207.西方城 その1

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

立地と歴史

Introduction

藤田信吉という武将をご存じでしょうか。それほど有名ではありませんが、戦国時代に関東の大名家を渡り歩き、江戸時代初期には西方藩の藩主になった人物です。例えば、真田昌幸が沼田城を手に入れた時、関ヶ原前の会津征伐が始まる時など、戦国のターニングポイントで登場します。そして、大坂の陣後に突然亡くなり、藩も改易になるなど、退場の有様も謎めいています。また、彼が藩主になったとき出会ったのが西方城です。もとは、現・栃木県栃木市に、宇都宮氏の一族・西方氏が築いた山城です。こちらもまだそれほど有名ではありませんが、技巧に富んだ造りをしています。信吉はその山麓に、二条城とも呼ばれる城館(陣屋)を築きました。今回は、隠れた猛将が出会った隠れた名城、として両方をご紹介します。

西方城跡、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

藤田信吉の登場

藤田氏はもともと武蔵国北部(埼玉県)の有力領主(国衆)でした。戦国時代の中頃(16世紀前半)になると、北条氏が台頭し、関東地方の制覇を目指します。藤田氏は、関東管領・上杉氏の配下でしたが、河越城の戦いでの敗戦(1546年)をきっかけに北条氏になびくようになります。そのやり方は、当時の当主・藤田泰邦が、北条氏康の子・氏邦を婿養子として受け入れることでした。北条氏としては、実質その国衆の領地を手に入れることになります。氏邦は、北条氏領国の重要拠点・鉢形城城主にもなりました。

河越(川越)城跡(本丸御殿)

しかし1560年(永禄3年)に上杉謙信の関東侵攻が起こると、北条氏による支配は一時揺らぎます。そのとき氏邦が当てにしたのが、藤田氏の一族・用土氏で、その当主は、藤田康邦の甥の重連(しげつら)でした。重連は北条本家(氏政)にも信用され、謙信亡き後、北条が沼田城を手に入れたときには、その城代の一人にもなりました。

沼田城跡

ところが、1578年(天正3年)、重連が突然亡くなります。北関東統治を安定させた氏邦が、今度は用土氏の存在が邪魔になって、毒を盛ったと言われています。その重連の後釜に、北条本家が指名したのが弟の信吉(当時は新六郎)だったのです。つまり、北条氏内で食い違った思惑の中、重要なポジションを任されたのです(下記補足1)。

(補足1)此の沼田の城は重氏(氏邦)に降りしを、又重連に賜はること安からぬとて、頓て重連に毒すすめて殺しぬ。氏政、重ねて重連が弟弥六郎信吉して、兄が跡を継ぎて沼田の地を守らす。安房守重氏、いよいよ安からぬ事に思ひ、氏政、氏直父子に信吉が事さまざまに讒す。(「藩翰譜」)

ちょうどその時、沼田城を狙っていたのが、武田勝頼の家臣・真田昌幸でした。1580年(天正5年)、昌幸は調略の手を信吉に伸ばしました。信吉はそれまで北条方として真田と戦っていたのですが、一方で北条氏邦から命を狙われていたとも言われます。北条家臣出身の妻が亡くなり、人質に出していた藤田康邦の母も亡くなっていました。機会が訪れたと言えるのかもしれません。信吉は、昌幸に内応し、武田方の城・沼田城の城代になりました。そして藤田信吉と名乗り、北条氏に奪われた家名を、自ら復活させたのです。

真田昌幸像、個人蔵 (licensed under Public Domain, via Wikimedia Commons)

大名家を渡り歩きついに独立大名に

信吉は武田方の武将として、北条からの攻撃をよく防ぎました(沼田平八郎によるものなど)。しかし今度は、武田氏の滅亡・本能寺の変による混乱に巻き込まれます。沼田城は一旦、織田方の滝川益重(滝川一益の城代)のものとなり、信吉は他の城に退きました。滝川氏が本能寺の変を聞き、兵を引き上げるとき、信吉は沼田城での独立を目論見ます。ところが、滝川は城を真田昌幸に返したため、信吉は行き場を失ってしまったのです。信吉は城を奪回しようとしますが果たせず、落ち延びました。その行先は、越後(現・新潟県)の上杉景勝でした。

