84.高知城 その1

山内氏の独特な城

立地と歴史

高知城前史

高知市の名前は、高知城に由来しており、四国の高知県の県庁所在地です。また高知城は、高知県で最も人気のある観光地です。この城には、大手門、本丸御殿、天守を含む多くの現存建物があります。この城は、大高坂山(おおたかさかやま)という低い山の上に築かれましたが、最初にいつ築かれたかはわかっていません。1588年、現在の高知県にあたる土佐の領主であった長宗我部元親が、岡豊城から、当時大高坂山城と呼ばれた高知城に本拠地を移しました。ところが、彼は大高坂山城にわずか3年滞在した後、浦戸城に再び移ってしまいます。この地域は雨が多い割には水はけが悪かったからと考えられています。

城の位置

長宗我部元親肖像画、秦神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
岡豊城跡
浦戸城跡

山内一豊による築城

1601年、山内一豊(やまのうちかずとよ)が徳川幕府により、新しい土佐国の領主として抜擢され、土佐藩の初代藩主となりました。彼は、城下町を作るのに十分な広さがあった大高坂山城を再建し、そこを居城としました。城は、石垣や大規模な建物を築くなど、当時としては最新の技術を用いて築かれました。そして、城が完成した後は、高知城と改名されました。山内氏はこの城と土佐の国を、江戸時代を通して統治しました。

高知城前にある山内一豊銅像
土佐国城絵図(高知)部分、江戸時代(出展:国立公文書館)
高知城天守内にある城の模型

高知城の特徴

高知城には興味深い特徴がいくつかありました。第一に、この城には大雨が降っても適切に排水ができるよう、多くの石樋がありました。この仕組みは、日本の城ではとても稀であり、現在城を訪れても見ることができます。

石垣にある石樋

次にこの城の天守は、望楼型というこの城を築いた時期にしては古い形式のものでした。一豊が、土佐国に来る前に住んでいた掛川城の天守に似せて作るよう望んだからだと言われています。このため、現代になって掛川の人たちが掛川城の天守を復元するときには、高知城の現存天守の設計を参考にしました。

復元された掛川城天守 (taken by Oshiro-man from photo AC)
高知城の現存天守

天守を含むほとんどの城の建物は、不幸にも1727年の大火により焼け落ちてしまいます。土佐藩がその大火の後城を再建するときには、天守を新しい形式ではなく、最初のものとほとんど同じように作り、1749年に復興しました。これは恐らく幕府が土佐藩に対して、元の形式による再建しか許さなかったからとも、土佐藩の藩士たちが創始者である一豊が建てたものを慕っていたからとも言われています。この天守はまた、天守台石垣の上には立っておらず、山の上にある本丸御殿に直接つながっていました。この点も、古い城の形式を残していると言われています。

本丸御殿とつながっている天守

この城には防衛のために、建物と自然の地形両方を活用していたという特徴もあります。もし、敵が天守に迫るために城を攻撃した場合、山の中腹周辺に築かれた杉の段と二ノ丸を通り過ぎる必要がありました。更に、敵が二ノ丸に入る前に鉄門(てつもん)を通るときには天守が間近に迫り、その近くにある詰門がまるで天守のへの門にように見えたのです。ところが、この門は単に本丸と二ノ丸をつなぐ渡り櫓だったのです。敵は決してその場所からその櫓を渡ることはできません。これは、城の中心部に敵を寄せ付けないための巧妙な仕掛けでした。

追手門から本丸、天守へのルート(土佐国城絵図に赤字で加筆)
現存する詰門
詰門の前から間近に見える天守

「高知城その2」に続きます。

76.徳島城 その2

物静かな山を背後に、緑と赤の石垣のコントラストが楽しめます。

特徴、見どころ

珍しく、美しい石垣

現在、徳島城跡は徳島中央公園として一般に公開されており、山上と平地両方の部分が含まれています。観光客は、一般的には最初は石垣と内堀に囲まれた平地部分を訪れます。徳島城の石垣は、大変珍しく且つ美しいものです。緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれる深緑色の縞模様がある石を使って積み上げられているからです。これらの石は「阿波の青石」としても知られています。その上に石垣の一部は、これも「赤石」として知られる紅簾片岩(こうれんへんがん)が使われています。石垣に映えるこの緑と赤のコントラストは、ひと際美しく見えます。

城周辺の航空写真

徳島城跡のモニュメント
緑泥片岩を使って築かれた石垣
「青石」と「赤石」が組み合わされた部分

威厳ある城の入口

現存している城の建物はありませんが、城の正門である鷲の門が、1989年に復元されました。その門を後にしてから、下乗橋を渡って、黒門跡を通って、公園の中心部に入っていきます。黒門跡とその傍にある太鼓櫓跡の石垣は特に立派です。ここは大手門とされていたからです。石垣から内側の方には、花壇(お花見広場、バラ園など)、徳島城博物館、国の特別名勝に指定されている現存する御殿庭園など見どころがいくつもあります。石垣に囲まれた公園内の遊歩道を歩くだけでも楽しめます。

