152.津城 その2

都市公園として残る城跡

特徴、見どころ

主に本丸が残っている公園

現在、津城跡はお城公園として整備されていますが、その範囲は限られていて、本丸、出丸の一つである西の丸、内堀の一部が含まれています。また、公園の中心部は都市公園のようになっているので、あまり歴史公園という感じはしません。よって今回は、城の雰囲気が残っている公園の外回りの部分を、東西南北の順で説明したいと思います。

城周辺の航空写真

公園の中心部

公園の東側

この辺りは本丸の東端に当たり、現在は公園の正面入口になっていて、その脇に現代になってから模擬の三階櫓が建てられました。もとからあった入口の一つでもあります。

公園の正面入口
入口脇にある模擬櫓
城の入口跡(東鉄門桝形、ひがしくろがねもんますがた)

この側にあった内堀は埋められて道路、駐車場、他の公園施設、そして市街地となっています。公園入口にまっすぐ向かっている道がありますが、もう一つの出丸であった東の丸からつながっていた通路の名残りかもしれません。

公園入口にまっすぐ向かう道
公園の東側は道路などになっています

この側面には石垣が残っていますが、上部は崩れてしまっています。そして、下部は崩落を防ぐためにモルタルで固められています。

東側の石垣
基部は補強されています

公園の南側

こちら側にも石垣がありますが、その状態は東側よりずっと良いようです。よく見てみると、左側と右側のつなぎ目部分があります。これは、左側の端部分が、この城が安濃津城と呼ばれていた時代の古い本丸の角部分に該当していたためです。右側は、高虎によって拡張された部分に当たります。つまり、左側の方が古いということになります。

公園の南側の石垣
古い石垣(左奥)と新しい石垣(右手前)のつなぎ目があります

また、石垣の合間に小さな入口があり、埋門(うずめもん)と呼ばれています。ここも安濃津城時代に城の外につながっていた入口でした。しかし、高虎の時代になってから内堀がその手前に掘られてしまったのです。

埋門
内側から見た埋門、右側は小天守台

また、南西の角部分には天守台石垣があります。この天守台は二段になっていて、上段には大天守が、下段には小天守がありました。これらは1600年の安濃津城の戦いで焼け落ちてしまい、高虎の時代になっても再建されませんでした。

天守台石垣(手前が大天守台、奥が小天守台)
内側から見た大天守台

公園の西側

こちら側には、西の丸があり、本丸の手前に築かれた出丸の内唯一残っているものです。過去にはどのように本丸に入って行ったのか追体験できます。最初に、南側から部分的に残っている内堀にかかる土橋を渡っていきます。この橋はもとは木製でした。

西の丸に渡る土橋
内堀端から見た西の丸

西の丸の入口は、食い違いの石垣で囲まれていて、昔のままのように見えます。そこから右に曲がって、入徳門(にゅうとくもん)を通って本丸に向かいます。この門はもともと津藩の藩校の門として別の場所にあったのですが、公園の施設として現在地に移されたものです。西の丸と本丸の間は、広々とした日本庭園となっていますが、もともとは細い通路でしかつながっていませんでした。防御を厳重にするためです。

西の丸の入口
入口を内側から見ています
入徳門
日本庭園の場所にかつては西鉄門虎口(にしくろがねもんこぐち)がありました

「津城その3」に続きます。
「津城その1」に戻ります。

152.Tsu Castle Part1

The final home base of Takatora Todo

Location and History

Field of Anotsu Castle Battle

Tsu Castle is located in what is now Tsu City, the capital of Mie Prefecture which was called Ise Province in the past. Tsu City calls itself the city with the shortest name in the world. Tsu just means port. Originally, the area was called Anotsu, which means the port of Ano. Anotsu was one of the three greatest ports in Japan in the Middle Ages. However, the port declined due to the Meio earthquake followed by a great tsunami in 1498.

The range of Ise Province and the location of the castle

There was also been Anotsu Castle in the plains land around the area, which was the former Tsu Castle. In 1600 before the famous Battle of Sekigahara, a preliminary skirmish happened at the castle, called the Battle of Anotsu Castle. Large troops from the West Squad attacked the castle with few defenders of Nobutaka Tomita belonging to the East Squad. The defenders had to surrender, as a result, the castle went to ruin. The Tokugawa Shogunate, which led the East Squad finally won the Battle of Sekigahara in 1600, thought they need a stronger lord and castle around the area. This was because they were still against the Toyotomi Clan which lived in Osaka Castle, not so far from Ise Province in the west.

the Ukiyo-e painting of Nobutaka Tomita rescued by his wife, from an episode in the Battle of Anotsu Castle, attributed to Yoshitoshi Tsukioka, published in 1885   (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

Takatora Todo improves Castle as his home base during peacetime

In 1608, the shogunate replaced Nobutaka Tomita with Takatora Todo as the lord of Anotsu Castle. Takatora was not a hereditary feudal lord, which meant he didn’t work under Ieyasu Tokugawa for a long time, who was the founder of the shogunate. He was a well-known master of castle construction through building Uwajima, Ozu and Imabari Castles. He also helped the shogunate build famous castles such as Edo, Nagoya, and Nijo in Kyoto. That’s why he was trusted by the shogunate. They expected Takatora to build a strong castle to stand against the Toyotomi Clan in Osaka Castle in the west. Takatora accomplished this by renovating Anotsu Castle, which was renamed Tsu Castle sometime around the period.

