77.高松城 その2

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

特徴、見どころ

駅近のお城に行ってみよう

前回ご説明した城跡開発の経緯から、高松駅は城跡のすぐ近くにあります。ビジターにとっては便利です。期せずして、高松城とってのアピールポイントになっていると思います。

高松駅

それでは高松駅から「玉藻公園」になっている城跡に向かいましょう。最初に歩いているのは、昔の中堀・西の丸辺りでしょうか。

駅から公園まで240mという表示があります

公園の入口を示す石碑があるところは、かつては内堀と海岸の境目辺りでした。駅に近い公園西門は「刎橋口」と呼ばれました。

「玉藻公園」の石碑

中に入ったところが二の丸で、先に進むと三の丸です。三の丸の北側には石垣が続いていて、かつては多門櫓が建っていました。石段を登ると海が見えて、海が近いことがわかります。かつては石垣の下が海岸でした。

三の丸の石垣、向こうに見えるのは月見櫓
石垣からは海が見えます

更に進むと、次は北の丸です。ここはなんといっても月見櫓でしょう。通常、日曜日は中に入れるのですが、当方が訪問したときはそうでなくて残念でした。ちなみに当初は「月を見る」ではなく「着くのを見る」という名前だっだそうです。平和な時代になって、名前も風流になったのかもしれません。

月見櫓(着見櫓)

月見櫓のとなりの水手御門は閉まっています。表側はどうなっているか後で見に行きましょう。

水手御門(裏側)

三の丸の中に戻ってみると、松平家が大正時代に建てた「被雲閣」があります。これも重要文化財に指定されました(2012年)。その庭園も国の名勝(2013年)になっています。もうお城のオリジナルと言っていいくらい年季が入っています。

被雲閣と庭園

天守への道

今度は、公園東門から入って、天守台まで行ってみましょう。こちら側がお城の大手口になります。ここでの見どころは艮櫓(うしとらやぐら)です。特に石落としが目立ちます。北東隅にあったものを、南東隅に移したので、90度回転させて移築したそうです。しかし櫓台の形状がちがうので、石落としの一部がお城の中に向いてしまっています。だいぶ苦労したのでしょう。

艮櫓
城の内側からみた艮櫓

大手門(旭門、公園の東門)の前の橋(旭橋)は斜めにかかっています。これは、敵に斜めに走らせて、城から側面攻撃できるようにするためだそうです。門の建物(高麗門)も現存しているものの一つです。

旭橋と現存する高麗門(奥)

門は石垣に囲まれて、枡形を形成しています。石垣をくり抜いて作った「埋門(うずみもん)」があり、敵をここから奇襲するためと言われています。

大手門の枡形
奥に見えるのが埋門

桜の馬場を通って、お堀をまた渡ると、2022年に復元された桜御門があります(高さ約9m、幅約12m)。オリジナルの図面はなかったのですが、写真・現地の痕跡・発掘調査・聞き取り調査などから復元したそうです。

桜御門

門を入って左折すると、天守台が見えます。天守台だけでも際立っているように感じますが、もし高松城の天守が復元されたとしたら、現存または再建された天守の中では、8番目の高さになります(石垣除く)。

天守台

ここ(三の丸)から天守台にたどり着くには思ったより長い道のりです。内堀端を歩いて、二の丸の関門、鉄門(くろがねもん)跡を通ります。

鉄門(くろがねもん)跡

天守があった本丸に行くには、鞘橋(さやばし)で内堀を渡ります。途中から屋根がついてこの名前になったそうです(それまでは「らんかん橋」)。かつての本丸は内堀に完全に囲まれていたので、唯一の通路でした。

鞘橋
天守台から見た鞘橋

本丸に入ります、ここも櫓群(地久櫓、中川櫓など)に囲まれていました。

本丸の中
地久櫓跡

いよいよ天守台石垣です、整備されているので、登ってみることができます。明治4年に城内見学会が開催されたときの、天守からの眺めの記録が残っています(「年々日記」)。現在の天守台からの眺めと比べてみましょう。

