112.笠間城 その3

2011年に起こった東日本大震災による損傷のため、2023年11月時点で城跡の頂上部分に立ち入ることができません。笠間市はどうやってその部分を修復し再び公開できるか検討を行っています。

特徴、見どころ

城の中心部、本丸と天守曲輪

本丸は今は空き地となっていますが、かつては御殿が建てられていました。その代わりに南西方向に長大な土塁があり、とても目立っています。八幡台と呼ばれています。その上には、物見台または倉庫として八幡台櫓が立っていました。その櫓は、城が廃された後、麓にある真浄寺(しんしょうじ)に移されて、城では唯一の現存建物とされています。

城中心部の地図

本丸内部
八幡台
八幡台の上
八幡台櫓跡
真正寺に移築された八幡台櫓

城の最後の詰めの場所として、八幡台の北東側の端の向こうにある頂上に、天守曲輪があります。曲輪の手前にある堀切にかかる細い土橋を渡っていきます。そして、曲輪を構成する三段の石垣の足下に着きます。元あった天守はその上に築かれていましたが、明治時代に佐志能神社(さしのうじんじゃ)の建物に置き替えられました。天守の廃材が神社建設の資材として使われたと言われています。石垣は部分的に大きな自然石を使っているようで、荒々しく且つ野性的に見えます。しかし残念なことに、2023年11月時点でビジターは石垣を登って頂上までは行くことができません。石垣が崩壊する恐れがあるからです。石垣の麓からその上に建つ神社をちらりと見ることができるのみです。

天守曲輪前の土橋
天守曲輪に向かいます
石垣の一部が崩れているようです
ここから立ち入り禁止です
神社の建物が少しだけ見えます

別の道を通って佐白山麓公園へ

山麓の駐車場へは、元来た道を戻ることもできますが、帰りは別ルートに挑戦してみることもできます。天守曲輪とは反対側の八幡台の向こう側に、峰上を通る山道があります。この峰は城の防衛拠点になっていて、別の櫓(穴ヶ崎櫓)も建てられていました。しばらくその山道を下っていくと、道は深い空堀の底を通ります。これは、蒲生郷成が築いた城全域を囲む外郭空堀の一部なのです。この場所を歩いてみることでその大きさを実感できます。

城周辺の地図

八幡台
穴ヶ崎櫓跡
虎口らしき所を下ります
その場所を反対側から撮った写真
空堀が見えてきました
山道は空堀に合流します
空堀の中

最後は山麓にある浅野長直が築いた下屋敷跡に到着します。屋敷跡は今では佐白山麓公園になっています。ここには時鐘楼があって、江戸時代末期に作られた古い鐘が収められています(建物自体は新しく、自動的に鐘を撞いています)。出発地点の駐車場は、公園のすぐ下にあります。

下屋敷跡(佐白山麓公園)
時鐘楼
山麓駐車場が下に見えます

その後

明治維新後、笠間城は廃城となり、全ての城の建物は撤去されるか、八幡台櫓のように移築されました。山上の区域は笠間県立自然公園となり、山麓の区域は佐白山麓公園となりました。笠間市は2013年以来、城跡の調査を続けており、保存を進め、且つ近い将来に国の史跡かそれに準ずるものに指定されることを目指しています。しかし、2011年に起こった東日本大震災による損傷のため、城跡の頂上部分に立ち入ることができません。笠間市はどうやってその部分を修復し再び公開できるか検討も行っています。

真浄寺に移設された八幡台櫓
持ってきてそのまま置いただけのように見えます

私の感想

笠間城や笠間市には多くの見どころがあります。私の場合は、一回行った後に城のことを学んでみると、見逃した場所や他の行き方を試すためにまた訪れたくなりました。最初にこの城跡に行ったときは、頂上の石垣のところまで立ち入ることができましたが(2011年以後でしたが)、石垣の一部は崩れていました。最近行ったときには、シートに覆われていて立ち入り禁止となっていました。とても残念に思いましたが、一日も早く修復され見学できるようになることを願っています。

2019年時点の天守曲輪
2019年時点の天守曲輪上の佐志能神社

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の友部ICから約20分かかりまsj。
既にご案内の通り、山麓と中腹に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR友部駅から観光ツアーバスに乗って、日動美術館バス停で降りてください。
東京から友部駅まで:東京駅か上野駅で特急ときわ号に乗ってください。

リンク、参考情報

笠間城跡、笠間市公式ホームページ
笠間城について、かさま歴史交流館井筒屋公式HP
・「かさま歴史ブックレット2 笠間時朝とは何者か?」笠間市教育委員会
・「歴史群像113号、戦国の城 常陸笠間城」学研
・「よみがえる日本の城15」学研
・「日本の城改訂版第26号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「笠間城その1」に戻ります。
「笠間城その2」に戻ります。

