13.白河小峰城 その3

旧奥州街道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り向いてみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。

特徴、見どころ

本丸の周りを歩いてみる

城の他の見どころの場所にも行ってみましょう。本丸のもう一つの門であった桜之門跡から外に出て、城主要部分の下段にあたる帯曲輪を歩きながら、本丸石垣を眺めてみます。

本丸周辺の地図

桜之門跡

月見櫓跡が帯曲輪の入口の脇にあるのですが、残っている石垣だけでもとても強力そうに見えます。

帯曲輪入口
下の二の丸から見た月見櫓跡
裏側から見た月見櫓跡

帯曲輪は、本丸の西側と北側を囲んでいます。本丸の長大ですばらしい石垣を眺めながら、リラックスした気分で歩いてみることができます。これらの石垣はとてもよく維持されているように見えるのですが、2011年の東日本大震災のときにはひどく崩壊してしまい、白河市はその後8年間もかかって修復したのです(2019年に修復完了)。

帯曲輪西側
本丸の素晴らし石垣
帯曲輪北側
本丸北面の地震被害と復旧を記した説明板

そうするうちに腰曲輪の、矢之門というもう一つの門の跡に着きます。右側には、本丸の北東隅にそびえる三重櫓の姿が目に入ってきます。しかし、もし敵がここを通ったとしたら、守備兵は櫓の石落としや狭間から猛烈な攻撃を加えていたことでしょう。

矢之門跡
櫓の守備兵がまるでこちらを狙っているようです

城の外側に行ってみる

もう一つのおすすめは、元三の丸だった所に行ってみることです。城の主要部分の東側に当たります。そこは既に市街地になってしまっていて、公共施設が多くあります。このエリアの中に、城の中で唯一現存している建物があります。元は二の丸の太鼓門の脇にあった太鼓櫓です。この建物は民間に売却され茶室に改造された後、1930年から現在の位置に移されているのです。

城周辺の地図

茶室となった太鼓櫓

更に東の方に進んでいくと、国道294号線(旧奥州街道)にぶつかります。その国道に沿って北の方に行き、阿武隈川が近くなってきたら、左の方に振り返ってみて下さい。素晴らしい光景を見ることができます。それは、小峰城東側石垣という、川に沿った丘の上に広がる180mもの長さの石垣です。実はこの石垣は、バイパス工事を行うにあたって、丘の杉林を伐採したことにより最近発見されたものなのです。この石垣は、北方からの脅威から城を守るために建設されたに違いありません。またこの石垣は、北に向かって開いている城の搦手門につながっています。しかし残念ながら、工事現場が間にあるために、今石垣を眺めている位置からは、搦手門に直接行くことはできません。

小峰城東側石垣
阿武隈川にかかる橋から石垣を見ています
石垣の付近は工事現場で立ち入り禁止です
搦手門跡

私の感想

白河小峰城の、よく残されている基礎部分や復元された建物群を見てみると、北からの潜在的脅威から城を守り抜きたいという、築城者の丹羽長重の強い意志を感じました。長重は、当時でも数少ないそういったことを確実に短期間で成し遂げられる数少ない大名の一人だったのでしょう。また、幕末の戊辰戦争に起こった歴史は、そんな強力な城であっても弱点があり、十分な兵力と指揮能力がなければ生き残れないということを教えてくれていると思います。

阿武隈川から見える白河小峰城三重櫓

ここに行くには

車で行く場合:東北自動車道の白河中央スマートICから約10分かかります。
公園内に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR白河駅からすぐ近くとなります。駅のホームからも三重櫓の姿がよく見えます。
東京から白河駅まで:東北新幹線に乗って、新白河駅で東北本線に乗り換えてください。目的地は次の駅です。