天守台石垣

南の方は阿波讃岐の境なる山々たたなわりたるも(重なっているが)いと近く見え・・  (年々日記)

天守台南側の眺め

東の方屋島は元よりわが志度の浦なども見ゆ。(年々日記)

天守台東側の眺め

北の方女木男木の二島は真下に、吉備の児島のよきほどに見ゆるもいわんかたなし。(年々日記)

天守台北側の眺め

天守が復元されたら、どんな景色が見えるのでしょうか。

海城らしさを求めて

今度は、公園西門から出て、海城らしさを追い求めましょう。

公園西門

海に面した二の丸北側の石垣の上には、櫓(廉櫓(れんやぐら)・武櫓(ぶやぐら))がありました。この辺は昔の海岸ですが、人工的に水辺を作って、雰囲気を残しています。

武櫓跡

水手御門の前も水辺になっています。これは海に乗り出すための門を再現しているのでしょう。海に開く門としては、唯一の現存例だそうです。

水手御門

ここでも月見櫓を間近に見ることができますが、海を正面にして作られた櫓なので、こちら側に施された装飾が美しく見えます。

月見櫓
月見櫓は、海側から眺めるのがおすすめです

月見櫓の向こうにも、石垣が続いています。昔の海岸に沿っていたはずなので、追ってみましょう。

鹿櫓(しかやぐら)跡

石垣は、現代のビルの合間に入っていきます。かつての東の丸の外側石垣で、この細い部分が史跡に指定されています。

東丸の石垣

そして、艮櫓跡に到達します。周りの様子はすっかり変わってしまいましたが、今でも存在感があります。土地の記憶にもなるのですから、大事にしてほしいと思います。

艮櫓跡
かつての艮櫓周辺の古写真(高松市資料より引用)

石垣はまだ続いています。香川県立ミュージアム辺りまででしょうか。

艮櫓跡から続く石垣
香川県立ミュージアム

実はこのミュージアムにも、海城らしい展示があります。水手御殿からお殿様が出かけて、参勤交代で乗った「飛龍丸」の「御座の間」です。原寸大で復元されているのです。

復元された「御座の間」

また、高松市歴史資料館では、飛龍丸の5分の1スケールモデルが展示されています。船の部屋は、2階構成になっていて、上記の「御座の間」は一階部分にありました。しかし二階部分にももう一つの「御座の間」があって、天気や波がいいときには、お殿様はそちらに移って景色を楽しんだそうです。

飛龍丸の模型
横から見ています

城下の一部?栗林公園

栗林公園は国の特別名勝で、三名園にも勝ると言われているのですが、今回のご説明は、高松と城の歴史に関係するものに絞らせていただきます。

栗林公園東門

まず、公園の東門前に石橋がありますが、かつて外堀にかかっていた「常磐橋」です。随分短い橋に見えますが、外堀がだんだん埋め立てられて、最後のか細くなったときに使われていたものだそうです。

常磐橋

次には公園の中、商工奨励館の中庭にある「大禹謨(だいうぼ)」も見逃さないようにしましょう。それは、「讃岐のため池の父」西嶋八兵衛が、香東川改修記念に作った石碑で、かつての分岐点に置かれていました。その後、洪水で流されてしまったのが奇跡的に見つかり、今の場所に置かれているのです。

商工奨励館(香川県観光協会ホームページから引用)
「大禹謨」石碑(香川県ホームページから引用)

公園には、見事に手入れをされた松がたくさんあります。

鶴亀松

しかし個人的には、公園の豊かな水が気になってしまいます。この辺りはかつて暴れ川が流れているような場所だったのですが、治水事業によって、こんなに風流で役に立つ場所に変えられたという経緯があるからです。