上杉景勝肖像画、上杉神社蔵、江戸時代 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

信吉の武名はよく知られていましたので、景勝は喜んで信吉を迎えました。その頃上杉家は内乱(御館の乱)の直後で、人材不足に陥っていました。また、当時の信吉の妻が海野竜宝(武田信玄の子)の娘で、景勝の正室が竜宝の妹だったという縁故もありました。1582年(天正10年)の放生橋の戦い(対新発田重家)で、信吉は景勝の窮地を救うという活躍をし、重臣に抜擢されました(下記補足2)。信吉もその期待に応え、越後国内外の平定(新発田重家の反乱鎮圧など)に貢献しました。1590年(天正18年)豊臣秀吉による北条氏攻めが起こると、信吉は上杉部隊として出陣しました。そしてかつての主君、北条氏邦がこもる鉢形城攻撃に加わったのです。1ヶ月の籠城戦の後、氏邦は降伏しますが、信吉はかつてのいきさつにも関わらす、氏邦の助命嘆願をしたとも言われます(「埼玉人物事典」)。氏邦は、城攻めの大将だった前田利家のもと(金沢)で亡くなる(1597年)まで過ごしました。信吉は信吉なりに、信義を尽くしたのです。

(補足2)同(天正十年)十月廿七日、新発田の城の戦に、首八十六切つて参らす。景勝、大きに感じ、此の年十二月、長島の城を賜り、藤田が手の者二百五十騎、寄騎の侍五十人、都合三百騎の大将に成れてけり。(「藩翰譜」)

鉢形城跡

上杉はその後会津に転封となりましたが、その時代のハイライトは会津征伐でしょう。秀吉没後は、家康が最強の実力者となり、政権基盤を固めようとしました。例えば、前田利家が亡くなった後、その跡継ぎ・利長を勢力下に収めました。前田としても、後に「加賀百万石」が定まる大きな分岐点でした。1600年、慶長5年の正月、信吉は景勝の名代で上洛しました。信吉はこのとき、上方の状況を見て、上杉家存続のためには家康との融和が必要と考えたはずです。折しも、上杉は領国での新城などの建設、旧領国からの年貢持ち去り問題などがあり、謀反を疑われていたのです。信吉は、帰国すると景勝に対して、上洛して家康に申し開きをするよう説得しました。もしここで景勝が上洛していたら「会津120万石」と今でも言われていたかもしれません。しかし「直江状」で有名な直江兼続を筆頭に、家中は反家康に傾いていました。最近の研究では、景勝自身も家康に強硬な態度をとっていたと言われます。つまり信吉は、上杉家中の「家康に買収され内通している」として完全に孤立してしまったのです。この年の3月、信吉は出奔しました。その行先は、徳川でした(下記補足3)。

(補足3)かかる所に景勝、石田治部少輔三成等と言い合はせたる旨あって、東西に分かれて一時に軍起こさんとす。信吉、是を強ちに諫めしに、直江兼続が為に讒せられて誅せらるべしと聞こゆ。信吉、大きに恨みて、おのが家に二心あらざる由の起請文書きて残し置き、慶長五年三月十三日、会津を去りて都に登り、大徳寺に籠り居て入道し、源心とぞ号しける。(「藩翰譜」)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このとき信吉は、江戸で、家康の跡継ぎ・秀忠に、上杉を讒言し、会津征伐のきっかけを作ったという見解もありました。しかし形勢が固まっていたとするならば、状況を報告しただけなのかもしれません。家康は信吉に、会津への道案内をするよう依頼したとも言われますが、信吉は剃髪、「源心」と号して、京都・大徳寺に蟄居しました。関ヶ原後、家康は信吉を召し出し、下野国西方に1万5千石の領地を与えました。ついに、独立大名の地位を得ることになったのです。

