1853年のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の来航は、幕府の根本政策に大きな衝撃を与えました。幕府は江川英龍に、ペリーの2度目の来航の前に、江戸湾に確固とした防衛システムを速やかに構築するよう命じました。
立地と歴史
ペリー艦隊の来航がきっかけ
お台場は東京のウォーターフロントエリアの人気の観光地の一つです。この地の名前は、直接には「台場」に敬称の「御」を付けたものであり、江戸時代末期に武家の都である江戸防衛のため、徳川幕府により築かれた品川台場を由来としています。この地区には今でもわずかではありますが、台場の遺跡が残っています。
東京湾周辺の地図
当時日本周辺に西洋船が頻繁に出没するようになると、幕府はいくつかの譜代大名と幕下の部署に、西洋船による侵攻の恐れから江戸湾(現東京湾)内外を防衛するよう命じました。ところが実際には、その当時の大砲では江戸湾の入口である僅か8km幅の浦賀水道でさえ防衛することができませんでした。幕府は自らの鎖国政策のため、遠洋艦隊を持っていなかったからです。そのため、日本にやってきた西洋船に対する幕府の基本的対応は、来航の目的を聞き、必要な物資を与えた上で退去するよう説得するというものでした。したがって、1853年のマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の来航は、幕府の根本政策に大きな衝撃を与えました。ペリー艦隊は意図的に江戸湾口を突破し、幕府に開国を迫るため湾内を示威的に航行したのです。
江川英龍が品川沖に砲台を建造
その後幕府は江川英龍(えがわひでたつ)に対して、ペリーの2度目の来航の前に、江戸湾に確固とした防衛システムを速やかに構築するよう命じました。英龍は優秀な官僚であり、西洋科学を学んでいました。彼は、最終防衛線として江戸城と江戸市中を守ることが最優先であると考えました。その場所は、品川宿近くの、海岸線から約2km沖合でした。防衛線は、海上にあるいくつもの砲台から成り、敵方の船に十字砲火を浴びせられるようになっていました。この立地を選んだもう一つの理由は、この海岸沿いの海は水深が浅く、ペリー艦隊の旗艦、サスケハナ号のような大型の西洋軍艦は乗り入れることができなかったことです。また、砲台群はこれら大型船の大砲の射程外であり、この海域に入ってこられる小型砲艦のみに対応すればよいという有利な状況もありました。
当初の計画では11か所の砲台を築くとされ、一番から三番までの3つの砲台が、ペリー再来航の前の7ヶ月以内に運用を開始し、品川台場と呼ばれるようになりました。それぞれの台場は四角い人工の孤島であり、石垣に囲まれ、大砲と関連施設を備えていました。専門的には方形堡と言われます。台場の基本設計は、英龍や部下たちが翻訳した西洋の兵学書に基づいていました。台場で使われていた大砲は、西洋製を模倣した国産によって賄われていました。しかし、その中には佐賀藩がちょうど製造に成功したばかりの鋳鉄製の大砲が含まれていて、世界の最先端のレベルに迫っていました。台場の石垣は、従来の日本式で築かれていましたが、その最上段は跳ね出しというヨーロッパの城郭に倣った方式を採用していました。また、これら台場独自で考え出されたアイデアの一つとして、周囲に波除杭を敷設したことがあります。これらは本来の用途の他に、敵の砲艦の台場への接近を防ぐという効果もありました。
幕末まで維持された防衛システム
幕府は1854年に開国を決断し、ペリーとの間で日米和親条約を結びます。品川台場の建設は続きましたが、計画された11基のうち、5基のみ(一番~三番、五番、六番)のみが完成し、2基(四番、七番)は建設途中で中止となりました。その理由としては、予算不足と、条約後の西洋諸国との外交関係が安定したことが挙げられます。台場の運営は、いくつかの藩から武士たちが派遣されて行われました。例えば、忍城を本拠とする忍藩は三番台場を受け持っていました。武士たちは小さな舟に乗って独立した海堡まで行き、次の組が来るまで風呂なしの兵舎で待機していました。
幕府はまた、この防衛システムが不十分とも考えていました。未完成に終わった海上砲台の代わりに、御殿山下砲台のような海岸砲台を築きました。更には、独自の砲艦を建造し、これらの砲台と緊密な連携が取れるようにしました。それぞれの台場には船着き場があり、砲艦が停泊できるようになっていました。この防衛ラインの運用は、1868年に幕府が新政府によって倒される明治維新のときまで続きました。
1945年~1950年頃の品川台場周辺の航空写真、まだ各台場の敷地は残っていました
品川台場の評価は難しいかもしれません。実際の戦いに使われたことはなく、台場に設置された大砲の性能は急速に陳腐化してしまったからです。しかし歴史家は、西洋諸国による侵略を防ぐ抑止力として機能したのではないかと言っています。台場にあった大砲は、ペリー艦隊に搭載されていた大砲と同レベルであったと指摘されています。また、英国から派遣された外交官は、品川台場を見て、そこで使われている技術は西洋の大砲と同等のレベルであると本国に報告しています。
「品川台場その2」に続きます。
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