白河駅のホームから見た白河小峰城跡

リンク、参考情報

小峰城跡、白河市公式ホームページ
・「シリーズ藩物語 白河藩/植村美洋著」現代書館
・「人物叢書 松平定信/高澤 憲治著」吉川弘文館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「よみがえる日本の城17」学研
・「日本の城改訂版第103、145号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「白河小峰城その1」に戻ります。
「白河小峰城その2」に戻ります

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

13.白河小峰城 その2

城跡は公園となりましたがその後、城跡整備の方針は変更されることになりました。松平定信により城建物の詳細図面が残されていたからです。城を元通りの姿に戻せないか検討が始まったのです。これは現代の日本において、城の大型の建物を元通りに再建する最初の試みでした。

その後

明治時代には城跡は公園となり、昭和時代には野球場が建設されたりしました。しかしその後、城跡整備の方針は変更されることになりました。市民から多くの要望があり、また松平定信により城建物の詳細図面が残されていたからです。城を元通りの姿に戻せないか検討が始まったのです。これは現代の日本において、城の大型の建物を元通りに再建する最初の試みでした。

1970年代の城周辺の航空写真

松平定信が残した三重櫓の詳細図面、現地説明板より

ところが、これには法律上の大きな問題がありました。日本の建築基準法は、13mを超える高さの木造建築物に厳しい規制を課していたのです。この法律によれば、白河小峰城三重櫓のような大型の古い形式の木造建築物を、新しく作ることはできませんでした。そのため、この櫓は建築物としてではなく、工作物として復元作業が続けられました。この扱いであれば、法律の許容内でした。そしてついに1991年に完成となりました。しかし、また新たな問題が発生します。政府当局が、櫓のほとんどの部分にビジターを入れてはいけないと言ってきたのです。「建築物ではないから」が、その理由でした。最終的には1993年に、歴史的建造物に対する例外規定ができたことで、三重櫓は全面的にビジターに公開されることになりました。

復元された三重櫓

特徴、見どころ

今でも威厳のある城跡

現在、城山公園と呼ばれる白河小峰城跡の前に立ってみると、今でも広大に城を覆っている石垣群の上に、スリムに復元された三重櫓が乗っかっていて、とても印象的です。公園の正面入口は、かつては二の丸入口で、そこには太鼓門がありました。二の丸は今では広場になっていて、くつろいだり、運動したりすることができます。敷地の一部には、小峰城歴史館、二の丸茶室などの公共施設があります。

城周辺の航空写真

二の丸入口(太鼓門跡)
広場となっている二の丸
かつての太鼓門と二の丸の姿、小峰城歴史観展示の模型より

その先にある城の主要部分は、今でも内堀と二段の石垣に囲まれていて、とても強そうに見えます。この二段の構えは、上の方にある本丸を下の方の竹の丸・帯曲輪が囲んでいる形になっています。主要部分に入るには、堀を渡る土橋と清水門跡を進んでいく必要があります。この門は城では最大の門でした。実は白河市は2026年までにこの門を復元する予定でいます(2024年3月時点の情報)。次に右に曲がって石段を登っていくと竹の丸に至りますが、そこでは三重櫓が間近に迫って見えます。

清水門跡
竹の丸に向かいます
竹の丸
かつての清水門から竹の丸周辺の姿、上記模型より

復元された櫓と門のコンビネーション

三重櫓のとなりには、櫓に続き2004年にオリジナルと同様に復元された前御門も見えます。この櫓と門の取り合わせはとても見栄えがして、城の権威をも高めています。門を入っていくと本丸となります。今は広場となっていますが、かつては城主のための御殿がありました。

竹の丸から見える三重櫓と前御門
本丸御殿跡
かつての本丸御殿の姿、上記模型より

三重櫓は本丸の北西隅に立っています。その構成はシンプルに正方形の3フロアを積み上げていて、1辺11.7m(6間四方)の一階、1辺7.8m(4間四方)の二階、そして一辺3.9m(2間四方)の三階から成っています。それぞれの階には簡素な屋根が付き、壁は白い漆喰と黒い板壁の2色構成です。そのシンプルさがかえって櫓を美しく見せています。