西方城の築城と発展

西方城は、伝承によれば、宇都宮氏の一族・西方景泰が、鎌倉時代後期に築いたとされます(江戸時代に編さんされた「西方記録」)。しかし最近の研究よると、同じ宇都宮氏の一族で、西方宗泰という人物が、室町時代に京都から下野にやってきた以降のこととのことです。確実な史料に西方城の名が初めて現れるのは、戦国時代(1573年、天正元年)になります。

城の位置

戦国時代の下野国は総じて、宇都宮城を本拠地とする宇都宮氏の勢力が強かったのですが、国内を統一していたわけではなく、那須氏・小山氏・結城氏・佐野氏らによっても分割されていました。西方城の周りにも、壬生氏・皆川氏がいて、敵にも味方にもなりうる存在だったので、西方城は、宇都宮氏グループの西側の飛び地のようになっていたのです。実際、皆川氏との抗争の場でもあったと言われます(戦国中盤または後半の時期)。やがて、戦国時代後半(16世紀後半)になると、北条氏が南から勢力を伸ばしてきました。佐野氏、小山氏、皆川氏、壬生氏は、北条の傘下となりました。宇都宮氏の当主・宇都宮国綱は、本拠を山城の多気城に移し、北条氏の侵攻に備えました。西方城も、このような状況下で、境目の城として防御態勢が強化されたと考えられます。

復元された宇都宮城
多気城跡

そのころの西方城は山城として築かれ、峰の上には曲輪群があり、それぞれが深い堀で区切られていました。敵の攻撃を防ぐため、土塁・堀・切岸を複雑に組み合わせ、敵の側面に攻撃(横矢)できるようにしました。城への入口は、枡形虎口を多く使っていて、厳重に守られていました。自然の地形を生かしながら、巧みに加工して、攻めにくいように築き上げたのです。

城の地形図(赤色立体地図)、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より
山城の二の丸虎口

小田原合戦の後、関東地方には徳川家康が入り、下野国には、家康の子・結城秀康の領地(本拠は下総国、10万石)の一部が設定されました。西方城も、その中に含まれたのです。その時代の城の状況はわかっていません。一時廃城になったとも、その時期に山麓に城館が築かれたとも言われています。

小田原合戦後の下野国分割状況、「なんで西方城なるほど西方城」企画展より

関ヶ原後、結城秀康は、越前北ノ庄68万石の大大名になり、その後釜の一人として藤田信吉が入ってきたのです。彼は、山麓に陣屋(藩庁)を置いたとされます。この部分は現在「二条城」とも呼ばれていて、京都の二条城を連想してしまいますが、新しい城という意味で「にいじょう(新城)」がなまったものと言われます。山城部分は、普段は使わなくも、何か事があったときには、山麓と連携して使ったとしてもおかしくありません。信吉は城下町も整備し、その名残として、そのときに由来を持つ神社や寺が残っています。

山麓の「二条城」跡
信吉が創建したと伝わる愛宕神社(鞘堂内)

信吉と西方城の最期

藤田信義と西方城の最期は、思いがけずやってきます。そのきっかけは、1615年の大坂夏の陣の時です。信吉は、榊原康勝の軍監として出陣しました。しかし、慶長20年5月6日の若江の合戦で失態を犯してしまうのです。この合戦で幕府軍は、大坂方の木村重成隊などと戦いました。その直前に、木村隊の一部が、小笠原秀政隊に近づいてきたときに、となりにいた榊原隊がともに戦おうとしましたが、信吉がそれを止めたのです。敵の後ろに伏兵が控えていると思ったからです。(下記補足4)しかし実際には伏兵はいなくて、両部隊は戦機を逸したのです(榊原隊は合戦後半に参戦)。小笠原秀政は、将軍・徳川秀忠から叱責を受けました(信吉が弁明)。翌日の天王寺口の戦いでは、両部隊と信吉は、遮二無二戦いました。大坂の陣終結となる日です。小笠原秀政は戦没、榊原康勝は無理な戦がたたって病没、信吉も重傷を負いました。幕府方にもこんな犠牲があったのです。特に榊原康勝の件は、徳川四天王・康政の跡取りだったので重大視され、戦後、信吉は徳川家康から直接尋問されました。信吉は自分の責任を認めつつ、経緯を説明しました。その場の処分はなかったものの、信吉自身の戦傷が重くなり、1616年(元和2年)療養の途上、信濃国奈良井の長泉寺で亡くなりました(59歳)。信吉には跡継ぎがいなかったので、大名としても改易になってしまったのです(下記補足5)。信吉は、長泉寺の住職に、代々「藤田」を名乗るよう遺言していますので、亡くなるまで家名にこだわっていたのではないでしょうか。

