140.玄蕃尾城 その2

山上に複雑な構造を持っていた城

特徴、見どころ

山道を通って城跡へ

現在玄蕃尾城跡は山上にあるにも関わらず、国の史跡としてよく整備されています。城の建物はなくなっていて、土造りの基礎部分のみが残っています。それでもその城がどのようであったのか理解するには十分と思います。陣城専用で築かれたものだからです。城跡に至るには、駐車場から約30分歩いて行く必要があります。その間、古い峠道である刀根峠を過ぎて、山の方に登っていきます。

駐車場から山道へ
刀根峠

山道の周りは、自然の木々や繁みに覆われているように見えます。このような所に城跡があるのだろうかと思われるかもしれません。しかし、そのうち城跡がはっきりと見渡せる場所にたどり着きます。これは、役所や地元のボランティアの人たちが定期的に草木を伐採してくれているからなのでしょう。そのおかげでビジターが城跡をよく見学できるのです。

普通の山道が続きます
段々視界が開けてきます

複雑な城中心部へのルート

山道は南から城跡に向かっており、南側が城の正面でした。今でもこの方面が強力に守られていたことがわかります。最初に見えてきた曲輪は「郭1」と呼ばれており(現地では「大手郭」または「虎口郭」と表記されています)土塁に囲まれています。この曲輪の入口は、南側の正面には開いておらず、左の西側に向かって開いています。つまり、土塁を回り込んで右に曲って曲輪に入る必要があります。

城周辺の地図

郭1の入口(虎口)
郭1の内部
郭1の入口を振り返る
郭1への攻撃ルート(赤矢印)と郭1からの反撃方向(青矢印)

虎口郭と呼ばれる次の曲輪に進むには、傍らが堀切となっている細い土橋の上を歩いて行かねばなりません。そして左に曲がって曲輪に入ります。

虎口郭に向かう細い土橋
脇には堀切があり、進路が制限されます
虎口郭の内部
虎口郭への攻撃ルート(赤矢印)と虎口郭からの反撃方向(青矢印)

本丸はその先にあるのですが、その前には馬出郭があり、本丸に直接入れないようになっています。虎口郭からは再度右に曲がって、馬出郭を回り込んで本丸の入口に入り込むことになります。もし敵であったなら、その進撃ルートは限られたものになり、何度も曲がっているうちに側面から反撃されてしまうでしょう。

馬出郭を回り込むために右に曲がります
本丸前の土橋も細くなっています
背後から見た馬出郭
本丸への攻撃ルート(赤矢印)と馬出郭からの反撃方向(青矢印)

全方向に備えていた本丸

本丸の内部は広場となっていて、ここもまた土塁に囲まれています。北東の隅には土盛りがあり、天守か大櫓が建っていました。

本丸内部
本丸北東部の櫓台

本丸を見回してみると、全ての方角に対してよく牽制が効いていることがわかります。北側の裏手口にはもう一つの馬出郭があります。東側にも、本丸の手前に張出郭という小曲輪が配置されています。本丸の東側は山の斜面となっていますが、専門家は城の築城者はこの方面からも敵が攻めてくることを想定していたのではないかと言っています。西側はとても深い谷になっていて、これでは敵が攻撃するのは無理でしょう。ところが、この方角に対しても土塁の手前に巧みに堀切が作られました。

本丸の案内図
北側の馬出郭
東側の張出郭
西側の急斜面

「玄蕃尾城その3」に続きます。
「玄蕃尾城その1」に戻ります。

156.鎌刃城 その3

十分な準備と時間をかけて行きましょう。

特徴、見どころ

城の中心部、主郭

主郭にたどり着くには峰の上に続くもう三つの曲輪を通り過ぎていきます。主郭には石段を伴った虎口跡があり、石垣により囲まれています。発掘により、他にも多くの石垣が発見されましたが、保存のために埋め戻されてしまったそうです。いつ誰がこのような構造物を作ったのかいまだ明らかではありません。しかし、浅井氏が築いた小谷城に残っているものと類似していると指摘する歴史家もいます。

城周辺の地図

主郭に向かいます
主郭の虎口跡 (licensed by HikaruKinkakuji via Wikimedia Commons)
小谷城黒金門跡

その後

廃城となった後、鎌刃城は400年以上埋もれてきました。城跡を管理する米原町(現在の米原市)は、1996年から2000年の間、調査と発掘を行いました。その結果、この城はその当時の山城としては驚くほど先進的なシステムを持っていたことが判明したのです。その成果を受けて、2005年に城跡は国の史跡に指定されました。

