205.松尾山城 その2

今回は、関ヶ原合戦の陣地を西軍中心に回ってから、最終的には小早川秀秋が布陣していた松尾山城跡を目指す形で、見どころを紹介します。西軍陣地も、従来説のものに加えて、新説で言われている新たな候補地も回ってみます。

特徴、見どころ

イントロダクション

今回は、関ヶ原合戦の陣地を西軍中心に回ってから、最終的には小早川秀秋が布陣していた松尾山城跡を目指す形で、見どころを紹介します。西軍陣地も、従来説のものに加えて、新説で言われている新たな候補地も回ってみます。そこで、スタート地点として大垣城を選びました。関ヶ原合戦は、西軍を率いていた石田三成がここから移動したことをきっかけに起こったからです。大垣城天守内にも、やはり三成や関ヶ原合戦の展示があります。大垣から関ヶ原までは、電車ですぐです。

現在の大垣城天守
大垣城天守内の展示(一例)
関ヶ原駅

西軍陣地めぐり(従来説)

従来説の各陣地は、現地の案内表示が充実しているので、観光マップが手元にあれば、迷うことはないでしょう。まずは従来説の、石田三成・笹尾山陣地に向かっていきます。

現地案内表示の一例

笹尾山に行くには、一旦「関ヶ原古戦場決戦地」を目指すといいと思います。向こうの方に三成の陣の幟が見えてきます。

関ヶ原古戦場決戦地
決戦地から見える笹尾山

笹尾山の麓に着くと、そこは三成の重臣・島左近陣地となっています。そして笹尾山を登っていくのですが、ここに三成が陣を布いたという合戦当時の記録はありません。恐らくは江戸時代の地誌などに基づいて、明治時代に各部将の陣地を定めたものの一つなのです。

島左近陣跡
笹尾山陣地への入口
石田三成陣跡

しかし場所的には、いかにも本陣がありそうなところで、南宮山から、松尾山まで、怪しい人たちの様子も見渡せたのではと思ってしまいます。

笹尾山からの眺め

次の目標地点は大谷吉継墓ですが、その間に西軍諸将の陣地跡を通過します。「島津義弘」「小西行長」「宇喜多秀家」と続きます。その間は結構な距離(キロメートル単位)になりますが、島津隊の兵士からは、各部将は密集して布陣していた(百メートル単位の距離)との証言もあります。

島津義弘陣跡
小西行長陣跡
宇喜多秀家陣跡

そこから後は、文字通り「山中」に入っていきます。その辺りからは、陣地を構築した跡が多くみられるそうです。吉継が先に行って、陣地を構築していたのかもしれません。この墓の場所の由来としては、自害した吉継の首を、部下(湯淺五助)が埋葬し、後に敵方の藤堂家によりお墓が建てられたと言われています。今でもお供えが絶えることがありません。

大谷吉継墓

西軍陣地めぐり(新説)

大谷吉継墓からは、近くにある吉継の陣跡に向かいます。これは「従来説」による呼称なのですが、新説の一つ(高橋陽介氏による)では、島津隊の陣となっているのです。

大谷吉継陣跡

ところで、この近くに「松尾山眺望地」という場所があります。そこからは、松尾山の小早川秀秋陣地跡を望むことができます。従来説では、秀秋の裏切りを見抜いた吉継がこの辺に布陣したことになっているので、きっとこの眺望も根拠の一つになったのでしょう。しかし、前回記事でご紹介したどの説(従来説は現代の歴史家による修正布陣図による)でも、吉継は別の所に移動していることになっています。よって、先ほどの新説では、三成との位置関係から、島津が使ったとしたのではないでしょうか。

松雄山眺望地
山に「小早川秀秋陣地」の幟が見えます

今度は山を下って、新説による三成陣地に行きましょう。旧中山道に入ると、前方に小山が見えてきます。新説で三成陣地とされた「自害が岡」です。不吉な名前だと思うかもしれませんが、古代にこの地から起こった壬申の乱の史跡(自害峯の三本杉)になっているのです。乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の御首(みしるし)を、皇子を慕ったこの地の人たちがもらい受け、ここに埋葬したという伝説があります。名前はその故事に由来していて、御陵候補地にもなっています。時代がクロスオーバーした場所なのです。