(補足4)其合戦場敵備の後に、誉田八幡の森続、森の茂深し。伏奸あるべき地なり。天下の大軍を引請け、御威風にも恐れず、城より出でゝ備を立て、蹈忍へて引入れざるは事は、武術あるべき儀なるに、敵の備唯一重なり、是は伏兵を秘し、東の大軍追来る時、其乱立ちたる中へ、伏を起し討入るべしと考え申候。其時、館林の備を進め、横合に敵を討ち、勝利を得べしと存じ、此理を遠江守へ申談じ控へさせ候所、案に相違仕り、敵伏兵も無く、総崩れ仕り候。(「管窺武鑑」で信吉が徳川家康の尋問に答える場面)

(補足5)元和二年七月十四日、五十九歳にて卒し、男子なければ家たえたり(「藩翰譜」)

大坂夏の陣図屏風、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
西方・実相寺にある信吉墓(中央)

ところで、藤田氏の改易には異説があります。信吉の夏の陣での失態が直接の原因であるというもの(下記補足6)と、信吉の失言説もあります(下記補足7)。確かに失態により改易の方が理解されやすいとも思えます。現時点では、失態説の方が一般的のようです。

(補足6)大阪ノ役、指揮ヲ失フヲ以テ封除セラル(「徳川除封録」)

(補足7)大坂より御帰陣之日、能登守信吉言上奉り、「実に易く落城致し候」と祝い申し上げ、御機嫌に背き、面目を無くして高野山へ遁世(「西方記録」)

また、信吉の亡くなり方にも異説があって、自ら命を絶ったとするもの(補足8)、殺害説まであります(下記補足9)。失態→改易→自害というのが、聞き手にはドラマティックに思えてしまうのでしょう。早くに改易されて、家としても残らなかったで、いろんな話が作られたのでしょう。藤田信吉、謎と波乱に満ちた武将の人生でした。

(補足8)六日の戦に小笠原、榊原手に逢わざる事後に御せんさくに付き、小笠原事藤田差図のより申上げて藤田ついに信州へ流罪、これを憤って自殺す(「新編武家事紀」)

(補足9)三太郎(北条氏邦旧臣の諏訪部定吉)。越前中納言秀康卿に仕え、のち伏見に於て藤田能登守某を殺害して自殺す(「寛政重修諸家譜」)

西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。西方藩廃藩に伴い、西方城も廃城になりました。そして。長い眠りにつくとことになったのです。城下町のあった辺りは、日光例幣使街道の宿場の一つ(金崎宿)になりました。

「西方城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

125.小机城 その2

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

ここに行くには

今日は横浜線小机駅から歩いて、城跡のある「小机城址市民の森」に行きます。「小机城址市民の森」には駐車場がないので、遠くからのビジターは、出発点が「小机駅」になると思います。それなので、駅からスタートして、城跡の中心部を周って。第三京浜道路を越え、出城だったと言われる場所まで行き、周遊して駅まで帰ってくるコースをご紹介します。それでは、小机駅から出発しましょう。

小机駅

振り返ると「小机駅前」交差点がありますので、右に曲がっていきます。商店街の通りを進みます。

小机駅前交差点
商店街

「小机辻」という交差点のところで、右に曲がりましょう。途中に金剛寺というお寺がありますが、奥の高台が「古城」と呼ばれた場所だったようです。

小机辻交差点
金剛寺

その先の横浜線の踏切を渡りましょう。渡った後に「小机城址」の案内があります、次の交差点を左です。閑静な住宅地ですが、線路の方を見ると、向こう側も結構な台地になっています。もしかすると城がそこまで続いていたかもしれません。

