわけではありませんが、小田原と江戸の中間にある、重要な地域だったとは言えるでしょう。小机城は、その小机領の中心的な拠点だったと考えられます。

(補足3)大曽根城、篠原城、大豆戸城、矢上城、加瀬城、井田城、山田城、茅ヶ崎城、池辺城、佐江戸城、川和城、久保城(榎下城)、恩田城、荏田城など

また、小机領には「小机衆」という家臣団が編成されていました。北条氏の家臣の役高が記載された「小田原衆所領役帳」には、小机衆として、笠原氏を筆頭に、29名が記載されています。小机衆は、当初は、小机領を確保し支配するための組織でしたが、北条氏の領土が広がると、軍団の一つとして動員されたようです。

城の改修と小田原合戦

初期の城の姿はわかっていませんが、「要害」と言われていたので、主に自然の地形を利用していたのでしょう。北条氏の時代になって改修が進められ、豊臣秀吉による小田原攻めが迫ると、遺跡などから推定される、最終形に至ったと考えられます。中心部に大きな曲輪が2つあって、「つなぎの曲輪」と呼ばれる十字形の曲輪によって、連結されています。全体はそれほど大きくなく、他の北条氏の支城に比べたら縄張り(レイアウト)はシンプルです。しかしこの城の特徴は、そのサイズに不釣り合いなほど、長大な土塁を空堀が全体を囲んでいることです。

小机城の模型、横浜市城郷小机地区センターにて展示
小机城の空堀

小田原攻めの2年前の1588年(天正16年)、領内の百姓に対して、15〜70歳までの男性は、武器を持って城に集まるよう命令が出されています。この動きは、小机城の改修された姿と関連はあるのでしょうか。ある歴史家は、小机城は少人数の百姓主体の部隊でも、秀吉軍の攻撃に対して、ある程度耐えられるように作られたのではないかと推定しています。北条領内の各城から、専業武士を中心とした精鋭は、小田原城防衛のために引き抜かれていました。北条軍総勢約8万人のうち、約5万人が小田原に集められたと言われています。実際、小机城主・北条氏光は、足柄城から小田原城に転戦しています。小田原以外の城は、残った少数の武士が、徴兵した百姓を率いて戦わなければなりませんでした。小机城は大きすぎないので、少数の兵でも目配りができ、大軍に対しても周囲の土塁と空堀で、敵の攻撃を防ぐことができます。あくまで小田原の防衛が最終目的なので、時間稼ぎができればいいのです。

小田原城
小机城の想定図、現地説明パネルより

しかし、残念ながら小田原合戦のときの小机城の動向は記録されていません。他の多くの城のように戦わず開城したとも、最初から放棄されたとの説もあります。城代の笠原氏は、後に江戸幕府の旗本になっているので、小机城にいて降伏恭順したのかもしれません。

その後

小田原合戦後、小机城は廃城になり、やがて平和な江戸時代を迎えます。小机城跡は「城山」と呼ばれるようになりましたが、城跡の研究もその当時から始まりました。その成果の一つが、広島藩浅野家に伝えられた「諸国古城之図」の中の「武蔵 北条三郎居城」(小机城のこと)です。これが初めて小机城が描かれた絵図です。これを見ると、中心部は今残っている遺跡とあまり変わらないことと、現在「東郭」と呼んでいる曲輪を「本城(本丸)」としているのがわかります。東郭と西郭、どちらが本丸なのかは、この時以来議論になっていて、一番奥まった場所とするか、一番広いかもしくは強固に守られているか、といった視点によって異なるようです。当初は東郭が本丸だったが、城の改修が進んで西郭に移ったという意見もあります。

「諸国古城之図」の内「武蔵 北条三郎居城」図、広島市立中央図書館蔵(当図書館から掲載承認済み)

自然に戻るような形で維持された城跡でしたが、近現代になると開発の波に晒されます。1908年(明治41)、横浜線が開通するときに「城山トンネル」が掘られ、その線路によって、城跡と根元の台地が分断されました。根元の方に「古城」という地名が残っていて、そちらが城の発祥地かもしれないとのことです。戦後には、第三京浜道路が城跡を通る形で開通し(1964年〜1965年)、西郭の一部が破壊されました。皮肉にもこの工事中(1963年、昭和38年)に曲輪の遺構が発見され、緊急調査が行われました。