自害が岡
自害峯の三本杉

そのような場所がもう一つあります。藤古川を渡ったところに、不破関資料館があるのですが、そこは、古代の不破関跡で、新説では大谷吉継布陣地ではないかとされています。不破の関と関ヶ原、この地はずっと境目の場所だったのです。

藤古川を渡る橋(手前)と不破関資料館(奥の丘の上)
不破関資料館、不破関跡、そして新説における大谷吉継布陣地

いよいよ松尾山です。山への入口には、小早川の旗印が並んでいます。雰囲気満点です。

松尾山(小早川秀秋陣跡)への入口

松尾山城へ

松尾山は標高293メートルありますが、麓からは約200メートルの高さだそうです。麓に駐車場もあって、山道は「東海自然歩道」の一部として整備されています。秀秋の軍勢は8千人とも1万5千人とも言われていますので、山麓まで兵がいたかもしれません。そうであれば、「問鉄砲」が本当なら銃声も聞こえたことでしょう。

松尾山登山口
山麓の登山道

松尾山城は「小早川秀秋陣」と言われますが、実は本格的な山城だったのです。山頂がある「主郭(本丸)」を中心に、山の峰に曲輪群が配置されていました。曲輪を土塁で囲み、空堀・堀切・竪堀を掘って、敵の移動や攻撃を防ぐようになっていました。これらの城の改修のほとんどは、関ヶ原合戦の前に行われました。山の地形を加工して、このような城を作ったのです。

松尾山城のジオラマ、関ヶ原町歴史民俗学習館にて展示

途中から右に曲がって、山道という感じになります。あと850メートルという案内があります。

旗印のところを右に曲がります
あと850m!

だんだん山頂に近づいていきますが、道は「東の曲輪」の下を通っているので、敵だったら攻撃されてしまいます。

道は、東の曲輪の下を通ります

やがて、幟が何本も見えてきます。ついに山頂の主郭に着きました。山の向こうから見えていた「小早川秀秋陣地」の幟も立っています。

山頂近く
山頂の主郭
「小早川秀秋陣地」の幟

山頂からは関ヶ原が一望できます。従来説の小早川秀秋ではなくとも、本当に日和見してしまいそうです。

山頂からの眺め

果たして陣なのか城なのか?

松尾山城が「お城」に値するものなのか、実地でチェックしてみましょう。実は、登ってきたのと反対側の方が、城の防御がより充実しているのです。そちら側に行ってから、改めて入城してみましょう。

松尾山城の縄張り図、「松尾山城パンフレット(関ヶ原観光協会)」より、来た道は上方から、これから進む道が下方から

最初の入口は、堀切を作ってわざと細くしています。

堀切に挟まれた入口

その次は、陣地のような曲輪を通ります。「馬出状の曲輪」と呼ばれています。

馬出状の曲輪

道はまた細くなって、曲がりながら主郭に入っていきます。

道はまた細くなります
主郭に向かいます

主郭の入口は土塁に囲まれた四角いスペースになっています。「枡形虎口」です。まるでこちらが正面のようです。小早川秀秋もここから入城したかもしれません。

桝形虎口

桝形虎口の手前からは空堀に下っていくこともできます。斜面を人工的に削った「切岸」が見えます。

空堀の方に下ります
切岸

空堀の底は、草木で覆われてはいるものの、結構広々としています。通路や兵士の居場所にも使われたと想定されています。また、堀の底にも防衛用の土塁を築かれています(喰違い土塁)。

空堀
喰違い土塁

本郭から空堀を挟んだ曲輪(名無し?)にも登ってみましょう。ここも広々としていて、城全体が基地のようになっているのがわかります。

となりの曲輪に登ります
曲輪の内部

松尾山城はただの「陣」ではなく、本格的な「城」ということが実感できました。

私の感想

関ヶ原は、いろんな説が出てくるだけの謎とロマンに満ちていると、現地をめぐって改めてそう思いました。また、古代から関所や決戦の地だったこともわかりました。東西対決は今でも続いていて、麺の東西対決のお土産を買うことができます。それから、岐阜関ヶ原古戦場記念館では、陣地めぐりをしたビジター向けに御朱印を販売していますので、こちらもおすすめです(別館ショップ、訪問したときの写真等が必要)。古戦場記念館も2020年にオープンし、人気のスポットになっていますので、中の展示をご覧になってはいかがでしょう。