鎌刃城跡の石垣
大櫓跡にある展望台

私の感想

正直に言いますと、私はこの城跡を訪れるのに、十分な準備と時間を確保できませんでした。この城跡に行くのに登山が必要だとは思っていなかったのです。その結果、城跡の全体を見ることはできませんでした。登山には(危険な箇所や野生動物との遭遇などの)リスクが伴いますので、できましたらグループで行かれる方がよいと思います。
また、城跡に行くのに車を使い林道を通れば、城跡の近くまで行ける別ルートもあるとのことです。いつの日か事前によく調べて城跡全体をしっかり見てみようと思います。

名神自動車道彦根43番ゲートからの山道
野生動物には気を付けてください

ここに行くには

この城跡に行くには、車を使われることをお勧めします。
名神自動車道の米原ICから約5分のところに、旧番場宿の駐車場があります。自動車道の彦根44番ゲートの近くです。
公共交通機関を使う場合は、JR米原駅から東レカーボンマジック行きの湖北バスに乗り、番場バス停で降りてください。
東京から米原駅まで:東海道新幹線に乗ってください。

旧番場宿にあるビジター向け駐車場
駐車場から彦根44番ゲートに向かう道

リンク、参考情報

鎌刃城公式サイト
・「戦国の山城・近江鎌刃城/米原市教育委員会編」サンライズ出版
・「歴史群像56号、戦国の堅城 近江鎌刃城」学研
・「信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反/谷口克広著」中公新書

これで終わります。ありがとうございました。
「鎌刃城その1」に戻ります。
「鎌刃城その2」に戻ります。

143.美濃金山城 その3

城跡は、公有林として保存されていました。

特徴、見どころ

本丸に到着

ついに頂上にある本丸に到着します。この曲輪もまた部分的に石垣に囲まれています。この曲輪の南西角は、天守台の一部だと言われてきました。しかし、この城に天守があったかどうかは今だ定かではありません。

城周辺の地図

かつての南西隅櫓(または天守)の想像図、現地説明板より
現在の本丸西南角の石垣
本丸周りに残る石垣

曲輪の内部は今は広場になっていますが、そこにあった建物に使われた礎石や瓦が調査により見つかっています。

かつての本丸の想像図、現地説明板より
現在の本丸への通路
本丸内部
建物の礎石が残っています
本来の本丸入口(虎口)跡

この曲輪からは、北方に木曽川の、西方には濃尾平野の素晴らしい景色を見ることができます。この城の城主も同じような景色を眺めたことでしょう。この城の立地の良さも実感できると思います。

本丸から見える木曽川(北側)
本丸から見える濃尾平野(西側)

その後

美濃金山城が廃城となった後、多くの石垣が破壊され、建物も撤去され、建設資材として転用されました。江戸時代には、城跡がある山は尾張藩によって所有され、人々の立ち入りが禁止されていました。明治維新後、この山は皇室所有林または国有林となっていました。廃城となった後でも、長い間に渡って一般人が立ち入ることが難しい場所になっていたのです。やがて、現在の可児市にあたる地方自治体に売却されました。可児市は2006年から2010年の間、城跡を調査しその結果、織豊系城郭の特徴を持っている城だったことが判明したのです。2013年には国の史跡に指定されました。

城跡がある山が払い下げられた記念碑

私の感想

美濃金山城跡を訪れた時、津山城のことが頭に浮かびました。美作国の津山藩の初代藩主となった森忠政が、最後に築いた城です。津山城は、三段に形作られた山に総石垣造りで築かれました。この城は、しばしば難攻不落と称されています。個人的には、津山城は石垣の築き方などからすると、美濃金山城に似ているようにも思います。忠政が、美濃金山城での経験に基づいて、津山城を最強の城として作ろうとしたのではないかとも思いました。

津山城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。
東海環状自動車道の可児御嵩(かにみたけ)ICから約15分かかります。出丸を含む城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、名鉄広見線の明智駅からYAOバスに乗って、元金山町役場前バス停で降りてください。バス停から歩いて約15分のところです。
東京または大阪から明智駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で名鉄犬山線に乗り換え、犬山駅か新可児駅で名鉄広見線に乗り換えてください。

出丸にある駐車場

リンク、参考情報

国史跡 美濃金山城跡、可児市
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第145号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡美濃金山城跡 保存活用計画書」可児市教育委員会 2016年

これで終わります。ありがとうございました。
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