横浜線の踏切
左に曲がります
線路の向こう側が台地になっています

城跡への入口はどこでしょう。また案内があります。まだ住宅地が続きますが、急に竹林が現れます。突然、別世界に入った感じです。そうするうちに小机城址市民の森の入口「根古谷広場」に着きました。

電柱に案内があります(赤丸内)
竹林が現れます
根古谷広場

特徴、見どころ

巨大な土塁と空堀

「根古谷」とは、山城の麓の屋敷地という意味だそうなので、城主か城代、家臣たちの屋敷があったかもしれません。それでは、城跡へ登っていきましょう。麓からの高さは、20メートルちょっとです。竹林と城跡が一体化していて、すばらしいです。

城周辺の地図

城跡へ登っていきます

登ったところが、城を囲む土塁の上です。内側に、ものすごい空堀が見えます。土塁と空堀のセットで、城を守っていたのでしょう。土塁の上を歩いていきましょう。空堀の向こう側に、土塁が高くなった場所があります。その場所は櫓跡で、監視をしたり、土塁や空堀に侵入した敵を攻撃するためでしょう。

土塁から空堀を見下ろしています
土塁の上を歩いていきます
空堀の向こうに櫓跡が見えます

遊歩道が下ったところから、空堀の中を歩くことができます。この空堀は、今でも幅約20メートル、深さは12メートルありますが、かつては深さが約20メートルもあったという記録があります。他の堀(北空堀)を約2メートル掘っても底には到達しなかったそうです。堀の形もまっすぐではなく、曲げられています。北条氏の堀の特徴である「畝堀」は見つかっていませんが、簡単に登ったり進めたりできないようになっているのでしょう。それから、空堀の両側に土塁を巡らせた「二重土塁」になっています。

空堀入口
空堀の底

城跡中心部とすばらしい竹林

今度は、城跡の中心部にやってきました。市民の森の案内図の向かい側には「井楼跡(せいろうあと)」があります。これも櫓のことです。近くの土塁の上にも「櫓台」がありますので、こちらはお城の中心的な櫓だったのかもしれません。それでは「二の丸広場」の方に入っていきましょう。名前に「二の丸」と付いていますが、城跡としては「東郭」と呼ばれています。ここを本丸とする説もあるのです。発掘調査をしたときには、建物の柱の穴が見つかっています。倉庫など、城の施設があったと考えられます。領民が集められてここで訓練していたのかもしれません。

中心部にある案内図
井楼跡
櫓台
二の丸広場(東郭)
以前は発掘調査が行われていました

二の丸広場の裏手を下ると、また見どころがあります。郭の周りを囲む空堀が、遊歩道になっているのです。城跡と自然がミックスされた道を、リラックスして歩けるのです。歴史派も自然派も、楽しめます。

空堀の遊歩道
すばらしい竹林

次は「本丸広場」に行ってみますが、その間にあるのが「つなぎの曲輪」です。ここにある「櫓跡」に行ってみましょう。ここからは、空堀が見渡すことができます。先ほど、空堀の向こうの土塁からみた櫓跡なのです。「つなぎ」といいつつ重要な曲輪だったのです。

つなぎの曲輪を通ります
櫓跡から空堀を見下ろしています

本丸広場に向かいます、城跡としては「西郭」と呼ばれています。中は、スポーツができる場所になっています。名前は「本丸」となっていますが、先ほどの「二の丸」と一緒で、確定されてはいません。「本丸」と名付けた事情はわかりませんが、よく防御された場所にあるとは言えるでしょう。例えば、もう一つの入口の前には、馬出しがあって、簡単に中に入れないようになっていました。それでその奥に、門を再建してみたのかもしれません。

本丸広場(西郭)
馬出し跡から本丸広場へ
本丸広場の門

出城をまわって帰還

周遊コースの最後は、第三京浜道路を越えて、出城があったかもしれない場所に行きます。現地の城の想定図でも、その辺りを「出城」と表示しています。第三京浜の下のトンネルを通るので、一旦台地から降ります。トンネルを出たら、今度は上りです。登りきると、向こう側の城の丘が見えます。周りが開けていたら、見張り台がありそうなところです。

