93.人吉城 その1

下剋上により当主となった相良長続が築いた初期の人吉城は、私たちが現在城跡と認識している江戸時代の最終形の人吉城よりもずっと大きかったのです。

立地と歴史

相良氏が人吉地域を長く支配

人吉城は、現在の熊本県にあたる肥後国の南部に位置する人吉盆地を流れる球磨川沿いにありました。この城を築いた相良(さがら)氏は最初は、1200年前後に鎌倉幕府により人吉地域に派遣されてきました。彼らは、当初堀に囲まれた四角い敷地に居館を構えていました。当時は、足利氏館に見られるように、他の地域の領主たちもそのようなところに住んでいたのです。この館が人吉城の起源だという人もいますが、後に築かれた城とは違う場所に違う形態で建てられたのです。相良氏は、定住してからその地域を治め、その地位は幕府や肥後国の守護である菊池氏によっても公認されていました。その方形の居館は、その後少なくとも1回は移設、再建されましたが、その場所自体が相良氏にとっての聖地と見なされ、任官式のような重要な儀式がそこで取り行われました。

肥後国の範囲と城の位置

相良氏の初代、相良長頼肖像画、江戸時代、相良神社蔵   (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

相良氏の当初の居館位置

足利氏館跡

相良長続が下剋上により当主となり人吉城を築城

しかし、そのこと(権威)だけでは領地を維持したり、後継者を決めるということは実際にはできませんでした。結局は勢力が大きいとか、戦に打ち勝つといったことが決定的な要因でした。15世紀中頃、相良氏の親族にあたる永留長重(ながとめながしげ)が、文安の内訌(ぶんあんのないこう)と呼ばれる氏族内の争いに乗じて権力を獲得し、ついには相良氏の当主となり、名前を相良長続(さがらながつぐ)と改めました。彼はもともと、領主の館の北方にあった山田城という小さな山城を拠点としていました。そして力をつけるに従い、当主の館近くのシラス台地上に、いくつもの曲輪を持つ高城(たかじょう)を築き、移り住みました。恐らくは、その城に家臣たちを住まわせ、下剋上の準備をしたのでしょう。それを成し遂げると、最終的に現在の場所に人吉城を築いたと考えられています。

永留長重の本拠地の変遷

人吉城は、球磨川の南岸沿いに、シラス台地上の高城と同じような形式で築かれましたが、高城よりはずっと大規模でした。実は初期の人吉城は、私たちが現在城跡と認識している江戸時代の最終形の人吉城よりもまた、ずっと大きかったのです。初期の人吉城は、実際には配下の城の集合体で、それらは上原城、中原城、下原城、西の丸、中尾、内城などと呼ばれていました。それぞれが台地上の丘に築かれ、空堀によって他と区切られていました。相良氏の当主は、城群の中で最大で且つもっとも高所に位置する中原城を居城としていました。上原城に関して興味深いことは、その中に独自の堀で囲まれた四角いスペースが含まれていたことです。そこが相良氏にとっての聖地であり、重要な儀式が昔と同じような場所で行われていたようなのです。実力によって権力を握った新しい当主にとっても、氏族の伝統や権威を継承することも必要であったと思われます。

球磨川南岸の城跡遠景

初期の人吉城周辺の起伏地図

相良氏の拡大と挫折

相良氏の拡大する勢力は、人吉地域を飛び出し、肥後国の他の地域に及びました。特に、彼らは八代海に面する八代地域を手に入れようとしました。その地域は国際貿易により繁栄していたのです。長続の子、為続(ためつぐ)が八代地域への侵攻を開始しました。為続から4代目の義滋(よししげ)が八代獲得を達成し、1534年に本拠地を人吉城から、当時は八代城と呼ばれた古麓城(ふるふもとじょう)に移しました。相良氏は九州地方における有力な戦国大名となり、琉球王国を通じた海外貿易や、明王朝との直接取り引き、果ては密貿易まで行いました。その結果、人吉城は相良氏の支城として改修されました。その過程で内城と呼ばれた相良氏の家族の住居地が、御内(みうち)と呼ばれる新しい城主の住居地となりました。

