147.高天神城 その3

マイベスト山城

特徴、見どころ

大手道周辺

南の方から伸びる大手道は、東側の峰にある三の丸に通じています。恐らくはこの道が搦手道より急ではなかったため、この場所では多くの激戦が繰り広げられました。しかし、力攻めでは誰もここを突破できなかったのです。

城周辺の地図

大手門跡周辺
大手道
着到櫓(敵からの防御を指揮した場所)跡

その後

高天神城落城後、城はやがて廃城となりました。高天神社は、城の守護神とされていましたが、それだけが山の頂上部分に残りました。この地の人たちは、この神社を長い間敬い続けたのです。城跡に関しては、1975年に国の史跡に指定されました。1998年以来、城跡の調査が行われています。また、城跡の整備も並行して行われています。

高天神社
搦手道にある高天神社の鳥居

私の感想

高天神城は、日本の山城の中で一番のお気に入りです。その理由を挙げてみます。
1.周辺地域を治めるのに重要な地点であること。
2.城が築かれた山がそれほど高くなく、城にいる兵士が緊急時にどこにでも駆け付けられること
3.城がそれ程大きくなく、少ない兵士で城を守ることができること
4.山が全て急坂になっているか、多くの崖があり、敵方が簡単に城を攻撃できないこと
5.頂上部分からの見晴らしがよく、守備兵が周りの状況をはっきり認識できること
これに加えて、水が十分に確保できることが必要です。この城跡を訪れてみて、山城とは何かを学び、高天神城がもっともその条件に適っていると思いました。他の山城では、ここまで全ての条件が揃っている所はないのではないでしょうか。

崖の間を進む搦手道
山の上も崖地に囲まれています
山上からの眺め
堂の尾曲輪から見た堀切
堂の尾曲輪から空堀を見下ろす

ここに行くには

車で行く場合、東名自動車道の掛川ICから約15分かかります。城跡の大手道と搦手道の手前のところに、それぞれ駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、掛川駅からしずてつジャストラインバス掛川大東浜松線の浜岡営業所行きか、大東支所行きに乗り、土方バス停で降りてください。バス停から歩いて約15分で現地で着きます。
東京または大阪から掛川駅まで:東海道新幹線に乗ってください。

搦手口から見える城跡と駐車場
大手道に通じる城跡南入口
大手道手前にある駐車場

リンク、参考情報

高天神城跡、掛川市
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「家康と家臣団の城/加藤理文著」角川選書
・「歴史群像104号、戦国の城 遠江高天神城」学研
・「史跡高天城跡 基本整備計画策定報告書」静岡県大東町教育委員会

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179.河後森城 その3

観光客も地元の人もここで学べます。

その後

1991年に河後森城の全面調査が開始されました。この調査により、この城がその長い歴史の中で改良され続けたことがわかり、その一方で天守があったかどうかといった謎も残りました。その後、城跡は1997年に国の史跡に指定されました。調査の結果に基づき、松野町は1999年以来、城跡を史跡として整備してきました。例えば、本郭、西第十曲輪、古城では城の建物がいくつか復元されました。土塁も復元されたのですが、その一部は景観を配慮してオリジナルよりも低く作られています。

本郭
西第十曲輪で復元された兵舎
西第十曲輪の土塁は意図的に一部低く作られています
古城

松野町はまた、城跡を使った別の取り組みも行っています。一例として、地元の小学校の児童がこの場所で野外学習を行い、城のことを学んでいます。この城を訪れた児童は、詳しい情報を調べた後、自分たち独自の説明パネルを作り、観光客に提供しています。

復元兵舎に展示された児童が作った説明パネル

私の感想

この城跡のために地元の子どもたちが作った説明パネルに感銘を受けました。その内容は観光客にとっても地元のコミュニティにとっても有益だと思います。それは、子どもたちも他の人たちもこの活動を通じてこの城のことや地元の歴史を知ることができるからです。その上に、その子どもたちが自分の郷土に誇りを持ち、大きくなって他の地域の人にこの城のことを語るようになるのではないでしょうか。また、城に関して言えば、全ての城には異なる時代背景、地域、状況があるため、それぞれが固有でユニークな特徴を持っていることを改めて思った次第です。

こちらは井戸の説明パネル
古城にある堀切

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の三間ICから約15kmのところにあります。城跡に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、予土線の松丸駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から来る場合:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

河後森城のページ、松野町ホームページ
・「日本の城改訂版第21,153号」デアゴスティーニジャパン
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版
・「河後森城天守のモデリングにあたって」松野町

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80.湯築城 その3

この城跡は、愛媛県の決断によって救われました。

特徴、見どころ

丘の頂上からの景色

もちろん、丘の頂上まで登ってみることもできます。その頂上部分は本壇(ほんだん)と呼ばれていて、本丸と同じような位置づけです。現在では展望台として使われています。ここでも発掘調査は行われましたが、出土遺物はほとんど見つからなかったため、あまり城らしい展示物はありません。しかし展望台からは、松山城や道後の温泉街の景色を楽しむことができます。実は17世紀の初頭には、藤堂高虎がライバル関係にあった加藤喜明(よしあき)と伊予国を分割統治しており、喜明が築いた松山城を監視するために、高虎が廃城となった湯築城を一時使っていました。高虎も、今日われわれが湯築城から見る同じ景色を眺めていたのではないでしょうか。

城周辺の航空写真

丘の頂上へ
展望台がある本壇
道後温泉街の景色
松山城の遠景
藤堂高虎肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その後

明治時代の1888年、愛媛県は湯築城跡に道後公園を開設しました。1953年には公園の中に動物園がオープンし、大変な人気となりました。しかし、1987年に動物園は他の場所に移転しました。その理由は、市街地の中で動物園からの悪臭と騒音が問題となったからです。元動物園だった区域は近代的な日本庭園になる予定で、その前に湯築城跡としての調査が行われました。その結果、数多くの遺物や遺跡が良好な状態で見つかったのです。そのため県は跡地の開発計画を変更し、1990年に歴史公園とすることに決定しました。発掘の成果や、一乗谷城のような他の城跡での事例に基づき、湯築城の復元工事が1998年に始まり、2001年に完成しました。城跡は2002年には国の史跡に指定されました。

内堀とそれを囲む土塁
入口に掲げられた湯築城の幟

私の感想

私は、湯築城がこんなにも大変な歴史を乗り越え、残ってきたことを全然知りませんでした。愛媛県の城跡を保存する決定には、今更ながら敬意を表します。もしそれがなかったら、松山城以前の伊予国の歴史を皆忘れ去ってしまっただろうからです。城跡を含む道後公園にはとても良い雰囲気があります。公園を歩いてみた後は、近くの道後温泉街に行き、伊佐爾波神社や道後温泉本館を見学するのもよいと思います。

道後温泉本館
伊佐爾波神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:松山自動車道の松山ICから約20分かかります。道後公園に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR松山駅前から路面電車に乗って、道後公園駅で降りてください。
東京または大阪から松山駅まで:飛行機か高速バスを使って来られることをお勧めします。

リンク、参考情報

国史跡 道後公園湯築城跡
・「日本の遺跡39 湯築城跡/中野良一著」同成社
・「よみがえる日本の城10」学研
・「築城の名手 藤堂高虎/福井健二著」戒光祥出版

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