139.佐柿国吉城 その3

防御に特化した城

特徴、見どころ

頂上にある本丸

最後には頂上にある本丸に到着します。そこからは、東には若狭湾、西には佐柿街並みの素晴らしい景色を楽しめます。ここには虎口と呼ばれる入口が2つあります。また、曲輪の中には土盛りがあり、その上には櫓か天守があったと思われます。お時間があれば、本丸の前の堀切の向こうの峰には曲輪群があるので、そこに行ってみるのもいいでしょう。

本丸周辺の地図

堀切から本丸を見上げています
本丸北西虎口、堀切から入るときの入口
一部残っている本丸石垣
本丸内部
本丸から見える若狭湾
本丸から見える佐柿の街並み
本丸南隅櫓台(櫓か天守があった場所)
本丸東虎口(堀切とは反対側)
堀切の向こう側に続く曲輪群

その後

江戸時代の初期、かつてこの城で朝倉氏との戦いに兵士として参加した僧が、彼の経験をもとに「国吉籠城記」を著しました。この本の内容は江戸時代の間中、世間に広まりました。このため、城の名前として「国吉」が一般的になったのです。この城跡は、1916年に最初に科学的に調査されました。城跡を所有する美浜町は、2000年に町の史跡として以来、発掘や整備を続けています。

若狭国吉城歴史資料館にて展示されている「国吉籠城記」
整備されている城跡(山麓部分)

私の感想

城には多くの機能があり、大名の本拠地、攻撃の拠点、防御のための陣地、そして政庁でもありえたのです。思うに、佐柿国吉城は間違いなく防御に特化した城でしょう。そうでなければ、粟屋勝久に率いられた反乱軍は、朝倉氏軍を5回も撃破することはできなかったでしょう。この城跡を訪れてみて、身をもってそのことを体験することができました。

山上部分に向かう急坂
城跡の山上部分

ここに行くには

この城跡を訪れるときには車を使われることをお勧めします。舞鶴若狭自動車道の若狭美浜ICから約10分のところです。城跡の手前に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR美浜駅から歩いて約30分かかります。
東京から美浜駅まで:東海道新幹線に乗り、米原駅で北陸線に乗り換え、敦賀駅で小浜線に乗り換えてください。

駐車場周辺

リンク、参考情報

佐柿国吉城、若狭美浜観光協会
・「佐柿国吉城ブックレット 国吉城の章 第1〜4巻」美浜町教育委員会
・「歴史群像156号、戦国の城 若狭国吉城」学研

これで終わります。ありがとうございました。
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「佐柿国吉城その2」に戻ります。

143.美濃金山城 その3

城跡は、公有林として保存されていました。

特徴、見どころ

本丸に到着

ついに頂上にある本丸に到着します。この曲輪もまた部分的に石垣に囲まれています。この曲輪の南西角は、天守台の一部だと言われてきました。しかし、この城に天守があったかどうかは今だ定かではありません。

城周辺の地図

かつての南西隅櫓(または天守)の想像図、現地説明板より
現在の本丸西南角の石垣
本丸周りに残る石垣

曲輪の内部は今は広場になっていますが、そこにあった建物に使われた礎石や瓦が調査により見つかっています。

かつての本丸の想像図、現地説明板より
現在の本丸への通路
本丸内部
建物の礎石が残っています
本来の本丸入口(虎口)跡

この曲輪からは、北方に木曽川の、西方には濃尾平野の素晴らしい景色を見ることができます。この城の城主も同じような景色を眺めたことでしょう。この城の立地の良さも実感できると思います。

本丸から見える木曽川(北側)
本丸から見える濃尾平野(西側)

その後

美濃金山城が廃城となった後、多くの石垣が破壊され、建物も撤去され、建設資材として転用されました。江戸時代には、城跡がある山は尾張藩によって所有され、人々の立ち入りが禁止されていました。明治維新後、この山は皇室所有林または国有林となっていました。廃城となった後でも、長い間に渡って一般人が立ち入ることが難しい場所になっていたのです。やがて、現在の可児市にあたる地方自治体に売却されました。可児市は2006年から2010年の間、城跡を調査しその結果、織豊系城郭の特徴を持っている城だったことが判明したのです。2013年には国の史跡に指定されました。

城跡がある山が払い下げられた記念碑

私の感想

美濃金山城跡を訪れた時、津山城のことが頭に浮かびました。美作国の津山藩の初代藩主となった森忠政が、最後に築いた城です。津山城は、三段に形作られた山に総石垣造りで築かれました。この城は、しばしば難攻不落と称されています。個人的には、津山城は石垣の築き方などからすると、美濃金山城に似ているようにも思います。忠政が、美濃金山城での経験に基づいて、津山城を最強の城として作ろうとしたのではないかとも思いました。

津山城跡

ここに行くには

この城跡を訪れるには、車を使われることをお勧めします。
東海環状自動車道の可児御嵩(かにみたけ)ICから約15分かかります。出丸を含む城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、名鉄広見線の明智駅からYAOバスに乗って、元金山町役場前バス停で降りてください。バス停から歩いて約15分のところです。
東京または大阪から明智駅まで:東海道新幹線に乗り、名古屋駅で名鉄犬山線に乗り換え、犬山駅か新可児駅で名鉄広見線に乗り換えてください。

出丸にある駐車場

リンク、参考情報

国史跡 美濃金山城跡、可児市
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均 内堀信雄編」吉川弘文館
・「日本の城改訂版第145号」デアゴスティーニジャパン
・「史跡美濃金山城跡 保存活用計画書」可児市教育委員会 2016年

これで終わります。ありがとうございました。
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144.大垣城 その2

天守は残っていましたが、焼け落ち、また再建されました。

その後

明治維新後、大垣城は廃城となり、城のほとんどの建物は撤去されました。水門川と呼ばれた外堀を除いては、多くの堀も埋められていきました。市街地となっていったのです。

元外堀であった水門川

本丸にあった天守と2基の櫓だけが残されました。特に天守については、1933年に郡上八幡城の天守が再建された際、大垣城天守が外観の設計に採用されました。

残されていた天守の古写真、現地説明板より
再建された郡上八幡城天守

ところが大垣城の残存建物は、残念ながら1945年の大垣空襲により焼け落ちてしまったのです。第二次世界大戦後の1967年に、これらの建物は外観復元されましたが、オリジナルの建物の設計を使いながらも、今度は逆に、郡上八幡城の外観が参考にされました。

外観復元された現在の大垣城天守

特徴、見どころ

大垣公園となっている天守周辺

城周辺の地図

現在、本丸と二の丸周辺のみが大垣公園として残されています。二の丸周辺の部分はごく普通の公園となっているため、本丸の方が歴史的な雰囲気があります。残念ながら曲輪の周りに堀は残っておらず、周りをめぐっている道路が恐らく以前の堀だったのでしょう。

大垣公園
元は堀であったと思われる周りの道

本丸には2つの門がありますが、西門は現代になって建てられたものです。東門は現存する建物ですが、柳口門として他の場所にあったものがここに移されました。門に並んで、外観復元された戌亥(いぬい)櫓と艮(うしとら)櫓もあります。

現代に建てられた西門
柳口門から移築された東門
外観復元された戌亥櫓
外観復元された艮櫓

本丸の中の方には、復元された4階建ての天守があり、実際には近代的ビルであるため、歴史博物館として使われています。

本丸内部
本丸に残る石垣

「大垣城その3」に続きます。
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