112.笠間城 その2

現在、笠間城跡は車で行く人にとっても、歩いていく人にとっても便利なように整備されています。例えば、車で城跡に行った場合、山麓の駐車場に停めて長距離を歩くこともできますし、頂上に近い中腹に駐車することもできます。

特徴、見どころ

山麓からの歩きがおすすめ

現在、笠間城跡は車で行く人にとっても、歩いていく人にとっても便利なように整備されています。例えば、車で城跡に行った場合、山麓の駐車場に停めて長い距離を歩くこともできますし、頂上に近い中腹に駐車することもできます。ただ、もし現地で十分時間が確保できるのであれば、前者を選択されるのをお勧めします。この城の見どころが広範囲に広がっているからです。

城周辺の地図

したがって、この記事でも先ほど述べた通りに、山麓の駐車場から歩いて中腹にある林道を経由して頂上に至る方法で城跡に向かってみようと思います。歩く際には多くの車が通り過ぎるかもしれませんので、気を付けて下さい。城跡の周りには、いくつもの丘陵があるため、その間を曲がりくねっている道を進んでいきます。そうするうちに道は、右方向に直角に曲がりますが、ここが城跡への入口となります。ちなみに、その道を曲がらずにまっすぐ進み狭い道に入ると、城の北側の関門である「坂尾の土塁」に至ります。

山麓の駐車場
城跡に向かう林道
右に曲がると城跡、まっすぐ行くと坂尾の土塁
坂尾の土塁

不思議な巨石や外郭空堀を見学

城に向かう林道に戻ってみると、左側に道を半ば塞いでいる巨石が見えてきます。この石は「大黒石」と呼ばれていて、次のような面白い逸話が伝わっています。正福寺が徳蔵寺と争い、多勢に無勢で不利になっていたとき、山頂近くにあったこの巨石が突然転がってきたのです。そして、この細道で徳蔵寺方の僧兵たちを押しつぶし、撤退に追い込んだということです。それ以来、この石は大黒石と呼ばれるようになりますが、大黒様が担いでいる袋に似ているとか、山上にあった正福寺側に幸運をもたらしたという所から来ています(実際にはこの石は築城のはるか以前から存在しているようです)。

大黒石が見えてきました
通行には気を付けましょう

次には、左側に大きな堀切が見えます。これは全城域を囲む、外郭の空堀の一部です。つまり、ここは城の入口ということになります。そして、左側には丘陵が、右側には谷を越えたところにもう一つの丘陵がある道を進んでいきます。これらは皆、堡塁の跡であり、もし敵であったなら両側から攻撃を受けることになるでしょう。

外郭の空堀
林道の左側の丘陵には堡塁がありました
林道の右側の谷向こうにも堡塁跡があります

中腹にある千人溜と笠間百坊跡

ずっと進んでいってから右に曲がり、谷にかかる土橋を渡ると、中腹にある駐車場に到着します。ここは実際には千人溜と呼ばれる大きな曲輪(「的場丸」ともいいます)で、恐らくは駐屯地か兵舎のために使われていたと思われます。

右に曲がると千人溜、左側に百坊跡があります
百坊跡から見た千人溜
千人溜(中腹駐車場)

林道を渡った反対側には、正福寺の百坊跡があり、そこが寺が繁栄していた場所でした。しかし今では建物や構造物はなく、説明板と整地された土地に若干の墓地があるだけです。ここも城の堡塁の一つであったようにも見えます。

笠間百坊跡
僅かに墓地が残っています

大手門から本丸へ

全てのビジターは、千人溜からは食い違いの入口を通り過ぎて、中心部まで歩いていくことになります。しかし、頂上まで作業道が通じているので、大手門跡、部分的に残っている石垣などを見ながら、楽に登って行くことができます。

千人溜から先は皆歩きです
大手門跡
作業道を進めば本丸に着きます
途中に残る石垣

しかしここでも頂上に行く別の選択肢があって、荒れた小道となりますが、オリジナルの門跡を通って頂上に行く方法もあります。まず、大手門の石段を上がって、桝形を通り過ぎます。一旦は作業道に合流しますが、右側に別の石段を見つけていただくと、そこから小道に入っていけます。

城中心部の地図、赤破線はオリジナルの門跡を通るルート

大手門の階段を登ります
一旦作業道に合流します
作業道の右側に階段を見つけます

斜面に沿った道を渡っていくと、二の丸の脇を過ぎて、本丸門跡にたどり着きます。ここは大手門と同様の作りとなっています。どちらのルートを選んでも、同じ本丸に到着します。