Leaflet|国土地理院
城周辺の航空写真

その後、城跡は1977年(昭和52年)から横浜市「小机城址市民の森」として保護されています。「市民の森」は1971年(昭和46年)に市が始めた、緑地保存のための制度です。史跡として指定はされていませんが、史跡保護にもつながっています。2021年(令和3年)には、初めて城跡の発掘調査が行われました。すぐに、城の全貌や謎が明らかになるわけではありませんが、これからに期待です。

東郭の発掘現場

「小机城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

116.沼田城 その2

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

特徴、見どころ

Introduction

今回は、沼田駅前からスタートします。「真田の里」の旗がお出迎えです。この駅は、河岸段丘の麓にあるので、ここから段丘を登っていきます。その方が要害にあった城を感じることができるでしょう。城跡がある沼田公園はちょうど桜の季節なので、一緒に見学しながら、天守がどこにあったのかも、探してみたいと思います。その後は、天空の城下町を散策して、昔からの用水路も見学しましょう。

沼田駅前

要害を感じながら城跡へ

駅から城跡の沼田公園までは、1キロくらいの距離ですが、7、80mの高さの段丘を登るので、遠く感じるかもしれません。五重の天守ディスプレイもお出迎えです。坂をずっと登っていきます。だんだん急になってきます。ここは「滝坂」と呼ばれています。近くに「滝坂川」が流れていますが、沼田の用水のことです。沼田を潤した用水が、台地の端まで来ているのです。ショートカットの階段を登ると、坂はますます急になります。:階段を出ると、崖が見えて、要害の場所というのがわかります。平らになってくると、そこは台地の上です。かつてはこの辺に「滝坂門」がありました。左に曲がって、ずーっと歩いていくと門が見えてきます。沼田公園の入口です。

街なかの五重天守ディスプレイ
滝坂
滝坂川
滝坂門のあった辺り
沼田公園入口

城跡と御殿桜を見学

公園の入口は、三の丸の一部でした。入ったところに観光案内所があります。それでは、公園の中、元の本丸に入っていきましょう。中心部は花壇になっていますが、今回は「要害」を感じたいので曲輪の縁(へり)を歩いていきます。さっそくいい景色が見えます。城が要害の地に築かれたことがわかります。近くには、公園のシンボルになっている鐘楼があります。明治時代から戦後まで、沼田の町で真田時代の城の鐘を使って建てられていたものが、公園に復元されています。現在の鐘は、レプリカだそうです。:

沼田市観光案内所
沼田公園の中心部
台地のへりを進んでいきます
復元された鐘楼

どんどん進んで行くと、次は西櫓台です。真田信利が改易となったとき、これも壊され、埋められましたが、発掘された石垣を見学することができます。その櫓台の上にある「御殿桜」は、樹齢400年以上と言われています。つまり、真田時代からあったということになります。真田時代からの石垣と桜、素晴らしいコンビです。

西櫓台の石垣
西櫓台と御殿桜

もっと見ていたいですが、次に進みましょう。公園としては「下公園」と呼ばれている場所で、城の時代には「捨曲輪」「古城」と呼ばれました。沼田城が最初に築かれた場所で、沼田顕泰が築城したと言われています。「平八石」というのが置かれています。真田昌幸が城主だったときに、顕泰の子・平八郎が城を奪おうとして返り討ちに遭い、その首が置かれたとのことです。戦国時代に逆戻りです。台地の角に着くと、これもいい眺めの場所です。ここから、名胡桃城があった辺りも見えます。名胡桃城事件があったときは、こっちは北条、むこうは真田で張り合っていました。

平八石
捨曲輪からの眺め

天守はどこに?

