154.田丸城 その2

いくつかの時代から成る城跡

特徴、見どころ

大手門、二の門を通る

現在、田丸城跡は玉城町により維持されていて、今でも町の中心部に位置しています。現存する外堀の奥にある大手門跡は、城跡の入口であり、また町役場の入口にもなっています。この入口を通る道路は、もともと折れ曲がっていましたが、現在では恐らくは交通の便のために舗装されてまっすぐになっています。もし、車で城跡に来られたのでしたら、町役場の駐車場を使うことができます。

城周辺の地図

大手門跡前の外堀
大手門跡

舗装された道路は丘の方に登っていって、石垣と一部残っている内堀に囲まれた二の門跡を過ぎていきます。この部分は昔のように今でも曲げられています。この後はかつては三の丸に至ったのですが、そこは学校地になっているので、現在の道は回り込んでいます。道沿いには城では数少ない現存建物の一つ、富士見門があります。この門は一旦売却されて別の場所にあったのですが、元通りの場所ではないのですが、城跡内の現在地点に戻されました。

一部残っている内堀
二の門跡
学校になっている三の丸跡
移築された富士見門

土塁と石垣両方を楽しめる北の丸

このまま本丸に行くこともできるのですが、その前に枝分かれする遊歩道の方に行って、北の丸の周りを歩いてみることをお勧めします。それは、この曲輪を見たときにこの城の長い歴史を実感できるからです。この曲輪は古い石垣に囲まれているのですが、更にその外側を土塁が囲んでいます。土塁は、石垣が使われるようになるまでは、中世の城では普通に使われていました。そのため、ここの土塁は初期の段階より存在していたかもしれないのです。

北の丸の遊歩道へ
遊歩道を進みます
北の丸外側の土塁

ここの石垣も、城の石垣としては最も古いものの一つである安土城のものに似て見えます。安土城は信雄の父、信長が築いたものなので、この石垣は信雄が築いたものではと思ってしまいますが、歴史家によれば、この城のほとんどの石垣は稲葉氏が築いたとのことです。

北の丸の石垣
北の丸の石垣と土塁のコンビネーション
安土城跡

見どころが多い本丸

本道に戻ると、舗装道が本丸にまで至っているので、簡単に中に入ることができます。虎口と呼ばれる、石垣に囲まれ食い違いになっている入口は、発掘の成果により現代になって復元されたものです。

本丸に向かう道
本丸虎口
石垣上から見た本丸虎口

本丸の第一の見どころは、天守台石垣でしょう。石段などの一部の部分は、後から追加されたものです。しかし、穴倉式という基本的な天守台の形式は、天守台を作る方式の中では初期のものに当たります。歴史家によれば、この天守台は信雄により築かれたかもしれないとのことです。

本丸内部
天守台石垣
天守台の内部(穴倉)

次の見どころは、本丸からの町の景色です。この町周辺は、豊かで平和な地域に見えます。きっと過去もそうだったのでしょう。この城の立地がとても良いことがわかります。

本丸からの眺め

他にも、本丸を囲む石垣も見て回ってほしいです。北の丸の石垣よりは新しく且つ精密に見えますが、江戸時代に久野氏が修繕した結果のようです。

本丸の石垣
段積みになっている部分

「田丸城その3」に続きます。
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48.松坂城 その3

石棺まで使われた天守台

特徴、見どころ

城の中心部、本丸

本丸下段には多くの櫓があり、城の防衛の要となっていました。現在はそれらの建物は残っていませんが、その分石垣の下を通っている通路をはっきり見下ろして確認することができます。

本丸周辺の地図

本丸下段の鐘ノ櫓跡
鐘ノ櫓跡からの眺め(松阪市立歴史民俗資料館)
本丸下段の月見櫓跡
月見櫓跡からの眺め(二の丸)

本丸上段には櫓、屋敷、そして天守がありました。天守台石垣は、蒲生氏郷が最初に城を築いたときそのままの状態で残っています。とても古風に見えます。また、石垣の一部には、石棺が用いられています。築城工事のために、いかに石材が急いて集められたかわかる事例です。ここは城では最高地点にあたるので、山並みを背後に、市街地の眺めを楽しむことができます。

本丸上段の入口
本丸上段の内部
天守台石垣
石垣に使われている石棺(手前)
本丸上段からの眺め

その後

明治維新後、松坂城は廃城となり、城の建物は撤去されるか、失火により失われました。城の主要部分は1881年に松阪公園に転用されました。一方、それ以外の部分は市街地になっていきました。以前の城下町であった松阪市は、1998年から2003年までの16年もの間、城の石垣の大修繕を行ってきました。また、城跡としての調査も行ってきています。城跡としては、2011年に国の史跡に指定されました。