斜面に沿った小道を進みます
前方が本丸、右側が二の丸
本丸門跡に着きます
大手門より桝形がはっきり残っています
井筒屋の模型では、赤丸が大手門、青丸が本丸門だと思います

「笠間城その3」に続きます。
「笠間城その1」に戻ります。

14.水戸城 その3

大手門や隅櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての御三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。

特徴、見どころ

本丸にある唯一の現存建物

二の丸の中央の通りに戻ると、更に本丸の方に行くことができます。その本丸の手前では、もっと深い(22m)別の空堀があって、ちょっとびっくりされるかもしれません。この空堀の底は、鉄道の水郡線の敷地になっています。もちろん空堀は城の時代からあったものです。本丸には、城の唯一の現存建物である薬医門があり、佐竹氏が建てたものだと言われています。もしそれが本当なら、佐竹氏の時代には大手門だったのかもしれません。堀を渡る本城橋を渡ってからは、ビジターは指定された範囲から門を見学することになりますので、注意してください。

本丸周辺の地図、赤破線は杉山坂、青破線は柵町口

本丸手前の大空堀
空堀の底は水郡線の線路として使われています
橋を渡って本丸に向かいます
水戸城唯一の現存建物、薬医門

二の丸、三の丸の他の見どころ

二の丸からは元から2つの裏道があり、今でも通ることができます。北側の杉山坂と南側の柵町(さくまち)口です。両方の道にはそれぞれ、杉山門と柵町坂下門という復元された門があります。南側の道を下って水戸駅の方に戻っていくと、右側には巨大な台地が目に入ってきます。現在では崩落を防ぐためコンクリートパネルで覆われています。過去には左側にこれも大きな千波湖が見えていたはずですが、現在では干拓され、偕楽園周辺に元あったうちの西側部分のみに縮小しています。

復元された杉山門
復元さらた柵町坂下門
巨大な台地の南側

もしお時間があるようでしたら、三の丸の外側の大空堀も見に行ってください。ここは台地の根っこの部分に当たります。この空堀はそのままの状態で残っていて、土橋のみが堀を渡って茨城県庁三の丸庁舎に通じています。ここは過去は重臣の屋敷地や弘道館の一部でした。まとめて言うと、水戸城は三重の巨大な堀により守られていたことになります。

城周辺の航空写真

三の丸外側の大空堀
現在は庁舎入口となっています

その後

明治初期に悲しい出来事があった後でも、水戸城二の丸にあった三階櫓(さんがいろ)は、その素晴らしさから現存20天守の一つとされ、第二次世界大戦までは残っていました。しかし、1945年の水戸空襲により燃えてしまいました。戦後になって弘道館地区は、1952年に国の特別史跡に指定されました。他の土塁、空堀、薬医門といったものは茨城県の史跡に指定されています。水戸市は最近、これまで見てきたように城の建物を復元しています。

本丸薬医門周辺に残る土塁
内側から見た大手門

私の感想

水戸城跡を訪れてみて、改めて強い城というものは、必ずしも石垣を必要としないことがよくわかりました。このことは、過去の戦争だけではなく、2つの空堀が現在でも交通のために使われていることでも証明されています。また、大手門や二の丸角櫓が復元されているのを見てしまうと、どうしてもこの城の天守としての三階櫓も復元できないものかと思ってしまいます。第二次世界大戦の前後で焼けてしまった8つの天守は、水戸城を除いて皆復元されているからです。しかし、その計画はないそうです。

大手橋から見た二の丸の土塁と空堀
御三階櫓については、元あった場所とは違うところに説明版があるだけです

ここに行くには

車で行く場合:北関東自動車道の南水戸ICから約15分かかります。大手門脇に駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR水戸駅から歩いて約10分です。
東京から水戸駅まで:東京駅で特急ひたち号に乗ってください。

大手門脇の駐車場

リンク、参考情報

水戸城跡、水戸観光コンベンション協会
・「よみがえる日本の城15」学研
・「シリーズ藩物語 水戸藩/岡村青著」現代書館
・「城を攻める 城を守る/伊東潤著」講談社現代新書
・「徳川斉昭と弘道館/大石学編著」戒光祥出版
・「天狗争乱/吉村昭著」新潮文庫
・「逆説の日本史16 江戸名君編・水戸黄門と朱子学の謎/井沢元彦著」小学館

これで終わります。ありがとうございました。
「水戸城その1」に戻ります。
「水戸城その2」に戻ります。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。