97.鹿児島城 その1

島津氏の本拠地であるとともに、西南戦争終焉の地

立地と歴史

関ヶ原の戦いの後に築城

鹿児島城は、江戸時代の間島津氏の本拠地であり、また1877年に起こった日本最後の内戦である西南戦争の最後の戦場となったことでも知られています。島津氏は15世紀中盤から16世紀までの戦国時代における九州地方南部の有力な戦国大名でした。ところが、1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いでは、島津氏を含む西軍は、徳川幕府の創始者となる徳川家康率いる東軍に完敗しました。約1500人の兵による島津軍は、中部地方にあった戦場から何とか逃れ、九州地方の薩摩国にあった本拠地にたどり着きましたが、そのときまで生き残った人数はたった80人でした。

城の位置

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

島津氏は、幕府軍が薩摩国を直接攻撃してくるのではないかと憂いていました。そこで、本拠地としての新しい城を築くことを決めたのです。それまでの本拠地はシンプルな館だったので、それよりはずっと強力なものでした。城は西側にある城山の麓に築かれ、山は緊急事態のときの詰め城とされました。城には本丸と二の丸があり、北・東・南側を石垣と水堀が囲んでいました。本丸の内部には領主の御殿があり、御楼門(ごろうもん)と呼ばれる日本でも最大級の門がありました。しかし、それでもこの城の防衛システムは、天守・多層階の櫓、高く巧みに曲げられた石垣といったものがあった日本の他の城ほど複雑ではありませんでした。これは、島津氏が治めていた薩摩藩には外城(とじょう)と呼ばれた独特な防衛システムがあったからなのです。それは、藩が多くの藩士を地元に送り、その拠点を自身で守らせるというものでした。他の藩では通常、藩士を本拠地の城下に集住させていたので、薩摩藩のやり方は異なっていました。

鹿児島城の模型(北東側からの視点)、黎明館にて展示
上記模型の御楼門部分
代表的な外城の一つ、出水(いずみ)外城の模型、黎明館にて展示

幸運にも幕府は、薩摩藩に薩摩国を江戸時代末期まで統治することを認めました。1863年に起こった薩英戦争のときのことですが、イギリスの軍艦が鹿児島市街地を砲撃しましたが、城は砲撃目標とされませんでした。高層の建物がなかったからです。明治維新後、城は県庁と陸軍施設として使われました。しかし残念ながら、本丸の建物は1874年の失火により焼け落ちてしまいました。

焼け落ちる以前の鹿児島城の古写真、黎明館にて展示  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西南戦争の勃発

ついに、この城の最大の出来事が1877年に起こります。維新三傑の一人である西郷隆盛が、他の二傑、大久保利通と木戸孝允に反発し、政府での職を全て辞して1873年に故郷の鹿児島に帰ってきました。彼は1874年に鹿児島城の二の丸に私学校を設立し、若い武士たちの教育を始めました。西郷は穏やかに若手をコントロールしようとしたのですが、結局大久保率いる政府に対する反乱の首謀者に担ぎ上げられてしまったのです。大久保は、帯刀などの武士の特権を廃止し、1876年には代々受け継がれた家禄をも取り上げました(秩禄処分)。同年からいくつか反乱が発生したのですが、その最大のものが1877年2月に起こった西郷による西南戦争でした。

西郷隆盛像、エドアルド・キヨッソーネ作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
大久保利通肖像画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

西郷とその軍勢は、北の方に行き熊本城を占拠しようとしました。彼とその側近たちは最初は楽観的でした。彼らはプロの武士集団であり、九州地方の他の地域から集まった支援者たちを加えると、その兵数は最大時で3万に達しました。一方、熊本城の守備兵の数はわずか3千超であり、多くは徴集された農民兵でした。西郷軍は、城の守備兵はすぐにでも降伏するとさえ考えていました。幹部の何人かは薩摩出身だったからです。ところが、谷将軍が率いる守備兵は決して降伏せず、大久保は援軍を城に送りました。その援軍の多くも徴収兵でしたが、西郷が思うよりずっとよく訓練され、西郷軍よりもずっと装備や兵站が充実していました。政府側は電信のような先端の情報技術さえ駆使しました。西郷側にはとてもそのようなものはありませんでした。4月には西郷は熊本城から撤退せざるをえず、人吉城などの九州の他の地域に滞陣しようとしますが、全て失敗しました。西郷はついに8月に反乱軍の解散を宣言します。わずか400名近くとなってしまった彼と側近たちは、最期の決死の戦いを、故郷且つ本拠地である鹿児島城で行うことを望みました。

熊本城
谷干城少将に率いられた鎮西鎮台の指揮官たち、朝日百科より (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

西郷と城の最期

彼らは9月初めに鹿児島城に何とかたどり着き、城山の麓と山上に兵を配置しました。もちろん5万人からなる政府軍からの攻撃を防ぎきれるものではありません。もし、これが戦国時代の出来事であったなら、西郷は山上に本陣を置いたでしょう。しかし、それは大砲の標的となってしまうため不可能でした。そのため、彼は山と麓の狭間の谷にあった洞窟に留まらざるをえず、そこは後に西郷洞窟と呼ばれるようになります。政府軍は、人っ子一人逃げられないよう完全に薩摩の反乱軍を包囲しました。そして9月24日に総攻撃を開始したのです。西郷は洞窟から突撃を敢行しましたが、銃撃され、最後は切腹して果てました。