岐阜関ヶ原古戦場記念館
麺の東西対決
関ヶ原合戦御朱印

これで終わります。ありがとうございました。

「松尾山城その1」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

205.松尾山城 その1

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。しかし近年、秀秋の「裏切り」には疑念が挟まれています。数少ない信頼できる史料を再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。

立地と歴史

Introduction

1600年(慶長5年)9月15日に起こった関ヶ原合戦は、日本史で最も重要な出来事の一つですが、そのハイライトといえば何でしょうか。これまでの通説に従えば、何といっても小早川秀秋の「裏切り」でしょう。秀秋は、関ヶ原南方の松尾山城に陣を布き、合戦が始まってもなお東軍につくか、西軍につくか明らかにしていませんでした。そして、しびれを切らした東軍の総帥・徳川家康の命による「問鉄砲」に刺激され、ついに東軍に組みし、その勝利に貢献したというストーリーです。

「関ヶ原合戦図屏風」、関ケ原町歴史民俗資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

しかし近年、秀秋の「裏切り」と「問鉄砲」には疑念が挟まれています(白峰旬氏などの指摘)。関ヶ原合戦の記録は、同時代の当事者が記した一次史料がとても少なく、大半は後の時代に記された二次史料に頼っているからです。例えば、「問鉄砲」の記述は、合戦から半世紀以上後の軍記物「慶長軍記」からとのことです(呉座勇一氏による)。「問鉄砲」の事実が揺らぐと、秀秋の「裏切り」のタイミングも、本当に合戦の最中だったのか怪しくなってしまいます。また、秀秋がどのように松尾山城に着陣し、いつ東軍に味方する決断をしたのかとういことも謎めいてきます。最近は、その少ない一次史料・それに準ずるものを再検討し、関ヶ原合戦を再構成する取り組みが行われています。それにより、「問鉄砲」の見直し以外にも、いくつも新説が提起されています。それに松尾山城については、通常は小早川秀秋陣と言われますが、そもそも何のために築かれ、使われるはずだったのかも気になります。

小早川秀秋肖像画、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

そこで、この記事では、小早川秀秋と松尾山城との関わりについて、主に3つの視点をもって、従来説を含めた3つの仮説にまとめて、ご紹介したいと思います。
3つの視点とは、
a.関ヶ原合戦前、秀秋はどこで何をしていたのか。
b.なぜ関ヶ原が決戦場となり、秀秋はいつどのように松尾山城に布陣したのか。また西軍諸将はどこに布陣したのか。
c.秀秋は、いつ東軍に加わると決心したのか。
3つの仮説とは、
1.「問鉄砲」を含む従来説
2.小早川秀秋は裏切っていないとする説
3.西軍が松尾山城攻めをしたとする説
です。

ただしまずは、小早川秀秋と松尾山城の、関ヶ原合戦に至るまでの来歴を、簡単にご紹介してから、各説のパートに入ります。

関ヶ原に至るまでの小早川秀秋と松尾山城

秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所の兄、木下家定の五男として1582年(天正10年)に生まれたとされています(足守木下家譜)。幼少の頃より秀吉の養子となり、北政所に養育されていたようです。その当時から秀吉から「きん吾」と呼ばれていました(天正13年閏8月秀吉書状)。そしてわずか7歳のときに元服し、従五位下・侍従(公家成)になり、秀吉の後継者候補の一人として扱われました。秀吉が天下を取った頃には、権中納言に昇進(13歳)、丹波亀山城主にもなっていました。ところが、文禄2年に秀吉の実子・秀頼が誕生すると、翌年に秀秋は、小早川家に養子に出されてしまいます。秀吉が、秀頼の後継者としての地位を安泰にしようとしたためと考えられます。

木下家定肖像画、建仁寺常光院蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

このときの逸話として、跡継ぎのいなかった小早川隆景が、同じく跡継ぎのいなかった本家の毛利輝元の養子にされないよう、秀吉に秀秋の受入れを申し入れたという逸話(陰徳太平記)が残っています。しかし実際には既に輝元には別の養子(一族の秀元)が決定していたため、隆景が自分の所領(九州)を引き継がせ、秀吉との関係を良好に保つために自ら決断したという見方もあります。文禄4年、秀秋と毛利輝元の養女との婚姻が行われました。輝元からその養女にあてた手紙の中に、秀秋は「利口者」であるとの記述があります。内々の手紙なので、輝元の秀秋に対する評価の一端が伺えます。一方で家臣と度々諍いを起こし、秀吉にたしなめられているので、若年による未熟さもあったと思われます。