相良義滋肖像画、相良神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
古麓城跡、八代市ホームページより引用

ところが16世紀後半に島津氏が全九州地方の制覇を企て、相良氏に降伏と八代城を引き渡すよう強いたのです。相良氏は人吉城に戻らざるを得ず、それでも豊臣秀吉や徳川幕府による天下統一の過程においてはコアの領土を維持することができました。人吉城は御内の範囲に縮小され、それ以外の部分は放棄されました。その代わりに残った部分は石垣を築くなどして近代化されました。

江戸時代の人吉城を描いた「肥後国球麻城絵図」、出典:国立国会図書館デジタルコレクション
現在の人吉城跡

相良氏は江戸時代の間中、人吉藩として城とその周辺地域を支配しました。しかし、その長い期間には藩内でいくつもの問題が発生しました。例えば、お下の乱と呼ばれる内紛が1640年に起こりました。重臣の一人である相良清兵衛が藩内で藩主に匹敵するほどの勢力を持ち、ついには藩主により追放されたのです。彼の一族はお下屋敷と呼ばれた館に籠りましたが、鎮圧され館も焼かれました。また、1862年には寅助火事と呼ばれる大火が起こり、城の多くが焼亡しました。その後、石垣の一部がヨーロッパの城郭を模した跳ね出しと呼ばれる新技法によって再建されました。

人吉城の跳ね出し石垣

「人吉城その2」に続きます。

97.鹿児島城 その1

島津氏の本拠地であるとともに、西南戦争終焉の地

立地と歴史

関ヶ原の戦いの後に築城

鹿児島城は、江戸時代の間島津氏の本拠地であり、また1877年に起こった日本最後の内戦である西南戦争の最後の戦場となったことでも知られています。島津氏は15世紀中盤から16世紀までの戦国時代における九州地方南部の有力な戦国大名でした。ところが、1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、島津氏を含む西軍は、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に完敗しました。約1500人の兵による島津軍は、中部地方にあった戦場から何とか逃れ、九州地方の薩摩国にあった本拠地にたどり着きましたが、そのときまで生き残った人数はたった80人でした。

城の位置

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

島津氏は、幕府軍が薩摩国を直接攻撃してくるのではないかと憂いていました。そこで、本拠地としての新しい城を築くことを決めたのです。それまでの本拠地はシンプルな館だったので、それよりはずっと強力なものでした。城は西側にある城山の麓に築かれ、山は緊急事態のときの詰め城とされました。城には本丸と二の丸があり、北・東・南側を石垣と水堀が囲んでいました。本丸の内部には領主の御殿があり、御楼門(ごろうもん)と呼ばれる日本でも最大級の門がありました。しかし、それでもこの城の防衛システムは、天守・多層階の櫓、高く巧みに曲げられた石垣といったものがあった日本の他の城ほど複雑ではありませんでした。これは、島津氏が治めていた薩摩藩には外城(とじょう)と呼ばれた独特な防衛システムがあったからなのです。それは、藩が多くの藩士を地元に送り、その拠点を自身で守らせるというものでした。他の藩では通常、藩士を本拠地の城下に集住させていたので、薩摩藩のやり方は異なっていました。

鹿児島城の模型(北東側からの視点)、黎明館にて展示
上記模型の御楼門部分
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、黎明館にて展示

幸運にも幕府は、薩摩藩に薩摩国を江戸時代末期まで統治することを認めました。1863年に起こった薩英戦争のときのことですが、イギリスの軍艦が鹿児島市街地を砲撃しましたが、城は砲撃目標とされませんでした。高層の建物がなかったからです。明治維新後、城は県庁と陸軍施設として使われました。しかし残念ながら、本丸の建物は1874年の失火により焼け落ちてしまいました。