現地にある城の想定図
第三京浜下のトンネル
出城跡への登りの階段
道路向こう側の城の丘

残念ながら、明確なお城の遺構は見つかっていないそうですが、とにかく、天辺まで行ってみましょう。その天辺は小山のようになっていて、石碑があります。「富士仙元大菩薩」と書かれていて、江戸時代のものだそうです。頂上の小山も、その時代に、富士塚として築かれたのでしょう。もしかしたらこの下に、出城の遺構があるかもしれませんが、このミニ富士山も切にしてほしいです。

頂上は富士塚になっています
富士仙元

ここから戻りますが、来た時と違う方向に行きます。すると、また世界が急に変わった感じがします。そこが市民の森と、市街地の境界なのでしょう。大都会の自然や史跡を守るのは大変なのです。駅に戻るには、出たところにある駐車場を抜けて、道を下っていきます。しばらく歩くと、幹線道路にぶつかりますので、左に曲がります。その道路をまっすぐ行くと、城跡に向けて曲がった「小机辻」交差点に至ります。駅はもうすぐです。

市民の森と市街地の境界辺り
突き当たりを左です

私の感想

きれいな竹林に飾られた城跡を満喫し、住宅地から急に別世界に入ったような感覚も面白かったです。もしかしたら城の範囲だったかもしれないところも、周遊して回れたので、かつての城の姿を想像してみるのもありだと思いました。

竹林に囲まれた空堀の遊歩道

また、小机駅のすぐ近くには、横浜市城郷小机地区センターがあって、城の模型や、パンフレット、歴史の展示や書籍などがあります。城跡に行く前か行った後に立ち寄ってはいかがでしょうか。

横浜市城郷小机地区センター

リンク、参考情報

大倉精神文化研究所 横浜市港北区地域の研究(シリーズわがまち港北)
広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブ
・「横浜の戦国武士たち/下山治久著」有隣新書
・「歴史群像149号 戦国の城 武蔵小机城/西股総生著」学研
・「太田道灌と長尾景春/黒田基樹著」戒光祥出版
・「「太田道灌状」を読み解く/尾崎孝著」ミヤオビパブリッシング
・「小机城を明らかに―小机城跡埋蔵文化財試掘調査について―」横浜市教育委員会
・「小机城を明らかに―小机城跡発掘調査成果報告会―」横浜市教育委員会

「小机城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

125.小机城 その1

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

立地と歴史

Introduction

小机城は現在の横浜市(北区)にあった城です。現在も横浜線に「小机駅」があります。しかし、「横浜」は幕末に横浜が開港してからメジャーになった地名です。それ以前は、横浜の辺りは、何と呼ばれていたでしょうか。小机城の全盛期、戦国時代後半には、北部横浜市域は「小机領」と呼ばれたのです。ということは当時は、今の「横浜」と同じくらいネームバリューがあったのかもしれません。もしその当時の人に聞いたら、「横浜」より「小机」の方が知られていたでしょう。小机城は、その中心的な拠点だったのです。

「横浜鉄道蒸気出車之図」三代 歌川国貞作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道灌による小机城攻め

まず、小机城がどんなところにあったかご紹介します。現在は東京を中心として交通網が整備されています。小机城は、東京-横浜をつなぐラインからは外れてしまっています。一方、中世の関東地方は鎌倉を中心に、鎌倉街道と呼ばれる複数の道があって、小机城は鎌倉街道の一つに沿った位置にありました。それに近くに鶴見川が流れていて、舟による交通の便もありました。城は、その鶴見川に着きだした丘陵地帯の先端に築かれました。自然の地形を生かして築城したと考えられます。築城時期ははっきりしませんが、戦国時代になると、その名を現します。

城の位置

鎌倉を中心とした鎌倉街道(出展;多摩市、小机城の位置を追記)

城周辺の起伏地図

戦国時代になると(15世紀後半)関東地方は、関東公方・足利氏と、関東管領・上杉氏が、二分して争っていました。上杉氏には2つの系統があって、山内上杉氏の家宰(筆頭の重臣)長尾氏と、扇谷上杉氏の家宰・太田氏が力を持っていました。1476年(文明8年)、長尾景春は、その家宰の地位を継げなかった不満から反乱を起こしました(長尾景春の乱)。上杉方の中からも景春に味方する者が多く、陣営は大混乱に陥りました。この乱を鎮めたのが、もう一方の家宰・太田道潅だったのです。

