24.武田氏館 その2

武田と徳川の遺産が神社周辺にあります。

特徴

中心地は武田神社に

現在、武田氏館跡の中心地は武田神社となっています。もし甲府駅からここを訪れる場合は、およそ2kmの緩やかな坂を登っていく必要があります。そして、鳥居がある武田神社の入口が神社の南側に見えてきます。実はこの入口は元からあったものではなく、神社が設立されたときに作られました。入口の両脇には石垣もありますが、これは徳川氏の時代に築かれたものです。神社全体を囲む土塁と水堀は武田氏によって築かれました。

武田神社の入口
徳川氏が築いた石垣
神社を囲む土塁と水堀 (licensed by 前田左衛門佐 via Wikimedia Commons)

神社の本殿は、かつて武田氏の御殿があった敷地の中に建っています。客をもてなすための回遊式庭園も御殿の手前にありました。本殿のとなりには、宝物館があり、武田氏館のことをより学んだり、信玄のモットー「風林火山」が書かれた孫子の旗や甲冑などの武田の遺品を見学することができます。

武田神社の本殿

城周辺の地図

東側は公園として整備

神社の東側には、もう一つの入口、大手門がありますが、元はここが正面口でした。門の周りの石垣は武田の時代からのままのようにも見えます。大手門の前には、門を守るための復元された四角い石積みがあります。これは最近の発掘の成果によるもので、元は徳川氏により築かれたものです。実は、武田氏による丸い形の馬出しの跡が、四角い石積み跡の下に見つかりました。発掘により、この門と石積みの東側にもう一つの曲輪が築かれたことも判明しました。この曲輪もまた、大手門を守るために恐らくは徳川氏により作られたものと考えられています。この曲輪の入口と土塁が公園として復元されています。

東側にある大手門
復元された石積み
復元された大手門東側の曲輪

武田の雰囲気を残す西曲輪

武田神社の西側には、西曲輪が残っています。神社からこの曲輪の方に土橋を渡って歩いて行くことができます。この曲輪に行く出口の両脇に石垣が見られますが、これは信玄の時代に由来するものかもしれません。曲輪の中は今は空ですが、信玄の家族や関係者のための館がありました。古風な土塁や水堀がこの曲輪を囲んでいて、当時の雰囲気が感じられます。更には、南側にあるこの曲輪の正面入口には、桝形と呼ばれる武田の防御システムを見ることができます。曲輪を守るため、括弧形の土塁に囲まれた入口の内側が四角い空間になっています。

神社から西曲輪へ
西曲輪へ向かう出口に見られる石垣
古風な西曲輪の外観
西曲輪南側の入口
土塁に囲まれた桝形部分

「武田氏館その3」に続きます。
「武田氏館その1」に戻ります。

24.武田氏館 その1

人は城、人は石垣、人は堀だったのでしょうか?

立地と歴史

武田信虎が守護所として築城

躑躅ヶ崎館とも呼ばれた武田氏館は、現在の山梨県の県庁所在地である甲府市にありました。この館が甲府市発祥の地だと言えるのです。甲斐国(現在の山梨県)の守護であった武田信虎が1519年に最初にこの館を作りました。館は、守護の公邸ということだけでなく、武田氏の本拠地でもありました。よって、日本の城の一つとして分類されています。

武田信虎肖像画、武田信廉筆、大泉寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

その立地は、北側に山が控えていて、南側にはその周辺から扇状地が広がっていました。信虎は城下町やその周辺地を見渡すことができました。彼は、館を一辺が200m近くある方形の曲輪の上に築き、土塁と水堀で囲みました。これは当時の日本の守護の典型的な館の築き方で、京都の将軍の御所にあやかったものでした。更に、彼は館の北、約2kmの所にある山にもう一つの城を緊急事態のときのために築き、要害山城と呼ばれました。例えば、信虎とその家族は、戦いが起こったときは館からこの山城に避難できたわけです。実際に、彼の息子、武田信玄は1521年の信虎と今川氏との戦いの最中に要害山城で生まれました。これらの城のネットワークは、当時としては安全を確保するための十分な防御態勢だったのです。