小早川隆景肖像画、米山寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

当時は、秀吉による朝鮮侵攻(文禄・慶長の役)が行われていたため、秀秋の領地(筑前国)は支援基地の一つになりました。秀秋自身も慶長の役では、16歳で初陣(総大将)として朝鮮に渡っています。ところが、1598年(慶長3年)に帰国すると、秀吉から越前国(現・福井県)への転封を言い渡されました。これは、秀秋の朝鮮での軽率な行動(自ら最前線に乗り込んだ)が原因とも言われますが、これも後の軍記物での記述です。実態としては、筑前国を秀吉の直轄領とし、侵攻の統制を強化するためだという見方もあります。代官として、石田三成が派遣されています。秀吉没後は、秀秋は筑前国の領主に復帰し、豊臣一門に準ずる大大名として、五大老に次ぐポジションと認識されていました(九条兼孝日記)。そのとき、関ケ原合戦が起こったのです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

もう一つの主役・松尾山城は、近江国(現・滋賀県)と美濃国(現・岐阜県)の国境に位置していて、1570年(元亀元年)には、近江の浅井長政が家臣をこの城に配置したという記録があります(偏照山文庫所蔵文書)。当時長政が、織田信長と対立するようになったからと思われます。その後、信長が近江国を支配下に置くと、一旦廃城となりました。1600年(慶長5年)8月10日、石田三成は大垣城に入城すると、城主・伊藤盛正に対して、松尾山城に新城を築くことを命じました。三成はそのとき、大垣城と岐阜城(8月23日に落城)を拠点に、東軍に攻勢をかけることを考えていました。そして、その後詰(後方支援)として南宮山に毛利勢を入れました。また、背後の松尾山城には毛利輝元が入るはずだったという説(中井均氏)や、そのまた奥の玉城(たまじょう)には豊臣秀頼が入ることを想定していたという説(千田嘉博氏)もあります。いずれにしろ、関ケ原合戦のときには、松尾山城は西軍の有力部隊が布陣するために整備されていたのです。

松尾山城跡に立つ小早川秀秋の幟

「問鉄砲」を含む従来説

関ヶ原合戦の従来説は、明治時代に陸軍参謀本部が作成した「日本戦史」をもって固まったと言われています。歴史の本に出てくる関ヶ原の布陣図も、「日本戦史」のものがベースになっているそうです。今回注目する視点から、従来説をご説明しますが、新説の広まりによって、従来説を補強する意見(笠谷和比古氏などによる)も出てきていますので、併せてご紹介します。

西軍は8月1日に伏見城を落城させましたが、小早川秀秋勢は、主力としてこの戦いに参加しました。その後は表向きは、西軍の一員として行動していました。西軍の主力は大垣城に籠城していましたが、小早川勢は近江国周辺を行軍していたとされています。実際に、秀秋が近江の寺(成菩提院)に出した禁制(兵士に対する禁止事項)が残されています。その一方で東軍側とも交渉していて、東軍に味方する密約も交わしていました。これについては、東軍の黒田長政・浅野幸長からの密書があります。その中では「北政所」の名前を出され、東軍に味方することが彼女に報いることだと説かれています(下記補足1)。

(補足1)(前略)あなた様がどこに居られようとも、この度の忠節が非常に大切です。二・三日中に家康公がご到着されますので、それ以前に決断しなければなりません。我ら二人は北政所様に引き続きお尽くししなければなりませんので、このように申し上げているのです。速やかなご返事をお待ちしております。(8月28日付黒田長政・浅野幸長小早川秀秋宛連署状。訳を「小早川隆景・秀秋」から引用)