太田道灌肖像画、大慈寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

太田道潅は江戸城河越城を築いたことで有名ですが、その連絡線上に勢力があった豊島氏が反乱軍に加わったので、それを撃破しました。更に現在の川崎市辺りに攻め込みますが、そのとき敵が逃げ込んだのが小机城だったのです。道灌も「太田道灌状」の中で「小机要害」と呼んでいるので、それなりの城になっていたと思われます(下記補足1)。道潅は、鶴見川の対岸に布陣し、約2ヶ月もかけて、城を攻略しました(下記補足2)。

(補足1)翌朝(文明10年正月26日)丸子へ陣を張り候。御敵に向い差し寄せ候の処、小机要害へ逃げ籠り候間、其の儘押し詰め、二月六日近陣に及び候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

(補足2)景春蜂起せしめ、浅羽へ打ち出し、吉里に一勢相加え、大石駿河守在城地二宮へ着陣、小机城へ後詰いたし、謀略を廻らせ候の処、三月十日、河越より浅羽陣へ差し懸かり、追い散らし候の間、(略)方々の儀共此の如く候間、小机城四月十一日没落せしめ候。(「太田道灌状」、「「太田道灌状」を読み解くより抜粋)

道潅が、兵士を鼓舞するために詠んだ歌が残っています。
「小机は先手習いの初にて、いろはにほへとちりぢりになる」
小机城は「小机を用意して「いろは」の習いを始めるくらい、簡単に落とせるよ」という意味でしょうか。この歌は江戸時代の記録によるものなので(「新編武蔵国風土記稿」など)、本当に道灌が詠んだのかどうかは何とも言えません。乱が収まった後、小机城は一旦廃城になったようです。

北条氏と小机領

道潅による小机城攻めから数十年後、再び城が注目されるときがきました。15世紀末までに相模国(現・神奈川県中西部)を治めた北条氏が、武蔵国への侵攻を始めたのです(小机城があった現・神奈川県東部地域は武蔵国の範囲内でした)。北条氏2代目の北条氏綱が、扇谷上杉氏の江戸城を攻略したのが1524年(大永4年)なので、同じ頃に小机城も北条氏の支配下となり、再興されたと考えられています。小机城は当初、相模国玉縄城の管轄下で、城代として、初代・早雲以来の重臣・笠原氏が入りました。
やがて、城主として、北条一族が宛がわれるようになり、三郎、氏堯(うじたか)、氏信、氏光と続きました。笠原氏は、引き続き代々城代を務めました。

北条氏綱肖像画、小田原城所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

それに伴い、小机城がある地域は「小机領」として、北条氏の領国支配の単位として認識されます。小机領の西隣りは玉縄領で、東隣りは江戸領でした。その範囲は厳密にはわかっていませんが、支城がいくつもあったので(下記補足3)、その分布から大まかに推定できます。また現在でも「旧小机領三十三所観音霊場」というのが残っていて、その分布も参考になると思います。これらの分布は、北部横浜市域が中心ですが、一部は川崎市や東京都町田市にも及んでいます。現在の川崎市と東京都を分ける多摩川は、かつてはもっと川崎市側を流れていたそうなので、現・川崎市が全て小机領というわけではありませんが、小田原と江戸の中間にある、重要な地域だったとは言えるでしょう。小机城は、その小机領の中心的な拠点だったと考えられます。

(補足3)大曽根城、篠原城、大豆戸城、矢上城、加瀬城、井田城、山田城、茅ヶ崎城、池辺城、佐江戸城、川和城、久保城(榎下城)、恩田城、荏田城など

また、小机領には「小机衆」という家臣団が編成されていました。北条氏の家臣の役高が記載された「小田原衆所領役帳」には、小机衆として、笠原氏を筆頭に、29名が記載されています。小机衆は、当初は、小机領を確保し支配するための組織でしたが、北条氏の領土が広がると、軍団の一つとして動員されたようです。