復元された鷲の門
下乗橋を渡って黒門跡へ
黒門跡の石垣から下乗橋を見下ろす
黒門の石垣
公園内の遊歩道

静かな雰囲気の山の上

山上部分に行ってみることもできます。この山は、現在は城山と呼ばれています。山頂への通路は現代的な石段が作られ、よく整備されているので、登っていくのはそれ程大変ではありません。山上の曲輪は空き地になっていますが、説明板を見ると、その曲輪の名前と、そこにどんな建物が建っていたのかがわかります。例えば、東二の丸には天守が築かれていました。頂上の本丸からは、徳島市街を眺めることができます。この曲輪にある弓櫓跡には、初代天守が建てられていました。山上部分の石垣は、平地部分のそれより、ずっと古いものに見えます。それは恐らく山上部分が平地部分より早く建設されたからでしょう。今日、山上部分を訪れる人は少ないように見えますが、静かな雰囲気を味わいたいのであれば、それもよいかもしれません。

山上への石段
東二の丸
本丸
本丸からの眺め
弓櫓の石垣
西二の丸入口の石垣

「徳島城その3」に続きます。
「徳島城その1」に戻ります。

76.徳島城 その1

徳島城は様々な点で発展してきました。

立地と歴史

蜂須賀家政が築城

徳島城は、現在の徳島市にありました。徳島県の県都は徳島市です。徳島県は、かつて阿波国と呼ばれていて、戦国時代の16世紀後半には、この国をめぐって長宗我部氏と天下人の豊臣秀吉が争っていました。最終的に秀吉が勝利し、1585年にこの国を重臣の蜂須賀家政に与えました(秀吉は、家政の父の正勝に与えようとしたが、固辞したため子の家政に与えたとされています)。家政は最初は主要な山城の一つであった一宮城を拠点としましたが、すぐの1586年に他の場所に新しい城を築いて移ります。それが徳島城でした。

城の位置

蜂須賀家政肖像画、個人蔵  (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
一宮城跡

海上交通のネットワークを形成

徳島城は、渭津(いのつ)と呼ばれた砂州にあった標高62mの渭山(いのやま)の上に築かれました。その砂州は、四国で一番の大河であった吉野川のデルタ地帯の中にありました。この城が築かれた場所は、この国の領主にとって決して広くはありませんでした。秀吉がこの場所に城を築くよう示唆したとも言われています。それでは、なぜ秀吉は家政にそのような場所に城を築くよう指示したのでしょうか。歴史家は、秀吉は本拠地の大坂城とともに海上交通のネットワークを構築しようとしたと推測しています。渭津は徳島と改名され、紀伊水道のような海上交通ルートをコントロールできる拠点となったのです。この地域は、大坂城が面していた大阪湾の入口に当たりました。この海上ネットワークは水軍と商船隊の両方から構成されていました。この場所を選んだもう一つの理由としては、蜂須賀氏はまだ長宗我部の残党に対抗するため、阿波九城と呼ばれた支城に家臣を派遣する必要があったと考えられています。そのため、蜂須賀の本拠地はそれ程広大でなくてもよかったのです。

阿波国徳島城之図部分、江戸時代(出展:国立公文書館)、城が中州にあることがわかります

城周辺の起伏地図、渭山がデルタ地帯の中で目立っています

徳島城と大坂城の位置関係

大坂城

当初は城の中心は山上部分

渭山は、くの字型に曲がっていて、東西方向に横たわっていました。本丸は、最高地点で且つ最も広く、山の形が曲がっている辺りにありました。ここには、初代天守と初代の城主御殿があったと考えられています。ところが、その天守は創建から約30年後になぜか解体されてしまします。そして、東側の低い位置にあった東二の丸に再建されたのです。これはとても稀なケースで、なぜならほとんどの城の天守は山の最高地点にあったからです。たった一つ、水戸城で似たようなケースが見られるだけです。水戸城の場合は、理由は明白です。本丸が狭く不便であったからです。(徳島城の場合は、東二の丸の方が、城下町をより見渡すことができたからだという説があります。)山の西側の部分には、西二の丸と西三の丸があり、本丸を防御していました。これら山の上の曲輪は、それぞれ石垣に囲まれていました。一方、山の南側の砂州にあった平地は開発がまだ進んでいませんでした。専門家は、恐らく城主の御殿は山上と平地の2か所にあっただろうと推測しています。メインの方は山上にあり、予備の方は平地にあって、そこには家臣の屋敷もありました。初期の段階では、徳島城は戦いがあった場合に備えた作りになっていたと思われます。

渭山に築かれた本丸などの曲輪、天守は本丸ではなく、東側の低い部分にあります(阿波国徳島城之図部分

水戸城周辺の航空写真

二の丸にあった水戸城天守の古写真

城の中心が平地部分に移動

1615年に徳川幕府が豊臣氏を倒した後は、幕府の統治はついに安定してきました。蜂須賀氏も幕府に貢献したことにより淡路国も与えられ、領地を広げることができました。天下泰平が続く中、阿波九城はやがて廃城となりました。その結果、家臣たちは徳島城に集まることになり、城の再構成が必要となりました。平地には城主のための大規模な御殿が再建築され、城の中心部となりました。また、櫓がいくつも築かれた石垣や、屏風塀と呼ばれる塀が、内堀や寺島川に沿って中心部を囲んでいました。南側には、大手門としての黒門があり、そのとなりには太鼓櫓という三階櫓がありました。御殿の南の方には、三木郭があり、そこには城の正門として鷲の門がありました。城の周りには多くの川がありましたが、埋め立てられて武家屋敷や城下町となっていきました。蜂須賀氏は、江戸時代の終わりまでここを居城としていました。

御殿が建てられた平地部分(阿波国徳島城之図部分)絵図に御殿は描かれていません
黒門と太鼓櫓(阿波国徳島城之図部分)
三木郭と鷲の門(阿波国徳島城之図部分)

「徳島城その2」に続きます。