西郷洞窟
政府軍の包囲陣地、1877年 (licensed under Public Domain via Wikipedia Commons)

「鹿児島城その2」に続きます。

89.佐賀城 その1

佐賀藩は日本の近代化に貢献しました。

立地と歴史

鍋島氏が佐賀藩の本拠地として整備

佐賀城は、現在佐賀県の県庁所在地である佐賀市にありました。この城はもとは村中城という名前で、戦国時代の16世紀に大きな力を持っていた龍造寺氏が築きました。ところが、1584年に沖田畷(おきたなわて)の戦いで島津氏に敗れてからはその力は衰えました。その代わりに龍造寺氏の重臣であった鍋島氏が力をつけ、ついには徳川幕府により佐賀藩主となったのです。鍋島氏は村中城を強化し、その城は17世紀初期のいずれかのときには佐賀城という名前に変わりました。

城の位置

佐賀藩初代藩主、鍋島直茂肖像画、鍋島報效会蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

この城は、佐賀平野に流れる川沿いに築かれました。この城には、主には本丸、二の丸、三の丸があり、全体が広大な外堀に囲まれていました。本丸と二の丸は、城の南東部分にあり、直接つながっており、内堀によって三の丸と隔てられていました。石垣に囲まれていたのは本丸のみであり、その他の曲輪は土塁によって囲まれていました。本丸には天守がありましたが、その詳細はわかっていません。ほとんどの城の建物が1726年の大火により焼けてしまったからです。その後、本丸にあった城の中心部は二の丸に移りました。ところが、これもまた1835年の大火により燃えてしまったのです。

「佐嘉小城 内絵図」、現地説明板に加筆
上記絵図の本丸部分を拡大、天守と御殿が描かれている

鍋島直正が藩を近代化

江戸時代末期になって、佐賀藩と佐賀城が注目される時が来ました。佐賀藩は、当時日本で唯一公に認められていた国際貿易港であった長崎の警護役の任に就いていました。ところが、1808年のフェートン号事件においてその役目を果たせず、長崎に侵入してきたイギリス船の船員の横暴を許してしまったのです。その後佐賀藩は、第10代藩主の鍋島直正の指導により近代化を進めました。彼は、1837年に再建された本丸の新しい御殿から藩を統治しました。彼のリーダーシップの下、佐賀藩は西洋から最新の大砲を輸入し、彼ら自身により大砲を製造することを始めました。そして驚くべきことに、1853年にペリー艦隊が来航する前に、日本で初めてその大砲の製造に成功したのです。徳川幕府は直正に対し、ペリーの2回目の来航に備えて江戸湾に築造した品川台場のために、その製造した大砲を提供するよう依頼しました。そして50基の大砲が供給されたのです。

佐賀城跡にある鍋島直正の銅像
復元された本丸御殿
佐賀城跡にある輸入大砲の複製品
品川台場跡

佐賀藩は、近代的な軍事力を持っているがために、明治維新のとき、徳川幕府と新政府の両方から当てにされました。そしてついには新政府に味方することにし、薩摩、長州、土佐とともに、四大雄藩の一つとなりました。新政府が幕府を倒すことができた一つの理由は、佐賀藩が輸入したか製造した強力な大砲にあると言われています。直正は1871年に亡くなるまで、明治時代初期における最も重要な政治家の一人であったのです。直正はまた、引退する前に政府の重要ポジションに、部下の江藤新平を登用していました。新平は、教育、司法、議会制の考え方など、西洋の最新の社会システムを日本に導入し、国の近代化に資するよう努めました。彼は、しばしば近代日本司法制度の父とされています。

新政府軍の戦いの様子を描いた絵画 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
江藤新平肖像、「江藤南白 上」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

佐賀の乱により城が焼亡

ところが、明治六年政変(1873年、征韓論政変とも言われています)が起こり、薩摩や長州の他の政治家たちによりその地位を奪われてしまいます。新平は、民主的選挙による議会開設を政府に要求し、佐賀に戻りました。薩摩出身で政府を主導していた大久保利通は新平の要求を認めませんでした。利通は、新平の卓越した能力に嫉妬し、それが利通を凌駕してしまうことを恐れていたとさえ言われています。利通は、新平が政府に対して反乱を企てているとの情報を流しました。また、佐賀に軍隊を派遣し、新平とその支持者たちが戦わなければならないよう仕向けました。1874年の佐賀の乱はこのようにして起こったのです。新平は政府軍に敗北し、今や独裁者と化した利通により、司法手続きなしに死に追いやられました。佐賀城はこの戦いの戦場の一つとなり、残念ながらその戦いの最中、火災によりほとんどが焼け落ちてしまいました。

大久保利通肖像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
佐賀の乱の様子を描いた浮世絵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「佐賀城その2」に続きます。