本丸内部から見た三重櫓

外も内も元通りに復元された三重櫓

櫓には本丸の内側から入っていきます。この櫓を復元したときの経緯もあって、係員が櫓の内部に常駐していて、ビジターの安全を常にチェックしています。例えば、規定によって一階から上には同時に5人のビジターしか入れないことになっています。この櫓が、最小限の安全設備と説明板を除き、オリジナルのものと全く同様に復元されているからです。一階を歩いてみると、中はあまり明るくなく、柱が多く立っていることに気付かれるでしょう。その柱には、1868年の戊辰戦争のときに激戦地となった稲荷山の松の木が使われています。そこには、戦争のときに生じた弾痕を見ることができます。

櫓の一階内部
一階の柱に残された弾痕

また一階の北側と東側には石落とし、狭間、格子窓といった防御システムがあります。この両サイドは本丸の外側を向いていて、敵の攻撃を受ける可能性がありました。

一階に備えられた石落とし
一階に備えられた狭間(黒い四角部分)

二階と三階に上がるときには、とても急な階段を登ることになるので気を付けて下さい。但し、復元のときに付けられた手すりとロープを使うことができます。

二階に登るための急階段
階段を上から見下ろしています

上の階に行くに従い、フロアは狭くなり、最上階ではまるで箱の中にいるようです。この階にもまた他の階と同じような防御システムがあります。この櫓は実戦的に作られたということがわかると思います。格子窓を通じてということにはなりますが、外の景色を見ることもできます。

二階内部
三階内部
格子窓越しの景色

「白河小峰城その3」に続きます。
「白河小峰城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

13.白河小峰城 その1

1627年、城にとって画期的な出来事が起こりました。丹羽長重が白河藩の初代藩主としてやってきたのです。長重の父親は丹羽長秀で、織田信長の下で、日本の近代的城郭の始祖、安土城の普請総奉行を務めました。長重は父親から引き継いだノウハウや人脈によって、築城の名人だったのです。

立地と歴史

結城氏の支城として築城

現在の白河市に当たる白河地域は、東北地方の玄関口となっています。古代にはこの地域に、有名な「白河の関」がありました。白河小峰城は最初は14世紀に結城氏によって築かれ、当時はシンプルに小峰城と呼ばれていました。結城氏は白川城という別の城を居城としていました。彼らはもともと、13世紀に南の関東地方から移住してきたのです。小峰城は阿武隈川沿いの丘の上に、本拠地を守るための支城として築かれました。小峰城は後に本拠地よりも有名になり、こちらも白河城(「川」と「河」は同じ意味)と呼ばれるようになりました。名称の混乱を防ぐために、一般的には、2つの白河(川)城を区別して、2つ目の白河城を、白河小峰城と呼んでいます。

白河市の範囲と城の位置

白河の関跡
白川城跡
白河小峰城跡

丹羽長重が近代的な城に大改修

結城氏は、16世紀終わり頃の天下人、豊臣秀吉による国内統一事業の間、不幸にも改易されてしまいました。その後白河小峰城は、上杉氏や蒲生氏に引き継がれ、支城として使われました。城の基本的構造はこの間に完成したと言われていますが、大半の部分はまだ土造りでした。1627年、城にとって画期的な出来事が起こりました。丹羽長重が白河藩の初代藩主としてやってきたのです。長重の父親は丹羽長秀で、織田信長の下で、日本の近代的城郭の始祖、安土城の普請総奉行を務めました。長重は、北陸地方の大名だったとき、1600年の天下分け目の戦いでは西軍に属しました。しかし西軍は、徳川幕府を設立することになる東軍に敗れてしまいました。そのため、長重は幕府により一時改易となりました。しかし1603年には独立大名に復帰します。その理由の一つとして、長重が父親から引き継いだノウハウや人脈によって、築城の名手だったことが挙げられるでしょう。