次は、今は幻の天守の場所を探しましょう。絵図を見ると、天守は、捨曲輪(古城)から続く、本丸の東側の堀に沿って立っています。そこで捨曲輪から折り返して、堀みたいなところを探すと、向かって左側は堀っぽいです。なるべくそれに沿って進んでみますが、今は完全に公園になっていますので、それなりに歩くと通路に出ます。その辺りに「天守跡」の石碑があります。これがなければ、五重の天守があったとは、全然わかりません。ただこの周辺(本丸堀)を発掘調査したときには、大量の瓦及び金箔瓦が発見されています。最近では、信之時代(旧)と信利時代(新)と考えられる新旧の天守礎石が発見されました。信利が天守を修復した記録があるそうです(1658年、明暦4年に本丸をかさ上げした時など)。天守も城も短期間で埋められたそうですから、他にもいろいろ出てきそうです。これからに期待です。

「上野国沼田城絵図」の本丸部分、出展:国立公文書館
天守跡

発掘されて見学できるものが他にもあります。本丸堀と石垣の一部です。発掘された辺りにも櫓がありました(「東櫓」または「巽櫓」)。櫓があったと思われる場所まで行けそうです。休憩スペースになっていて、石垣も見学できます。城の姿が、少しずつ明らかになってくるのが楽しみです。

本丸堀跡
東櫓(巽櫓)跡周辺の石垣

公園パートの最後に、面白い現象をご紹介します。公園の東側の、旧野球グラウンドの場所を航空写真で見ると、箇所によって、植物の成長に違いに見られるそうです(クロップマーク)。これは、堀跡だった場所と、それ以外の場所によって生じた可能性があるそうです(沼田市資料による)。城が自己主張しているようです。

沼田公園の航空写真、出展:国土地理院

天空の城下町を散策

今度は城下町(市街地の坊新田町)にやってきました。ここも坂になっています。この通りは大手道で、この辺りには木戸が設けられていました(七木戸の一つ)。ちょうど坂を上がった所が関門になっていたのです。最近は「ようやっと坂」とも呼ばれているようです。大手道は当然防御されるべきなので、他にも仕掛けがありました。右側(東側)には寺が続いています。いざというときに、防衛拠点にするためです。この辺は「坊新田町」といって、信之から信吉の時代に作られ、寺が集められました。金剛院の大灯篭が見物です。少し離れますが、左側(西側)にも、小松姫のお墓がある正覚寺があります。

坊新田町周辺(ようやっと坂)
金剛院の大灯篭
小松姫墓(正覚寺)

中町を越えると、道は狭くなります。「お馬出し通り」と呼ばれていて、今もかつての雰囲気が残っています。また門が見えてきました。大手門跡です。

お馬出し通り
大手門跡

次は、先ほど大手道と交差した中町です。一見普通の商店街に見えますが、ちょっと歩いてみると、建物が少し斜めに建てられて、手前にスペースができているのが見て取れます。これは「武者隠し(武者最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。隠れ)」といって、通りを攻めてくる敵を、待ち伏せできるようになっていました。

中町
「武者隠し」と思われるスペース

最後に、真田信吉のお墓がある、天桂寺にやってきました。お寺の傍らを、沼田の用水が流れています。最初に見た滝坂川のことですが、城堀川とも呼ばれています。町の開発に努力した信吉が眠るのに、相応しい場所だと思います。

天桂寺
沼田の用水
真田信吉墓

私の感想

真田の城や町づくりが、一見あまり残っていなさそうで、実は今でもしっかり保存されていることがわかりました。御殿桜もきれいでした。

御殿桜

リンク、参考情報

沼田城跡、沼田市ホームページ
沼田市歴史資料館、沼田市ホームページ
・「沼田市史」
・「歴史群像188号 分析 謙信越山/入澤宣幸著」
・「真田信之 真田家を継いだ男の半生/黒田基樹著」角川選書
・「沼田藩真田用水群の魅力/真田陽水研究会」上毛新聞社
・「磔茂左衛門一揆の研究 /丑木幸男著」文献出版
・「発掘 沼田城かわら版 第1号、第2号」沼田市教育委員会文化財保護課
・「沼田市指定史跡沼田城跡 調査・保存整備事業の成果1・2」沼田市教育委員会文化財保護課

「沼田城その1」に戻ります。

「沼田城その3」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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