The portrait of Takatora Todo, private owned (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
Uwajima Castle
Imabari Castle

He also owned Iga-Ueno Castle in Iga Province, which was west of Ise Province and closer to Osaka. He said that Tsu Castle would be his home base during peacetime while Iga-Ueno Castle would be the other one for wartime. However, Tsu Castle was adequately defensive even if it was his peacetime home base in the plains. The castle also reflected Takatora’s concepts of building castles.

Iga-Ueno Castle

Takatora’s concepts of building castles

The Main Enclosure was simply square shaped, which was easy to construct and accommodate large troops. While it may be weak for defense, the enclosure was surrounded by the wide Inner Moat, high stone walls, and many turrets on the walls. The gates of the enclosure were strongly guarded with a square defensive space called Masugata. Moreover, to enter the gates, visitors had to pass other small enclosures called Demaru or the Barbicans in the Inner Moat. The Second Enclosure and the Outer Moat were also built concentrically. Such structures can be seen in other castles which Takatora was involved in, such as Imabari, Nagoya, Nijo, and Sasayama.

The stone walls of the Main Enclosure of Tsu Castle
Tsu Castle in the last stage of the Eco Period, from the signboard at the site
Nagoya Castle
The drawing of Nagoya Castle in Owari Province (exhibited by the National Diet Library)

After the shogunate beat the Toyotomi Clan in 1615, Tsu Castle became the home base of the Tsu Domain which the Todo Clan governed, throughout the Edo Period. The castle town of Tsu Castle prospered as well as being on the Ise-Gingu Shrine pilgrimage road.

To be continued in “Tsu Castle Part2”

152.津城 その1

藤堂高虎最後の本拠地

立地と歴史

安濃津城の戦いの舞台

津城は、過去には伊勢国と呼ばれた三重県の、現在はその県庁所在地となっている津市にありました。津市は、自らを世界で一番短い名前の都市であると称しています。津は単に港を意味します。もともと、この辺りは安濃津(あのつ)と呼ばれ、安濃の港といった意味になります。安濃津は中世においては、三津(さんしん)の一つとして栄えました。ところが、1498年に起こった明応地震とそれに続く津波により壊滅的な打撃を受け、廃れてしまいます。

伊勢国の範囲と城の位置

この辺りの平地には、安濃津城と呼ばれる城もあり、それが津城の前身に当たります。有名な関ヶ原の戦いが起こる直前の1600年、安濃津城の戦いと呼ばれる関ヶ原の前哨戦がこの城で起こりました。西軍から派遣された大軍が、東軍に属していた富田信高の寡兵が守る城を攻撃したのです。守備側は降伏せざるを得ませんでした。その結果、この城は荒廃しました。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍が最終的に勝利を収めましたが、その中核である徳川幕府は安濃津城周辺にはもっと強力な大名と城が必要と考えました。それは、伊勢国からそれ程遠くない位置にあった大坂城には豊臣氏が健在であり、幕府と対立関係にあったからです。

富田信高を救う妻の錦絵(安濃津城の戦いのとき富田信高が妻に助けられたエピソードに基づく)月岡芳年作、1885年  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藤堂高虎の平時の居城として改装

1608年、幕府は安濃津城主を富田信高から藤堂高虎に交替させました。高虎は譜代大名ではなく、幕府の創始者である徳川家康に長く仕えていたわけではありませんでした。彼は築城の名手としてよく知られており、宇和島城大洲城、今治城などを築いていました。また、有名な江戸城名古屋城、京都の二条城などの建設では、幕府の手助けをしました。高虎はそれらにより、幕府の信頼を得ていました。幕府は高虎に、西の大坂城の豊臣氏に対抗できるだけの強力な城を築くことを期待したのです。高虎は、安濃津城を大改装することでその期待に応えました。そしてこの間、城の名前は津城と改められました。

藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
宇和島城
今治城

また高虎は、伊勢国の西にあり、大坂により近い伊賀国にも伊賀上野城を所有していました。彼自身、津城は平時の居城であり、一方伊賀上野城は戦時のためのもう一つの居城であるとしていました。しかし、津城は平地にあり、高虎の平時のための本拠地であるとしても十分な防御力は備えていたのです。また、高虎の城づくりのコンセプトも反映して築かれました。

伊賀上野城

高虎の城づくりのコンセプト

本丸は、シンプルな四角形をしていて、建設しやすく且つ大軍の収容も可能でした。防御が弱いようにも感じますが、広い内堀や高い石垣に囲まれ、石垣の上には多くの櫓が築かれました。本丸の門は、桝形と呼ばれる四角い防御空間により、強固に守られていました。その上に、門に入るためには内堀の中にある出丸と呼ばれる小さな曲輪を経由する必要がありました。二の丸と外堀はその周りを取り囲んで作られました。このような構造は、今治城、名古屋城、二条城、篠山城など高虎が築いた他の城でも見ることができます。

津城本丸の石垣
江戸時代終わり頃の津城の様子、現地説明板より
名古屋城
尾張国名古屋城絵図(出展:国立国会図書館)

1615年に幕府が豊臣氏を滅ぼした後は、津城は江戸時代を通じて、藤堂氏が治めた津藩の本拠地となりました。津城の城下町は繁栄し、伊勢参宮街道の通り道にもなりました。

「津城その2」に続きます。