成菩提院、米原市ホームページから引用

9月14日に家康が大垣近くの赤坂に着陣すると、得意の野戦に持ち込むために、西上して佐和山城を攻略作戦を立て、その情報をわざと西軍に流しました。その情報を得た西軍総大将の石田三成は、急きょ先回りをして夜中に関ヶ原に布陣しました。秀秋も三成指示により、それまでに松尾山城に着陣していました。これについては、三成が新しい事態に対処するために、自ら選択した結果とも考えられます。戦い直後に吉川広家が、西軍は佐和山に撤退しようとしていたと書状に書いているからです(下記補足2)。しかし東軍の動きが早くなったことで、関ヶ原で食い止めることになったのです。また、西軍諸将は、一旦関ヶ原より西側に移動したようですが、結果的に迎撃しやすい関ヶ原に、ほぼ従来説通りの布陣をしたと考えられます。江戸時代前期に既にそれに近い布陣図が作られているからです(下記補足3)。大谷吉継は、秀秋の裏切りを予測し、わざと松尾山近くの山中に布陣したとされていますが、最終的に関ヶ原の方に前進してきたようです。。

(補足2)これは佐和山へ二重引きをする心づもりであると見えました。(一重目が関ヶ原に当たる)(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足3)武家事記所収の布陣図(山鹿素行)

石田三成肖像画、東京大学史料編纂所蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

戦いは、午前8時頃始まりましたが、午前中は一進一退で、西軍は善戦していました。しかし東軍と密約を交わしていた南宮山の吉川勢と、松尾山の小早川勢は動きませんでした。秀秋は東軍に寝返る約束もしていましたが、それもしていませんでした。業を煮やした家康は、小早川勢に対して発砲を命じ、狼狽した秀秋はついに西軍への攻撃を決心したのです。この開戦と、小早川参戦の時間差については、戦いに参加した島津義弘や島津家臣が証言しています(下記補足4)。また「問鉄砲」は否定されているということですが、それに近い話が伝えられています(備前老人物語)。松尾山の麓で鉄砲の音がしたので、秀秋が調べさせたところ、それは徳川方の誤射だったというのです(下記補足5)。それは実は抑制された警告射撃かもしれず、もしかしたら「問鉄砲」ストーリーの元になった可能性もあります。小早川勢は大軍(8千とも1万5千とも)だったので、一部は山麓に展開していて、このようなことに気づくこともあったのではないでしょうか。

(補足4)
慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山逃げ登った。(島津義弘「惟新公御自記」、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)
夜明けとともに東国衆が大谷吉継の陣地へ攻撃を開始しました。6,7回戦闘が繰り返されましたが、小早川秀秋隊が山から降りてきて側面を攻撃し、吉継の人数を一人も残さず討ち取ってしまいました。(神戸五兵衛覚書、訳を「関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足5)小早川軍が松尾山に布陣して東西両軍の戦いを観望していたときのこと、麓の方で自軍に向けた鉄砲の射撃音のするのが聞こえた。そこで小早川の使番は、秀秋の命を受け下山して調べようとした。ところが、そのとき徳川方の武士が下から上がってきて、これは誤射であり御懸念無用にと述べ、調査の必要はないと強く申し立てた。しかしその使番は、調査は主君からの命令であるとして、それに構わず現場の状況をあれこれ調べたところ、単なる誤射ではなくて、かなり複雑な事情がある行為であったようだ。(「備前老人物語」のエビソード、「論争 関ヶ原合戦」から引用)

徳川家康肖像画、加納探幽筆、大阪城天守閣蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

小早川秀秋は裏切っていないとする説

次は、最近出ている新説(白峰旬氏などによる)から、秀秋と松尾山城に関係するものをご紹介します。まず合戦前の秀秋の所在ですが、実はあまりはっきりしていないのです。近江にいたというのは、秀秋の家老を務めていた稲葉家が江戸時代に幕府に提出して記録に基づいていると思われます(寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜)。そこには、小早川勢が9月14日、松尾山城にいた伊藤盛正を追い出して入城したともあります。それであれば、既に「裏切り」を決断していたように思えるのですが、この記録は稲葉家の徳川家への貢献を強調するよう編集されている可能性があるので、鵜呑みにはできません。一方、大垣城に籠城していたという記録もあります。東軍として浜松城にいた保科正光が、籠城中の武将として、秀秋の名前を挙げているのです(下記補足6)。いずれにしろ、東軍からの勧誘を受けていたのは確かですので、西軍と行動を共にしつつ、迷っていたのではないでしょうか。同盟のため、9月14日付で秀秋の家老宛に出された東軍の井伊直政・本多忠勝連名の起請文があったとされていますが、これも江戸時代の軍記物(関原軍記大成)に記載されているだけなので、確実とは言えません。

