157.八幡山城 その1

悲劇の関白、豊臣秀次の城

立地と歴史

叔父の秀吉に翻弄された人生

八幡山城は、現在の滋賀県にあたる近江国の琵琶湖沿いにありました。この城は、悲劇の関白とされる豊臣秀次によって築かれました。彼は、15世紀後半の天下人であった豊臣秀吉の甥であり、彼の母親ともが秀吉の姉でした。彼の一生は秀吉に翻弄され続けましたが、この城と、現在の近江八幡市となる城下町を残したのです。

城の位置

秀次は、戦国時代の1568年に生まれました。その当時、叔父の秀吉は有力戦国大名の織田信長に仕えていました。1572年、秀次が4歳のとき、秀吉により近江国の宮部氏のところに養子に出されました。宮部氏を織田信長の味方に引き入れるためです。これは当時の武将にとって普通のやり方でした。しかし、秀吉の場合は自分の子どもがいなかったので自分の甥を送り込んだのです。その後秀次は、信長と秀吉が侵攻しようとしていた四国にいた三好氏に再び養子に出されました。ところが、1582年に起こった本能寺の変により信長が殺され、状況が劇的に変化し始めます。秀吉は自分が天下人になろうと画策し、今度は秀次に自分の部将となるよう求めました。秀次は、叔父の期待に応えるため懸命に戦い、1584年の長久手の戦いでは手痛い敗北を喫したりしました。1585年に秀吉が天下人として関白に任官したとき、秀次は近江国に大きな所領を与えられました。秀次は、秀吉の指導もあり、本拠地として新しい城を築きました。それが八幡山城でした。

豊臣秀次肖像画部分、瑞泉寺像 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
豊臣秀吉肖像画、加納光信筆、高台寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

城、城下町、水路を新しく建設

この城が築かれた山はもともと八幡山と呼ばれていました。日牟禮(ひむれ)八幡宮が山頂にあったからです。よって、城を築くのに最初にやったことはその神社を山麓に移すことでした(もともと山麓にも建物があり、そこに統合したという説もあります)。この山は標高が294mで、麓からの比高は180mありました。そして非常に急峻であり、城を守るには適していました。本丸が山頂に築かれ、そこには天守や御殿があったと言われています。そして二の丸、北の丸、西の丸が、山頂から広がった峰に沿って築かれました。これらの曲輪は総石垣造りでした。また、出丸が西の丸の下の方に築かれました。それに加えて、山麓には秀次のための豪華な御殿が築かれました。山頂は居住には適さなかったからです。その御殿の前には、安土城のように長く真っ直ぐな大手道が作られました。

八幡山城想像図、現地説明板より
安土城の大手道

秀次はまた、山の傍らに城下町を建設するために、廃城となった安土城の城下町の商人を新しい町に移しました。市街地は、近代都市のように碁盤の目状に区切られ、商売や居住の利便性が高まりました。秀次は、城と町の間に、琵琶湖とつながる八幡堀を開削しました。この堀は基本的には防衛のためでしたが、水上交通にも使われ、その結果商業が栄えたのです。この町は、城が廃城となった後でも繁栄を続けました。

近江八幡惣絵図、近江八幡市立資料館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在の八幡堀

短い栄光と秀次切腹事件

秀次は、1590年に秀吉の跡継ぎとしてついに関白となり、更に大きな領地(尾張国、本拠地清州城)に移っていきました。これは、秀吉の実子や養子であった男子が全て若くして亡くなってしまったからです。秀次は、多くの貴族や大名たちとよく交際し、秀吉の後の次の天下人たろうとしました。ところが、1593年に秀吉の最後の子、秀頼が誕生すると、再び状況が激変します。1595年、秀頼は突然、秀吉の奉行たちに秀吉への謀反の疑いにより召喚されました。そして、秀吉と会うこともないまま、高野山に送られ、切腹を強要されたのです(自らの意思という説もあります)。秀吉は、秀次のほとんど全ての妻たちと子どもたちを罪人とて処刑するよう命じました。秀次と関わりがあった多くの貴族や大名たちも罰せられました。秀次の母であり、秀吉の姉でもあったともは悲嘆にくれ、一人で京都に瑞龍寺を設立し、秀次とその家族の菩提を弔いました。

高野山での秀次を描いた絵画、月岡芳年作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
現在は八幡山城跡にある瑞龍寺