焼け落ちる以前の鹿児島城の古写真、黎明館にて展示  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西南戦争の勃発

ついに、この城の最大の出来事が1877年に起こります。維新三傑の一人である西郷隆盛が、他の二傑、大久保利通と木戸孝允に反発し、政府での職を全て辞して1873年に故郷の鹿児島に帰ってきました。彼は1874年に鹿児島城の二の丸に私学校を設立し、若い武士たちの教育を始めました。西郷は穏やかに若手をコントロールしようとしたのですが、結局大久保率いる政府に対する反乱の首謀者に担ぎ上げられてしまったのです。大久保は、帯刀などの武士の特権を廃止し、1876年には代々受け継がれた家禄をも取り上げました(秩禄処分)。同年からいくつか反乱が発生したのですが、その最大のものが1877年2月に起こった西郷による西南戦争でした。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保利通肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西郷とその軍勢は、北の方に行き熊本城を占拠しようとしました。彼とその側近たちは最初は楽観的でした。彼らはプロの武士集団であり、九州地方の他の地域から集まった支援者たちを加えると、その兵数は最大時で3万に達しました。一方、熊本城の守備兵の数はわずか3千超であり、多くは徴集された農民兵でした。西郷軍は、城の守備兵はすぐにでも降伏するとさえ考えていました。幹部の何人かは薩摩出身だったからです。ところが、谷将軍が率いる守備兵は決して降伏せず、大久保は援軍を城に送りました。その援軍の多くも徴収兵でしたが、西郷が思うよりずっとよく訓練され、西郷軍よりもずっと装備や兵站が充実していました。政府側は電信のような先端の情報技術さえ駆使しました。西郷側にはとてもそのようなものはありませんでした。4月には西郷は熊本城から撤退せざるをえず、人吉城などの九州の他の地域に滞陣しようとしますが、全て失敗しました。西郷はついに8月に反乱軍の解散を宣言します。わずか400名近くとなってしまった彼と側近たちは、最期の決死の戦いを、故郷且つ本拠地である鹿児島城で行うことを望みました。

熊本城
谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

西郷と城の最期

彼らは9月初めに鹿児島城に何とかたどり着き、城山の麓と山上に兵を配置しました。もちろん5万人からなる政府軍からの攻撃を防ぎきれるものではありません。もし、これが戦国時代の出来事であったなら、西郷は山上に本陣を置いたでしょう。しかし、それは大砲の標的となってしまうため不可能でした。そのため、彼は山と麓の狭間の谷にあった洞窟に留まらざるをえず、そこは後に西郷洞窟と呼ばれるようになります。政府軍は、人っ子一人逃げられないよう完全に薩摩の反乱軍を包囲しました。そして9月24日に総攻撃を開始したのです。西郷は洞窟から突撃を敢行しましたが、銃撃され、最後は切腹して果てました。

西郷洞窟
政府軍の包囲陣地、1877年 (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

「鹿児島城その2」に続きます。

190.八代城 その1

3つの八代城がありました。

立地と歴史

奪い合いの対象となった初代八代城

八代市は、九州地方の西部にあって、農業と工業が盛んなことで知られています。これらの産業は江戸時代以来、耕地及び工場の敷地を拡大させることで発展してきました。八代の人たちは八代海を干拓し、八代平野の面積を3倍にしたのです。干拓を行う前、八代は水陸交通の結節点として栄えていました。八代城は元来、海の近くにあり交通をコントロールできる位置にあったのです。