丹羽長重肖像画、大隣寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
丹羽長秀肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
安土城の想像図、岐阜城展示室より

長重は、1629年から1632年の間、城の大改修を行いました。また、幕府は長重に、北方の東北地方に展開していた多くの外様大名を監視するために、強力な城を築くことを期待しました。長重はこれまであった城に、石垣、水堀、櫓、館などを築きました。また、阿武隈川の流れを城の北西側から北側に付け替え、城の用地を広げ、北の方角に対する防御力を強化しました。また、本丸の北東隅には三重櫓が建てられ、北方の奥州街道を見張っていました。三重櫓は14mの高さがあって、城のシンボルとなりました。初期段階においては、天守とも呼ばれたのですが、その呼び方はされなくなりました。それは、将軍の本拠である江戸城の天守が1657年に焼けてしまい再建されなかった後のようです。白河藩は、将軍との関係を考慮してそうしたのでしょう。

白河小峰城の模型、小峰城歴史館にて展示
城の北側を流れる阿武隈川
復元された白河小峰城三重櫓

松平定信による改革

城と藩は、榊原、本多、(奥平)松平、(結城)松平など、いくつもの譜代大名家に引き継がれました。白河地域を含む東北地方は、その当時は肥沃ではなく、度々冷害、干ばつ、洪水などによる被害を受けました。したがって、白河藩はいつも財政問題を抱えていました。1783年、(久松)松平定信が藩主となり、改革を始めます。彼の基本方針は質素倹約でした。また、藩士には学問と武芸を、農民には増産を奨励しました。特に彼の社会政策は優れていました、例えば、1780年代の天明大飢饉のときでも、農民たちを救い、幼児の養育支援を行いました。定信はついに1787年には幕府中枢で老中首座となり、寛政の改革を実行しました。彼はまた、城の建物の詳細図面を作らせ、後の世に残しました。これが現在の私たちにとって、思ってもみなかった幸運をもたらします。

松平定信自画像、鎮国守国神社 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
松平定信が開設した南湖公園

白河口の戦いで落城

1823年に、阿部氏が最後の藩主となりました。阿部正外(あべまさとう)は幕府中枢の職にありましたが、1866年に政策の失敗により地位を追われてしまいました。その結果、白河地域は無主の地のようになり(公式には幕府天領)、これが城にとって大不幸につながります。明治維新が起こった1868年、徳川幕府を倒した新政府と、まだ幕府を支持していた多くの東北諸藩が対立し、戊辰戦争が始まりました。新政府軍の最初の攻撃目標は、東北地方の入口である白河地域でした。東北諸藩の同盟軍は、白河地域と白河小峰城を共同で守らなければなりませんでした。

最後の白河藩主、阿部正外の肖像写真 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ところが、白河小峰城には新政府軍が攻めてくる南方に弱点がありました。城から1km前後離れた3箇所の丘上に重要拠点(稲荷山、立石山、雷神山)があり、そこを占領されたら城を大砲によって狙われてしまうのです。更には新政府軍は、同盟軍より新式の銃によって武装されていました。同盟軍はまた、優秀な指揮官がいないために統制を欠いていました。5月1日、白河口の戦いが起こり、新政府軍は3つの丘を占拠しました。同盟軍の兵士や城は狙い撃ちされ、たった一日で壊滅、落城してしまいます。三重櫓を含む多くの城の建物もその過程で焼け落ちてしまいました。その後、同盟軍は何度も城を奪還しようとしますが、全て失敗しました。その理由の一つには、同盟軍が撤退して反撃をしてきた北の方角に対しては、城が強力な防御力を持っていたからなのかもしれません。

城周辺の起伏地図

稲荷山古戦場に立つ鎮魂碑
破壊された白河小峰城 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「白河小峰城その2」に続きます。

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