城の改修と小田原合戦

初期の城の姿はわかっていませんが、「要害」と言われていたので、主に自然の地形を利用していたのでしょう。北条氏の時代になって改修が進められ、豊臣秀吉による小田原攻めが迫ると、遺跡などから推定される、最終形に至ったと考えられます。中心部に大きな曲輪が2つあって、「つなぎの曲輪」と呼ばれる十字形の曲輪によって、連結されています。全体はそれほど大きくなく、他の北条氏の支城に比べたら縄張り(レイアウト)はシンプルです。しかしこの城の特徴は、そのサイズに不釣り合いなほど、長大な土塁を空堀が全体を囲んでいることです。

小机城の模型、横浜市城郷小机地区センターにて展示
小机城の空堀

小田原攻めの2年前の1588年(天正16年)、領内の百姓に対して、15〜70歳までの男性は、武器を持って城に集まるよう命令が出されています。この動きは、小机城の改修された姿と関連はあるのでしょうか。ある歴史家は、小机城は少人数の百姓主体の部隊でも、秀吉軍の攻撃に対して、ある程度耐えられるように作られたのではないかと推定しています。北条領内の各城から、専業武士を中心とした精鋭は、小田原城防衛のために引き抜かれていました。北条軍総勢約8万人のうち、約5万人が小田原に集められたと言われています。実際、小机城主・北条氏光は、足柄城から小田原城に転戦しています。小田原以外の城は、残った少数の武士が、徴兵した百姓を率いて戦わなければなりませんでした。小机城は大きすぎないので、少数の兵でも目配りができ、大軍に対しても周囲の土塁と空堀で、敵の攻撃を防ぐことができます。あくまで小田原の防衛が最終目的なので、時間稼ぎができればいいのです。

小田原城
小机城の想定図、現地説明パネルより

しかし、残念ながら小田原合戦のときの小机城の動向は記録されていません。他の多くの城のように戦わず開城したとも、最初から放棄されたとの説もあります。城代の笠原氏は、後に江戸幕府の旗本になっているので、小机城にいて降伏恭順したのかもしれません。

その後

小田原合戦後、小机城は廃城になり、やがて平和な江戸時代を迎えます。小机城跡は「城山」と呼ばれるようになりましたが、城跡の研究もその当時から始まりました。その成果の一つが、広島藩浅野家に伝えられた「諸国古城之図」の中の「武蔵 北条三郎居城」(小机城のこと)です。これが初めて小机城が描かれた絵図です。これを見ると、中心部は今残っている遺跡とあまり変わらないことと、現在「東郭」と呼んでいる曲輪を「本城(本丸)」としているのがわかります。東郭と西郭、どちらが本丸なのかは、この時以来議論になっていて、一番奥まった場所とするか、一番広いかもしくは強固に守られているか、といった視点によって異なるようです。当初は東郭が本丸だったが、城の改修が進んで西郭に移ったという意見もあります。

「諸国古城之図」の内「武蔵 北条三郎居城」図、広島市立中央図書館蔵(当図書館から掲載承認済み)

自然に戻るような形で維持された城跡でしたが、近現代になると開発の波に晒されます。1908年(明治41)、横浜線が開通するときに「城山トンネル」が掘られ、その線路によって、城跡と根元の台地が分断されました。根元の方に「古城」という地名が残っていて、そちらが城の発祥地かもしれないとのことです。戦後には、第三京浜道路が城跡を通る形で開通し(1964年〜1965年)、西郭の一部が破壊されました。皮肉にもこの工事中(1963年、昭和38年)に曲輪の遺構が発見され、緊急調査が行われました。

城周辺の航空写真

その後、城跡は1977年(昭和52年)から横浜市「小机城址市民の森」として保護されています。「市民の森」は1971年(昭和46年)に市が始めた、緑地保存のための制度です。史跡として指定はされていませんが、史跡保護にもつながっています。2021年(令和3年)には、初めて城跡の発掘調査が行われました。すぐに、城の全貌や謎が明らかになるわけではありませんが、これからに期待です。

東郭の発掘現場

「小机城 その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

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