(補足6)昨日(28日)、東軍先手衆から何度も報告がきました。それによりますと、大柿城には、三成・秀家殿・秀秋殿・惟新・行長ら、そのほか豊臣馬廻衆の精鋭らが2万人ほどで立て籠もっています。(8月29日付黒河内長三宛保科正光書状、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

秀秋の家老だった稲葉正成肖像画、神奈川県立歴史博物館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

実は、秀秋が開戦時に松尾山城にいたことを示す確実な史料はないのです(白峰旬氏による)。しかし開戦直前の状況として先ほどの吉川広家の書状に「秀家の逆意がはっきりしたので、大谷吉継救援のため、西軍が山中(関ヶ原の西)に移動した」とあるのです(下記補足7)。これによれば、関ヶ原周辺に秀秋と吉継が既に布陣していたことになります。また、戦い直後に伊達政宗は、西軍は南宮山の毛利勢を支援(後詰)するため大垣城から陣を移したと言っています(下記補足8)。これらから考えると、関ヶ原合戦直前、赤坂にいた徳川家康が南宮山の毛利勢を攻めようとし、秀秋が寝返ったことも伝わったので、三成は大垣城から出る決断をしたのだと考えられます。そして南宮山にいた吉川広家は不利を悟り、家康に事実上の降伏をしたのでしょう。そのため東軍は、三成が率いる西軍主力を追って、関ヶ原に進出したのではないでしょうか。なお、西軍が布陣したのは、前述の通り、関ヶ原ではなく、その西の「山中」でした。三成にとっては、そのときその場で戦になるとは想定外だったかもしれません。

(補足7)筑中は早くも逆意を明らかにしました。それにつき、大垣の衆(三成ら)も(かの地(大垣)にいられなくなり)大刑少(吉継)の陣が気がかりとのことで、山中へ向かって引き揚げました。(9月17日吉川広家自筆書状案、訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

(補足8)大垣城への「助衆」(毛利勢)に対して合戦を仕掛けるため、家康が14日に赤坂近辺へ陣を進めたところ、大垣城に籠城していた衆が夜陰に紛れて美濃の「山中」というところへ打ち返して陣取りをした(9月晦日付家臣宛伊達政宗書状、訳を「歴史群像145号」から引用)

吉川広家肖像画、東京大学史料編纂蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

以上が正しければ、秀秋は合戦前日には、東軍への参加を表明したことになります。合戦当日の経緯ですが、西軍は従来説よりも短時間で敗北したと考えられます(下記補足9)。また、開戦時間も早朝ではなく(午前10時頃)、秀秋も当初から戦いに参加したとの記録があります(下記補足10)。開戦時刻については史料によって早朝から10時頃までまちまちですが、以下のようにも考えられます。関ヶ原一帯は当日霧が深く、西軍ではそこに大谷勢が進出していました。そこで東軍先鋒との戦いが早朝に起こり、霧が晴れた段階(10時頃)で、松尾山から降りてきた小早川勢が参戦し、大谷勢が全滅したのです。そして東軍と西軍主力の戦いが山中で始まり、短時間で決着したという流れです。というのは、家康がそのとき発した書状に両者(関ヶ原・山中)の使い分けが見られるからです(補足11・12)。

(補足9)家康方軍勢が山中に押し寄せて合戦に及び、即時に討ち果たした(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「歴史群像145号」から引用)

(補足10)15日の巳の刻(午前10時頃)、関ヶ原で一戦及ぼうとして、石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が関ヶ原に移動した。東軍は井伊直政・福島正則を先鋒としてその他の部隊を後に続けて、西軍の陣地に攻め込んで戦いが始まった時、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・祐滋父子の4人が御味方して、裏切りをしたので、西軍は敗北した(9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状写(堀文書)、訳を「動乱の日本戦国史」から引用)

(補足11)今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候(9月24日付小早川秀秋宛徳川家康書状)

(補足12)今十五日午前、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候(9月15日付伊達政宗宛徳川家康書状)今月十五日の午の刻(正午頃)、美濃国の山中において一戦におよび、備前中納言(秀家)、島津(惟新)、小西(行長)、石治部(三成)の軍勢を悉く討ち取りました。(訳を「関ヶ原合戦を復元する」から引用)