南湖
水源とされる「吹上」

リンク、参考情報

史跡高松城跡、玉藻公園 公式ウェブサイト
香川県立ミュージアム
高松市歴史資料館
特別名勝 栗林公園、香川県観光協会公式ウェブサイト
ビジネス香川コラム シリーズ中世の讃岐武士
高松経済新聞特集 かもねのたかまつ歴史小話
南正邦の覚え書き
・「史跡 高松城跡/高松市」
・「高松 海城の物語/西成典久著」
・「史跡高松城跡保存活用計画/高松市(令和4年3月)」
・「よみがえる日本の城13」学研
・「高松城天守 天守復元の取組」2018年7月高松市パンフレット
・「桜御門復元 歴史的建造物の復元」2022年7月高松市パンフレット
・「高松城天守の復元案について」高松市埋蔵文化財センター
・「むかしの高松 第21号 特集 高松城を発掘する!その3」高松市教育委員会
・「栗林公園の歴史」香川県観光協会
・「高松水道の研究」神吉和夫氏論文
・「”讃岐の禹王”西嶋八兵衛」黒下年保氏論文
・「大禹謨発見のドラマ 高松・栗林公園と西嶋八兵衛」ミツカン機関誌「水の文化」40号

「高松城その1」に戻ります。

これで終わります。ありがとうございました。

今回の内容を趣向を変えて、Youtube にも投稿しました。よろしかったらご覧ください。

60.赤穂城 その3

歴史家によれば、四十七士は結局武士道を貫くために討入りを実行したということですが、なぜこの物語が現在の日本人にも人気があるのでしょうか。

特徴、見どころ

様々な要素が詰まっている本丸

本丸はコンパクトで、全て石垣と水堀によって囲まれています。そのため、容易にその複雑なレイアウトが見て取れるでしょう。本丸の出入口は3つありますが、裏側の南の方角にある刎橋門(はねばしもん)以外の2つの門が通行可能です。

城周辺の航空写真、赤いマーカーは3つの出入口の場所を示しています

本丸の石垣と堀
刎橋門跡

北側にある正面の本丸門は復元されていて、ここにも桝形があります。

本丸門
本丸門の桝形内部

もう一つの門は東側にある厩口門(うまやぐちもん)で、こちらも復元されています。この厩口門は簡単な構造ですが、周りにある石垣が巧みに曲げられていて、そこから銃や矢で攻撃することで門を守れるようになっています。

厩口門(表)
厩口門(裏)

本丸内部には御殿があって、そこでは浅野内匠頭を含む歴代の城主が住んでいました。現在では、代わりに御殿の平面展示があり、そのレイアウトと、何という部屋があったのかわかるようになっています。

本丸御殿のレイアウトを描いた「赤穂御城御殿絵図」、現地説明板より
御殿のレイアウトが平面展示されています

本丸の隅の方には、大きな天守台石垣が目立っています。天守台の上に登ることができ、そこから周辺の景色を眺めることができます。

天守台石垣
天守台からの景色

また、本丸内には小さくも美しい池泉庭園があり、二の丸にある庭園とともに国の名勝に指定されています。

本丸庭園

その後

明治維新後、赤穂城は廃城となり、城の全ての建物は売却されるか、撤去されていきました。ほとんどの堀も埋められ、他の城の土地とともに畑や住宅地になっていきました。本丸は1981年まで学校用地として使われました。大石神社は1912年に設立されています。城の復元事業は1935年に始まり、本丸前の堀が掘り返されました。それ以来、赤穂事件や四十七士の人気もあいまって、城の多くの建物や構造物が復元されています。城跡自体は1971年以来、国の史跡に指定されています。

本丸門の古写真、現地説明板より
二の丸門の古写真、現地説明板より
1930年代の赤穂城跡、朝日新聞社「新日本大観附満州国 レンズを透して見たニッポンのガイドブック」より (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

私の感想

正直申し上げて、私はあまり赤穂事件の話が好きではありません。吉良を殺すためのまともな理由が見いだせないからです。ちなみに赤穂事件を基にした有名な忠臣蔵の芝居においては、浅野が吉良への莫大な賄賂を断ったり、吉良が浅野の妻への横恋慕を断られたために、吉良が散々意地悪したのを耐えかねた浅野が吉良を正面から切りつけた(史実では背後から)ことになっています。歴史家によれば、それが武士道(理由はなくとも、名誉と誇りにかけて、主君や藩に尽くす行為)なのだということですが、それが本当だとしても、なぜこの物語が現在の日本人にも人気があるのでしょうか。思うに、結局多くの日本人は今でも、江戸時代の武士たちと同じか似たようなメンタリティを持っているからではないでしょうか。現代の日本人も度々、生き残るために他に何の理由もなく、上司や会社に対して忠誠を尽くしているように見受けられるからです。更に推測するに、もしかすると大石は、自分の主君が乱心を起こしていたと知りつつ、それでも他にやり様がなかったのかもしれません。

