34.七尾城 その1

北陸地方の名だたる巨城

立地と歴史

能登国の首府

七尾城は、現在の北陸地方の石川県北部に当たる、能登国にあった大きな山城でした。この城は、標高約300mの山の尾根上に築かれ、城の名前である「七尾」はその尾根の数に由来しています。畠山氏は、中世に国を治めた足利幕府の親戚筋に当たりました。その畠山氏の一族が、1408年に能登国の守護として当国に派遣されました。それ以来、畠山氏は七尾城を拡張しました。城は能登国の首府となり、その山麓では城下町が栄えました。この町からは16世紀中頃に、著名な絵師である長谷川等伯が輩出されます。彼はある戦国大名の肖像画を描きますが、その印象から有名な武田信玄のものだと言われてきました。しかし現在では、畠山氏の当主の一人を描いたのではないかと言われています。

城の位置

城周辺の起伏地図

畠山氏の当主かもしれない人物の肖像画、長谷川等伯筆、高野山成慶院所蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

畠山氏が重臣とともに統治

畠山氏は、遊佐(ゆさ)氏、長(ちょう)氏、温井(ぬくい)氏といった重臣たちと共に、能登国と七尾城を約170年間統治してきました。彼らは度々お互いに協力して侵入者を撃退しましたが、度々内輪もめも起こしました。これは彼らにとって強みでもあり弱みでもあったのです。城の構造はこの領主と重臣たちの関係を反映していました。城の主要部分は、松尾山という7つの中では一番高い尾根の上にありました。そこには今でも頂上に本丸があり、遊佐屋敷、桜馬場、温井屋敷、二の丸といった曲輪が尾根に並んでいるのを見ることができます。長屋敷と三の丸は主要部の両側にあり、大きく深い堀切によって隔てられていました。これらの曲輪の名前が示す通り、重臣たちは屋敷地として自分たちの曲輪を持っており、それが城内のパワーバランスを表していました。

七尾城の想像図(現地案内板より)
七尾城主要部の想像図(七尾城史資料館で展示)

上杉氏、織田氏の争奪戦の対象に

16世紀後半の能登国周辺では、2人の有力な戦国大名が勢力を広げていました。西方の織田信長と東方の上杉謙信です。謙信は1576年に七尾城を攻撃することを決めました。しかしそのときの城主は幼少で重臣たちが補佐していました。謙信は最強の戦国大名と言われていましたが、強引に城を攻撃することをせず、城を包囲することにしました。包囲は約2ヶ月間続きましたが、その間に幼少の城主は不幸にも疫病で死んでしまいます。重臣たちの意見は分かれていました。一方の長氏は、信長に援軍を求めようとしていました。しかし、もう一方の遊佐氏はそれには反対でした。信長はついに城に援軍を送りましたが、遊佐氏が長氏を倒すことで城方は謙信に味方することに決したのです。やがて、城は謙信のものとなりました。

上杉謙信肖像画、上杉神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
織田信長肖像画、狩野宗秀筆、長興寺蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この勝利にも関わらず、謙信はその6ヶ月後に亡くなってしまいます。その結果、七尾城は結局信長により占領されました。1581年、信長は能登国と七尾城を部下の前田利家に与えました。利家は本丸に三層の天守を築き、城の正面に大規模な石垣を造成しました。一方で利家はまた、統治のやりやすさと交通の利便性のために、七尾港の近くに新しい本拠地、小丸山(こまるやま)城を築きました。それでもなお七尾城を改修した理由は、新しい天守にあると考えられています。更に石垣とあいまって利家の権威と、この地域の領主が変わったことを知らしめていたのです。しかし、やがて1589年には廃城となってしまいました。

前田利家肖像画、個人蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
前田利家が築いた石垣

「七尾城その2」に続きます。

32.春日山城 その3

城の性格は城主次第

その後

春日山城跡は長い間放置されてきました。1901年、山の中腹に春日山神社が設立されました。それ以来、杉林が植林され、山を覆っていました。しかし、この城跡を所有している上越市は現在、山にある曲輪がくっきり見えるよう杉林を伐採しています。そして、城の実態を明らかにするための発掘がちょうど始まったところです。この城跡自体は1935年から国の史跡に指定されています。