徳川家康最後陣地

西軍が松尾山城攻めをしたとする説

前説においても、秀秋が関ヶ原合戦の最中に「裏切り」を決断したわけではないことがわかりますが、状況証拠の集まりで、明らかに合戦当日に最初から東軍側に立ち、西軍と対峙していたという形にはなっていません(戦とはそういうものかもしれませんが)。それを明確にしてくれるのが「関ヶ原合戦は西軍が、松尾山城に籠る秀秋を討とうしようとして発生した」という説です(高橋陽介氏による)。この説での秀秋の合戦前の行動は、前説とそれ程変わらないようにも思えますが、東軍側のつく意志は早く固めていたことでしょう。

松尾山城跡

前説と異なってくるのは、開戦直前の三成など西軍主力の状況です。この説では、前説で取り上げた吉川広家の同じ書状の解釈が異なり、西軍主力が秀秋のいる「山中」に攻め込み、大谷吉継が後を追いかけているとしているのです(下記補足13)。また、島津家臣の後年の記述によると、9月14日の大垣城の軍議中に注進が入り、秀秋が寝返ったことが判明したというのです。(下記補足14・15)つまり、三成たちは秀秋を討つために関ヶ原方面に向かったのです。

(補足13)宇喜多・島津・小西・石田らが山中へ攻め込んだため、秀秋の逆意は明らかになりました。そのため、大柿にいた者たちも、そこに留まっていることができなくなってしまいました。吉継は心細くなって、山中に向かって撤退していきました。きっとそのあと、佐和山まで撤退するつもりだったのだと思います。(9月17日付吉川広家自筆書状案、訳を「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」から引用)

(補足14)「然に筑前中納言一揆被起_内府様方に被差出之由、九月十四日に大柿江相知れ申し候事、」(宮之原才兵衛書上)

(補足15)「ヶ様之御談合最中に、筑前中納言殿野心之よし注進候、」 (井上主膳覚書)

大谷吉継墓

三成が陣を布いたのは、従来説の「笹尾山」ではなく、藤下村の「自害が岡」という所でした(下記補足16)。島津家臣の後年の記述を検討すると、松尾山に対して、第一陣が宇喜多・小西、第二陣が島津、その東に石田という布陣になっていました。他の史料で「第一陣が石田、第二陣が島津」となっているものがありますが、それは、秀秋を救援するために駆け付けた東軍主力部隊からの見方です。大谷隊は後から来たために、一番東の関ヶ原に布陣することになりました。そのため、東軍先鋒と戦うことになり、結果的に小早川隊と挟み撃ちに遭い、一番最初に壊滅してしまったのです(上記補足4)。同じ史料でも全く違う局面を表わしていることになります。

(補足16)「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」(戸田氏鉄「戸田左門覚書」)

自害が岡

リンク、参考情報

関ヶ原の残党、石田世一の文学館
・「小早川隆景・秀秋/光成準治著」ミネルヴァ書房
・「シリーズ・実像に迫る005 小早川秀秋/黒田基樹著」戒光祥出版
・「東海の名城を歩く 岐阜編/中井均・内堀信雄編」吉川弘文館
・「歴史群像105号 戦国の城 美濃松尾山城/中井均著」学研
・「新説戦乱の日本史/千田嘉博他著」SB新書
・「論争 関ヶ原合戦/笠谷和比古著」新潮選書
・「関ヶ原合戦を復元する/水野伍貴著」星海社新書
・「歴史群像145号 関ヶ原合戦の真実/白峰旬著」学研
・「新視点 関ヶ原合戦/白峰旬著」平凡社
・「関ヶ原合戦全史 1582-1615/渡邊大門」草思社
・「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった/乃至政彦・高橋陽介著」河出書房新社
・「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地「自害峰」遺構に関する調査報告」高橋陽介氏・石田章氏論文
・「動乱の日本戦国史/呉座勇一著」朝日新書