「仮名手本忠臣蔵」三段目、塩谷判官(浅野)が高師直(吉良)に切りつける場面、歌川国輝作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

ここに行くには

車で行く場合:山陽自動車道の赤穂ICから約10分かかります。城跡周辺にいくつか駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、JR播州赤穂駅から歩いて約15分かかります。
東京または大阪から播州赤穂駅まで:山陽新幹線に乗って、姫路駅で山陽本線に乗り換えるか、相生駅で赤穂線に乗り換えてください。

播州赤穂駅

リンク、参考情報

国史跡赤穂城跡(兵庫県赤穂市) 公式Webサイト
・「東大教授の「忠臣蔵」講義/山本博文著」角川新書
・「逆説の日本史14 近世爛熟編/井沢元彦著」小学館
・「よみがえる日本の城4」学研
・「日本の城改訂版第20号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「赤穂城その1」に戻ります。
「赤穂城その2」に戻ります。

60.赤穂城 その1

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

立地と歴史

浅野長直が城を大改修

赤穂城は瀬戸内海に面した播磨国の西端、現在の兵庫県赤穂市にあった城でした。この城は、日本の最も有名な歴史イベントの一つ、赤穂事件の舞台の一つとなった場所です。また、赤穂は雨が少ない地域であり、塩田が開発されて以来、製塩業が盛んであることでも知られています。

播磨国の範囲と城の位置

1600年に赤穂城を最初に築いたのは、姫路城主であった池田輝政の弟、長政であり、彼らの支城という扱いでした。その後、1615年に池田氏の分家が独立し、赤穂藩が成立し赤穂城を居城としました。ところが、2代目の藩主が錯乱し殺人を犯した罪で、1645年に徳川幕府によって改易となってしまいました。初期の赤穂城の詳細はわかっていません。同年に城と藩を継いだ浅野長直(あさのながなお)が城の大改修を行い、今見られるような姿になったからです。彼は、広島城にいた浅野氏の分家の当主で、笠間城から転封となったのです。1615年に幕府が大坂城の豊臣氏を滅ぼし政権が安定してからは、城の大改修が認められるのは大変稀なことでした。

浅野長直肖像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
笠間城跡

その大改修は1648年から1661年までかかりました。城の縄張りは、軍学者の近藤正純と山鹿素行によって行われました。城の石垣のラインは巧みに曲げられて、どの方角にも射撃ができるようになっていました。本丸とそれを囲む二の丸が城の主要部で、背後の南方には海を控えていました。大手門があった三の丸が、主要部の北方に加えられました。これらの曲輪群は平地上にあり、水堀によって区切られていました。よって、この城は平城または海城に分類されています。本丸には、領主のための御殿と天守台石垣がありました。しかし、実際には天守台の上には天守は築かれませんでした。

赤穂城跡にある山鹿素行坐像
赤穂城本丸の石垣
赤穂城の縄張り図、現地説明板より
赤穂城の天守台石垣

浅野長矩が赤穂事件を起こし改易

赤穂事件は1701年に、長直の孫、浅野長矩(あさのながのり、官職名の内匠頭(たくみのかみ)としても知られています)が藩主だったときに起こりました。彼は、江戸城の御殿で将軍である徳川綱吉が勅使を接待する際の饗応役となっていて、吉良義央(きらよしひさ、上野介(こうずけのすけ))の指導を受けていました。3月14日、最も重要な儀式が行われようとしていた日に浅野は突然吉良の背後から切りかかり、殺そうとしましたが失敗しました。浅野は捕えられ、その日のうちに将軍に切腹を命じられました。御殿内での刃傷沙汰は厳しく禁止されていたからです。浅野家は約3百名の藩士ともっと多くの家族とともに改易となりました。一方、吉良はお構いなしとされました。浅野により傷つけられただけで、刀を抜かなかったからです。

