179.河後森城 その3

観光客も地元の人もここで学べます。

その後

1991年に河後森城の全面調査が開始されました。この調査により、この城がその長い歴史の中で改良され続けたことがわかり、その一方で天守があったかどうかといった謎も残りました。その後、城跡は1997年に国の史跡に指定されました。調査の結果に基づき、松野町は1999年以来、城跡を史跡として整備してきました。例えば、本郭、西第十曲輪、古城では城の建物がいくつか復元されました。土塁も復元されたのですが、その一部は景観を配慮してオリジナルよりも低く作られています。

本郭
西第十曲輪で復元された兵舎
西第十曲輪の土塁は意図的に一部低く作られています
古城

松野町はまた、城跡を使った別の取り組みも行っています。一例として、地元の小学校の児童がこの場所で野外学習を行い、城のことを学んでいます。この城を訪れた児童は、詳しい情報を調べた後、自分たち独自の説明パネルを作り、観光客に提供しています。

復元兵舎に展示された児童が作った説明パネル

私の感想

この城跡のために地元の子どもたちが作った説明パネルに感銘を受けました。その内容は観光客にとっても地元のコミュニティにとっても有益だと思います。それは、子どもたちも他の人たちもこの活動を通じてこの城のことや地元の歴史を知ることができるからです。その上に、その子どもたちが自分の郷土に誇りを持ち、大きくなって他の地域の人にこの城のことを語るようになるのではないでしょうか。また、城に関して言えば、全ての城には異なる時代背景、地域、状況があるため、それぞれが固有でユニークな特徴を持っていることを改めて思った次第です。

こちらは井戸の説明パネル
古城にある堀切

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の三間ICから約15kmのところにあります。城跡に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、予土線の松丸駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から来る場合:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

河後森城のページ、松野町ホームページ
・「日本の城改訂版第21,153号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「河後森城天守のモデリングにあたって」松野町

これで終わります。ありがとうございました。
「河後森城その1」に戻ります。
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80.湯築城 その3

この城跡は、愛媛県の決断によって救われました。

特徴、見どころ

丘の頂上からの景色

もちろん、丘の頂上まで登ってみることもできます。その頂上部分は本壇(ほんだん)と呼ばれていて、本丸と同じような位置づけです。現在では展望台として使われています。ここでも発掘調査は行われましたが、出土遺物はほとんど見つからなかったため、あまり城らしい展示物はありません。しかし展望台からは、松山城や道後の温泉街の景色を楽しむことができます。実は17世紀の初頭には、藤堂高虎がライバル関係にあった加藤喜明(よしあき)と伊予国を分割統治しており、喜明が築いた松山城を監視するために、高虎が廃城となった湯築城を一時使っていました。高虎も、今日われわれが湯築城から見る同じ景色を眺めていたのではないでしょうか。

城周辺の航空写真

丘の頂上へ
展望台がある本壇
道後温泉街の景色
松山城の遠景
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治時代の1888年、愛媛県は湯築城跡に道後公園を開設しました。1953年には公園の中に動物園がオープンし、大変な人気となりました。しかし、1987年に動物園は他の場所に移転しました。その理由は、市街地の中で動物園からの悪臭と騒音が問題となったからです。元動物園だった区域は近代的な日本庭園になる予定で、その前に湯築城跡としての調査が行われました。その結果、数多くの遺物や遺跡が良好な状態で見つかったのです。そのため県は跡地の開発計画を変更し、1990年に歴史公園とすることに決定しました。発掘の成果や、一乗谷城のような他の城跡での事例に基づき、湯築城の復元工事が1998年に始まり、2001年に完成しました。城跡は2002年には国の史跡に指定されました。

内堀とそれを囲む土塁
入口に掲げられた湯築城の幟

私の感想

私は、湯築城がこんなにも大変な歴史を乗り越え、残ってきたことを全然知りませんでした。愛媛県の城跡を保存する決定には、今更ながら敬意を表します。もしそれがなかったら、松山城以前の伊予国の歴史を皆忘れ去ってしまっただろうからです。城跡を含む道後公園にはとても良い雰囲気があります。公園を歩いてみた後は、近くの道後温泉街に行き、伊佐爾波神社や道後温泉本館を見学するのもよいと思います。

道後温泉本館
伊佐爾波神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約20分かかります。道後公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅前から路面電車に乗って、道後公園駅で降りてください。
東京または大阪から松山駅まで:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

国史跡 道後公園湯築城跡
・「日本の遺跡39 湯築城跡/中野良一著」同成社
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

これで終わります。ありがとうございました。
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188.原城 その3

城跡は世界遺産となりました。

特徴、見どころ

城を支える自然の地形

駐車場からは、海岸沿いの遊歩道を歩いていくこともできます。そして、二の丸下の自然の急崖を見上げてみましょう。驚くべきことにこの崖は、約9万年前に阿蘇山の火砕流が有明海を越えてここに作られたものなのです。

海岸沿いの遊歩道
二の丸下の自然の急崖
本丸の崖

その後

島原の乱の後、幕府は仏教徒である農民を島原半島に植民しました。そのためこの地域では今に至るまでキリスト教徒が非常に少なくなっています。原城跡は、1938年に国の史跡に指定されました。しかし、城の詳細は1990年に始まった発掘により、最近になって明らかになってきたのです。その甲斐もあって、2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されました。

本丸の石垣
二の丸がある丘陵

私の感想

島原の乱後、幕府のもとの大名の統治は、比較的穏やかになり、害がないとされれば時には潜伏キリシタンを大目にみるということもあったと言われています(土俗宗教の一つと見なされたようです)。島原の乱で反乱を起こした人たちの尊い犠牲は、無駄ではなかったと思います。この乱と原城の詳細については、まだ多くの謎が残っています。将来、少しずつその事実が明らかになるよう望みます。

本丸の櫓台跡
本丸にある十字架型の記念碑

ここに行くには

車で行く場合:長崎自動車道の長崎ICから約75分かかります。
温泉施設「原城温泉真砂」のそばにある観光客向けの駐車場を使うことができます。
公共交通機関を使う場合は、島原鉄道の島原駅から島鉄バスに乗り、原城前バス停で降りてください。
東京か大阪から来られる場合は、まず飛行機で長崎空港に行かれることをお勧めします。その後、諫早駅行きのシャトルバスに乗り、そこで島原鉄道に乗り換えてください。

原城温泉真砂
駐車場付近から見える雲仙岳

リンク、参考情報

世界遺産のまち 南島原
・「原城発掘/石井進・服部英雄編集」新人物往来社
・「よみがえる日本の城21」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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