春日山神社
約100年前の城跡の写真(上越市埋蔵文化財センター)
搦手道虎口から見た城の中心部

私の感想

私が春日山城跡を訪れたとき、この城は例えば北条氏の城に比べると、随分開けた感じになっていると思いました。多分それはこんなにも多くの曲輪があるにしては、土塁や空堀といった防御のための構造物が少ないからなのでしょう。これは上杉謙信の性格から来ているのだと思うのです。謙信は常にこの城の外で戦い、決して籠城はしませんでした。実際に謙信の時代には敵から攻撃されることはなかったのです。城の性格というのは、城主によって変わってくるものだと改めて思いました。

城跡の案内図(現地説明板より)
本丸から曲輪群を見下ろす
「川中島合戦図屏風」に描かれた馬に乗った謙信

ここに行くには

車で行く場合:
北陸自動車道の上越ICから約10分のところです。
城跡にいくつか駐車場があります。
えちごトキめき鉄道の春日山駅からは歩いて約30分かかります。
東京から春日山駅に行くには:
北陸新幹線に乗り、上越妙高駅でえちごトキめき鉄道に乗り換えてください。

春日山駅からの道の途中で見える城跡

リンク、参考情報

春日山城跡、上越観光ナビ
・「戦国の山城を極める 厳選22城/加藤理文 中井均著」学研プラス
・「謙信越山/乃至政彦著」ワニブックス
・「日本の城改訂版第80号」デアゴスティーニジャパン
・「列島縦断「幻の名城」を訪ねて/山名美和子著」集英社新書

これで終わります。
「春日山城その1」に戻ります。
「春日山城その2」に戻ります。

32.春日山城 その2

歩き甲斐のある城跡

特徴

現在、車があれば簡単に春日山城跡に行くことができます。山の中腹にある春日山神社に車を停めて、頂上に向かうことができます。しかし、もし時間があれば、山麓から元からあった道を歩いてみてはいかがでしょうか。

春日山城跡の全景

大手道周辺

例えば、神社に行く途中にある大手道の出発点に車を停めることができます。この道は最近観光客のために整備されました。頂上までは約3.5kmありますが、坂は緩やかでのんびりした雰囲気です。しばらくすると、塚状の番所跡を通り過ぎます。大手道は森と谷を通り、少し急でごつごつしてきます。やがて、柿崎屋敷と呼ばれる大きな曲輪に着きます。もうここは城の主要部の近くであり、景勝屋敷と井戸曲輪を過ぎればすぐに頂上です。

大手道周辺

大手道入口
のどかな大手道
番所跡
森の中を進む大手道
柿崎屋敷
井戸曲輪

搦手道周辺

もう一つは、北東の山麓にある愛宕山公園の蓮池から搦手道を歩いて行く方法です。最初に、現在は森林に囲まれている黒金門跡と御屋敷跡に入っていきます。道は急になり、曲がりくねっていき、千貫門跡に着きます。この門はとても大きく、内側に深い空堀があり強い防御力を備えていました。そして腰曲輪と虎口に沿ったジグザグの通路を登って、城の主要部に近づいていきます。この虎口は、かつて城が小さかった頃には、ここが城の正面口だったと言われています。虎口の内側には、峰上に直江屋敷があって、城の中心から見て景勝屋敷の反対側に当たります。この道筋は大手道よりは山城らしく見えます。

搦手道周辺

愛宕山公園の蓮池
黒金門跡
御屋敷跡
千貫門跡
千貫門内側の空堀
虎口
直江屋敷周辺

本丸周辺

本丸は山の頂上にあって、そこからは頚城平野と日本海の景色が楽しめます。天守閣跡が本丸のとなりにありますが、実際には櫓の類が立っていたと言われています。いくつか宗教的な建物も周りにありましたが、近代になって毘沙門堂のみが復元されています。二の丸や景虎屋敷など多くの曲輪が山の東側の坂に集まっています。山の中腹から頂上の方を見上げると、今も曲輪群が山を覆っているのがわかります。春日山神社がすぐ近くにあり、上杉謙信の銅像も目にすることができます。

本丸周辺

本丸
本丸からの眺め
天守閣跡
毘沙門堂
二の丸
曲輪群を見上げる
上杉謙信の銅像

その他の見所

春日山城史跡広場では、総構えの一部が復元されています。上越市埋蔵文化財センターでは、春日山城や上杉謙信のことをより学ぶことができます。林泉寺は城跡の近くにあり、謙信が子どものときに学問をしたところです。

春日山城史跡広場
上越市埋蔵文化財センター
林泉寺惣門 (licensed by ELK via Wikimedia Commons)

「春日山城その3」に続きます。
「春日山城その1」に戻ります。