城の位置

武田信玄の言葉と城との関係

日本の最も有力な戦国大名の一人であった武田信玄もまた、1551年に家族と関係者のための西曲輪を加えるなど、館を拡張しました。それ以外に、丸く突き出た形の防御陣地である馬出しが、東側の大手門の前に築かれました。また、北側には信玄の母の館が築かれたと言われています。それぞれの曲輪は10m近い高さの土塁と5mの深さがある水堀に囲まれていました。

武田氏館の想像図(現地説明板より)

ところが、この館は多くの人たちに誤解されているようなのです。これは、江戸時代の17世紀の軍学書である甲陽軍艦に記載されている信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀・・」から来ているのです。この言葉の意味するところは強い城を築くより人の心を掴むことが大事ということなのですが、後の多くの人たちは、これを信玄が、織田信長や上杉謙信のような他の戦国大名と比べて、なぜこのような小さな城しか持たなかったかということへの理由として考えているのです。

武田信玄肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

武田氏館自体は、信長の安土城や謙信の春日山城より随分小さいものです。しかし、それはその時代や状況が異なっていたからです。信玄の場合は、館は守護の公邸としてスタートしました。当時としては、このような館が守護の住む所として普通でした。武田氏はこれに、城のネットワークや馬出しを状況に応じて加えていったのです。彼らとしてはそれで十分でした。

武田氏館跡

武田勝頼が本拠地を移す

1582年、信玄の息子、武田勝頼は本拠地を大きな新しい城、新府城に移すことを決めました。状況が変わったからです。勝頼は信長の脅威に直面しており、武田氏館より強力で大きな城を必要としていたのです。武田氏館は一時廃城となります。勝頼は、不幸にも信長により滅ぼされてしまい、武田氏館は織田氏や徳川氏により再び使われることになりました。1590年、徳川氏が近くに甲府城を築いたときに武田氏館はついに最後のときを迎えました。

武田勝頼肖像画、高野山持明院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「武田氏館その2」に続きます

149.小牧山城 その2

信長と家康の遺産を見ることができます。

特徴

土塁に囲まれた山と城

現在でも、小牧山は緑の木々に覆われ、平地の上に目立って見えます。頂上にある建物は天守のように見えますが、小牧市歴史館です。小牧市は、この山全体を史跡公園として整備してきています。2019年には山麓に小牧山城史跡情報館がオープンしました。

市街地から見える小牧山

城周辺の航空写真

山に近づくと、山を取り囲む土塁や空堀を目にすることができるでしょう。これらは1584年の小牧長久手の戦いの際に徳川家康により築かれたものです。東側の御幸橋入口から木橋を渡り、食い違いになっている土塁を通って公園の中に入っていきます。この橋はもとからあったものではなく、観光客が公園に入り易いように作られたものです。土塁の内側は平らな曲輪が広がっており、信長や家臣たちの館があり、また家康の軍勢の駐屯地となっていた所です。

土塁に囲まれた山
御幸橋入口
土塁の内側

安土城と似ている大手道

南側の正面入口からは、もとは信長が作った大手道を山に向かって登っていきます。この道は山の中腹まではまっすぐ伸びていてそこから上はジグザグになっています。この形態は、信長の最後の本拠地となった安土城のものととてもよく似ています。これは、彼が築城に関する考え方をかなり早くから持っていたことを意味します。

小牧山城の大手道
安土城の大手道
中腹から上の大手道
安土城の大手道(中腹より上)

山上に残る巨石と石垣

小牧市歴史館が山の頂上にありますが、かつてはそこが本丸でした。頂上の周辺には、巨石がいくつも転がっているのが見えます。実はこれらの石はもともと本丸を囲む石垣として組み込まれていたものです。石垣の一部は今なお現存していますが、信長ではなく、家康が築いたものと考えられてきました。ところが、最近の発掘により、信長が巨石を使って築いたことが判明しました。三段積みにより作られ、彼の権威を表していたのです。現在では、信長独特の方法で築かれた、城の石垣としては非常に速い事例として認められています。

小牧市歴史館 (licensed by Bariston via Wikimedia Commons)
頂上付近
「転落石」の一つ
現存している石垣

「小牧山城その3」に続きます。
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