浅野長矩像画、花岳寺蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)
徳川綱吉肖像画、土佐光起筆、徳川美術館蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

浅野が吉良に切りつけた理由はわかっていません。いくつかの記録によると、浅野は吉良に遺恨があったと話したということです。しかし、その死の前にそれが何なのかは話しませんでした。最近の研究によると、以下のように推測されます。そのとき、浅野は2度目の勅使饗応役を務めていました。浅野は地元の塩産業により豊かでしたが、吉良からの指導に対してそれ程の報酬は払わなくてよいと考えていた節があります。吉良は職務を果たすために多くの金銭が必要でしたが、手元不如意となっていました。彼は高家として身分は高かったのですが、領地の石高はそれ程でもなかったからです。これらのことが重なって、吉良が浅野に対して十分な指導を行わなかったり、公衆の面前で浅野を批判したことが考えられます。これが本当だとしても、このような深刻な事件を起こす動機となるのでしょうか。当時を含め、浅野は乱心したためにこの事件を起こしたのだと考えた人もいました。

刃傷事件があった江戸城本丸御殿跡
事件の現場、松の廊下の模型、江戸東京博物館にて展示  (licensed by Gryffindor via Wikimedia Commons)

お家再興の望みがなくなり討入を実行

赤穂藩の藩士たちは、事件の報せと幕府による赤穂城明け渡しの命令に接し、大変困惑しました。そして幕府の命令に従い開城するか、それとも反抗するか議論に明け暮れました。浅野に親しく仕えていた近臣たちにとっては幕府の決定は受け入れがたく、主君はそれなりの理由があって事を起こしたのだと信じていました。しかし、筆頭家老の大石良雄(おおいしよしお、内蔵助(くらのすけ))の決断により、4月12日に城は明け渡されます。彼は、藩が素直に命令に従えば、幕府が長矩の弟、大学に藩を継がせるのではないかと考えたのです。

大石良雄肖像画、赤穂大石神社蔵 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

残念ながら、大石の希望はかないませんでした。幕府は大学を、広島城の浅野本家預かりとしたのです。大石は結局、強硬派の勢いに押される形で四十七士のリーダーとなり、旧暦1702年の12月14日に吉良の屋敷に討ち入り、吉良の首級を挙げたのでした。大石は現場に口上書を残していて、そこには「亡主の意趣を継」ぐと書かれています。四十七士は全員捕らわれの身となりましたが、その処分を巡っては幕府の首脳部の間で相当な議論となりました。ある者は彼ら浪人は法を犯して吉良の屋敷に押し入り、「無実」の吉良を殺したのだから厳罰に処すべしと主張しました。一方、彼らは真の忠臣であり、武士の鑑であると反論する者もいました。将軍綱吉の裁定は両者を折半するもので、四十七士に切腹を命じました。これは彼らの主君と同じでしたが、地位とその行為にしては寛大なものでした。

広島城
「忠臣蔵十一段目夜討之図」歌川国芳作 (licensed under Public Domain via Wikimedia Commons)

藩と城は森氏などが継承

赤穂城と赤穂藩はその後、永井氏と森氏に引き継がれました。とりわけ森氏は、1706年から1871年の廃藩置県までの長い間、その地を支配しました。赤穂の製塩業は繁栄を続け、塩田はまるで城を囲むような形で広がりました。一方で、森氏による赤穂藩は財政難に苦しみます。領地が浅野氏当時よりずっと少なかったからです。例えば、三の丸にあった旧大石家の屋敷が1729年に火災に遭ったのですが、再建されませんでした。それは恐らく、藩士の数が以前よりずっと少なかったためにその屋敷を再び使う必要がなかったためと思われます。

赤穂城跡

「赤穂城その2」に続きます。