天守台石垣

私の感想

松坂城を訪れる前は、私は蒲生氏郷やこの城のことをあまり知りませんでした。実際に訪れているときでも、なぜこの地方都市にこんなにもすごい石垣を持った城があるのだろうと思っていました。しかし、蒲生氏郷やこの城の歴史のことを学んでみると、すっかり納得しました。松阪市には、この城跡や氏郷の記憶を末永く伝えていってほしいと思います。なにしろ。氏郷なしにはこの街自体が存在しなかったわけですから。

本丸上段の石垣

ここに行くには

車で行く場合:伊勢自動車道の松阪ICから約15分かかります。公園の脇にビジター向けの駐車場があります。
公共交通機関を使う場合は、松阪駅から歩いて15分かかります。
東京から松阪駅まで:東海道新幹線に乗って、名古屋駅で快速列車「みえ」か、近鉄の近鉄名古屋線に乗り換えてください。

リンク、参考情報

国指定史跡・日本100名城 松坂城跡、松阪市
・「蒲生氏郷 戦国を駆け抜けた部将」安土城考古博物館
・「よみがえる日本の城16」学研
・「日本の城改訂版第86号」デアゴスティーニジャパン

これで終わります。ありがとうございました。
「松坂城その1」に戻ります。
「松坂城その2」に戻ります。

148.浜松城 その2

オリジナルの天守台石垣に、小さな復興天守が乗っかっています。

特徴、見どころ

公園入口へ

現在浜松城は、浜松城公園として開発されています。公園内には、天守曲輪と本丸の一部が残されています。もし浜松駅から公園の方に歩いていった場合、浜松市役所が左側に見えてきますが、ここは過去は二の丸の一部だったのです。市役所の北側から公園の入口への道に入っていきます。そうすると右側に、発掘中の本丸と二の丸がフェンス越しに見えます。そして、現代になって切り崩された本丸の断面によってできた壁に突き当たります。

城周辺の地図

浜松市役所
浜津城公園への入口
公園入口に向かう道
発掘中の二の丸と本丸の一部

よって、公園に入るにはその壁の右側か左側に回り込む必要があります。どちらの入口から入っても、本丸の残存部分に着きます。そこには、徳川家康の銅像があったり、土塁の上にある富士見櫓跡があります。

本丸の断面にある壁と公園入口への道標
右側の入口から本丸へ向かいます
本丸内部
徳川家康銅像
富士見櫓跡

古風な現存石垣

この城のハイライトといえば、本丸と天守曲輪にある現存石垣でしょう。この石垣は基本的に自然石を使って積み上げられていて、城の石垣の中では最も早い時期の手法の一つで野面積みと呼ばれます。とても古風であり、元は堀尾吉晴が築きました。

富士見櫓跡から見た天守曲輪
天守曲輪の石垣

天守曲輪の裏側の方に行っていただくと、石垣が自然地形の上の方に築かれているのが見えます。これも初期の手法の一つで、鉢巻石垣と呼ばれ、高石垣を築く技術がないときに用いられました。この石垣は、屏風のように巧みに曲げられていて、文字通り屏風折れと呼ばれています。こういった構造より、敵が城に攻めてきたときに、守備兵が石垣の任意の場所から敵を直接攻撃できるようになっていました(例えば、折れた部分から敵の側面を攻撃できます)。

天守曲輪の裏側の鉢巻石垣
「屏風折れ」の石垣

天守門は、発掘の成果を基に、最近2014年に伝統的工法で復元されました。門の下を通るだけではなく、門の建物の中にも入ってみることができます。

復元された天守門
天守門内部への入口

オリジナルより小さな復興天守

それ以外には、現存する天守台石垣の上に復興天守が1958年に建てられ、それ以来城のシンボルとなっています。この天守が「復興」と呼ばれる理由は、オリジナルの天守の姿が不明であることと、実はこの天守は天守台と比較してとても小さいのです。恐らく、この天守台に合う天守を作るには予算が不足していたと思われます。

オリジナルの天守台石垣に載った小さな復興天守
復興天守と推定されるオリジナル天守の大きさ比較、復興天守内にて展示

それでも、天守の中に入ってみれば、城のことを学べたり、浜松市街を一望することができます。歴史博物館及び展望台として使われているのです。

発掘された天守内の井戸、復興天守内にて展示
復興天守内の展示の一部
展望台からの市街地の景色

「浜松城その3」に続きます。
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