ところが、秀次による謀反の証拠は一切見つかりませんでした。この事件が起こったのは、秀次が殺生関白と呼ばれるようなことをしたからだという話もありますが、これも極めて不確かです(名刀で辻斬りをしたとか、あるいは単に狩りが禁止されている期間にそれをやったという類いのものまで)。結局のところ、最後は狂気の独裁者と化した秀吉の犠牲者となったか、奉行や大名たちの争いに巻き込まれたということのようです。秀吉は、秀次の後、京極氏が引き継いでいた八幡山城の破壊さえ命じました。京極氏は、別の城である大津城に移らざるを得ませんでした。ここに、大津城から天守が移されたという彦根城に関して興味深い話があります。徳川幕府が建てた彦根城から、金箔が押された豊臣形式の瓦が発見されたのです。徳川と豊臣は対立していたので、そんなことは本来あり得ないはずです。しかし歴史家の中には、秀次が建てた天守か他の建物が京極氏によって大津城に移されて使用されていたものが、最後は彦根城にもたらされたのではないかと考えている人もいます。

大津城天守が移されたと伝わる彦根城天守

「八幡山城その2」に続きます。

50.彦根城 その2

見どころが山ほどある城です。

特徴、見どころ

佐和口から入城

現在、彦根城は、中堀(内堀から数えて2番目の堀)の内側がビジター向けによく整備されています。過去と同じようにこの堀を超えて中に入って行く道が3つあります(佐和口、京橋口、船町口)。その内、彦根駅に一番近く正面口となっている佐和口から行くのが最も一般的でしょう。もしこのルートを通ってみる場合は、最初に左手に、現存する佐和口多聞櫓と天守の遠景が見えてくるでしょう。城への入口は、この櫓と、右手の復元された櫓から構成されています。ここから入ると、現存する馬屋も見えてきます。日本の城の中に残っている唯一の馬屋です。

城周辺の航空写真

佐和口多聞櫓と天守の遠景
佐和口
佐和口の内部
現存する馬屋
馬屋の内部

彦根城博物館の豊富な展示

内堀にかかる橋を渡って、城の正面入り口である表門跡に入って行きます。門跡の内側には彦根城博物館があり、同じ場所にあったかつての表御殿と同じ外観で建てられています。この博物館は井伊氏と彦根藩に関する9万以上の文物を収蔵し、その内約100点を展示しています。

内堀を渡る橋
内堀
表門跡
彦根城博物館

博物館では、例えば赤鎧、刀剣、茶道具、能面、そして現存する能舞台を見学することができます。博物館の奥の方には城主の奥向(日常生活の場)と庭園が一部復元されており見ものです。これらは記録や発掘の成果に基づき、木材を使った伝統的工法で建てられました。

井伊直政所用と伝わる鎧、彦根城博物館にて展示
茶壷「瀬戸鉄釉四耳壺(せとてつゆうしじこ)」、彦根城博物館にて展示
現存する能舞台、彦根城博物館にて展示
復元された奥向の「御座の御間」、彦根城博物館にて展示
復元された庭園、彦根城博物館にて展示

強力な大堀切周辺の防御線

次に城の中心部分に向かって、山を登ってみましょう。長く幅広い石段を登っていくと、橋がかかっている巨大な深い堀切が見えてきます。城の中心部に向かうには、堀切の右側にある太鼓丸を通って行く必要があります。しかし、それにはまず堀切の底を通って、左に曲がり、左側の別の曲輪である鐘の丸に行き、その後橋を渡って太鼓丸に行き着きます。もし敵であったなら、堀切の底で両側の曲輪から攻撃を受け、橋は落とされてしまうでしょう。橋の背後には天秤櫓が立っており、太鼓丸を守っています。この櫓は、長浜城の大手門を移築したものだと言われています。

城の中心部へ向かう石段
天秤櫓前の大堀切
過去の大堀切周辺の絵図(現地説明板より)に進行ルートを追記(赤矢印)
左折して鐘の丸へ
橋を渡って天秤櫓へ
橋の上から大堀切を見下ろす
天秤櫓から橋を見下ろす

対照的な天守の外装と内装

太鼓丸を通り過ぎると、本丸の入口である、現存する太鼓門櫓に至ります。本丸には、天守だけが残っていますが、とても華麗な外観です。

本丸へ向かいます
現存する太鼓門櫓
本丸からの眺め
本丸の現存天守

この三層の天守には、金飾りがある唐破風、入母屋破風、切妻破風、花頭窓、高欄付きの回り縁など多くの装飾がなされているからです。

唐破風
入母屋破風
切妻破風
花頭窓と高欄付き回り縁

天守の中に入って一階から最上階の三階まで見て回ることができます。天守の内装は、外観と比べると実用的です。壁には多くの隠し狭間が備えてあり、使うときには外側の壁を壊すようになっていました。実際に使う機会がなかったので、隠されたままだったということになります。また、調査によりこの天守は、大津城の4層天守を移築し、3層に減じて建てられたことがわかっています。

天守入口の鉄扉
天守一階
壁に備わった隠し狭間
天守二階
天守最上階へ
天守最上階
回り縁には出られません

「彦根城その3」に続きます。
「彦根城その1」に戻ります。