110.三春城 その2

この町と城跡には独特の味わいがあります。

特徴、見どころ

三春町の特徴

今日、三春城城跡へ電車を使って行く場合には、JR三春駅が最寄りの駅ということになりますが、駅は丘に囲まれた谷底にあります。この地域では、道路、鉄道、川は谷筋を走っています。そして現在、多くの公的施設と、農地でさえも丘の上にあることに気づきます。これらがこの地域一帯の目立った特徴となっています。過去のこの地域の人々もこの独特の地形を、城のような重要な施設に利用しただろうと想像できます。

丘に囲まれた駅周辺

城周辺の起伏地図

三春町の中心部は、三春城の城下町に由来しています。そこは2つの部分、南町と北町に分かれています。町を貫く道は、南町と北町をつなぐ所で直角に曲がっています。南町には現在、現存する三春藩藩校の正門と、三春小学校しかありません。過去には、山麓に作った城の大手門と、城主のための御殿がありました。

城周辺の地図

南町
北町
現存する藩校正門

南町からのルート

三春城城跡には、城の正面に行くためのもう一つの道であった城坂を登って行くことができます。そこでは、坂に沿っていくつもの曲輪が残っていて、その中には現代の住居地域として使われているものもあります。山頂にたどり着くためには、曲がりくねった道を登っていかねばなりません。道が曲がる所には、二の門、揚土(あげつち)門、三の門といった門跡があります。これらは城の防御システムでした。そのうちにかつて大門が立っていた山頂の本丸下段入口に着きます。そこには今は門の礎石のみが残っています。

城坂と周りの住居地域
山頂への曲がりくねった道
揚土門跡
三の門跡
本丸下段と大門跡

北町からのルート

一方、北町には三部坂と呼ばれる山頂への搦手道があります。この道もまた曲がりくねっていて、道沿いにはたくさんの空の曲輪があり、城の長い歴史を感じます。本丸下段の別の入口にたどり着くまでに、搦手門跡、矢倉跡、わずかに残る蒲生氏が築いた石垣を見ることができます。その入口には過去には裏門がありました。

三部坂
空の曲輪群
搦手門跡
矢倉跡
僅かに残る石垣

祠があり木が植えられた本丸

本丸下段は現在広場となっています。過去にはここに三階櫓が立っていました。本丸上段は下段のとなりにあります。江戸時代に起こった大火以来、ほとんどなにもない状態です。石垣の基礎の上に、秋田氏を祀った祠があるのみです。この石垣が、もともと城があったときから存在していたのか、私にはわかりませんでした。そこからは周りの丘や、城下町一帯を見渡すことができます。公園の見所として本丸周辺には多くの木が植えられています。春か秋には、素晴らしい景色を楽しむことができるでしょう。

本丸下段、なぜか標示が「二の丸」となっている
本丸上段
天守台石垣?、廃城後に築かれたもののようです
石垣上にある秋田氏を祀る祠
本丸からの眺め

「二本松城その3」に続きます。
「二本松城その1」に戻ります。

110.三春城 その1

生き残るために奮闘した城

立地と歴史

田村氏の支配から若松城の支城へ

三春城は陸奥国田村郡にありました(現在の福島県三春町)。この地域は内陸部と沿岸部をつないでいて、重要な地域と認識されていました。16世紀には、田村氏がこの地域を支配しており、この一帯では最も高い丘の上に三春城を築きました。16世紀中頃、田村氏の当主、田村清顕は、西は葦名氏、東は相馬氏、南は佐竹氏といったより大きな戦国大名の脅威に晒されていました。そこで彼は北方にいた有力な戦国大名、伊達政宗と同盟を組むことを決め、娘を政宗と結婚させました。1588年に政宗は三春城にしばらく滞在し、1589年には葦名氏を倒し、東北地方に覇権を確立しました。田村氏は政宗の下で生き残ることに成功したのです。田村氏は三春城を拡張し、その範囲は他の丘にも広がりました。

城の位置

ところが、田村氏は1590年に天下人の豊臣秀吉によって改易となってしまいます。その理由は、当主であった田村宗顕が、独立した大名と見なされていたにも関わらず、秀吉からの招集に応じなかったからです。しかし、田村氏はそのように思っていませんでした。この事件は田村氏のミスだったのかもしれませんが、秀吉と田村氏を仲介すべきだった政宗の陰謀だと指摘する歴史家もいます。三春城を含む田村氏の領地が最終的に政宗のものになったからです。

田村氏の家紋、田村茗荷 (licensed by Fraxinus2 via Wikimedia Commons)
伊達政宗像、仙台市博物館蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

三春城は、政宗の本拠地であった若松城の支城となりました。その後、若松城の城主は、蒲生氏、上杉氏、加藤氏に代わっていきます。三春城は彼らによって強化されました。石垣が築かれ、城下町も建設されました。しかし、時として使われなくなり、ひいては廃城となってしまった時期もありました。最終的には1627年に徳川幕府により松下氏が三春城に移されてきました。久方ぶりに独立した城になったわけです。この頃までは三春城は山城のままでした。

若松城

江戸時代は秋田氏が三春藩本拠地として維持

1645年に松下氏は不幸にも改易となってしまいますが、秋田氏が江戸時代の終わりまで三春城と三春藩を支配しました。秋田氏は城の近代化を行います。山麓に領主のための御殿を築き、通常はそこに住んでいました。山の頂には、以前から御殿と三階櫓がありました。これらの古い建物は、式典のために使われ、また城のシンボルともなりました。1785年に大火が発生し、ほとんどの城の建物が燃えてしまったとき、山麓の建物は再建されました。山上の建物は全て焼け落ち、三階櫓だけが再建されました。

かつて御殿があった場所(現在の三春小学校)
三春城の縄張り(現地説明板より)

明治維新を乗り切る

明治維新中の1868年、新政府と徳川幕府を支持する藩連合との間で戊辰戦争が起こりました。三春藩は最初は藩連合に属していましたが、密かに新政府に降伏し、城を開城しました。藩連合は見捨てられた形となり、大いに憤慨しました。しかしそれにより三春の人たちは生き残り、悲劇的な結末を避けることができました。そうでなければ、白河小峰城二本松城、そして若松城のように新政府により壊滅させられてしまったことでしょう。

三春藩最後の藩主、秋田映季 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
白河小峰城
二本松城

「三春城その2」に続きます。