「松尾山城その2」に続きます。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

195.延岡城 その1

高橋元種が築いた総石垣造りの城

立地と歴史

日向国唯一の総石垣造りの城

延岡は、かつては日向国と呼ばれた宮崎県の北部に位置する工業都市です。日向国は南北に長く、平地と山地が入り組んでいます。よって、17世紀後半に伊東氏が君臨していた時期を除き、江戸時代の末期まで多くの小領主によって分割されていました。これらの小領主たちは、佐土原城や飫肥城のような主に自然の地形を利用した土造りの城に住んでいました。しかし、延岡城はこの国では唯一の総石垣造りの城であり、高橋元種(たかはしもとたね)によって築かれました。

宮崎県の範囲と城の位置

佐土原城
飫肥城

才能に恵まれていた高橋元種

元種は、元は日向国の北の筑前国の一部を支配していた秋月氏の出身で、高橋氏に養子に出されました。1587年に豊臣秀吉が天下統一事業のために九州地方に侵攻したとき、元種とその出身母体の秋月氏は、秀吉に早期に降伏しその事業の手助けをしました。元種は秀吉に気に入られ、九州が平定された後、秀吉により延岡地方の領主に抜擢されました。元種は、上役に対して随分よい印象を持たれる人物だったようです。

豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

秀吉が亡くなった後の1600年、徳川家康に率いられた東軍と、豊臣氏を支持する石田三成に率いられた西軍が、関ヶ原において天下分け目の戦いを行います。元種は西軍に属し、関ヶ原近くの大垣城に留まっていました。元種が西軍の関ヶ原の敗戦を聞いたとき、彼は直ちに東軍に寝返り、西軍の諸将を殺害し、家康に降伏したのです。その結果、彼の領地は家康が設立した徳川幕府によって安堵されました。元種は機を見るに敏であったのです。

大垣城

砂州の上に築かれ防御力が強い城

その後、元種は延岡城と呼ばれるようになる新しい本拠地を、五ヶ瀬川(ごかせがわ)と大瀬川(おせがわ)に挟まれた砂州にある丘の上にに築きました。天守曲輪、本丸、二の丸、三の丸が階段状に築かれ、これらの曲輪は総石垣造りでした。しかし実際には、天守曲輪には天守は築かれませんでした。砂州は、城を含む武家屋敷部分と町人地に分けられ、堀によって隔てられていましたが、たった一つの橋によってつながっていました。その上、砂州を囲む川には当初は橋がかかっていませんでした。防御の観点からはとても望ましい立地だったのです。もし敵がなんとか丘の麓にある大手門にたどり着いたとしても、頂上に達するには更に5つの門を過ぎ、11回も曲がらねばなりませんでした。

「日向国延岡城絵図」、出典:国立国会図書館デジタルコレクション

城で最もすばらしい石垣は「千人殺しの石垣」と呼ばれ、高さが約19mあります。これは九州地方では、熊本城、小倉城に次ぎ、3番目の高さです。トップの2つの城は、加藤清正や細川忠興のような豊臣秀吉や徳川家康配下の大大名が築いたものであり、彼らは元種のような一地方大名よりずっと大きな領土を持っていました。またこの石垣は、自然石を用いて積まれていて、優れた石工職人の集団を招かなければ、当時はそのような高さに積むことは不可能でした。元種は、われわれば想像するよりずっと財力や中央とのコネを持っていたに違いありません。この「千人殺し」のニックネームは、石垣の規模を表していて、もし隅の基部の石を引き抜いたなら、石垣が崩れてその下にいる敵の兵士を千人も殺せるだろうという例えから来ています。

延岡城の千人殺しの石垣

元種、突然改易される

元種は1613年に突然、幕府から改易されてしまいます。彼は、津和野藩でトラブルを起こし逃亡した彼の妻の親族を、かくまっていたのです。津和野藩の藩主、坂崎直盛は偏執的で、このことを幕府に訴えたのです。たったこれだけのことで、このような深刻な結果を本当に招いたのか、今だに不確かですが、事実として元種は短い間に現れ、そして去っていったのでした。彼の業績はもっと研究されるべきでしょう。延岡城とその周りの地域は延岡藩として、有馬氏に引き継がれ、城には櫓がいくつも築かれて1656年に完成しました。平和であった江戸時代には、川と城の間に橋がかけられ、天守曲輪にあった太鼓櫓は人々に時を知らせていました。幸いにも延岡城では幕末まで戦いは起こらず、そのときには内藤氏が城と藩を治めていました。

坂崎直盛肖像画、個人蔵(licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

「延岡城その2」に続きます。