その後
明治維新後、山麓にあった建物は撤去されたり失火により焼失しました。そして日本陸軍が二の丸と三の丸を含むエリアを使用しました。第二次世界大戦後は、市民会館、NHK放送局、博物館、図書館、病院、学校、球場などの公共施設として使われました。二の丸は、そこにあった病院と学校が他所に移設された後、最終的には1992年に二の丸史跡庭園として整備されました。外側から見ると、修復された石垣と復元された城壁により、まるでオリジナルの御殿のように見えます(城壁の内側は名称の通り御殿ではなく庭園となっています)。三の丸は、広大な広場を持つ公園として一般に公開されており、イベントなどが開催されています。球場などが移設された後は、城の歴史を突き止めるための発掘作業も並行して進められています。
1970年代の城周辺の航空写真一方、天守を含む山上の多くの建物が残っていました。1933年初めの時点では、44棟もの現存建物がありました。ところが同じ年に放火により35棟に減り、1945年の空襲により24棟に減り、1949年にはまたも放火により21棟になりました。松山市は1950年にその21棟の現存建物を重要文化財に指定し、1958年には他の建物の復元を開始しました。これまで、31棟の建物が1992年までにオリジナルの工法で、ほとんどが木造で復元されています。つまり、山上にある建物の数は1933年時点よりも多くなっているのです。更には城山公園と呼ばれる城の全域は、1952年以来国の史跡に指定されています。
特徴、見どころ
黒門口から山上へ
現在、山の上の松山城を訪れるのには4つのルートから選べます。最も一般的なのは東雲(しののめ)口で、ロープウェイかリフトに乗って簡単に頂上付近までたどり着くことができます。しかし歴史ファンの方なら、城までの大手道であった黒門口から歩いていかれることをお勧めします。
このルートは三の丸の奥の方からスタートし、御殿があった二の丸の傍を通り過ぎます。このルート上には建物は残っていませんが、今でもすばらしい石垣に囲まれています。まず、黒門、栂門(つがもん)、槻門(けやきもん)という3つの門跡を通る間に5回曲がらなければなりません。それから更に、頂上に至るオリジナルの石段が残る曲がりくねった山道を登っていきます。
黒門口周辺の地図大手門周辺の堅い守り
登っていくと頂上近くの大手門跡に着きます。また、そこでは本丸を囲むすばらしい高石垣も見えますし、たくさんのロープウェイかリフトに乗ってきたビジターが別の方向からやってきます。ここが東雲口ルートとの合流地点になっているのです。
本丸周辺の地図次に、天守が見える方に向かう道を進みますが、これは行き止まりで敵を欺くための罠であり、本丸に入るためには180度曲がっていかねばなりません(行き止まりの道の方は立入禁止になっています)。その次には現存する戸無門がありますが、戸がないのは敵を引き付けるためとも言われています。敵はきっとこの辺りで大いに困惑したことでしょう。
戸無門をくぐると、復元された筒井門が現れます。この門は単独に立っているように見えますが、実は現存する隠門(かくれもん)がとなりにあるのです。筒井門から攻め入る敵は、隠門から出てくる守備兵の反撃を受けてしまうでしょう。
本丸からの素晴らしい眺め
そして、復元された太鼓門を通れば、ついに本丸に到着します。本丸の中心部は広場のようにも見えますが、周辺には復元された井戸、巽(たつみ)櫓、馬具櫓などがあります。それに、ここは間違いなく天守や、松山市街地・瀬戸内海など周辺地域を眺めるビュースポットです。