八代市の範囲と城の位置

実は、歴史的には八代城は3つあったのです。それらの元々の名前はそれぞれ、古麓(ふるふもと)、麦島(むぎしま)、松江(まつえ)といいました。これらの城は同時には存在しておらず、それぞれの時代で地域を代表する城を「八代城」と呼んだのです。その3つの城の歴史を調べてみると、八代市の多くを学んだということになるでしょう。最初の八代城である古麓城は、14世紀から16世紀に丘の上に築かれた典型的な山城でした。地方領主の名和氏が居城としていましたが、内陸の人吉城にいた相良氏が八代城の立地の良さに目を付け、侵攻しようとしました。相良氏は何度も八代城を攻め、ついには1504年に占領しました。しかし天下統一事業が進んだ16世紀後半には、八代城は島津氏、そして豊臣秀吉の手に渡りました。

城周辺の起伏地図

古麓城跡、八代市ホームページより引用

水上交通の要となった2番目の八代城

秀吉は配下の小西行長を、南肥後の国主として送り込みました(肥後はほぼ現在の熊本県に相当します)。行長は古麓城を廃城とし、代わりに麦島城を築きます。これが2番目の八代城となります。この城は球磨川の河口に築かれ、八代海に面しており、水上交通の要衝となりました。この場所に城が築かれた理由の一つは、秀吉がかねてから計画していた朝鮮侵攻の準備のためでもありました。行長は実際、1592年に侵攻が行われたとき、その先鋒を務めたのです。その立地に加え、この城は総石垣造りで築かれました。それが私たちが現在目にする、最後の八代城の雛形になったと言われています。1600年の関ヶ原の戦いで行長は敗軍の将となり、肥後国は加藤氏に引き継がれます。加藤氏の本拠地は熊本城でしたので、麦島城は支城として、その重臣の加藤正方(まさかた)が入りました。

麦島城跡の発掘現場  (licensed by Emeraldgreen at Japanese Wikipedia via Wikimedia Commons)
加藤正方肖像画、浄信寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

1615年、徳川幕府は一国一城令を発しました。肥後国にあった支城群は破壊されましたが、麦島城はなぜか例外とされました。その理由はこれまでいろいろと議論されていますが、結論は定まっていません。一説には、加藤家の当主、加藤忠広がまだ幼少だったので、幕府はその後見として麦島城にいる重臣の正方が支えるべきと考えたからとされています。その後1619年に麦島城は地震により倒壊してしまいます。ところがまたも例外として別の場所での城の再建が認められたのです。または公式には、別の場所に城を移しただけだとも言われます。いずれにせよ、正方は実際には近くに新しい城を築いたわけで、松江城と呼ばれ、現在では(3代目の)八代城ということになっています。

加藤忠広肖像画、本妙寺蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
肥後国八代城廻絵図(部分)、出典:国立公文書館、この城も河口・海の近くにありました

例外として築かれ生き延びた3代目八代城

この新しい城は部分的に麦島城の設計を、またその一部の部材をも使って築城されました。例えば、4層の天守が本丸の角部分に築かれましたが、これは豊臣時代の古いスタイルでした。一方で、この城は「桝形」とよばれる先進的な防御システムも使われていました。桝形とは、城の入口において石垣によって囲まれた四角い空間のことを指します。この城の桝形は、本丸の外郭のラインから少しはみ出して作られていて、敵の側面を攻撃できるようになっていました。この形態は、桝形の最終形とも言われています。城は1622年に完成しました。

八代城主要部の模型写真、現地説明板より
隅に配置された天守、現地説明板より
はみ出している八代城の桝形

加藤氏は1632年に残念ながら幕府によって改易になってしまいますが、その後の肥後国は細川氏が治めました。細川氏も本拠地を熊本城とし、八代城は当主の父親である細川三斎(さんさい)の隠居所として使われました。彼は、戦国時代の生き残りであり、かなり気ままな性格だったようです。それが、幕府が八代城を廃城とすることを強制できなかった理由の一つのようです。三斎は亡くなる前、八代城をもって独立した藩にしようと考えたほどでした。結果的に八代城は江戸時代を通して存続しました。最終的には細川氏の熊本藩の重臣、松井氏が城主となっていました。

細川三斎(忠興)肖像画、永青文庫蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
熊本城
八代城跡

「八代城その2」に続きます。